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小さなSOS

 夕方過ぎに実家へ着くと、店を閉まった父が出迎えてくれて家は殊更歓迎ムードに陥った。

 お客様扱いに羽を伸ばすこともできず、ただただ居た堪れさなを感じていた由依は、次の日、お昼前に早々に実家を出た。住み慣れた、一人暮らしのマンションへ戻るも、何やら落ち着かずそわそわしてしまう。

 由依はため息をつき、適当に昼食を取るとショルダーバッグに財布と携帯だけを掘り込み、当てもなく外へと出かけた。


 特に行きたいところもなく、ぶらぶらと街路樹の横を歩く。何か淡いモヤのようなものが腹の中を渦巻く。違和感、と言っていいのかわからないほどのほんの些細なこと。ほとんどの人が気づかないだろう小さな変化に、執拗にこだわってしまう。ただ、その違和感の正体を明らかにする糸口は全くなく、やっぱり気のせいだろうか、由依は小さく息を吐く。

 身体的な疲労が溜まって、気が立っているのかもしれない。気分がマイナスに引き込まれるのはよくない傾向だ。

 由依が大きく伸びをし、気分を入れ替えようとしたその時、後ろから由依を呼びかける声がした。


「あっ、久野先輩!こんにちは」


 聞き慣れた声に振り返ると、スポーツウェアを身につけた羽澄が駆け足で近づいてくる。

 その胸元に茶色の塊、どうやら小型犬らしい、がうずくまっているのを見つけ、視線が釘付けとなると同時に、しくしくと泣いているような声が脳裏に響き、由依はたじろぐ。


「こんにちは……あの、この子は……?」


 胸に抱かれている小型犬も、私の存在に気づいたのか、ちらりと視線を寄越すと、大きな黒い瞳をめいいっぱい開き、パタパタと尻尾を振ってくれる。

 由依がおずおずと、撫でてもいいか、羽澄に視線投げかけると、羽澄はこくりと頷いて由依が撫でやすい高さに抱き直してくれた。ゆっくりと下から、手を近づけると待ってましたと言わんばかりに擦り寄ってくる、愛らしさに自ずと笑みが漏れる。促されるまま、由依はその小さな頭を優しく撫でた。


「ココっていいます。実家で飼っている犬なんです」


 ココに触れている右手から、悲しみの感情がどんどん伝わってくる。ココの表情とは全く結びつかないが、由依の手、そのものが声の主がココで間違いないと指し示す。

 全く結びつかない二つの情報に頭がパンクしそうになるも、ココの悲痛な訴えが痛いほどの衝撃で、由依の意識を心の声へと全神経を誘う。

 悲しい、苦しい、もっと遊びたい、そんな感情が伝わってくる。


「どこか悪いの?」


 つい不躾にそう訊いてしまって、由依はしまったと後悔する。困惑めいた、怪訝そうな視線に慌てて、「抱っこしてるから、足が悪いのかなって……」と苦し紛れの補足をする。

 羽澄は納得したかのように表情を和らげ、違いますよと柔らかく答える。


「人間の歳だともうおばあちゃんなんで、散歩とか動くのがしんどいんです。もともとはすごく元気で活発な子だったんで……最近はもっぱらこうして俺の散歩に付き合ってもらってます」


 羽澄はそっとココの額を撫でると、嬉しそうに目を細めパタパタと尻尾を振る。


 老化は誰にも避けられない……か。


「そっか……お散歩、楽しいね」


 ココと視線を合わそうとやや前屈みになり、そっと頭を撫でる。

 由依の手に気づいたココはその手に自ら頭を擦り寄せ、小さな舌がのぞき心地よさそうに笑っているように見えた。

 視覚ではとても嬉しそうに寛いでいるように見える。しかし、耳が、全身がココから発せられる悲鳴の存在を伝えてくる。


(苦しい……)


