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ダークネス・バウンダリ―  作者: ネイサン
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ダークネス・バウンダリー 前半



オープニング


岩と砂ばかりの土地です。

この土地に来てもう数ヶ月になりますが、思い出す限り、緑というものを見た覚えが御座いません。

風の具合で時折、潮の香りがしますな。

実際に見てはおりませんが、遠くに海があるそうです。

白が目立つ此処の夜は実に美しいもの。

遮る物の無い夜空には星が煌き、太陰の光を浴びた白砂は白銀のように淡く光り。

月光の反射した、青白い光が足元から発するその様は幻想的の一言です。

そこに人の姿は似合いません。

昼の燃える暑さは生命を拒絶し、夜の凍える寒さは存在を拒絶しているようで。

何処までも同じような景色の広がる中で、唯一の目印であるオアシス。

その昔は重要拠点であったであろうそこには、景色に馴染まぬ車両が数台有り、更にその周辺には幾つかのテントが御座います。

突撃銃を持った物騒な輩をテントの周りに残し、男―双葉洋介(フタバヨウスケ)は分厚いファイルを片手にテントの中に入ります。

「どうも、こんばんは」

テントに入るなり、洋介はファイルをテントの端に放りました。

弧を描き、ファイルは中の男の方へ―。

中に居た男はファイルを受け止めますと、洋介に眼差しを向けました。

「また…随分と大掛かりですね。それでいてよくも此処まで悪趣味で、リアリティを欠いた筋書きを思いついたものです」

ううむ、と唸り声を上げながら男―六道正弘(ロクドウマサヒロ)はファイルを横に退け、面倒そうに口を開きます。

「リアリティも糞も無いだろう。問題は可能か不可能かだ。嗚呼…くそ…もうこんな時間か…」

そこで一度言葉を切りますと、六道は寝起きの眼を擦り、冷え切った珈琲に口をつけました。

「舞台は既に組みあがっている。今は役者が揃うのを待っている状態だ…」

そう言いますと、六道は溜息を零しながら、ランプに火を灯しました。

少し中に入り、洋介は腰を下ろします。

「公僕に犯罪組織、傭兵上がりに情報屋。それにハッカーやらスパイやら…。小さい役まで含めたら数え切れませんね。こんな大舞台は中々お目に掛かれない。これでもまだ不足ですか?」

「採算の面で折り合いが付かんのだ。どうにもこのままでは持って行かれそうでな」

ちらりと目が自分に向き、洋介は視線を自らの足元に落としました。

―それを私に…?

問うと、大きく六道は頷きます。

「役名は『占い師』だ」

仄暗い中、蝋燭の灯りに照らされ―。

揺らぐ炎に霞む男は、ゆらりと身を横にし。

幻想のような雰囲気を醸し出している男を見据え、洋介は口を開きます。

「皮肉が過ぎますね」

微かに男は嗤います。

「別に嫌ならば断ってくれても構わんよ。今の仕事の後に回しても、こちらとしては構わない」

含みを持った口調で男はそう言います。

途端、朧だったその存在感が際立ったように洋介には感じられました。

ザラリとした不快感が洋介の身を包みます。

遥かな高みから見下すような視線を真っ向から見返し、洋介は口を開きます。

「私がやるなら、長期間になりますよ。少なくともこれより三月。万全を期すなら半年…いや、一年の大仕事だ。急ぎなら別の方法を考えた方が良い」

長期で結構、と主は言葉を返します。

「ならお受けしましょう。幕は半月毎に三つ。大物への繋ぎや交渉・契約は御任せします。残りは全て私が」

洋介が立ち上がりますと、テントの垂れた入り口が開き、数人の男と小柄な女が姿を見せました。

「舞台までのエスコートは彼らがやってくれる。拠点の消毒が済み次第、彼らには撤退するよう指示してあるが、その間に問題が生じたら遠慮無く使ってくれて構わない。彼等の撤退を持って開始としよう。彼等を率いるのは(マドカ)だ。彼女に関しては遊撃隊のようなものだと考えてくれ」

―遊撃隊ね。

そう呟き、屈強そうな男の中、一人だけ毛色の違う小柄な女に眼を向けます。

荒野に佇むには似つかわしい、タイトなパンツスーツを身に纏い、身の細さを際立たせております。

真っ黒なスーツに映えるグレーのストールでカモフラージュしているようですが、スーツの所々に妙な膨らみが有りますな。

それは、銃か刃か。

どちらにせよ、単なる監視者ではないようで。

「諒解しました。到着次第、下準備を始めましょう。万全を期す為に、二ヶ月の準備期間を。では…」

エスコート役を引き連れ、洋介は外に出ます。

―目指すは日本か…。

遠い過去に去った母国を思い出しながら、荒れ果てた、世界の最果てのような風景の中でぼんやりと浮かぶ青白い月を男は見上げます。



第一幕 

シーン1


警視庁公安部外事二課に所属する芹沢亮二(セリザワリョウジ)は頭を抱えておりました。

不機嫌そうな表情で、次々と下るエレベータの階数を睨みます。

本来、公安外事二課とは狭義アジアからの脅威に相対する為のセクションです。

それが国内企業の内偵を命じられたと言う事は、その企業が海外―狭義アジアの何処かの国、組織と通じて悪事を働いている可能性を示す。

そう。通常は、それを示すのですが―。

不機嫌そうな表情のまま芹沢は首を傾げます。

どうにも腑に落ちないのですな。

内偵を行う数日前、匿名のメールが警視庁公安部宛に届きました。

メールには、複数の企業名が連ねられており、内容は、以上の企業が不正を行っている恐れがある、といったものでした。

メールの発信元のトレースの結果、メールは海外の複数のサーバーを経由しており、発信元の特定は困難。

少なくとも素人の仕業とは思えませんでした。

しかしながら、それを頭から信用するほど公安部は暇ではありません。

公安総務課の数名が確認作業を行うと言う事でメールは処理されたそうです。

公安総務課とは、元々は共産党の活動の監視がメインのセクションですが、共産党の活動が下火になるにつれ、言わば手持ち無沙汰になっていました。

そこで総務課内に、試験的に『公安部総務課特殊班』が設けられました。

多様化・変化する犯罪に対応する為のセクション、というのが創設に当っての謳い文句ではありましたが、具体的な目的の見えないセクションというのが芹沢を含めた公安部員の印象でした。

未だ確定した名称もない班の、初めての仕事がメールの事実確認だったのですな。

風の噂程度でしたけれど、芹沢も妙な班が妙な事を始めた事は知っていました。

何とも胡散臭い話だ、くらいの感想しか抱きませんでした。

秘密主義・セクト主義・権威主義が公安のモットー…というのは悪口(あっこう)ですが、あながち間違いでもないようです。

権威・セクトは兎も角、秘密主義的な体質は疑うまでも無く。

それを表すようにメール騒動後、直ぐに警察庁警備局がアクションを起こし、その働きかけで『特殊班』が急遽設立されたと聞きます。

そして、話は前後しますが、メール騒動のほんの一月程前に、警察庁警備局から参事官が警視庁公安部総務課長に異動になるという、異例の人事が行われました。

その課長兼参事官こそが、『特殊班』を率いる事となった宗田伯谷(ソウダハクヤ)

幾ら内部に居るとは言え、一兵卒である芹沢に知らぬ事があっても何ら可笑しくはありません。そういうところなのです。

知らぬ存ぜぬで通るのならば、それが最良のケースもあろうとさえ芹沢は思っています。

気に掛かる事は一つ。

―今回の『特殊班』・メール騒動は、余りに身内の眼を惹き過ぎている―

雷光の如くその情報が公安内部に知れ渡るにつれ、芹沢は急速に冷めました。

無能なキャリアが、有能な公安部員の反感を買い、足元を掬われたという話は殊の外多い。

阿呆な上司ほど有害なものも無いが、阿呆ならば其の内に排除されよう、と芹沢は楽観的に見ていたのですな。

楽観視というより、他人の庭を荒らす暇など無い、と言った方が適切でしょうか―。

そんな芹沢の下に、公安部総務課長兼参事官である宗田伯谷(ソウダハクヤ)からの呼び出しが掛かったのは、確認作業開始から三日後でした。

無論、嫌な予感はしていました。

お偉いさんに呼ばれてろくな目にあった試しは無ありませんし、それも、こんな時期に―。

仕事の引継ぎを終え、意を決して宗田の下に参上した時、思わず芹沢は息を飲みます。

警視庁本部庁舎15階の会議室には、総務課に留まらず、公安一課から外事三課、公安機動捜査隊までの公安部全ての長が居りました。

しかしながら、公安部長の姿だけが無い。

公安部長・山本次郎(ヤマモトジロウ)と、公安部総務課長・宗田伯谷、そして、警備局長・赤羽一哉(アカバカズヤ)

この三者が、現在の公安で一際煌きを放つキャリア組です。

少々詳しく申しますと、赤羽と山本は同じ出身大学の先輩後輩関係であり、歳も三つ程しか違わない、所謂、学閥の一派です。

一方の宗田も同大学の出身ですが、二人と比べれば歳が一回り近くも違い、初めはさしてお互い気にもかけていなかったように思います。

しかし、警備局長である赤羽の周囲には常に宗田の姿があり、彼が参事官になった頃から、宗田は彼の懐刀だと言われ始めていました。

公安部公安総務課長、宗田伯谷―。

前ポストは、警察庁警備局警備企画課参事官。

出世街道を驀進している警備局長・赤羽一哉(アカバカズヤ)の懐刀であり、警備局の臥龍と称される傑物。

総務課への出向は、名目上はテコ入れ。

だが、実際のところは警視庁に居るキャリア組への牽制だと回りは見ていました。

良くある、伏魔殿の権力争い。

そんな思惑が透けて見え、宗田が警視庁公安に来た時の、部員の反応は冷淡でした。

だが―。

自らに向けられた眼を見つめ返し、宗田は口を開きます。

「数日前のメール騒動は知っているか?」

鋭い眼光からは、何者にも歪められぬ強固な意志を感じます。

その場に彼が在るだけで、周りの有象無象は気圧されてしまうでしょう。

人の上に立つべくして立った、とでも言えば良いのでしょうか―。

一瞬、不快な表情を浮かべましたが、それを直ぐに消し去り、芹沢は口を開きます。

「ええ、何でも新設の班が担当することになったとか…」

苦汁を舐めたような顔で宗田は頷きます。

己とは全く違う、エリート街道を驀進する男のそんな姿を見て、芹沢は内心で少しだけほくそ笑みましたが、次の宗田の言葉で芹沢の笑みは全て消え去りました。

「君にはその新設の班に異動してもらう。君の他にも、各課と捜査隊から数名の人材が異動してくることになっている。直属の上司は私だ。特例として、直ぐに任務に当ってもらう」

