王子殿下に「僕は君に相応しくない」と言われて婚約破棄されたので
「僕は君に相応しくない」
王太子にしてわたくしの婚約者でいらっしゃるフェルナン様は、麗しいお顔を憂いで歪めておっしゃいました。
「そのようなことはございませんわ」
なんだかおかしな拗らせ方をなさっているようですわね、と思いながらわたくしは申し上げますが、フェルナン様は激しく首を振るだけです。金色の御髪が乱れて、辺りに眩い光を振りまく様は、幼いころから数えきれないほど見ていても、天使のよう、だなんて思ってしまいます。
「誰もが言っていることだ。ミレーヌ──君は美しく気高く賢く、しかも強い。君と会った者は誰でも、跪き崇拝せずにはいられないだろう」
「もったいない御言葉です」
フェルナン様が何をおっしゃりたいのかはよく分かりませんが、柔らかく優しい響きで褒められるのは耳に心地良いものです。謙遜しながらも、口元が緩んでしまいます。
口に出すのは感じが悪いでしょうから心の中で思うだけですが、殿下の評価にいっさいの誤りも誇張もございません。
銀糸の髪に宝石の青の目、夜空に輝く月と称えられる美貌。あらゆる所作は優美を極めて、舞踏のようだと見る人の溜息を誘います。
公爵家の令嬢として礼儀作法や教養を修めるのは当然のこと、法制にも古今の故事にも通じ、最新の学説に触れることも怠っておりません。護衛騎士を煩わせることがないよう、剣や魔術の腕も鍛えております。なるほど、女神と思う人がいてもおかしくないでしょう。
わたくしはそのように自らを磨き上げ、鍛え上げてきました。これもすべて、王太子妃──ひいては王妃になるためです。
「僕なんかが君を独占するのは間違っていると思う。だから、君を自由にしてあげたいんだ」
「わたくしは何ものにも囚われておりませんけれど?」
「君はそう思うかもしれない。だが、僕が耐えられそうにない」
わたくしには珍しいことなのですが、嫌な予感がいたしました。ここは、王宮の広間のひとつ。フェルナン様を始めとした若い王族や貴族が集う、サロンのような空間です。もちろん、わたくしたちのほかにも人がいて、わたくしたちのやり取りに注目しています。
フェルナン様がわたくしに気後れなさるのは、まあ分からないでもないですが、ふたりきりの時に甘えるのではなく、公の場で切り出すには、少々不穏な内容ではないでしょうか。
「僕たちの婚約は解消しよう。君は、自分の人生を歩むべきだ」
ほら、大きなどよめきが上がってしまっています。慌ただしく退出する方もいらっしゃいましたから、噂になってしまうのではないでしょうか。こうなったらもう遅いのでしょうが──念のため、忠告して差し上げることにいたします。
「……王国の将来に関わる非常に重大な事案かと存じます。王太子たる御方が軽々しく口に出すべきことではないかと。ご自身が何をおっしゃっているか、お分かりになっておられますか」
「無論。すべて承知している」
大きく頷いたフェルナン様の、瑞々しい新緑を思わせる碧の目は真剣そのものです。わたくしの目を真っ直ぐに見つめて、逸らすこともございません。しっかりと見開かれた目、引き結んだ唇、緊張を帯びた頬。どこをとっても、真摯、という題の偶像を造らせたらかくや、といった隙のない端正さです。
ここまでおっしゃるからには、本当に分かっていらっしゃるのでしょうか。さらに念押しをするか考えていると、横から軽やかな笑い声が響きました。
「そんな怖い顔で殿下を睨んではいけませんわ、ミレーヌ様」
「睨んでなどおりません、ポレット様」
フェルナン様の傍らに、栗色の髪の令嬢がいることにようやく気付いて、わたくしは眉を顰めました。ランジュレ公爵家のポレット様。容姿の愛らしさはわたくしの美しさと同じくらい、知識や教養の面でも、ご実家の名を貶めないくらいのご見識はある方だと思っていたのですが。