 今までよりも一層大きなイメージが脳裏によぎった。まるで肺が固まってしまったかのような、気道が細く縮まってしまったかのような、息を吸いたくても充分に吸えない。

 空気が入ってこない。そんな苦しげなイメージ。

 それは喘息で苦しくて夜中に目覚めてしまった時と、とてもよく似ていた。


「喘息……?」


 声に出てしまったいたのだろうか。羽澄の怪訝そうな声にはっと意識を取り戻す。


「え?ごめん、ぼーっとしちゃってた」


 慌てて手を引っ込めると、ココが名残惜しそうに由依を見つめる。

 今のイメージは幻覚だったのかと思うほど、伝わってきたココの心の声とここの表情が全く食い合わず、頭がパニックになる。


 もし、間違いならそれでいい。でも、この声が本当にココちゃんのものだとしたら……。


 苦しんでいる子を救えるかもしれないのに、みすみす知らんぷりするなんて、そんなことはできない。

強い使命感のようなものに突き動かされ、意を決して口を開く。


「ココちゃん、なんだか苦しそうというか、呼吸しにくいのかなって……喘息の時と似てるなって思ってつい……」


 老化、と言われればそうなのかもしれないが、呼吸以外の訴えは全くないし、もし奥に病が潜んでいるのなら、間違ってても病院で診てもらう価値はあると思う。

ただ、差し出がましいことをしている気がして、どんどん尻すぼみになっていくのは致し方ないだろう。

 自信なさげにボソボソと呟くと、羽澄は虚をつかれたかのように、押し黙ってじっと由依を見つめる。何を考えているのか、どう感じたのかわからないが、ひどく取り乱し揺らいでいるようにも見えるし、力強い希望なようなパワーが潜んでいるようにも見える。

 今まで向けられたことのない視線に、由依は居心地が悪くなり、顔を背ける。


「あの、変なこと言ってごめんね」


 居た堪れずこの場をさってしまおうかと思った矢先、羽澄が意識を取り戻したかのように、いつもの柔らかい表情に戻り、申し訳なさそうに眉を顰め謝罪を口にする。


「すみません、びっくりしてしまって。病気かもって考えたことがなかったです。健康診断も兼ねて一回、病院に連れて行ってみます」


 きっと、その方が家族としても安心だろう。

 余計なお節介だと思うが、家族は幸せな方がいい。苦しいこと、辛いことはできるだけなくなった方がいいのだから。


 それじゃあ、と別れようとした矢先、よかったら一緒に散歩しませんか?と羽澄から予期せぬお誘いを受ける。


「え?」


 素っ頓狂な声をあげた由依に、羽澄はいつもの、少し寂しそうな表情に少しの照れを混ぜて、急にすみませんと困ったように笑う。


「ココが初対面の人に懐くのが珍しくて。散歩といっても、ココは抱っこしたままなんですけど……15分くらい一緒に歩きませんか?」


 寂しげに寄せられた眉に由依は、この顔に弱いんだよな……と視線を彷徨わせる。

 羽澄の姿が大型犬がうずうずと尻尾を振ってマテをしているように見えるから不思議だ。

 由依自身特に予定のあるわけではなく、断る理由はないのだが、同僚のプライベートの空間に足を踏み入れるのはどうしたものかとドギマギしてしまう。

 しかも、最近感じるよそよそしさのない、入社当時の親しげな羽澄の態度に、嬉しさが勝ってしまいそうで、自分の単純さに戸惑いを隠せない。


 返答に困っていると、ココがワンっと小さく声を上げると今まで以上に大きく尻尾を振る。

 まるで、遊園地に行こうと言われた子どものようなはしゃぎように由依は相貌を崩しもう一度その頭を優しく撫でてやる。

 その瞬間、澄んだ空色の花畑のイメージが広がる。甘い香り、高揚感、太陽の温かさ、人の楽しげな笑い声。幸せな思い出が伝わり、きゅっと胸が熱くなる。


「ココもこう言ってますし……ちょっと行ったところにネモフィラで有名な公園があるんです。お花見にどうですか?」


 ココから伝わったのは、きっとその公園のことだろう。幸せな心地のまま、由依は羽澄からの2回目のお誘いに、じゃあと微笑み返した。

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