「特例…ですか」

警察機構の中で、公安は異彩を放つグループではあります。

指令系統であるとか目的だとか。

例を挙げていけばきりが無いでしょう。

しかしながら、時期が悪い―。

今現在、警備局長・赤羽と、警視総監・石田は派閥争いの真っ最中。

警備局のフィクサーと呼ばれ、絶大な権力・影響力も持つ赤羽でありますが、表立って頂点に立つ事を嫌い、ずっと警備局―公安に身を置いてきました。

そして、何時の頃からか席を譲らず、更に上を用意するようになっておりました。

この男に認められた者が時期長官・総監だと言われ始めるのに然して時間を要しませんでした。

しかし、この石田総監だけは例外でした。

赤羽は彼の手腕を認めていましたが、石田は頑ななまでに彼を嫌っておりました。

明確な理由は当事者に聞かねば解りませんが、周りはいい迷惑です。

両者の対立が―というより、一方的に石田が嫌悪感を募らせる中、前総監が退官し、石田が半年ほど前に総監に就任し、今現在の対立の構図が出来上がりました。

その結果、公安に対する風当たりが強くなっているのです。

顔を顰める芹沢を見据え、宗田は口を開きます。

「君には直ぐ現場に飛んでもらう。正式に特殊班に異動となるのは明後日以降になる為、身分は外事二課のままで構わない。資料を熟読の後、直ぐに出てくれ」

資料を手渡しながらそう言われますと、閉め出すように芹沢は会議室を追われました。

芹沢に任された企業名は、『柳』。

何でもコンピュータ関連の企業らしいですが、聞いた事の無い企業です。

ある場所も都心ではない。

どちらかと言えば、田舎という印象がある土地です。

頭を掻き、溜息を零すと、芹沢は窓から外を望きました。

時刻は午前11時。

中途半端に昇った陽に眼を細め、視線を足元に落としますと、微かに芹沢は吐き気を催すような異臭を感じました。

臭いを認識した途端、眼が眩む。

まるで世界が歪んだようです。

「勘弁してくれよ…」

頭を大きく振り、芹沢はエレベータに乗り込みました。



シーン2


5階建てのビル。

その最上階の会長室で、

「少しばかり面倒な事になったねぇ」

他人事のように言葉を吐き出しますと、柳総一郎(ヤナギソウイチロウ)は一面ガラス張りの壁から外を望む双葉洋介(フタバヨウスケ)に眼を向けました。

立ち並ぶ建築物は、どれも柳の本社ビルの半分も無いものばかりです。

その中で一番大きい建物は、本社ビルに隣接している柳研究所。

その次に大きいものは、数キロ先にある工場、これも柳の工場です。

他に目に付く建物と言えば、柳本社の直ぐ近くにある旧商店街でしょうか。

今では繁華街に様変わりしているそこと、柳がこの街自体であると言っていいでしょう。

実際、近隣の住民はこの街を『柳』と呼んでいますし、若い者の中には、嘘か真か、街の本当の名前を知らない者まで居るといいます。

街を見下ろす事を止め、ゆっくりと洋介は視線を総一郎に向けます。

柳グループの実質的指導者。この街の君主。

そう呼ばれている老人の言葉が、『面倒な事になったねぇ…』。

哀れみにも似た視線を老人に送ることを止め、洋介は瞳を閉じます。

十年前、柳は小さな建築会社でした。

柳総一郎は柳建設の四代目社長。

総一郎の代で柳は奇跡とも言える急成長を迎えましたが、その立役者は総一郎の三人の子供達でした。

何事に対しても受身であり、秀でた才覚も無いまま社長職を受けついた父を軽蔑している、長男・一馬(カズマ)

親よりも兄を慕う、その四つ下の次男・(アキラ)

一馬が物心の着いた頃、総一郎が愛人を囲っていた事が発覚し、両親は離婚。

その頃から総一郎と一馬の衝突は激しさを増し、明は引き篭り気味になってしまいました。

後に件の愛人と総一郎は再婚したのですが、その連れ子が長女・暁美(アケミ)です。

愛人との結婚で一馬の怒りは爆発し、大学進学を口実に家を出たのですが、その為に家庭内での唯一の味方を失った明は、完全に社会からドロップアウトしてしまいました。

一馬が大学を卒業する頃、柳の経営悪化を耳にし、それをキッカケにして四年振りに実家に足を踏み入れた一馬は驚愕します。

家の中は荒れ果て、柳建設の経営は破産の一歩手前。

その上、何時の間にか後妻は子を残して蒸発しており―。

全ての状態が最悪と言う外ありませんでした。

そして―。

父も既に何処かが壊れていました。

現実からも逃げたのだと、一馬は思いました。

そんな父を会長職に追いやり、自らが社長職に着いた一馬は、昼も夜も無く働き、そして勤勉に学び、漸く会社が立ち直る見込みが立つと、一馬は始めて弟に向き合いました。

切欠が出来たから、だけでもないでしょう。

どんな顔をして向き合えば良いのか解らなかったのが、主な理由でしょう。

その思いが、何事に関しても活動的な一馬の足を止めていたのですが、父の逃避を憎む以上、自分が逃げることを一馬は赦せず、万難を排して挑む事となったのですな。

六年振りに見た弟は、窶れていました。

眼には覇気が無く、部屋には三台のPCの他に、数多の専門書が足の踏み場も無いほどに散乱していました。

一目で、弟も同じような苦しみ方をしたのだと一馬は気がつきました。

自分は外へ、弟は内へと向かったのだと。

それから一馬は、部屋を借りて、対人関係の構築の仕方を忘れてしまった弟との生活を始めました。

弟の明が不器用ながらも会話が出来るようになった頃、偶に明の下を訪れていた少女が暁美であると一馬は明の言葉から知りました。

度肝を抜かれるとはこういうことか、と思いながら一馬は明の話に耳を傾けます。

話を聞き、更に一馬は度肝を抜かれました。

高校生である彼女は既に一人暮らしを始めており、柳からの援助は一切受け取っていないという。

明の持っていた幾枚かの写真を見る限り、暁美という子は、可愛らしかったが、何処か影があり、何か…そう、浮世離れしていた。

三人での食事の場を作り、彼女から数年間の顛末を聞き、一馬は再度驚きました。

母親の蒸発には、父は話さぬが、理由はあったのだ。

結婚のキッカケになった暁美は、父の子ではなかった。

それがバレ、会社の金を持ち出して母は逃げたのだという。

これだけでも最悪の二乗なのですが、あと二つ。

暁美自身にも母親は、貴女の父親は別に居ると話していた。

その上、阿呆な父親は彼女にまで手を出そうとまでしていたそうだから、二人に関しては怒りを通り越して呆れます。

しかし、そんな境遇だったからこそか、彼女は強かであったようです。

懸想をしようとする男を上手くあしらい、ひたすら先を見据えていた。

幼い頃から自らの境遇の真実に関して言われ続けた彼女は、何時か訪れるだろう生活の破綻を見越して、コンピュータ・特にインターネットというジャンルに関する知識を貪り続けていた。

その知識量、人脈は高校入学の頃には既に相当なものだったらしく、ネット上で教えを受けていた人物から『ハッカー』として認められ、その人物のチームにスカウトされるほどの腕前であったそうです。

マイナスなイメージしかない『ハッカー』ですが、本来は世間一般が抱く言葉のイメージとは異なり、相当量の知識量・技術を持ち、ハック―斬新・合理的な手法で新たな物を造り出す者―という意味合いです。

それを悪用する者も居り、それ故にマイナスのイメージが強いのですな。

ハッカーの悪党バージョンを『クラッカー』と呼ぶのですが、一般には定着しなかったようです。

件のスカウトをしたチームがクラッカー側かハッカー側かは解りませんが、話を聞く限りではハッカー側のように一馬は感じられました。

不幸な境遇としか言い様が無い彼女に、これ以上の不幸があると思いたく無かっただけかもしれませんが―。

しかし、教えた人間が悪党か善人かは別とし、彼女がスキルを得ていた事は弟・明には僥倖でした。

インターネットという共通の話題と、似通った家庭環境から、明は唯一、暁美とだけネット上ではありますが、会話をしていたそうです。

余談ですが、明の部屋にあった専門書の類は、殆どは暁美が母(或は義父)から得た金で購入し、自分が読み終えると明の部屋に置いていったそうです。

そうしている間に、Xデーは訪れる。

母親は逃げ出し、暁美も家を出た。

家を出て、彼女が始めに行った事は、これまで蓄えた知識を用いての、母に対するクラック行為でした。

彼女曰く、最初で最後の報復―。

暁美は、母が持ち出した金銭を全て口座から抜き取った。

不可能とも思えるそういう行為を成功させる為、母にさしたる反抗もせず、同様に母に関心を抱かせず。

その影で、彼女は一振りの刃を研ぎ続け―。

いざ、母が行動を起こしたその時、駆けて逃げる女の行く手に回りこみ、止めを刺した。

その際に、抜き取った大金と、アルバイトで稼ぐ小銭で彼女はこれまで生きてきたそうです。

満願成就のその時、彼女の心に去来したのは、少しばかりの達成感と、行為自体の下らなさ。

この考え方が、最初で最後の報復という言葉を彼女に選ばせたようです。

話を聞き、少しばかり一馬は親近感を感じました。

逞しさ。強かさ。勤勉さ。そして、危うさ。

今の自分を構築するそれらの感覚が、似ていると一馬は感じました。

そして、何よりも二人の技術力の高さに一馬は驚きを隠せませんでした。

「一緒に働かないか」

暁美が話し終えると、直ぐに一馬はそう口にしていたそうです。

そうして、柳のハイテク部門は設立され、とんとん拍子の発展を向かえて今に至ります。

三月前に過去を打ち明けた一馬の姿を思い浮かべながら洋介は瞼を開きます。

しかし、一馬の座るべき玉座には、最低というほか無い男の姿しかありません。

老人を見据え、洋介は口を開きます。

「一馬さんは何時お帰りに?」

「知らん」

少しばかり不快そうに言う総一郎を一瞥し、洋介は窓から繁華街に視線を向けます。

日の高いこんな時間でも、繁華街は賑わっているようです。

この男は、あの繁華街の存在にさえ疑問を持っていないのだろうな―。

自分の脳裏に浮かんだ言葉に眼を細め、洋介は会長室を後にします。

希望と絶望の違いにすら向き合わない男の姿が洋介の歩を早めさせていました。



シーン3


街にーというより、『柳』と呼ばれる地域に足を踏み入れた瞬間から、芹沢は妙な感覚に見舞われていました。

後ろ髪を引かれるような背徳的な冷たさと、逆に身を包むような道徳的な暖かさと。

夜の優しさと朝の愛しさを混ぜ合わせたような―。

本来は、相容れぬ二つが同居しているような違和感に苛まれながら、地元公安捜査員との合流の為に繁華街に足を踏み入れた時、身を覆う感覚は一気に不快感だけとなりました。

朝と夜。光と闇。道徳と背徳。

コインの裏表のように、有るが同時には現れぬ二つ。

その二つを同時に感じるからこそ、苛む程の違和感となっていたのですが、この繁華街はその根本が違う。

証拠は無い。

ですが、腐った林檎が周囲の果実までも腐らせるように、この繁華街が周囲にまで悪影響を及ぼしているように芹沢には感じられました。

いや、これは芹沢の職業病なのかもしれませんがー。

「態々、その日の内に出張ってこられるとは、災難もいいところですね」

繁華街の入り口で芹沢を見付け、駆け寄ると北条光(ホウジョウヒカル)は笑み混じりにそう言いました。

彼女は以前、芹沢が係長を勤めていたチームのメンバーであり、唯一、芹沢が直々に仕事を仕込んだ人間です。

年は27と若いですが、抜群のセンスと知識量・行動力から、地方の公安を率いるまでの人間に成長しております。

現在、警視庁公安部での争奪戦が水面下で行われているのですが、本人がそれを知る由はありません。

「君がこの地域に居てくれて助かったよ」

少しだけ頬を綻ばせ、北条の肩を軽く叩きます。

微笑を返しながら、北条は肩越しに芹沢の背後や周囲を窺いました。

「あら、お仲間はいらっしゃらないのですか?」

肩を竦め、芹沢は口を開きます。

「新設の班でね、数は驚くほど少ない。ちなみに創設者はあの宗田参事官だ」

「元警察庁警備局警備企画課参事官殿ですか。権力志向の強い赤羽一派では珍しいタイプと聞きます。御会いになりましたか?」

芹沢が頷くと、二人は繁華街の中央に向かって歩を進ます。

「初めて正面から見たが、アイツは曲者だ。下馬評とは大分違うようだな」

「エリートコースと呼ばれる公安ですけど、その分、困難極まりない。彼はそんな中で、望んで公安に身を置く変り種です」

「詳しいな。俺もざっと彼を調べたが、キャリアにしては随分と変り種だ。望んで公安を渡り歩いている。まるで赤羽二世だ」

「地方へのパイプも強いですよ。私も一度、御会いしました。公安の中の公安って感じですよね」

歩を進めるにつれ、段々と祭りのような喧騒が耳を貫きます。

まだ日も落ちていないというのに、飲み屋以外は賑やかな限りです。

「中々賑やかなところのようだな、此処は」

困ったように笑い、北条は周囲を見渡しながら口を開きます。

「犯罪者の見本市みたいですよ。最近、挙って悪人が此処に来ています」

彼女が視線を振りまくのに応えるように向けられる、『悪人』の部類の連中の視線が痛い。大分、彼女は顔が売れているようです。

「大きな仕事でもあるのかと眼は光らせていますが、まだ動きは有りません」

敵対心剥き出しの視線など歯牙にも掛けず、女は歩を進めます。

「何だ、やけに物騒だな。逮捕は難しいのか?」

「微罪で引っ張る位は出来るでしょうけど、彼等は借り物の猫くらい大人しくしています。それが逆に恐ろしくもあるのですけどね。先日ですが、此処の悪党の一人と思われる人物が、街の外れにある工場地帯で、死体で発見されました。ですけど、残念ながら現段階で此処の連中の関与は見られていません」