ご実家──そう、ランジュレ家は、我がエルヴェシウス家と同格の公爵家、歴史上も何かと競った経緯がございます。もちろん、我が家が勝ちを譲った覚えはまったくないのですが、ポレット様はどういう訳か得意げに豊かなお胸を反らしていらっしゃいます。
となると、事情が分かってきたかもしれません。
わたくしはフェルナン様に向けてにっこりと微笑みました。
「きっと、陛下もすでにご承知のことなのでしょうね、フェルナン様?」
「ああ。お父上の公爵には追って重々詫びを入れよう」
「お心遣いに感謝申し上げます。ですが、まずは娘のわたくしから一報を入れたほうがよろしいかと存じますので、失礼させていただきますわね」
優雅に一礼すると、周囲から感嘆の溜息が漏れたのが聞こえました。いついかなる時も美しく、はわたくしの信条とするところです。婚約破棄を申し出られたくらいで崩すわけにはいかないのです。
たとえこれからとても忙しくなると、分かっていたとしても。
* * *
公爵家の紋章を掲げた馬車は、王都を出てエルヴェシウス公爵領へと向かいます。わたくしを信じて社交に送り出してくれた父に、不甲斐ない報告をしなければなりませんが致し方ありません。父ならばすぐに分かってくれるはずです。
「お嬢様には何の非もございませんのに」
「王太子があの有り様では国の未来が思い遣られます!」
侍女たちは憤ってくれますし、何よりも思い悩んでいる暇はございません。わたくしたちが乗る馬車は、いつの間にか並走する不審な騎影に取り囲まれています。何人いるかは分かりませんが、各々、武装しているのが不穏です。公爵家の紋章を知らない盗賊がいるとも思えませんし──
「公爵家への報告を少しでも遅らせたい、ということなのでしょうね」
速度を上げて駆け抜けようとした御者を制して、わたくしは馬車を止めさせました。人目を避けてのことでしょう、あたりに民家もないようなのはちょうど良いことでした。わたくしの魔術ならば、跡形もなく吹き飛ばしてしまえるでしょう。
「王太子殿下は、お嬢様のお力をご存知ないのでしょうか……!?」
「さあ、すべてご承知ということだったけれど」
あきれ顔の侍女に苦笑してから、指先で下がるように命じます。同時に、口は魔術の詠唱を。追い詰められて立往生したとでも見えたのでしょうか。襲撃者たちがじわじわと包囲を狭めてくれているのも都合が良いことです。
(きっと何も知らされていないのでしょうし、一瞬で終わらせて差し上げましょう)
と、思ったのですけれど。
「ミレーヌを守れ! 誰ひとり逃すな!」
不意に響いた凛々しい声と、馬のいななきに、わたくしは詠唱を中断してしまいました。馬車の外からは、襲撃者のうろたえる声と悲鳴が聞こえてきます。どうやら、わたくしたちに注目していたことで、外への警戒を怠っていたようです。
襲撃者たちは、新たに現れた騎馬の一団に次々と討ち取られていきます。軍服をまとったその一団を率いるのは、美しい白馬にまたがった騎士。彼は、乱戦を切り抜けると馬車の窓に馬を寄せます。
「ミレーヌ、無事か!?」
「ええ……ありがとうございます、セルジュ」
白馬の騎士が兜を脱ぐと、赤い髪が陽光に燃えるように零れ落ちました。もっとも、見事な髪の色を見ずとも、彼の名は見事な指揮と馬術からも明らかでした。騎士団長セルジュの名を呼んで、わたくしは礼を述べます。
彼には、一緒に剣術を習ったご縁があります。最初は女が剣など、と笑われたものですが、後には本気で打ち合えるようになりました。フェルナン様についても色々と話を聞いてもらったこともある、わたくしのお友だちのひとりです。
「どうして、ここに?」
車外の戦闘も落ち着いたころでしたので、馬車を下りてセルジュと対面しながら、わたくしは尋ねました。馬の蹄によって土埃が舞い、血の臭いも濃く漂っていますが、気にするわたくしたちではございません。わたくしは王宮と変わらず凛と立ち、セルジュも滑らかに地に膝をつきます。
