第九話 夕暮れへの帰路
カールとカスパールは宮殿の廊下を二人で歩く。皇帝の頼みの一つ『しつけの方法を教える』にはカールが息子を育てる時のごく基本的なものを伝えたが、おそらくルイーズには意味がないものである。
もう一つの頼み『ルイーズの友達になって欲しい』は丁重に断り、そのままルイーズの部屋があるという方向とは逆向きに歩いていった。
その後ろから、小太りの少年が泣きながら走ってくる。歳はおよそ七〜八歳ほどだろう。
「わあああああん! ルイーズ姫がぼくを、ぼくをブサイクデブっていったああああああああ!」
自身の横を走り去った少年を見て、カールははあとため息をつく。
(あんな感じの暴言をハインツ閣下の御令息は何度も浴びせられているのか……。さっきもクソチビだとか言われていたが、可哀想な子だ、まったく)
エーリッヒの心中を案じつつ、二人は階段の前まで着く。そこには、一人で泣いているエーリッヒが立っていた。
「どうしたの、さっきの怖いお姉ちゃんにひどいことされたの?」
カールが声をかける前に、カスパールが彼に声をかける。ルイーズのことを怖いお姉ちゃんと呼ぶカスパールだったが、カールはその呼び方を咎めることはなかった。
「ううん、怖かった。ルイーズは、いつもああいうふうに僕を見つけては追いかけ回してひどいことするんだ。僕が力弱いの知ってるのに、意地悪してくるし……」
エーリッヒは鼻をすすり、袖で涙を拭く。
「ひどいや! 弱い者いじめしちゃいけないって、僕のママも言ってたよ!」
先程泣きながら走っていった子供と、今目の前で泣きながら立っているエーリッヒ。直接被害を受けていないカスパールにも、ルイーズ姫の恐ろしさが感じられた。
「本当、どうしよう……」
「大丈夫。僕が一緒にどうすればいいか考えて……」
エーリッヒと話し続けようとするカスパールの袖を、カールがつまむ。
「助けてあげたい気持ちはわかるが、そろそろお家に帰る時間だ。早く家に帰って、字のお勉強をしなさい」
カスパールはエーリッヒを助けようとはしてみるが、時間がそれを許さなかった。
あああと声を出しながら、カスパールは父に連れられて階段を降りる。そのまま一階まで二人は降りて、イルザの姿を探す。しかし、この場にイルザはいなかった。
「お母さん、どこ行ったんだろう?」
「多分、先に車にでも乗ったのだろう。ハインツ閣下や皇帝陛下とのお話で、そこそこ時間が経ってしまったからな」
そう言って、二人は宮殿の出入り口に向かう。門兵たちが『お疲れさまでした』と言い、二人にお辞儀をした。
車を停めた駐車スペースの方を見ると、イルザが車の前で立っていた。自分たちの方へ手を振る彼女の姿を見た二人は、すぐにそちらの方へ行く。
「ああ、ここにいたのか。……よし、車に乗るぞ」
カールは車の右側のドアを開け、そこから彼とイルザが中に入る。カスパールは後ろのドアをうんと力を込めて開け、それから後ろの席に座って二人と同じようにシートベルトをつけた。
カールは全員入ったことを確認すると、車のアクセルを踏む。車を進めて駐車場の出口へと向かい、身分証だけ見せてそのまま公道に出た。
しばらく時間が経ちルベリンの市域外まで出ると、その頃にはカスパールは座ったまま眠ってしまっていた。窓ガラスによりかかり、くうくうと寝息を立てている。
「……それで、陛下のお頼みとは、一体何だったのですか?」
「皇帝陛下は各貴族のしつけの方法を知りたいと言っていた。あと、姫様の友達になれるような子供を募っていたな」
カールはフロントガラスをまっすぐ見ながら、イルザの質問に答える。
「一応陛下には我が家の方針を伝えたが……まったく参考になるものとは言えんだろう。あと、カスパールがあんなふうに泣かされるのは嫌だから、姫様の友達候補は辞退した」
「あら、ルイーズ姫に泣かされた子を見たんですか?」
車が交差点に入る。警官の振る手旗信号は止まれを示しており、カールはそれに合わせて車を止めた。そして、そのままイルザの方に顔を向ける。
「ああ。ハインツ閣下の御令息のエーリッヒというのだが、姫から逃げるために私にしがみついてきてな……。帰る前にもう一度見たんだが、その時には怖くて泣いていたようなんだ」
「それはそれは、陛下も大変でしょうね……」
そんな話をしているうちに、手旗信号が進めを示す。カールは再び視線を前に戻し、オーヘルハウゼンの村へと車を進める。
「わあ、寝ちゃってた……。外見ていたかったのに……」
車が発進して少しすると、眠っていたカスパールが目を覚ます。
「お、起きたか。……イルザ、カスパールの暇つぶしにあれを見せてやってくれ」
片手をハンドルから放したカールが、イルザの肩をちょんちょんと触る。イルザはこくっと頷き、フロントガラスの近くに置いてある小さい箱を持ってカスパールに見せた。
「開けていいわよ」と言われ、カスパールはその箱を開ける。中には指輪が入っており、付けられた宝石が太陽の光を反射しキラキラと輝いている。
「これね、私とお父さんが結婚した時にもらった指輪なの。ある旅人が洞窟を探検した時に手に入れたお宝みたいで、ものすごく値段が高いものなのよ」
青く輝く宝石と白金のリング。それだけでもこの指輪の値打ちを証明しているようだった。イルザはその指輪のリング部分を丁寧につまみ、左手の薬指にはめてみた。
「懐かしいわね……。これをつけてると、昔プロポーズされたときを……」
「も、もういい! なんか恥ずかしい……」
カールは顔を赤くして、昔語りをしようとするイルザを止める。その時勢い余ってアクセルを強く踏んでしまったため、車が急に加速してしまった。
慌ててブレーキを踏んだ時、車にいるものがよろける。カスパールが発するわああという声がしたとき、イルザは指輪の箱を落としてしまった。
三人の帰り道は、だんだんと短くなってきた。