「穏やかじゃないな。そんな事件が報道された覚えは無いが…手口は?」

「首を横に一閃。凶器は大型の刃物らしいのですが、断定には至っていません。目撃者等の手掛かりも皆無。プロの犯行でしょう。その為か、少しばかり雰囲気が悪い。それもあって報道も控えるように…と」

女の言葉に芹沢は心の中で頷きます。

身内が殺されたとなればピリピリもするでしょう。

そこに過度な報道合戦なんぞ言語道断。

「道理で好ましくない視線が多いわけか。だが、プロの犯行だとしても、それは流れの犯行だろう。そうでなかったら抗争に発展しかねん」

静かに芹沢は周囲を見渡します。

首を振るだけでも多くの視線を感じる。

普通、公安部員の顔が売れる事はありえません。何せ、命に関わりますので。

故に、目立つな、が公安の鉄則です。

連中も、彼女が公安部員としては認識していないでしょう。してはいなのでしょうが、警察という認識はあるようです。

公安に配属された警察官が真っ先に覚えねばならぬ、警官の気配をあえて彼女は醸し出しているのです。

―それが意味するのは事態の深刻さ。

ドロリとした感情が湧き上がるのを感じながら頭を掻き、芹沢は口を開きます。

「殺しの方は刑事諸君の縄張りだ。ウチが首を突っ込む事ではない。それより、協力者の仕込みは出来ているのか?」

「一応は、ですね。協力者と言うより、情報屋に近いのですが…。今、藪を突くのは危険過ぎますから」

繁華街の中ほどにある、『ゼロ』と言う喫茶店の扉を北条は開きます。

店内は半分が純喫茶、半分が洒落たバーになっており、どちらにも客は一人も居ません。

所在なさげなマスターらしい白人男性に北条は手を振り、純喫茶のエリアに芹沢を誘います。

二人が席に着きますと、静かにマスターは奥へと引っ込みました。

それを確かめ、周囲を自然に見渡しながら芹沢は口を開きます。

「同感だな。箱を覘いて上半身をバクリじゃ洒落にもならん。確認出来ている組織は幾つある?」

「トライアドなどのマフィア系が三つ。テロ組織のような集団が二つ。フリーの元スパイも十人足らずと聞いています。後は、ロシア・中国・北朝鮮の諜報員ではないでしょうか」

幾ら被スパイ大国とは言え、そして、公にマフィアのボスが来日する国とは言え、あまりにも豪華な面子です。

あながち冗談とも嘘とも言えず、苦笑いを浮かべながら芹沢は口を開きます。

「錚々たる面子だな。しかし、諜報員は兎も角、マフィアやテロ組織というのは穏やかじゃないな」

そんな連中の中で殺人をやらかすというのも穏やかではあるまい―。

「此方で正確に確認が出来ているのは10人も居ません。所謂、街の噂話ですよ。阿呆の戯言です。幾らなんでも、そこまでの面子がこんな場所に集結するなんて有り得ない」

そう言って北条は困ったように笑いました。

しかし、その一方で芹沢は笑えない。

街の噂、というのは、指導に当った際に北条に説いた文句なのです。

情報の精度が生死さえも別けるケースもある公安の現場に置いて、具体性・根拠の無い情報は口にすべきではない。

『どうしても気に掛かるようならば、噂話程度に心に留めておけ。』

そう北条に芹沢は説いていました。

つまり、彼女の語る噂話は、噂以上である可能性を大いに孕んでいる―。

噂話か、と呟き、曖昧に頷く芹沢を見据え、

「被害妄想混じりの妄言は良いとして…芹沢さん、『占い師』の噂は聞いていますか」

先ほどの噂話とは違い、慎重に言葉を選び、北条は言葉を紡ぎました。

「裏では『カイム』と呼ばれるあれか?」

一時期、実しやかに囁かれた話。

数年前から海外組織に属する人間を確保した時、決まって取り調べの何処かしらに『占い師』という言葉が容疑者の口から発せられたという。

明確に占い師の名前だとか、経歴・容疑者との因果関係などは決して口にせず、思い出したように容疑者達は『占い師』という言葉を零したそうです。

何かを思い出したようにそう呟き、決まって容疑者達は脱力し、そして諦めていた。

まるで、自分の行く末を知っているかのように、彼等は未来を諦めていた。

実際、芹沢もその言葉を口にした容疑者を知っているが、諦めた彼等は呆気ない程に扱いやすかったそうです。

―そう、あれは、ほんの一ヶ月前だったか。

ある容疑者が占い師という言葉に続き、『カイム』という言葉を零したのは。

聞きただしたところ、『カイム』とは、占い師の別称であるらしく、接触方法はカイムの運営するホームページへのアクセス。

そこで助言を受け、容疑者は犯罪行為を行ったといいますが、警視庁のハイテク課の捜索の結果、それらしいサイトは見つからず、有耶無耶のまま容疑者は本国へ強制送還された。

それ以後、公安では『カイム』の噂が微かに流れ続けている。

これも―やはり噂話。

「ええ。ネットで彼を見付け、相談が受け付けられれば解決してくれる、凄腕のトラブルバスター。彼の助言の正確さからついたあだ名が、占い師」

「おい待てよ。そりゃ都市伝説だろう?」

噂は所詮、噂なのだ。

嬉しいとも悲しいとも取れる表情を浮かべ、北条は口を開きます。

「居るというのは街の噂ですけど、その噂が出始めた頃、此処の繁華街の外れに『胡蝶』なる館が出来ました。その話が流れ始めた一月後に例の殺人が発生しています」

「そこに件の占い師が居り、且つ、その『特に穏やかではない殺人』にも関わっていると?」

噂話に信憑性を与えるとまではいかない話。

寧ろ、胡散臭さが増しているでしょう。

そんな芹沢の心の内を見透かすように女は微かに自嘲しました。

「馬鹿らしい話ですけど、私には信じられるんですよ。それくらい、この街は今現在、歪んでいるように思います」

―歪んでいる。

無意識に芹沢はそう言葉を繰り返すと、女を見据えました。

「マークはしているんだろう?」

「行動の監視はしていますが、これといった問題は…しかし、柳に出入りしているという報告がありまして…」

―ああ、成程。

心の中でそう頷き、芹沢は口を開きます。

「それが要件か。胡蝶に関してウチ以外で興味を示している者は?」

「刑事諸君は気がついていないようです。噂話自体、公安でしか流れていませんしね。ただ、この繁華街のならず者は注目しているようです」

企業告発のメールに関しては、地方の公安にも当然、知らされています。

それと同時期に発見された『占い師』らしき人物。

そして、芹沢が、警視庁公安部が出張ってきたという事実―。

あまりに出来過ぎだが、だから、余計に無視も出来なくなった事象。

だから、取るに足らない噂話でも聞かせないわけにもいかなかった…というのが北条の心境だったのでしょう。

恥ずかしそうに笑い、

「正直に言いますと、貴方の到着が少し遅ければ私が胡蝶に行っていたと思います。柳に関する情報が私達には有りませんから」

そう言うと、女は年相応の可愛らしい笑顔を見せました。

芹沢の下に居た頃のままの笑顔です。

「地元の君等が何も掴んでいないとはな。そこまでノーマークの企業が監視対称に突然なったとは思いもしなかった。おまけに、突いて出てきたのがあの『カイム』とは…」

当時、何時かは失われる笑顔を惜しみながら指導を続けた思い出に浸りつつ、芹沢は目を伏せますと、女の携帯が鳴りました。

音につられ、芹沢は女に眼をやります。

数秒の会話で通話は終了したようです。

「本当にタイミングが良い。つい先ほど彼が柳を出たと報告を受けました」

眉間に皴を寄せ、女はそう告げました。

途端、芹沢の表情も強張ります。

「出来すぎているな。怖いくらいに」

「ええ。だから、歪んでいると私は言っているんです」

携帯を懐に仕舞い、そう言うと女は手で顔を覆いました。

「歪んでいる…ねぇ」

疲れと動揺と。

後、微かに確信の光の満ちた女の眸を見る事を止め、芹沢は視線を泳がせます。

何時の間にか、離れたバーのカウンターには白人のマスターの姿がありました。



シーン4


繁華街の外れ。

人通りも疎らな、商店街から繁華街への変化に乗れなかったエリア。

煌びやかな繁華街の影を思わせるそのエリアの片隅に佇む館。

その名を『胡蝶』。

明治時代に建築されたという、古ぼけた館の重い扉を洋介は開きます。

開いた途端に現れる、吹き抜けの大広間。

その中央には五人がけの円卓があり、元々はダンスフロアだったらしい広間の左右には、アンティークな装飾品が飾られています。

洋介から見て、右側に置かれているチェスを行う為のテーブルでノートPCを開く女は顔を上げて男に眼を向けますと、あら、と声を漏らしました。

「洋介さん、お帰りなさい」

「ただいま。すまないけど、翔太(ショウタ)を呼んでくれるかな」

言葉を紡ぎながら洋介は円卓の上座に当る席に腰を降ろします。

「イチイチ暁美に呼びに行かせるなよ。暁美はウチの家政婦じゃねぇんだ」

円卓を見下ろす形になっている、ダンスフロア時代の名残である踊り場から、洋介を見下ろしながら男は言いました。

「無駄口は結構だ」

肩を竦めて見せながら、翔太は階段を降ります。

それと同時に、暁美も席を立ち、二人は殆ど同時に席に着きました。

二人を見渡し、洋介は口を開きます。

「まず一つ。暁美、君のお兄さんはまだ帰っていない。内部の調査は不十分だが、心証では、柳の告発文を公安に送りつけたのは彼ではないようだね」

女の顔に影が挿した。

「やっぱり…お父さんが…」

困ったように笑い、洋介は口を開きます。

「あの男にはそんな知恵も度胸も、ついでに言えば、理由も無いよ」

自前の手巻き煙草に火を燈し、浅く白煙を吸い込みますと、大げさに翔太は吐き出しました。

甘ったるいバニラの香りが漂います。

「同感だな。柳総一郎は繁華街でも悪い噂が絶えない男だが、どれもこれも女絡みばかりだ。色情魔だな、あれは」

―口を慎めよ。

口が過ぎたとは欠片も思ってもいない翔太を諭す洋介を一瞥し、

「いいわ。私も父とは思ってないから」

辛辣な口調で女は言いました。

頭を掻き、漸く口が過ぎたと少しばかり後悔している男を洋介は睨むと、パッと表情を作り変えて女に顔を向けます。

「『告発文』に関してはどう?手に入った?」

「まだです。どうして貴方があんなものに興味を示すのかは知りませんけど、中々難しいですよ?何せ、宝箱は公安ですから…」

怪訝な表情を浮かべる女。

会話自体に興味がなさそうな男―。

その両者を見渡し、

「告発文こそが口火を切った代物だよ。どうも下っ端は知らないようだ。ならば、上の方が意図的に隠しているのだろう。何、好奇心だよ。この期に及んで何を隠しているのか…それに少しばかり感心があるんだ」