「父君が貴女への無礼を許すはずがない。王宮からの使者は、公爵家の軍に取り囲まれることだろう。──それを避けるために、貴女を捕らえて人質にしたうえで出向く。バカどもの考えそうなことくらい、分かる」
バカども、の内訳は国王陛下とランジュレ公爵家のことでしょうか。フェルナン様も含まれているかもしれません。無礼な発言ですが、今はたしなめる時間はございません。
「そこではありませんのよ。何があったかはご存知でしょう?」
「ああ。情報源があってね」
「では、今のわたくしと関わるのがどういうことか、お分かりになりますわね?」
フェルナン様は、王子でありながらご自身はわたくしに相応しくないとおっしゃいました。裏を返せば、わたくしに手を差し伸べる殿方は、自身はフェルナン様よりも優れていると宣言するのも同然です。わたくしとの婚約破棄以上に、王太子の権威に関わるご発言でした。
(もちろん、フェルナン様はそれもご承知なのですわよね?)
という訳で、セルジュの行動そのものが反逆に問われてもおかしくないことなのですが──
「もちろんだ。何なら次の王に立候補しても良い。それで貴女の伴侶になれるなら」
「まあ、大胆なことをおっしゃいますのね」
手の甲にセルジュの口づけを受けながら、わたくしはくすくすと笑います。騎士団長を務めるからには彼も名家の出身ですから、辿れば王家の血も入っていたはずです。王位を主張することも、不可能ではないかもしれません。セルジュがそんなことをするなんて、考えてもいませんけれど。
「冗談はさておき──では、お味方してくださると思って良いのかしら。父のもとまで護衛してくださいますの?」
「喜んで。手勢を率いて王都を出たからな。数としては十分だろう」
「頼もしいですわね」
わたくしたちは頷き合い──そして、わたくしは馬車の中へ、セルジュは馬上へと戻りました。騎士団の護衛があれば、エルヴェシウス領へはつつがなく到着できるでしょう。
* * *
懐かしい実家の、当主の執務室にて。わたくしの報告を聞いたお父様は、腕組みをすると低くうなりました。
「陛下は我が家を切り捨てようとなさっているのだな」
「そのように存じます」
フェルナン様の婚約破棄は、唐突かつ理不尽なものでした。わたくしやエルヴェシウス公爵家に同情してくださる方も多いでしょう。そして、その方々は、「フェルナン様よりも優れている」このわたくしに与したことになり、すなわち王子殿下に反意を見せたことになります。すくなくとも、国王陛下やランジュレ公家はそのような理屈を通すつもりで計画していたことでしょう。
「お前が王妃になれば、夫君を傀儡にするだろうと考えたのだろうな。無用の心配だというのに……!」
「すべての方に理解されようなんて、無理なことですわ。残念ですけれど」
「殿下までもがそのようなことをおっしゃるとは、遺憾極まりない!」
「本当に。でも、殿下のご気性はお父様もご存知でしょう?」
フェルナン様には弱気というか優柔不断なところがおありだと、お父様は常々ご不満なご様子でした。わたくしは、その辺りも踏まえてお支えする心づもりだったのですが。
「それは、そうだが……」
「それよりも、お父様。愚痴をこぼす猶予はないかと存じますわ」
馬車の襲撃の手際の良さからして、エルヴェシウス公爵家はもちろん、セルジュと騎士団もすでに反逆者として扱われていてもおかしくありません。間もなく、当地には「反逆者討伐」の大義を掲げた軍が押し寄せてくるでしょう。
「もちろん、黙って汚名を着せられるのを待ったりはしませんわよね、お父様?」
「我が家の忠誠とお前の努力を踏みつける者を許しはしない」
