鼻
その男性は俯いていた。
普通の人の二、三倍はあろうかという鼻をぶら下げていた。
さらにそれは醜い吹き出物をたくさん表面に浮き出させていた。
がたん、がたん。
僕はじっとみすえた。
電車が揺れるたびに、鼻がかすかに震える。
雲間から太陽がちらと覗く。
その大きな鼻に斜めから光が当たって、陰影がよりくっきりと形をなした。
揺れる車内には、人影はまばら。
朝のラッシュ時と、お昼の中間地点くらい。
黒い詰め襟の学生服を着たぼくと、くたびれたベージュのコートと、灰色のスーツを着たサラリーマン風の大きな鼻。
この時間に、異色の僕ら。
僕は、寝坊。
君は?なんだかちょっとからかうような気分で、僕はかすかに揺れ続ける鼻に、問いかけた。心の中で。
ええっと、僕は、これから仕事だよ。
鼻が応えた。
太陽が雲に隠れた。
鼻がさっと薄い影に覆われる。水の張られた田園。
鼻の背側の車窓に、ずっと広がっている。
羊雲が、空中をゆったりと歩いていた。
これから?遅いね、
もう、お昼に近いよ。
僕はちょいと目を上げた。
くたびれたコート。
ボサボサの黒髪のてっぺん。
至ってふつうの、みすぼらしい、サラリーマン。
…分かるだろ?
一際大きな羊に、太陽は完璧に隠されてしまった。
数分は出てきそうにない。
薄暗い車内で僕は黙り込んでいた。
がたん、がたん。
主要な駅を通り過ぎてしまうと、僕ら以外には、とうとう誰もいなかった。
降りないの?
鼻に聞く。
君だって。
鼻が揺れる。
僕は、まだ数駅先なんだ。
「奇遇だね、僕も一緒さ。」
気がつくと、男性は顔をあげていた。
鼻は、顔の半分近くも覆い隠していた。
その奥で、口がもごもごと声を発す。
「君と同じ駅。」
にやり、と笑ったような感覚。実際、鼻で全く見えない。
「や、止めろ、着いて、来るな!」
僕は弾かれたように立ち上がっていた。
丁度電車が止まった衝撃で、足がもつれる。
よろけかけたところで、僕はくたびれた男が、立ち上がって、こちらをじっと見据えたのを見つけた。
深く淀んだ眼球には、色がない。小さな黒目が、瞼の奥で、微動だにしない。
背筋を焦燥が駆け抜けた時、
再び、斜光が鼻を照らした。
くっきりと浮かんだ陰影。
醜い疣は寄り集まって、ニヤリと笑った。
もつれた足を振りほどき、その足で、僕は開き始めたドアに突進した。
心臓がバクバク打っていた。
手がふるえていた。
目の奥がじっと熱くなって、
頭が、痛い。
「違うだろ。次の駅だよ。」
強い力が腕に食い込んでいた。逃れられない。
「…っ!なにすんだよ!離せ!」
喉を震わせて、ありったけの声わ張り上げる。手足を滅茶苦茶に振り回して、閉じ始めたドアに、悲痛な思いで手を伸ばす。
指先が微かに触れたところで、ドアは閉まった。
うなだれた首筋に、鼻が醜い疣を押し付けて、今度は男の口で、にやりと笑った。
僕はさっと振り向いた。
すっとんきょうな悲鳴を上げながら、僕はボコボコの鼻を掴み取り、渾身の力を込めて引っ張った。
男も、訳の分からない悲鳴を上げている。
掴んできた手を振りほどき、僕は男諸共、鼻を床に叩きつけた。
…顔中が痛い。
息が、し辛い。
吐いて吸う度に、ペラペラ音がして、不快だ。
「あ、起きた。」
「ゆ、祐司?」
「おかーさん祐一兄ちゃんおきた」
大声を上げながら弟が遠ざっていくのを、音に聞いた。
「あ、起きたのね、良かった。」
「母さん…僕、なんで…」
「なんでって…手術したのよ、あら、記憶喪失?」
顔中が痛い。顔の、中心特に。
鼻!
「まださわっちゃだめよ。包帯の上からだって。皮膚が剥けてるんだから。」
母が丸椅子を何処からか取り出して来て、がたがたとベッド脇に座った。
若草色のカーテンから陽光が漏れ出して、白い空間が浮き立つ。
母の俯き加減の顔。長い黒髪が頬に垂れている。
ふわりと光る。
「祐司は?」
「待合室で漫画読んでるわ。買ってあげてないから、読みだめする気なのよ。」
「心配されてないなあ…」
「あら、成功率99.99999パーセントよ。」
「結構、危なかったと思うんだけど。」
「そういえば、お医者さんが、切ったはずの所がまたくっついていたりで…なんだか訳が分からないけどしつこかった、ておっしゃってたわ。」
…ぞっとする。
後書きっ
使い古されている話だと思われ。
実際電車で見ました。
でも、その時は全くこの話と印象が異なっています。
むしろ逆かな?
なので、なんか、ごめんなさい。
最後あたりは書き込む気力が…
感想諸々、切実に待ってます。