道化のような笑みを浮かべ、『占い師』と呼ばれる男は言葉だけで二人の視線を己に惹き付けました。

「一馬氏と連絡が取れなくなって今日で五日だったかな?」

ノートPCを開き、タイピングを行いながら女が口を開きます。

「はい。データ上では海外企業の視察中ですけど、相手方に連絡を取ってみたところ、直前にキャンセルの連絡があったそうです。それが、五日前。そこからは音信不通です」

頷くと、道化のような笑みを浮かべ、洋介は翔太に眼を向けました。

「五日間の視察か。さて、翔太。五日前と言えば何を思い出す?」

「『ゼロ』で出逢ったあの女、あれは絶品だった」

眼を伏せる暁美を他所に、何の反応も示さずに洋介は口を開きます。

「そう、企業告発のメールだな。五日前、一馬氏が失踪したその日に、告発文が公安に届いた。暁美、君もその件で一馬氏に連絡を?」

「ええ…。それが私の仕事ですから」

口を開きそうになる翔太を片手で制し、微かに微笑みながら洋介は口を開きます。

「御説明を願えるかな。俺は兎も角、色情魔・翔太殿は察しがあまり良くない」

翔太は一言二言言いたそうな様子でしたが、男がそれを諦める前に、暁美が口を開きました。

「私と一馬さんと明君。柳の発展に大きく貢献したとされる初期ハイテク部門は現在、柳本社の隣に建設された研究所へと拡大されています。地上三階地下二階の巨大さですが、そこの初代所長が一馬さんで、技術最高顧問が私と明君でした。ですが、一馬さんが柳の経営に集中するに辺り、所長職を無くし、事務における事実上の最高責任者としての事務長を補佐に付け、明君を柳研究所の最高責任者としました」

「君は?」

「私は監査部門の設立を要請され、その矢先に告発メール騒動が有りました…実際は、監査部門は始動もしていません」

「その監査部門設立のアドバイザーとして俺は一馬氏に呼ばれていたんだが…妙な雲行きになったものだ」

「監査部門何かを快く思わないのは会長じゃないのか?」

小さく笑い声を漏らし、洋介は翔太に眼を向けます。

「結論を急くものではないよ。物事には順序がある。まずは告発騒動を片付ける。その為に告発文が欲しかったんだが…そう上手くも行かないか」

「全ては『占い師殿』の掌か?」

笑みを浮かべる翔太を一瞥し、

「思い上がった言葉だ。こんな小さな掌で操れるものなんて無いよ。事は起こるべくして起こり、成るべくにして成る。良きにしろ悪しきにしろ、起こった事に選ぶも何も無い。だが、何かが起こった時に何をするか、次に何をするかは選べる…」

言葉を紡ぐと共に、洋介の眼が胡蝶の門へと向きます。

それに呼応するように、警報のような呼び鈴が館内に轟きました。

「御客様…ですか」

ポツリと女が呟きます。

手を叩き、洋介は立ち上がりました。

「翔太、君は『ゼロ』に出向いてくれるかな。L.Kの話を聞きたい。暁美、君は踊り場にでも居てくれるかい。ああ、そうだ。あれは完成しているかな」

「試作機ですけど…」

おずおずとポケットからスマートフォンを取り出しますと、静かに女はそれを円卓に置きました。

「上等だよ。翔太、それを持っていってくれ。普通のスマートフォンと区別する為に、それは『端末』と呼ぶ。行動中は端末の方だけを使ってくれ。落とすなよ、君の命よりも高価な品だからね」

「お前は俺に容赦が無いな…ホント…」

物珍しそうに『端末』を片手で弄びながらもう片方の手を挙げ、翔太は扉へと歩を進めます。

「さて、仕度は整った。幕を開こう」

翔太は扉を開き、来客と面する。

暁美はノートPCを持ち、踊り場へ。

そして、洋介は悠然とした様子で翔太の肩越しに見える男女の姿を見据え、道化のような笑みを顔に貼り付けました。



シーン5


―此処が胡蝶です。

女がそう告げ、芹沢は建物を見上げました。

大きな館ですが壁には蔦が這い、今にも崩れそうな程老朽化しております。

占い師の住処としての雰囲気はバッチリ。

呼び鈴を鳴らした時の轟音にも驚いたが、扉を開いた男にはもう一つ驚かされました。

短髪で筋肉質。

目付きは鋭く、獣のような雰囲気―。

一見して堅気ではないと解った。

しかし、ヤクザとも少し違う。

それよりも半グレに近いのか。

そうならば余計に性質が悪いが―。

同じように怪しい匂いを嗅ぎつけたのか、隣に立つ北条が静かに臨戦態勢を整えます。

「失礼」

見た目からは想像出来ぬ程、柔和で礼儀正しい一言でした。

二人の動揺を見抜くように肩透かしを食らわせ、獣染みた雰囲気を醸し出す男は静かにすれ違って行きました。

「中へどうぞ」

思わず眼で男を追っていると、館内から言葉が。

吹き抜けの広間の中央にある円卓から、男が呼んでいました。

―あれが噂の『占い師』か。

言葉に出さずとも、二人の脳裏にはそう同じ言葉が浮かんでいました。

「失礼します」

芹沢と北条が足を室内に踏み入れるのを、笑顔で『占い師』は迎えました。

「好きな席にお掛け下さい。今は休業中ですので、大したお構いも出来ませんが…」

一度顔を見合わせ、二人は席に腰掛けます。

「休業中に申し訳ないな」

言葉を紡ぎながら視線を上に向けます。

円卓を見下ろせる踊り場から、腰まで伸びた黒髪を棚引かせながら女が見ていました。

運動などしたことが無い程に華奢でありながら、猫を思わせるしなやかな肢体。

小柄な体格と、陶器のように白い肌。

日本人離れした、ビスクドールを思わせる整った顔の造り―。

素直に可愛いと芹沢は思いました。

そう思いましたが、どうも浮世離れし過ぎている。

まるで、絵本から飛び出してきたような―。

彼女と眼が合い、芹沢は思わず視線を逸らしました。

「構いませんよ。人の交わりは必然。良かれ悪しかれ…ね」

男―占い師の言葉。

声につられ、芹沢は男に眼をやります。

人形のような可愛らしい女とは対照的な程、特徴の無い男。

良く見れば良い男のようにも見えますが、何処か抜けている。

体も絞り上げられているようだが、少しばかり脂肪が付き始めている。

筋肉質とは言えない。

玄関で擦違った、獣染みた男のような威圧的な雰囲気だとかも感じない。

本当に、何も無いのだ。

それに気がついた時、ゾクリと芹沢の背筋に悪寒が走りました。

「ねぇ、貴方があの『占い師』なの?」

思わずといった様子で、北条は言葉を零しました。

「随分と率直な方ですね」

失笑を零しながらそう言うと、男は微笑を浮かべ、天を仰ぎます。

外見の古ぼけた様子とは裏腹に、内部の装飾は綺麗なもの。

その中でも特に美しい、アンティークなシャンデリアを洋介は見つめていました。

「私自身がそう名乗った覚えは有りませんが、確かにそう呼ばれているようですね。あまり好ましい事では有りませんけど」

「随分と余裕だな。君が占い師というなら、私達の身分も解るんじゃないのか?」

「おや、呪いを信じる類には見えませんが…」

ふむ、と唸り、男は芹沢を直視します。

途端、肌がざわつくような、不快な感覚が芹沢の全身を覆いました。

四方八方から視線を注がれているような、此方のどんな些細な動きさえも見逃さないような視線―。

円卓に肘を突き、静かに顔の前で男は手を組む。

男の仕草、語り口。

その全てが相手を揺さぶる為の、そういう演出としか思えない。

その証拠に、一連の男の動きで芹沢は心の内に波でも引き起こされたように掻き回されていました。

―この男、人を見ることに慣れている。

それだけではなく、見透かす事に慣れている。

人を値踏みしなれている人種、例えるならば、政治家だろうか。

しかし、そういう人間は往々にして優越感を感じているものだ。自分はお前の考えている事など見透かしているぞ、と。

何かしらの優越感を男が感じているのなら、それが雰囲気に出る。

職業柄、相手の発する雰囲気を察する能力は常に鍛え、研ぎ澄ますように心掛けている。

しかし、眼の前の男からはそんな雰囲気もなければ印象も無い。

自分の尺では計れず、自分の知る型にも嵌められない。

目線よりも、それが芹沢には不快でした。

芹沢の眼が、波のように揺れ動く男の眼を捉えます。

微かに、占い師は笑いました。

「警察…公安の方でしょう。さて参りましょうか、百聞は一見にしかずと言いますし」

そんな芹沢の不快感すらも見透かすように言葉を紡ぐと、ゆらりと男は席を立ちます。

「待て、何処へ行くつもりだ…?いや、それ以前に何故解った?」

呆気にとられ、思わず男を見上げて芹沢は問いました。

微笑み、男は口を開きます。

「柳研究所へ。貴方の目的はそこで果たされる。二つ目の質問は割愛しましょう、無駄だ」

胡散臭さよりも恐怖の方が二人には強かったようです。

「…何を…」

「ほんの数時間、それだけ一緒に行動して下さればそれで仕舞い。良い話でしょう?」

男が言葉を紡ぐと、素早く北条の手が芹沢の肩に伸びました。

まるで、幼子が親の袖に手を伸ばすような必死な―。

いや、これは芹沢の個人的な錯覚ですが…。

小さく芹沢は頭を振ります。

「芹沢さん…。旗色が良くない」

立ち上がろうとした芹沢の肩に手を置き、北条が呟きます。女の耳に顔を近づけ、

「北条、君は引き続き職務を果たしてくれ。柳へは一人で行く」

そう囁くと、芹沢は立ち上がり、男を見ます。

奇妙な笑みを浮かべ、男は芹沢をを見ていました。

やはり、不快であり、何処か恐ろしい。

まるで、先程の感情の動きすらも見透かされているようで―。

「では参りましょう。ああそうだ、暁美、もう一つ『端末』はあるかな」

まさか呼ばれるとは思っていなかったのか、慌てて暁美と呼ばれた女は階段を駆け下りてきました。

「通常の携帯と比べたらバッテリーはあまり持ちませんから気をつけて下さい」

端末と呼ばれたスマートフォンを男に手渡し、女は眼を伏せます。

そんな彼女の頭を優しく撫で、男は再度、芹沢達に眼を向けました。

「了解だ。そちらのお話は済みましたか?」

北条に目配せをし、無言で頷きます。

すると、軽快な足取りで男は歩を進め始めました。

「なら参りましょう。なに、心配も警戒も全ては無意味。事は成るべくして成り、起こるべきにして起こりけり。故に―」

―世は事も無し。

舞台で名台詞を口にする役者のように誇らしげに、この世の真理でも見てきたような傲慢な言葉を口にしながら男は二人を誘い、扉を開きました。



シーン6


「あら翔ちゃん、今日は速いじゃない」

「おう翔太、今日は何処行くんだ?俺も連れてけよ」

「え~今日はウチじゃないの~」

繁華街に足を踏み入れた途端、三人の男女の言葉が翔太を出迎えました。

羽ばたくように女達は翔太の両腕に抱きつきます。

「うるせぇ。今日は仕事だ仕事ッ。L.Kは店か?」

落胆の声を漏らす商売女を諌めながら、男が口を開きます。

「あそこは準備中だぜ。何でも、公僕が来たとかで仕事の気分じゃないらしい」

―公僕?