お父様がお怒りになるのもごもっともです。わたくしの努力は、好き好んでのことですからさておくとして、我が家には王家に長年仕えた誇らしい伝統がございます。陛下というよりは、ランジュレ公爵家の権勢欲とか猜疑心が原因なのでしょうし、ご息女──ポレット様を王妃にしたいという思惑もあるのでしょうが、勝手かつ心外極まりないことです。
「幸いに、あちらの思惑に先んじて動くことができている。セルジュ殿の騎士団も味方してくださるとか。攻められるのを待つまでもなく、こちらから打って出る」
「さすがはお父様、頼もしいですわ」
「お前も先頭に立つのだ。またとない戦力だし、やり返したいだろう」
「恐れ入ります。微力ながら尽くさせていただきます」
お父様はわたくしの性格も実力もよく分かってくださっています。喜びが胸に満ちるのを感じながら、わたくしは深く頭を垂れ──顔を上げながら、悪戯っぽく微笑みました。
「出陣する前に、何通かお手紙を書いておきたいのですが、よろしいでしょうか?」
* * *
エルヴェシウス公爵家がこうも早く、かつ思い切りよく反撃に打って出るとは思ってもいなかったのでしょう、我が家を討伐するために差し向けられた軍は一瞬にして潰走しました。逃げ散る敗残の兵には見向きもせず、わたくしたちは一路、陛下やランジュレ公爵──それに、フェルナン様が待つ王都を目指します。
もちろん、父たちに任せきりではございません。お父様に言われた通り、わたくし自身も、馬にまたがり雄姿を見せつけています。軍服をまとったわたくしは、美しいだけでなくたいへん凛々しいですし、銀の髪はとてもよく目立ちます。味方の士気を鼓舞し、敵を恐れさせるのには最適でした。戦ってくださる皆様に声を掛けるのも忘れませんし、怪我をした方は癒して差し上げたりもします。
「そのような姿も魅力的だな、ミレーヌ嬢。戦女神もかくやといったところか」
「過分な御言葉ですわね。光栄ですけれど」
それに、行軍中にもお客様がいらっしゃることもございます。今、わたくしの隣で黒馬を御しているのは、馬と同じく神秘的な黒髪の貴公子です。夜の色の瞳を蠱惑的に笑ませるこの御方は、隣国の帝国の皇子、レオンシオ殿下とおっしゃいます。
もちろん、今、このような場所にいるべき御方ではないのですが、わたくしの窮地とあって、祖国に影を残して駆けつけてくださったそうです。外交で何度かお会いした折に、フェルナン様とのことについてお話することもあったから、気に懸けてくださったのでしょうね。
「できることなら、王都を攻め落とすまで助力したいところだった。そうして、この国を持参金に貴女が嫁いでくださってくれたなら」
それに、レオンシオ殿下は何も隣国の帝都からいらっしゃった訳ではございません。レオンシオ殿下のお国と、それから幾つかの周辺国が、息を合わせたように国境付近で軍事演習を行っているのです。
現状、我が国と緊張関係にある国はございませんが、王都の陛下たちは警戒しない訳にはいかないでしょう。我が公爵家の兵が障害なく進撃できるのもそのお陰、という訳です。わたくしが各国のお友だちに出した手紙が無事に届いたようで、そして、皆さま快くお願いに応じてくださって、たいへん喜ばしいことです。
「もう十分にご協力いただいておりますわ。心からの感謝を申し上げます」
レオンシオ様に直接お礼をお伝えできるのは、わたくしにとっても良い機会でした。馬上で恭しく目を伏せ頭を下げ、謝意を示してから──わたくしは首を傾げました。銀色の髪がふわりと揺れて、真昼に月光の輝きをこぼれさせます。
「わたくしの周囲には、どうも物騒な冗談をおっしゃる方が多いですわね。祖国を売り飛ばすなんて、できませんわ」
セルジュだけでなく、レオンシオ殿下まで。もちろんご冗談に過ぎないのでしょうが、未婚の令嬢に対して、それも身分も立場もある方が言うには少々迂闊に思えます。レオンシオ殿下は、楽しそうに笑っておられるだけなのですが。
