5 有栖川
「容疑者の女にそっくりに化けることができる人間、というのも一応捜査対象になる。いろいろ事情があってね、怪しいやつだ、とか言ってあなたを連行するわけにはいかないんだ。そのために先日取り調べをしたのだから」
「警察もいろいろ大変なんですね」
「だから一応確認しておきたいんだが。この職場に小林なつきと言う人間はいるかな」
最後の言葉は経営者である火男に向けられた。その言葉に火男は穏やかに微笑む。
「いませんね」
小林なつきと言う人間はいない。それが、小林なつきが人ならざるものに完全に変化した瞬間だった。うっすらと小林の輪郭がぼやけてくる。大月は小林の腕をしっかりと掴んだ。
「どこにもいない、でも確かにここにいる。それはシュレディンガーの猫と一緒だ。あなたはそっちに行ってはいけない」
真剣に語る大月に、火男は「ご心配なく」と言った。
「ハンプティーダンプティーのようなものだ。元には戻らない、でも確かにそこにいる。そうだな、彼は有栖川君ですよ。たった今入社しました」
鏡の国のアリス。その中に出てくるずんぐりむっくりのキャラクター、ハンプティダンプティ。一度壊れたら元には戻らない。彼はもう小林なつきではない。見た目もいつの間にか尾形桃から、いたって平凡そうな青年の顔になっている。大月は腕を放した。
「……そうか。それが最善かな」
静かにそう言うと大月は有栖川の方を見る。
「もう一度……じゃなかったな、初めてか。ご同行願えるかな。何、簡単な取り調べだ。どこからどう見ても、あなたが尾形桃の身代わりとして成り立つとは思えない。十分位で終わるから」
「分りました」
「あ、警察署に行くんだったら、そこの近くにある和菓子屋でどら焼き買ってきて。そこのどら焼きすごくおいしいんだよ」
火男の言葉に有栖川は微笑みながらうなずく。
「了解です」
「殺人事件のほうは別に興味ないのでいいんですけど。それでこの調書なんですね」
「殺人事件の犯人にされそうになった、何者でもない有栖川。固有名詞を資料に書くといろいろ支障が出るみたいで仮の名前で載せることになったんだとさ。のっぺらぼうの、のんちゃん」
「もう一回聞きますけど、本当に山吹さんが考えたわけじゃないんですよね」
「あの人もごちゃごちゃ考えるの嫌いだからな、わかりやすくていいじゃん。のんちゃんは今のところ無害。本人に個性がないから、良いことも悪いことも考えない。でも使いようによってはいくらでも便利に使える、利用されやすい。だから一応警戒するって意味でファイリングをしてるんだ」
「確かに。もしもこの時にシュレディンガーの猫として定義つけてしまっていたら、どこにでもいてどこにもいない。どこにでも行き来できるってことで……ああ、そうか」
何かを納得したようにつぶやく笛吹に、山吹も同じこと思いついたらしく目を細めた。
「使いようによってはこの保管庫にも自由に出入りできる。そうならないように課長たちも警戒してるってことだろうけど。そういえば最近タイムリーにここの鍵をすり抜けた奴らがいたっけな」
「さすがにのんちゃんが関わっているわけではないと思いますけど」
「そらそうだ。まぁ一応、課長に報告しておくか。のんちゃんの様子も見に行かなきゃだな」
「行くとしたら俺たちですね」
「いや大月さんだろ、スッピンまで見てるんだから。そのほうがのんちゃんも安心するだろうし」
早速内線でそのことを伝える。少しの間会話を続けたから通話を終えた。
「一応調べてくれるみたいだ。多分のんちゃんじゃなくて、のんちゃんの特性を最初に見つけた尾形桃。俺の予想だけど行方不明だろうな」
「のんちゃんみたいになれるやつを見つけだすために、”誰か”に連れて行かれたってことですか」
「そそ。んで、カメレオンみたいな特性を磨きあげたところで有効活用する。となると、狙いは保管庫かな?」
そこで一旦会話を区切る。二人とも同じことを考えていた。超ウルトラスーパー面倒なことになってきたなあ、と。誰かが、保管庫の資料を狙っているのは間違いない。それは自分達にとって最優先で対応しなければいけない事だ。
「この間の熱帯魚の話では、ガチで”慣れた”のはたぶん加藤の方だ。パイセンはまあ、鍵を知ってたのプラス、その他要素があったってことか。ふうん」
「よう」
手を上げて挨拶をする大月に、有栖川は小さく会釈をした。今回は火男も一緒だ、車で送ってくれたらしい。何故来たのか説明を受け、有栖川はそういえば、と言った。
「関係あるかどうかわかりませんが、随分前に引き抜きのような勧誘を受けました。この仕事をしていると同業の方から引き抜きはあるので、その時は気にしてなかったんですけど」
「今気になった理由は」
「普通の勧誘とは違いましたから。本当の意味で、どこの誰でもない存在になりたくないか、って言われました」
有栖川の唯一の「定義」を揺るがしかねない誘い。それを受けていたら、有栖川はおそらくこの世から消えていた。
「ウチの稼ぎ頭にずいぶんとまあ、余計な事をしてくれるもんだ。そういうの教えてくれよアリスちゃん」
やれやれといった様子の火男に有栖川は何でもない事のように言う。
「すみません、引き抜きにも相手にも興味なかったので」
その言葉を聞いて、大月は少し考え込む。つい先日、似たような案件があったのだ。特殊課のエースコンビの片割れ、小野寺が関わった案件。相手の名前を知る事で相手の人生そのものを変えてしまう占い師。あの占い師は確か、誰からも見えない手段を持っていた。調べはついている、十二年前にあの場所で事故で死んだ女子高生。死んでいるので見えないのは当然だが、見えるはずの者でさえ見えないというトリッキーな存在。その手段を教えた者がいたはずだ。
「火男、少し有栖川の仕事は制限をかけた方が良い。また狙われるぞ」
「うちのアリスちゃんはしっかり者だから大丈夫だと思うけど。強硬手段に出られても嫌だから、了解」
ひらひらと手を振って火男は運転席に乗り、有栖川もお辞儀をして助手席に乗った。そのまま車は走り出す。
「何がどうあっても、関わらざるを得ないのか」
近年急激に増えたコールドケースの案件。なんとなく見え隠れする存在はいるのだが、藪を突いて蛇どころかとんでもないものが出てきそうだから慎重に進めていたが。やれやれ、と資料保管チームに電話をした。
「今から三十分後に戻るから、緊急会議だ。ブー垂れるな、緊急だっつってんだろ。この間みたいにもう一回侵入者出したら、お前ら冷凍保存の刑だからな」