まぁいい―。

「俺が行きゃ開くさ」

「ああそうだろうよ。精々、虎の尻尾にゃ気をつけろ。最近は物騒だ」

肩を竦めて見せ、男は女達の肩を持って自分の店へと引き返して行きました。

気が付けば、そこかしこから視線を感じます。

じっとりとした粘着質な視線。

場の空気が随分とピリピリしています。

「魔女狩りでもやらかす勢いだな、こりゃ」

呟き、翔太は胡蝶へと向かう歩を早めます。

『ゼロ』の扉を開きますと、銃口が翔太を迎えました。

面食らう前に、先程の繁華街の入り口で男が言った言葉を翔太は思い出しました。

―成程、準備中か。

苦笑を浮かべながら一人頷くと、やれやれと呟きながら、翔太は目の前の状況の確認を始めました。

一、二、三…。

銃口は合計五つ。数も五人。

煮えたお頭で値の張る銃を構えた男達を一瞥し、バーのエリアのカウンターで詰まらなそうに自分に向けられた銃口と睨めっこをしている、不貞腐れた白人に翔太は眼を向けます。

「随分と賑やかな状況だな。何だ、邪魔なら出直すよ、その男と心中するつもりはねぇからな。三十分もあればその白人と話せるのか?」

「無駄だよ、翔太。こいつらに言葉は通じやしない」

悪態を付く白人に銃口を突きつける男の肩が僅かに震えました。

「馬鹿にするよくない。あまり話せないだけ」

店主であるL.Kの正面に立つ、リーダー格らしいアジア系外国人。

片言の日本語も不愉快ですが、それ以上に、文化の違う悪人の臭いが不快でした。

「まぁなんだ。見ちまったからには、理由くらい聞こうか」

自分に向けられた銃口を指で退け、椅子に腰掛けて周囲を見渡しながら翔太が言いますと、

「この店、警察来た。コイツ、裏切り者」

威圧的な口調で外国人は言葉を紡ぎました。

―なるほど、軍人上りではないか。

男が言葉を紡いだ瞬間に翔太はそう確信しました。

銃の扱いの慣れは徴兵制の賜物かも知れませんが、尋問の作法がなっていない。

五人も大挙して店に押しかける理由も解らないし、見張りが居ないのも解せない。

軍の作法を叩き込まれた連中なら、こんな非合理な事はしない。

警告なら、有無も言わさず行動を起こし、それをもって警告と成すだろう。

刹那の間に得た情報を元に、翔太は口を開きます。

「そいつは間違いだぜ新人。此処は中立地点。此処でドンパチやっても俺は構わんが、此処を敵に回したら、お前の上が怒るぜ」

この片言外国人の遣り口は素人―状況から考えれば『マフィア』。

少しだけ怯んだ男達を見据え、翔太は言葉を続けます。

「ゼロ。解るか。ああ、トライアド系では何と言ったかな…」

「ゼロ、知ってる」

突然、そう言葉を吐き出しますと、頭を掻く翔太を一瞥し、

「今日、警告。邪魔、するな」

宣言するようにそう言い、銃を仕舞い、男達は威圧的な視線を撒き散らしながら胡蝶の扉を乱暴に開きました。

去り際は見事なもの。

瞬く間に男達は姿を消しました。

「―全く、とんだ開店準備だな。あんな片言は久しぶりに聞いた」

それに合わせて翔太は立ち上がりますと、バーのカウンターに向かいます。

「全くだ。嫌な連中が出てきたよ」

気疲れしたと言った様子でそう言いますと、筋肉質な白人は冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出します。

「おい、ありゃ何処の連中だ。此処じゃ見かけない類だが…」

水を一気に呷り、一心地付くとL.Kは口を開きます。

「トライアドの関係している、俗に言う、強盗村から派遣された応援部隊だ。さっきのは、実行部隊の仕切り。何処のか聞きたいか?」

最近話題の連中か、と呟くと大げさに翔太は頭を横に振りました。

「いいや、どうせ青龍辺りだろう?最近は物騒だねぇ。それよか、あいつ等ってのは実行の直前に集合がかかるんだろ?」

ああ、と短く白人は答えます。

「マジかよ。まさか、その直前に御眼に掛かるとはな。それで、狙いは何処だ?」

「―狙いは柳研究所だよ。此処に来たって事は、親分さんが動いているんだろう?依頼は何処からだ?」

ミネラルウォーターの入ったペットボトルを手で弄びながら翔太は眼を泳がせます。

強盗村の連中とは、近頃流行のヒット・アンド・アウェー型犯罪を得意とする者。

これを得意とするのは、来日中国人犯罪グループ。

一口にそう言いましても、多くグループは存在するのだが、その中でも昨今、国内で脅威となっているのが、ヒット・アンド・アウェー型である。

これは、情報屋・犯罪手配師・車頭らを駆使し、短時間の犯行後に逃走する犯罪者集団。

大まかに三つに分けましたが実際は、獲物を見つけ調査・下見を十分に行う者、各種情報を整理し計画を練る者など更に細かく分かれるケースも多いそうです。

下準備が済めば、犯行に相応しい人材をピックアップし、決行の直前に目的・計画を伝えて犯行に及ぶ―。

犯行後は直ぐに立ち去り、実行犯は逃し屋の手筈で海外へと逃れ、強奪した品は品物を換金する専門のメンバーの手によって捌かれる。

犯行の手口が残忍なケースも多く、目的が強奪か殺人かが不明瞭なケースも見受けられる。

何より面倒な事は、決して黒幕を吐かない点でしょう。

何故なら吐くと後が怖い。

一族郎党皆殺しが現実に有り得るのだから怖い話です。

実際に、犯行の形式からして黒幕の存在は間違いないのですが、ヒット・アンド・アウェー型の犯行を及んだ犯人が黒幕を白状した例はありません。

しかしながら、あくまで個人相手にの犯行が奴らの狙い。

誰某を殺したいだとか、あそこを潰したいだとか。

敵対する勢力を排除する為に雇われるわけですが、この場合のターゲットは研究所。

あまりに場違いではないでしょうか。

―ならず者が研究所にどんな用があるのだ。

肩を竦め、翔太は首を傾げながら口を開く。

「さぁな。名目は暁美嬢だが、トライアドまで噛んでいるなら、別口の依頼もありそうだ」

途端、L.Kは眼を見開いた。

「暁美?あの嬢ちゃんもそっちに居るのか!?」

「有名なのか?」

「各組織、国家から誘いが来るくらいのハッカーだよ。容姿と実力も良い上、彼女はその筋では人脈も豊富だと聞く。そうか、彼女はカイムに付いたのか…。おまけに、奴らの関係する色男(ロメオ)が一人殺された」

「色男?あの工場通りで殺されたアレか?」

ああ、と小さな声で店主は答えた。

色男、というのは、昔風に言えばジゴロ。

女を誑し込み、金銭や情報を引っ張る輩です。

翔太がチラリと男に眼をやりますと、興味深げにガタイの良い白人は思考に耽っておりました。

この男も洋介と同じ。

情報を出し惜しむ。

そして、情報を統合する術を持っている者―。

「あんま言いふらすなよ?」

既に翔太よりも先の先まで見えているらしい男は不敵に笑い、

「占い師殿なら翔太が話すのも折込済みさ」

言葉を吐きますと、翔太の肩を叩きました。

伝えるべき話は伝えた、話すべき事は話したという二人の間の合図です。

この合図の度に、翔太は深い溜息を零します。

何処まで行ってもこういう手合いの手の内なのだ、と嫌になってくるのですな。

そして毎度、溜息の次に頭を悩ませる。

双葉洋介という男は無駄な事はしない。

あらゆる状況を見通す、ある種の天才。

どんな無関係な事象でも、あの男から見れば全てが繋がって見えているようで。

そうやって、あの男は未来を見通す。

故に『占い師』―。

店主の言う通り、話すのも折込済みなのだろう。

―問題は、その次なのだ。

瞳を細め、一人頷くと、翔太は『端末』を懐から取り出しました。



シーン7


巨大と呼ぶに相応しい研究所の自動ドアを潜りますと、受付嬢と談笑をしていたスーツ姿の女が機敏に此方に顔を向け、深々と頭を垂れました。

「双葉様、お待ちしておりました」

意思の強さを誇示するような眼で洋介を見つめ、女は挨拶を済ませると二人を研究所内へと誘います。

端末で彼女の顔写真からフォルダを探し出し、洋介は口を開きます。

「ええと…蘇芳さんですか。一馬氏無き後の、外商担当者。お若いのに素晴らしいですね」

「会長や社長に頼られる貴方が言うと皮肉にしか聞こえません」

「私が彼等と懇意にしているのは一部にしか知られていない筈なのですが…良く内情も御存知のようだ」

そう言うと洋介は苦笑を零しました。

促されるまま、通された応接室のソファーに二人は腰を降ろします。

「此方の方は?」

訝しげに芹沢を見つめ、女が問います。

やはり、警察官の持つ異様な雰囲気というのは隠せないのでしょう。

「ツレですよ。此処の警備主任と話しをしたいのですが…」

テーブルに予め用意されていたIDカードを手に取りながら洋介は問います。

「警備主任に当る人物は…柩さんになるのかな。柩蘭(クルルラン)、暁美御嬢様から聞いていますか?」

「聞かないな。何かまずいの?」

―御嬢様ねぇ…。

傍から二人の会話を眺めていた芹沢は首を傾けます。

―どうしてその『御嬢様』がこの男と行動を共にしているのだ。しかも、占い師の反応を見る限り、彼女からは情報を得ていない。聞く限りの印象だが、それは嘘では無い様だ

だが…どうにも捉えようの無い男だ。

それに―。

眼を細め、芹沢は溜息を零しました。

言動を見る限り、『占い師』と外商担当者の彼女は初対面らしい。そんな相手と話しているにも関わらず、『占い師』は少なくとも対応の仕方を三度は変えている。

初めは堅苦しく、次は少しばかり威圧的に、今はフレンドリーに。

それに引っ張られるように、だがごく自然に、対応する彼女の口調も変化する。

最終的な印象は、フレンドリー…だろう。

しかし、それは演じた結果だ。

何時も『素』で接す者は居ないのだろうが…。

妙な違和感を拭いきれず、それでいて納得のいく答えも見出せぬまま、芹沢は二人の会話に耳を傾けます。

「いいえ…彼女は暁美御嬢様から地位を受けついだ元腹心、ナンバー2ですね。でも、今は立場上、二人は対立していますけど…。此処の最高責任者は彼女ですよ。特に幹部連中の間では…」

「それだ。失礼、後は二人だけで大丈夫ですので…」

嬉しそうに頷き、端末に研究所のマップを映し出しながら洋介が立ち上がりました。

慌てて芹沢は男の後を追います。

「おい、少しは説明したらどうだ?」

「先ほど連絡が有りましたが、どうも強盗団が此処を襲撃するようです。先程の彼女には、此処で自由に動く為に筋を通したに過ぎません。彼女しかIDを発行出来ませんので。いきなり強盗云々を伝えても彼女では対応もままならないでしょうし」

打てば響くように言葉を返されましたが、初め、何を言っているのか芹沢には解りませんでした。

数秒黙り、情報を整理する中で、

「何だって?」

思わず芹沢は聞き返します。

チラリと洋介は芹沢に視線を寄越し、

「彼女は一馬氏から外商の最高責任者の地位を受け継いだ、この研究所唯一のセールスレディです。ある程度の立場に加え、此処で彼女以上に弁が立つ人間は居ません。ですから、来客の対応なんかも一手に引き受けている―というより、押し付けられているようですね」