「では、貴女を女王に据えて同盟を結ぶ、とか? 国同士の同盟の証での結婚もあるだろう」
「わたくしも父も、簒奪者の汚名を着るつもりはございません。陛下は、ランジュレ公爵に騙されているだけですもの」
わたくしたちは、陛下の誤解を正して差し上げるだけなのです。よくある理屈ではございますが、周辺国に対しても後世に対しても有効だからこそよく使われるのでしょうね。繰り返しますが、わたくしとフェルナン様の婚約破棄は明らかに理不尽なのですから、誰もが無理もないことと思ってくださるでしょう。
「父とわたくしは上手くやりますわ。ご心配なく」
レオンシオ殿下も、もちろんわたくしのことをよくご存じですから、それ以上冗談を引きずったりはなさいませんでした。
「ご武運を。そして、貴女の幸せを祈っている」
「ありがとうございます。もちろん手に入れるつもりですわ。勝利も、幸福も」
レオンシオ殿下を見送った後、わたくしは改めて前を向き、進軍を命じます。王都までは、もう間もなくの距離に近付いていました。
* * *
いつもは優雅な舞踏会や荘厳な式典が催される王宮に、今日は楽の音の代わりに悲鳴と怒号が響いています。とはいえ、王宮が脅かされるほどの乱にしてはずいぶん穏やかなものではないでしょうか。多くの方は、抗うことの愚を悟ってくださいました。わたくしたちの進撃の速さと勢いを、それに、レオンシオ殿下をはじめとした周辺国の動向を、陛下たちは予想だにしていなかったようですから。
精緻な装飾の石畳の上を、わたくしは軍靴の踵を鳴らして進みます。令嬢らしい華奢な靴で歩いた時とはまったく違う響きに、初めて訪れる場所のような感慨を覚えます。実のところ、何度となく通った、フェルナン様のお気に入り庭園に続く通路なのですけれど。
滴る緑と花が彩る庭園に、果たしてフェルナン様はいらっしゃいました。護衛や従者もいないようなのは、わたくしを待ってくださっていたに違いありません。わたくしから隠れることなど不可能なのを、誰よりご存知の方ですもの。
「ミレーヌ──久しぶりだね」
「お会いできて嬉しゅうございますわ、フェルナン様」
碧の目がわたくしを捉えるのを見て取って、わたくしは胸に手を当てる軍式の礼をしました。この間に何度も繰り返した所作ですから、さぞ洗練されていることでしょう。このような時でもフェルナン様の目に感嘆の色が宿るのを見て満足しながら、切り出します。
「陛下はご退位を了承してくださいました。ランジュレ公爵の甘言に耳を傾けた不明を、恥じてくださるそうですの」
ランジュレ公爵の首を目の前に転がされた陛下が何をおっしゃっていたのか──というか喚いていらっしゃったのかは、正直なところよく分からなかったのですが。人間の言葉に翻訳したなら、きっとそうなるだろうと思います。
フェルナン様も異存はないのでしょう、整った唇が、かすかに強張った笑みを浮かべました。
「先ほど聞こえた悲鳴はポレット嬢かな?」
「ええ。父君のご遺体をご覧になってしまいましたの。配慮が行き届かず、申し訳ないことでした」
「お気の毒に。それに、君の差し金だったということにされなければ良いが」
「今さら、ですわ。すべての人に理解されようなんて、無理なことです」
わたくしが、わざとポレット様を悲しませようとした、と噂する方もきっといらっしゃるのでしょうね。父君に利用されただけの方を気の毒に思いこそすれ、憎むなんてあり得ないことですのに。嫉妬は──なおさらあり得ない感情です。だって──
「これで何もかも貴方の思い通り、でしょうか? フェルナン様?」
「ああ。僕からのささやかな贈り物だ。喜んでくれたら良いが」
あっさりと頷いたフェルナン様は、やはりなんだかおかしな拗らせ方をなさっているようでした。わたくしを贈り物で喜ばせようというのなら、もっと誇らしげに得意げになさっていただかないといけません。なのに、どうしてこうも自信なさげな、弱々しいご様子なのでしょう。
「何を贈ってくださったおつもりなのか、教えてくださいませ。それを伺ってから喜ぶかどうか決めたいと思います」
ですので、わたくしは鋭く追及します。すべてをご承知だというお言葉を信じて、ここまで参りましたのに。双方にすれ違いがあってはいけません。
「ミレーヌ──君が心置きなく権力を振るえる状況、政敵のいない国を」
さすが、わたくしの婚約者でいらっしゃるだけのことはあります。当然のことではありますが、フェルナン様も陛下やランジュレ公爵の思惑はご承知だったのでしょう。無理な婚約破棄を切っ掛けにエルヴェシウス公爵とその派閥を一掃しよう、という思惑を、フェルナン様はさらに逆手に取ったのです。わたくしが自由に反撃できるように解き放つことで。
「無論、君ならば独力でも同じ状況に持ち込んだだろうが。それでも何年かは時間を短縮できたし、王家の失態が切っ掛けになったほうが何かとやりやすいだろう」
「ごもっともです。その点は、心から感謝申し上げます」
さすがはわたくしの婚約者、と。もう一度申し上げましょう。けれどまだ安心はできません。フェルナン様の表情は、まだ拗らせたままでしたから。どこか引き攣った卑屈な笑みは、わたくしが見たいものではございませんのに。
「僕を傀儡の王に据えて、そして、ころ合いを見て病死ということにすれば。そうすれば、君は晴れて相応しい相手と結婚できる。女王にだってなれ──」
「どなたがわたくしに相応しいかは、わたくしが決めます」
これ以上聞いてはいられません。愛する方に、ほかの殿方との結婚を勧められるなんて! 我慢できずに遮ると、フェルナン様はぽかんと間の抜けた表情をなさいました。
「ミレーヌ……?」
「レオンシオ殿下もセルジュも、似たようなことを仰っていましたけれど。でも、あくまでも冗談として、でしたのよ? フェルナン様からもそんなことを言われるなんて、心外ですわ。悲しいですわ」
本当は、悲しいというよりはとても怒っているのですけれど。フェルナン様にはこのほうが効くでしょう。
この方はいつもそうなのです。わたくしから一歩退いて、ふた言目には僕なんか、と。お父様が苛立たれるのも、まったく分からないことではございません。
だってこの方、決してご自身が考えるような非才無能ではないのですもの。
「ランジュレ公爵がわたくしの能力をだいぶ低く見積もってくださったのは、フェルナン様のお陰でしょう? 我が家との対立を考慮して、情報を渡さないようにしてくださっていたのでしょう? セルジュにも、いち早く婚約破棄の情報を流してくださいましたわね?」
「あ、ああ……万が一にも君が怪我をしてはいけないから……」
ここまでの暗躍と気遣いを見せておいて、わたくしに相応しくない、だなんて。いったいどの口がおっしゃっているのでしょう。
実家へと戻るわたくしを襲った者たちの力量不足は、ただの令嬢が相手だと信じ込んでいたからこそ、でしょう。剣や魔術の評判など、しょせん小娘の気まぐれ、王太子の婚約者を称えるために盛られたものだと嗤っていたに違いありません。その上、念押しとばかりにセルジュを差し向けてくれたのですから、どれだけわたくしを思ってくださっているか、窺えるというものです。
「国外のお友だちも、皆様、既にフェルナン様からもお手紙をいただいていたとのことでしたわ!」
「君はもちろん、彼らにも人気だから……! きっと分かってくれるだろうと思ったんだ」