違う―。

短く言い放ち、芹沢は『占い師』を鋭い眼で見据えました。

吐息を零し、洋介は警官を見つめます。

「火消しは貴方達の管轄外でしょう。もっと言えば、貴方達は、その前の火種を潰す側だ」

反応を窺うように、占い師は言葉を紡ぎました。

頷き、芹沢は口を開きます。

「既に燃え上がった炎を見過ごす程、楽観的でもない」

笑い、洋介は口を開きます。

「そこまであなた方を過小評価していませんよ」

ムッとして芹沢は口を開きます。

「無駄話は結構だ。何か知っているならさっさと話せ」

「今更話したところで意味が無い。予測外が起これば、延期か撤退を奴らは選びますよ。それに…警察は来れない」

「どういう意味だ」

立ち止まり、静かに周囲を見渡しながら、

「突然、強盗が入ると言って信じますか?後の先があなた方の得意分野でしょう?」

言葉を紡ぎ、扉を開きました。

扉を開くと、どうにも研究所とは部類の違う光景が芹沢の眼に飛び込んできました。

汗と珈琲の香りの入り混じった、何とも形容し難い臭い。

六つばかり並べられたデスクには、PCの他に何やら研究所の見取り図やら、来客者名簿などが無造作に置かれております。

席に着いている男達の格好は警備員風ですが、此処でカメラの監視をしている様子はありません。

警備に関する業務の、幹部以下ヒラ以上の連中のようです。

その六つのデスクを見渡す位置に、この部屋の主らしい女のデスクがあります。

「失礼します。貴女が柩さん?」

物怖じせず、ずかずかと先へと進み、部屋のボスらしい女の前に立つと洋介は問いました。

チラリと男に眼をやり、

「蘇芳から聞いています。好きな席にお掛け下さい。それとも個室の方がよろしいですか?」

不遜としか捉えようが無い口調で女は言いました。

女はそれだけ言うと黙ってしまい―。

何とも…控えめに言っても無愛想な女です。

自分のデスクからは一歩も動く気は無いらしい女に占い師は困ったような笑みを送り、デスクの斜め前にあった手頃な椅子に腰掛けます。

その隣の壁に芹沢はもたれかかり、女に視線を注ぎましたが、女は二人の存在など見えてもいないように書類仕事に打ち込んでいます。

本当に愛想の欠片も無い女だ、芹沢は溜息を零します。

チラリと占い師に眼を向けると、男は興味深そうに女とその周囲を眺めている。

傍から見ても、粘着質な嫌な視線だ。

だが、悪意ではない。

厭らしい、好奇の視線のように芹沢には見えました。

唐突に視線を女に向ける事を止めると、占い師は息苦しい沈黙を破りました。

「いや、此処で結構です。少しばかり御聞きしたいことが御座いましてね…企業告発メール騒動は御存知ですか?」

視線を書類に向けたまま女は頷きました。

「仕事柄、ネットに触れる機会は多いですから。ウチの名前が有るのも知っています」

―ちょっと待て。

それはウチの機密だぞ。

そう言葉を挟みそうになりましたが、それを占い師が視線で阻みます。

「対策はどのように?」

芹沢の動揺を他所に、女は冷淡な視線を洋介に注ぎ、占い師は淡々とその口を開きます。

「部外者に話すような事では有りません」

有無を言わさない口調で紡がれた言葉を笑い、両手を広げながら洋介は口を開きます。

「会長に許可を頂いても構いませんよ。何なら社長にも。そう言えば、最近、社長さんの姿が見えないようですが、何か御存知ですか?」

挑発―だろうか。

情報が全く無い芹沢には判断がつきませんが、雰囲気はそんな様子です。

良く調べているのか、或はこの僅かのやり取りで察したのか―。

そういえば、占い師なる人種にはコールドリーディングと呼ばれる、相手から話を聞きだす技術や、事前に十二分に情報を収集して対話を行う、ホットリーディングなる技術があるという。

この二つを駆使し、『占い』を行う―らしい。

この場合の『占い』は、世間一般でいう『占い』というより、神秘的なものを詠うイカサマのようだが、どちらにせよ、それを即座に利用するのは見事なものだと芹沢は感心します。情報の選択や、その場の雰囲気を誘導し、巧みに操れるかどうかが一流と二流の差。

この辺りのスキルは別に占い師の専売ではなく、一流どころのマジシャンからも見て取れる。

いや、人を相手取る職種ならば必須と言っても言いスキルだろう。

騙し、眩まし、魅せる者の必須技能なのだ。

凭れていた体を起こし、芹沢は男を一瞥し、女に眼を向けます。

二人が部屋に入って以来、初めて女は二人―というより、洋介に興味を示していました。

それが挑発の目的。

手元のフォルダを閉じ、女は男を見据えています。

―席を外して。

男を見据えたまま、女は言葉を紡ぎます。

直ぐに六つのデスクで業務をこなしていた警備員風の男達は退室し、それを確かめると女は口を開きました。

「―お二人とも、この施設をどの程度御存知ですか?」

女が問うと、道化のように笑い、

「私は兎も角、貴方はどうですか。ええと」

洋介は芹沢に会話の矛先を向けました。

女の眼も芹沢に向きます。

「芹沢だ。すまないが、全く知らないよ」

漸く二人の存在を認識し、頷くと言葉を選びながら女は言葉を紡ぎ始めました。

「この研究所では、インターネットでのツールや独自のソフトウェア、特にセキュリティ全般に力を入れて研究を行っています」

話しながら女が手元のPCを操作しますと、PCの近くにあるプロジェクターが、女の背後にある白い壁に映像が浮かばせました。

輪切りにされた研究所の大まかな地図。

「地上三階地下二階ある此処では階ごとにエリアを設け、一階と二階では研究を、三階には統括事務所を置き、地下一階では試験製造を行っています」

「地下二階は?」

芹沢が問うと、一瞬、女の顔が曇りました。

「スペシャル…とでも言いますか、二十名あまりで構成された天才集団が独自の研究に没頭しており、あちらからの接触が無い限り、此方からは一切の接触が出来ません。二十名というのも凡その数字です。名簿すら無い。詳細は私にも解りませんが、二十名余りに報酬が支払われていましたので、そこから二十名という数字は出ています」

「随分と自由にしているんですね」

浅く溜息を漏らし、女は口を開きます。

「地下二階の責任者は明さんですから…こっちからは何も言えないというのが正直なところなんです。一馬さんの弟でもありますしね」

おや、と占い師は言葉を漏らします。

「社長を『さん』付けですか。随分と親しいようですね。いや、別に勘繰っているわけではありませんが」

あからさまに嫌そうな表情を女は浮かべます。

「蘇芳にしてみても、私も、暁美ちゃんも明君も一馬さんにスカウトされたんですよ。それに、一馬さん自身が自分を社長と呼ばないでくれと言っているんです」

大分、不愉快なようで。

―此方に興味を持っていないよりもマシだろうが、怒らせてどうするつもりなのだ。

少しばかりこの場の状況に興味を持ち始めながら芹沢は口を開きます。

「余程、親しまれた社長だってのは解ったが…話がずれてないか」

ああ!、とワザとらしく声を漏らしますと、洋介は芹沢に顔を向けます。

館で見た時の、印象の無い顔ではない。

やけに柔和だが、眼だけが異質な顔。

これが―占い師の顔なのだろうか。

新たに幕を開くように、ゆっくりと、占い師は口を開き始めます。

「話を戻しましょう。此処で試作されたインターネットツールは、試験的に幾つかの国内企業で使用されています。一部で、試験用ですが政府機関にも使用されているようです」

「冗談だろう」

意外そうにそう言う男を見る事を止め、視線を手元に下ろすと女は口を開きます。

「海外製を使うよりは良いと私は思いますけど。この国は、ネットの普及は順調ですけど、防犯の分野では大分遅れを取っていますし」

「柳はそれに特化することで成長を遂げた」

続け様に女の言葉を占い師は補強しました。

「それが強盗団の狙いか…?」

曖昧に占い師は相槌を返します。

「確かに、闇産業において、サイバー兵器の受容は高まっていますね。そして、此処にはサイバー兵器に転用出来る技術は有る」

「つまり…」

口を開こうとした芹沢の携帯電話が震えました。素早く携帯電話を取り出すと、

「すまないが、少し失礼する。急用らしい」

そそくさと芹沢は部屋を後にしました。

途端に、気まずい沈黙が二人の間に訪れました。

息苦しく、眼のやり場に困り、手の置き場にさえ困る空間。

そんな空間であるが故に、相手のどんな些細な動きでも見てしまう。

緊張は感覚を研ぎ澄ます。

しかし、研ぎ澄まされた感覚は度々錯覚をも引き起こします。

錯覚は視覚・聴覚・嗅覚・触覚に留まらず、時には思考回路にさえ及ぶ。

思い過ごし、勘違い。

誤解や過信、過敏と鈍感。

そんな、人心惑いし場こそが、『占い師』こと双葉洋介の独壇場―。

肩の力を抜き。

浅く吐息を漏らしながら。

半分閉じたような虚ろな眼で。

自らの存在を誇張するようにゆっくりと、触れ幅の大きな動きで。

場の雰囲気を飲み込むような気配を漂わせ、ゆらりと洋介は立ち上がりました。

「―少し考えれば気がつく矛盾」

言葉を紡ぎながら女のデスクの正面に立ち、

「眼を凝らせば見える疑問」

洋介は視線を手元に落としたままである女の顔に手を伸ばします。

男の手に促されるように、女は男に視線を向けます。

ぞくりとした。

先程までの、特徴の無い男とはまるで違う。

気圧されてしまう程の圧倒的な存在感。

幼き頃に見上げた父のように力強く、学び舎で初めて出逢った教師のように威厳があり。

頼り、恐れ、慕い。

一目で此方が弱者だと錯覚してしまう存在感。

錯覚だ、誤解だ、間違いだと解っている。

それでも、女は心を掻き乱された。

それが、恐怖か驚きか、はたまた全く違う感情が齎したものかすらも解らぬままにー。

眼と眼が向かい合う。

「さて、邪魔者が消えたところで会話を始めようか。何、心配は要らない。内も外も彼が所内に居る内は手を出せない」

そう言うと、目の前の男は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら口を開きます。

「アンタ、何を隠してる」

脳にダイレクトに刻まれるような男の言葉。

自らの存在自体を飲み込むような男の眼。

まるで刃の切っ先を咽喉元に突きつけられているような緊張感―。

否定も肯定も、眼を逸らす事すらも出来ず、女は固唾を飲みました。



シーン8


時は芹沢・双葉の両氏が研究所を訪れる直前に遡ります。

「規模も決行時刻も解らないが、タチの悪い連中が襲撃するそうだ。ゼロも襲われた」

―そう。

素っ気無くそう応えると、電話の向こうの男は一方的に通話を切りました。

「親分、なんだって?」

随分と遅れてしまった開店準備を進めながら、L.Kが問います。

「『そう』、だとよ」

「相変わらずの御仁だねぇ。もしかしたら世界の終わりも見えてるいんじゃないのか?」

そう言いますと、高らかに笑いながら店主はカウンターに潜りました。

翔太は首を傾げます。

―俺を寄越したのは確認の為だけーか?

そうなら、次にアクションを起こさねば意味は無い。

傍観―というのも選択肢の一つであったろうが、態々出向いているところを見れば、自ら何かしらを行うつもりなのだろう…。

「―なぁ、強盗団の終結地点は解るか?」

カウンターの中を覗きこみながら翔太が問います。ふむ、と唸り、L.Kは口を開きます。

「奴らは、所詮は雇われだ。ウチに警告に来たとこを考慮しても、大した下調べは出来ていないのだろうな。通常、下調べを十二分に行う連中がそのザマってのは腑に落ちんが、それ程の急ぎ働きなんだろうさ」

「或は、よっぽど内線がヘボなのか。どちらにせよ、大仕事の前にここを敵に回すなんざアホだぜ。正気の沙汰じゃねぇよ」

カウンターに数本の酒瓶を置き、L.Kはその内一本を翔太に差し出しました。

「そうとも取れるが、逆にウチに圧力を掛けねば決行に差し支えると考えた、とも取れる」

「そいつは考え過ぎだろう?」

栓を開けながら、翔太は一人頷きました。

そんな男を指差し、少しばかり興奮しながらL.Kは口を開きます。

「奴らは雇われ、それも少しばかりお頭も足りない。だから、黒幕から派遣された人間の指揮に従うなんて愚行を犯すんだ。それならば、ウチの存在価値に気がつかぬ場合も考えられる」

―ああ、成程ねぇ。

翔太は唸りますと、酒を煽りました。

奴らの襲撃は、その『黒幕』の仕業だったと店主は考えているようです。

穏便に行動を起こすなら根回しは欠かせない。

それを自ら放棄しているから阿呆だと言っているのですが、そこに『黒幕』が絡んでいるならカラ―が変わる。

胡蝶を敵に回しても良いほどの大物か、或いはそいつも阿呆なのか。

それとも―反感を買うこと自体が目的か。

「今回の黒幕ってのは誰よ?俺、知ってる?」

そこまで大物じゃねぇよ、と首を横に振り、翔太の手に有った酒瓶を奪うとL.Kは酒を呷りました。

顔には出さないが、怒り心頭であるようで。

「少しばかり顔の広い、暴力的行為も辞さない日本人だよ。トライアドも面白がって兵隊を貸した。恩でも売りたいんだろうな。それに、柳に手を出そうとする連中への牽制も」

―日本人ねぇ…。

ゼロという組織は、マフィアや特定の国家・政治家の間では名が知られている組織です。

その内、それの恐ろしさを知るのは前者。

その日本人にトライアドが本当に手を貸していたとなると、忠告を与えていないのは些か可笑しい。

―いや。

少しばかりの忠告は与えたのか。

だからこそ、奴らはゼロを襲撃した―。

「カッ!嫌だねぇ、ドロドロしてやがる。名目だけの共存なんざクソ喰らえだ」

吐き捨てると、酒瓶を奪い、翔太は勢い良く酒を呷りました。

つまり、今回の襲撃はトライアドが裏で絵を描いていたのだ。

その黒幕とやらは、ゼロの存在を明確には知らず、且つトライアドとのパイプを持つ存在―政治家か何かだろう。

黒幕は柳の何かを狙い、それをトライアドに相談した。トライアドにしても無下に出来ない相手だったのだろう。だから、相談は受けたが、間接的にそれを挫こうとしている。

挫く方法が、此処の襲撃だった―と想定するのが妥当。

しかし、そう考えれば、トライアドの狙いも柳だと考えねばならない。

ああ、と微かに声を漏らしながら翔太は頷きました。

トライアドの出方を見る限り、トライアド自体は大っぴらに動きたくはないのだ。

しかし、今回の『黒幕』騒動はトライアドにしてみてもイレギュラーだった。下手を打てば、自分達の関与まで表に出てしまう。

だから、L,Kが動くように促したのだろうが、その背を押す為に、洋介は公安を引き連れて柳に向かったのではないだろうか。

ずっと、トライアドを含めた繁華街は『胡蝶』の動向を監視していた。だから、繁華街もあそこまで緊張感が満ち溢れていたのだ。

その中、占い師―洋介は動いた。

直前に此処を訪れていた公安を引き連れて。

行き先を察し、慌ててゼロへの襲撃を促したのだろう。

だから、洋介の答えは『そう』だけだったのだ。あって当たり前の事象だったのだ。

あって当たり前の事を報告してもどうにもならぬ。洋介が求めているものは。

その後に求められるものはー。

そこまで考えが至りますと、翔太は頭を抱ました。

店主が口を開きます。

「本当に名目だけの共存だよ。三つ巴か四つ巴、下手すりゃそれ以上だ。だから、俺も何処かに加担したくは無かったんだが…まさか、華天中華飯店に客人として招かれている連中があんな事をするなんてなぁ」

「華天?あそこは確か、ロシアンマフィアが裏に居たよな」

つまみは無いのかよ、という翔太の言葉を無視し、大げさに頷きいてL.Kは口を開きます。

「あそこも人材不足でな。今居る頭目は日本に島流しされた奴なんだ」

―迷惑な話だ。

そう呟き、翔太は一息つきますと、興奮しているらしい店主に眼を向けます。

「そいつも含めて、お頭の足りない連中ってわけか」

ああ、と鼻息を荒くして店主は相槌を返しました。

暫く頬杖を突きそんな店主を眺めていたのですが、思い立ったように翔太は携帯を取り出しまして席を立ち、そのままゼロを後にしました。

外に出た途端、喧騒が耳を貫きます。

日の陰りに反比例するように、繁華街は沸き立っております。

人混みに紛れ、携帯を片手に、翔太は華天中華飯店に向かいました。



シーン9


「いきなり…」

―いきなり何を…。

男の気配に飲まれたまま、たどたどしく女―柩は言葉を紡ぎました。

作り物のような笑みを顔に貼り付け、緩慢とした動作で男―占い師こと双葉洋介は椅子に腰掛けている女の背後に回りこみます。

「いきなり?面白い事を仰いますね、全ては貴女が私に伝えているというのに」

失笑を零しながら、男は女の肩に触れます。

ビクリと女は震えました。

「見たところ、色々と抱え込まれているようだ。社長…告発騒動…地下のスペシャル…」

女の耳に顔を近づけ、男はそう囁きました。

男を睨み、女は口を開きます。

「何が言いたいのか解らないわ。確かに、貴方の言う通り、私は全てを話しては居ないけど、それは、確定した情報じゃないから。噂程度に過ぎないからよ。貴方達の欲しい情報は、先入観の無いものでしょう?」

噛み付くように言葉を吐き出し、女は肩にあった男の手を払いました。

困ったように笑い、

「人の口を介する以上、先入観の無い情報なんて有りませんよ。別に話して頂けないのなら構いません。でも、嫌わないで下さいね」

先ほどまで腰掛けていた椅子に舞い戻りますと、足を組み、膝に片肘をつくと、その手に顔を乗せ、男は女を見据えます。

変質者に見つめられているような悪寒が女の身を包みました。

何処を見ているのか探ろうとしましたが、男の眼は女の細部を注視することもあれば、背後にも向いているようで。

時々眼が合いますが、不快な男の眼に耐え切れず、女の方から逸らしてしまう。

女が幾度目か眼を逸らした時、突然、男が指を弾きました。

思わず、女の眼が男に向きます。

男は、不敵な笑みを浮かべていました。

女を見据え、男は口を開きます。

「―男か。ありがちな話ですね」

不敵な笑みのままそう言いますと、直ぐに男は悲しそうな顔を造りました。

それが、恐怖や怒りで塗りつぶされていた女の心の片隅にあった、悲しみを燻りました。

思わず、男の消えた頃に抱いていた悲しみを思い出しそうになるのを抑え、女は口を開きます。

「何を根拠に…そんな…」

何とか平常心を保ちそう言いますと、ゆっくりと男は悲しそうな表情のまま、女の体を指差しました。

「あえて言うなら、眼と腕の動き、それに香り。後は、言葉の選び方」

「そんな…」

馬鹿な、と女が言葉を続ける前に、男は口を開きます。

「一見、無関係な事柄を掛け合わせ、排除し、価値を見出し、答えを導き出す。言ってしまえばこれが全て。これが魔術にでも皆には見えるらしい…。気持ちは解りますがね、私も初めはそう思った」

鼻で笑い、女はデスクを両手で叩きます。

「勘弁してよ!胡散臭い人間が学者でも気取るつもり?」

眼を伏せ、哀しそうな顔のまま、

「別に何かを気取るつもりは有りませんよ。ただ、人は勝手に名称を付けたがる。だから、俺は『占い師』と名乗る。稀に『カイム』と呼ぶ者も居ますが、それもあながち間違いではありません。いや…どちらでも構わないというのが正直なところですかね」

自らに刻むように、男は静かに名乗りを上げました。

「占い師・『カイム』…」

―聞いた覚えはあった。

ネット上で実しやかに囁き始められた都市伝説だったか―。

「告発騒動を知っているくらいですから、流石に知っていましたね」

女に眼を向けるだけで答えを聞かず、男は言葉を続けます。

「どんな話を御存知かは知りませんし、それでどんな印象を抱かれても構いません。それが全て真実でもなければ、全てが誤りでもないでしょう。ただ、自らを占い師と称さない私の言葉は勿論、根拠も確信もあるものです。何を隠そうとも結構。全てを暴き、全てを利用して御覧に入れましょう。今回、そうしないのは、単にそういう方法を選んだだけに過ぎません。言わねば解らぬようですので、此処までは語りましょう。選ぶのは…」

―貴女だ。

脅しとも、説得とも取れない。

勿論、そのどちらでもあるのだろうけど、女にはどちらとも取れませんでした。

ただ、漠然とした不安が掻き立てられた。

色々と思うところはある。

秤に掛けるものも多い。

だから、不安になるのは当然だ―と思う。

―いや、違う。

この不安は、これまでの行いの不安ではない。

この男に手を貸す事に対しての不安なのだ。

その証拠に、この男に手を貸す以外に方法は無いのだ。

手を貸さずとも、この男は困らない。

だが、私は…。

そう、解らない。私は解らないのだ。

手を貸す意味が、この男の言葉が。

確かに、最近知り合った男と一昨日から連絡が取れていない。

だが、それを何故この男は知っている。

そして、それがこの状況と何の関係が有る。

思うところが有るから、不安なのだろうか―。

突然、叫びたい衝動が湧き上がりました。

叫び、暴れ、壊したい。

ふと、女の眼が男に向きました。

男は、少しばかり悲しそうな表情で女の様子を見ています。

悲しみ―否、哀れみ。

自ら望んで穴に落ちる者の末路を見ている、憐憫の視線。

視線の意味を悟った時、男の目的が女には理解出来ました。

―真偽を正す事でも、恐喝でもない。

記憶と感情の想起と、それに伴って表れた、拭いきれぬ程の男に対する恐怖感。

今現在、己が乱れている事自体がこの男の目的なのだ―。

滅茶苦茶に乱れた頭の片隅でそう思った途端、女の体から力が抜けました。

「私は…どうしたら良いの…?」

「二年以内に採用した職員のリストを見せて頂けますか。それで貴女の悩みの半分は去る」

言われるがまま、女は手元にあったPCを操作し、画面を見るよう男を促しました。

画面を覗き込み、男は無言でスクロールを続け。

最近の雇用者リストで手が止まります。

「うん?見覚えのある顔だな。ええと、朴・勇張…?日本人の俺が言うのも何だが、あっちけいの顔は区別が難しいな…ああそうだ、あれだ、確か白扇子の…」

「パク…?」

「トライアド内の役職名ですよ。参謀のような役職ですね。ちなみに、トライアドというのは、香港を拠点とする中国系犯罪組織の総称でして、構成組織の内、現在香港で活動するものは57程だと言われています。14Kや新義安なんかが日本では知られていますね。今回の場合は某組織―個別名称は伏せますが―の白扇子の子分に朴・勇張という男が居た筈です。昔、見かけた覚えが有りましてね…あちらも一枚岩ではないらしい。そうでなかったら、身元の解る男を出す理由が無い」

―自室は警備室の隣か。

呟き、端末に一度眼を落とすと、男は女の肩を叩きました。

「結構、後は此方にお任せを。ああそうだ、彼の自室周辺の職員を待避させて下さい。可能なら、警備員を近くに待機させて頂ければ申し分ない。彼は企業スパイの上に、少々、暴力的だ」

―了解したわ。

か細く、女はそう答えました。

そんな女の顔に手をやり、男は口を開きます。

「―貴女の悩みのもう半分ですが…」

言葉と行動で促され、女は男に顔を向けます。

男の顔にはそれまであった少しばかり哀しそうな色は無く、ただ無機質な視線を女に注いでいました。

「彼からの連絡はもう有りませんよ。怨もうにも、彼はもう殺されている。犬に噛まれたと思って忘れようとも、職を辞そうとも、より一層、職務に励もうとも結構。ただ、首は突っ込まない方が懸命です。貴女が選択を誤れば、全てが露呈しますから」