フェルナン様もたいへん人気があるということに、ご本人が気づいていないようです。見目麗しい上に才にも恵まれた御方は、誰もが一目置くでしょうに。このご気性ですから侮る方もいらっしゃいましたけれど、このわたくしが傍にいるということを、しっかりとご理解いただきました。具体的には、わたくしがどれだけフェルナン様を想っているか、心の丈を語ることで。
このわたくしの語彙を尽くして、この美声で語り上げた想いは、もはや一種の詩であり劇のようですらあったでしょう。だからこそ、皆様、わたくしとフェルナン様を応援してくださるようになったのです。
何を隠そう、レオンシオ殿下もそのおひとりです。今ではわたくしの想いも分かっていただき、心から応援していただけるようになったからこその先のご協力でした。セルジュだって似たようなものです。
「ミレーヌ……その、すまなかった。だ、大丈夫か……?」
掌で顔を覆って泣きまねをしていると、フェルナン様がおろおろと近づいて来られます。すぐには答えず、十分に距離が縮まるまで待ってから──わたくしは、思い切りフェルナン様に抱き着きました。首に腕を回して、瞬時に紅く染まった耳元に切々と訴えます。
「たいへんな心痛ですわ。わたくし、心置きなくフェルナン様を囲うために参りましたのに。この期に及んでわたくしから逃げようとお考えですの……!?」
フェルナン様が、わたくしと結ばれるためにこそ今回のことを仕組んだのだとしたら、これ以上ない贈り物でしたのに。わたくしは、王妃として──実質上の王として──君臨します。国内はもちろん、国境の外についても憂いはございません。フェルナン様も王に向いたご気性ではございませんし、夫婦は、それぞれ合った役割を負うものではないでしょうか。
フェルナン様に縋りつく、わたくしの顔も真っ赤に染まっていたことでしょう。
「フェルナン様のお顔が好きです。お優しいところも。でも、何より素敵なのは、わたくしのすべてを理解して、信じてくださることですわ。わたくしがここまでのことをやってのけるとは、フェルナン様以外は誰も考えていなかったでしょう!」
「いや、そんなことは……それこそセルジュや、レオンシオ殿下だって──」
「フェルナン様」
これ以上の拗らせを聞きたくなくて、わたくしはフェルナン様の唇にそっと指を押し当てました。この方としっかりお話するためにこそ、わたくしはこの乱を戦い抜いたのです。
女神と称えらえる美貌に、ここ一番の愛らしくも恥じらう微笑みを浮かべて、わたくしは囁きます。
「わたくし、フェルナン様を守りたいのですわ。そして、疲れた時には癒していただきたいです。それができるのは貴方様だけと──ほかならぬ、わたくしが申しておりますのよ?」
この笑顔とこの言葉で、心動かない方はいらっしゃらないでしょう。強情なフェルナン様だって同じこと──やがて、ようやく逞しい腕がわたくしを抱き締めてくださいました。
「こんな不甲斐ない男が良いなんて。君の唯一の欠点ではないかな……?」
「いいえ。わたくし、相応しい殿方を選んだと自負しておりますわ……!」
わたくしたちは間近に目を合わせて笑い合うと、どちらからともなく顔を寄せ、唇を重ねました。
* * *
王宮から血の臭いが消えるのを待って、わたくしとフェルナン様は婚礼を挙げました。宰相として国政を預かることになった父はもちろん、周辺国からも大勢の賓客が来てくださっています。
純白のドレスに身を包んだわたくしはこの上なく美しく、この上なく幸せそうに笑っていることでしょう。その絵が後世に伝えられるとしたら、国を乗っ取った悪女の笑みとでも言われるかもしれません。でも、それが何だというのでしょう?
すべての方に理解されようなんて無理なことです。祝福してくださる両親やお友だちがいればそれで十分。
何より、わたくしは愛する人を手に入れたのです。何をしても、何があっても支えてくれる伴侶を得たのです。誇らかに笑むのも当然というものでしょう。
わたくしは──わたくしたちは、幸せなのですから。