―では、失礼。

言葉を終えると共に、男は女の瞼に優しく触れ、瞳を閉じさせます。

促されて訪れた闇の中、男の手から伝わってきた温もりが失せ、足音が遠ざかっていく。

扉の閉じる音が女の耳に届き、静かに女は瞳を開きました。

何一つ変わったところの無い見慣れた部屋が余計に、己に訪れた変化を女に自覚させていました。



シーン10


華天中華飯店。

赤・白・金をふんだんに使用した外見は、派手を通り越して下品に翔太の眼には映っていました。

無駄に豪華な装飾の施された扉を開くと、チャイナ服の女性が翔太を迎えました。

一人で訪れた翔太を、用件も聞かずに女は二階へと通します。

一階は豪華絢な爛装飾に囲まれ、恐らくは絶品な中華を味わえるのでしょう。

ですが、一階の飲食スペースに客はまばらです。此処の売りは二階の売春スペースなのですな。

だから、男一人で来れば直ぐに二階へと通されます。

階段を上る際、一階に二組だけ居る客にそれとなく眼を向けます。

仕事帰りらしいリーマン五人組と、件の強盗集団。

L,Kの情報は間違っていなかったようです。

馴染みの女の部屋に翔太は通されました。

此処の店主の趣味なのか勘違いでもしているのか、部屋は中華と和風をごっちゃにしたような装飾。

女の格好は花魁をモチーフにしているようですが何処か間違っているし、部屋にも浮いている。

そんな部屋の窓際で、女―棗は外を眺めていました。

「あら翔ちゃん、今日も来たの?」

翔太を見るなり、棗はカラカラと笑いました。

十人並み以上の美人であるのに、気取った様子はまるで無い。

か細い足を綺麗に組み、深々と棗は頭を垂れます。

「御指名有り難う御座います。本日はどうなさいますか?」

此処で直接コースを決めるのであるが、何も答えずに窓際に翔太は腰を下ろしました。

窓からは繁華街の大通りが見えます。

飯店の入り口も見え、それを確かめると翔太は口を開きました。

「何時もので良いよ」

「また一晩?破産しちゃうよ?」

要らん世話だ、と短く言葉を紡ぎますと、翔太は女に眼を向けました。

まるで子猫のような眼で棗は男を見ています。

「だって、翔ちゃんって淡白じゃん。2、3時間でも十分でしょ?私は正直、バックが大きいから嬉しいけど、悪い気もするじゃん」

「そう思うなら取り合えず酒をくれ」

膨れながら女は備え付けの盃と銚子を持って翔太の隣にしなりと腰を下ろしました。

偽者臭い物しか無い店内で唯一、様になっている女から盃を受け取りますと、静かに女は酒を注ぎました。

こういう作法を知っているところや、素直さ・純粋さを気に入り、翔太は度々此処を訪れていました。

「ゴメンね、あんまりつまみ無いの。まさか、こんなに直ぐまた来てくれると思ってなかったから…」

そう言って、女は悲しげに微笑みました。

酒を飲み干し、盃を女に渡します。

女が盃を受け取ると、翔太は酒を注ぎました。

「いらねぇよ。それよか最近は一階も賑わっているみたいだな」

うん、と言葉を返すと女は一息に酒を飲み干しました。

「一週間くらい前からかな、良く集団で来るの。偶に私も下でウエイトレスやるから話した事有るんだけど、何だか慣れてないみたいだった」

―慣れてない?

聞き返し、棗は盃を翔太に返しました。

「うん。こういう御店にあんまり行った事が無いみたいだった。日本語はヘタだけど、話してたから留学生かなって私は思ったけど。あんまりお金も無いみたいで、上に行こうとして一緒に居た怖い感じの人に凄く怒られてた。食事の支払いもその怖い人がしてたよ」

「その怖い人ってのも外人か?」

「うん。でも、偶にその人の上司みたいな人も来てたよ。その時は、此処の偉い人も挨拶してた。その人は日本人みたいだった」

ふぅん、と言葉を返し、翔太は酒を煽ると、窓に眼を向けました。

「ねぇ、何でそんな事聞くの?」

そう問うた女の顔がガラスに映っていました。

今にも泣き出しそうな顔を一瞥すると、

「興味本位だよ」

振り返りもせず、翔太は言葉を返します。

―ねぇ。

そう言葉を紡ぐのと同時に、突然、強く女は翔太のジャケットの袖を掴みました。

「そういうの止めなよ。何か、偶に翔ちゃんの事、店の人が話してるよ?」

チラリと女に眼を向けようとしましたが、棗の手が震えている事に気がつき、翔太は視線を向けるのを止めました。

「心配するな。滅多なことで俺はどうにかなんねぇよ」

でも、と女が言いよどみます。

それと同時に、飯店の扉が開き、件の強盗団が姿を見せました。

男達を拾う為に、人を掻き分けるようにバンが飯店に乗りつけます。

ナンバーを確認し、翔太は携帯に手を伸ばします。

メールを送信し、翔太は女に向き合いました。

「解った。もう疑われるような事はしねぇよ。だから安心しな」

頭を撫でられ、棗は視線を下に落とします。

丁度、女の眼に男が無意識に煙草と一緒に取り出していた『端末』が入りました

「あれ?翔ちゃん、携帯二つ持ってるの?」

ああ、と言葉を返し、翔太は手に持つ携帯をポケットに仕舞いますと、『端末』を取りました。

「すまんが、やっぱ少しつまみてぇ。何か持ってきてくれるか?」

「持ってきてもらう?」

「冗談、責任持ってお前が選んで持ってきてくれ」

笑って頷き、女は席を立ちます。

静かに戸が閉じるのを確認し、翔太は端末で洋介に電話を掛けました。



シーン11


スパイと思しき人物の存在を芹沢に伝えますと、芹沢は警備員の協力を得て、確認に向かいました。

警備員とは言え、外資系民間警備保障から派遣された、キチンと訓練を受けた人間です。

通常の警備員とは比べ物にならないほど、能力は高い。

此処の警備の頂点は先程の柩ですが、実務的な部分の大半は派遣されている彼等が担っているようです。

彼女は言わば、お飾り状態。

蘇芳の話では『大幹部』でしたが、実情は少し違うようです。

手早く情報を整理し、仕事に取り掛かった芹沢の背を見送り、洋介は研究所内で唯一の喫煙所に向かいました。

ガランとした喫煙所では、タイトなパンツスーツを着込んだ女が詰まらなそうに白煙を吐き出していました。

男に眼を向け、女は口を開きます。

「『消毒』は済んだわよ」

短くそう言いますと、女はUSBを男に向かって放りました。

「流石だね。今、この国の警官が確保に向かっている。仕込みは?」

「そいつの個室にC4を置いといたわ。後、そのデータの原本と紙媒体も有る」

女の言葉に頷きながら、洋介は自販機でブラックの缶珈琲を買い、女に向かって放ります。

「徹底しているね。件のロメオに関してはどうしたの?」

―殺したわ。

短くそう答え、女は珈琲に口をつけます。

「君の事だから証拠は残していないだろうけど、あまり殺しはして欲しくないな」

鼻で笑い、女は洋介を見据えました。

「何か勘違いしてない?私はアンタの部下じゃない。あくまでプラン遂行の補助を行う、遊撃隊よ。文句つけるんなら、私の付け入る隙も無いくらいの進行をやりなさいよ」

「勘違いしているのは君だよ、円」

『占い師』の仮面を被り、男は女の眼を真っ向から見つめ返しました。

不快な視線―。

じっとりとした、身を嘗め回すような視線が女に纏わり付きます。

「カイムは出資者であり、劇作家だ。だが、『占い師』は脚本家であり、役者であり、総監督なんだよ。占い師の御宣託を聞かんというのなら、この舞台は成り立たない。この舞台を打ち壊すのは君も本意ではないだろう?」

―ココロの読めぬ顔。

ころころと色を変える雰囲気。

暗示のように染み渡る男の声―。

飲まれぬように、謀られぬように気をつける内、知らず知らずの内に女は沈黙を選んでいました。

まるで魂でも吐き出すように、静かに『占い師』は吐息を吹き出し、女に背を向けます。

そこで漸く女は手にある煙草が根元近くまで燃え尽きている事に気がつきました。

「話は変わるけど、アンタの使ってる男。翔太だっけ。アレ、大丈夫なの?」

新たに煙草に火を灯し、女が問いますと、少しだけ男は振り返りました。

僅かに見えた男の顔に、先ほどの『占い師』を演じている特有の不快さはありません。

「別に使っているわけではないよ。纏わりついてきたから勝手にさせているだけさ。眼につかない所で勝手にやられるより、見えるところで遣ってくれた方が対応し易いし」

「彼も役者の一人ってわけね…」

そうだね、と男は言葉を返しますと、また自販機に手を伸ばしました。

今度はブラックでなく、微糖を買います。

「彼がどうかしたの?」

微糖とは名ばかりの甘ったるい液体を口に運び、洋介は女の隣に腰を下ろしました。

「これといって気に掛かる事は無いけど…まぁ、女の扱いは上手いみたいね」

そう言うと、携帯で隠し撮りしたらしい画像を女は見せました。

棗と共に笑う翔太の姿です。

その翔太の手に、『端末』では無い携帯電話が有ることを洋介は見逃しませんでした。



シーン12


女は気だるい身体を起こしました。

繁華街とはいえ、午前三時を過ぎれば幾らかは静かです。

時刻に合わせて、眩い照明の類も半数が消されています。

それでも窓から飛び込んでくる灯りで、窓際で外を眺める男は、真っ黒なシルエットとなって女の眼に映っていました。

「まだ起きてたの?」

影は顔だけ此方に向けました。

上着を纏い、女―棗は翔太の隣に腰を下ろしました。

「んな格好してると風邪引くぞ」

「脱がせたのは貴方でしょう?」

そう言って、棗は男の胸の辺りに、そっと頬を寄せました。

そのまま身を預けると、男はそれに応え、女の肩に手を回します。

「ねぇ、翔ちゃんって何やってる人なの?」

「お前は何で此処に居るんだ?」

問いかけに問いかけで返した男を、棗は見上げます。

良く男の顔は見えない。

ただ、私が何故此処に居るのかなんて興味は無いのだろうな、という事は解りました。

もっと言えば、私自体にそこまで興味は無いのだろうとさえ思っています。

その証拠に、彼が棗の名を呼んだ事はありません。

―この繁華街という狭い箱の中で、偶々気に入っただけなのだろう。

そう思えば少しばかり寂しいが、ドライにもなれる。

でも、それでも―。

身体を預けたまま、棗は男の手に触れました。

応えるように、男は女の手を握ります。

「ねぇ、名前を呼んでよ」

口をついて、そう言葉が出ました。

ハッとして男を見上げると、真っ暗な影が女を見下ろしていました。

「源名にしろ、芸名にしろ…嘘の名前ってのが苦手なんだよ。まるで、その存在が嘘っぽく思えてな…」

「私は、私達みたいなのは、嘘で塗り固めて夢を売ってるのに。それを解って皆、買って行くのに」

女は笑いました。

「一夜の夢。此処はそういう街だ。お前らも、そして俺も。どいつもこいつも夢幻の中で鬩ぎ合っているようにしか俺には思えない」

―その中でお前は…。

紡ぎかけたが、男は言葉を飲み込みます。

「夢が嫌い?」

「良かれ悪しかれ、夢は夢だ。良い夢ばかりじゃない。悪いそれも夢なんだよ。俺はその悪いモンばっか見てきたらしい。気がついたら、夢と現の境界が曖昧になっていた」

段々と、手を握る男の力が強くなっていました。まるで、怯えているような―。

「夢も現も、翔ちゃんが望むもの。見るものが現実じゃないのかな」

自分で言っていて、的を得ているとも、慰めになっているとも思えませんでした。

それでも、微かに男が微笑んだように見え、棗も微笑を返していました。

何やら男の深い所に踏み入ってしまったという後悔の念と、そこから垣間見えた男の得体の知れない影。

その二つが女の微笑を、本音を隠す仮面へと変えてしまっていました。



シーン13


―都内某所。

小奇麗なマンションの一室の扉を、宗田は携帯電話(ガラケー)を片手で開きます。

「そうか、諒解した。現段階で、その『占い師』に首を突っ込む事は難しいだろう。企画課に話を通し、監視と調査の段取りをつける。君は直ぐに帰ってきてくれ」

―では、明日…。

と言葉を続ますと、宗田は携帯電話をポケットに滑り込ませました。

そのままリビングへと歩を進めます。

コートをソファーに掛け、ウイスキーをグラスに注ぎ。

PCの電源をつけながら宗田は椅子に腰掛けると、目頭を押さえました。

立ち上がったPCがメールの受信を知らせます。それと同時に―。

「随分とお疲れですね」

背後から言葉が投げかけられました。

「柳の方は上手いところ片付いたようですね。そつの無い、良い手並みだ」

背後から語りかける男を一瞥し、宗田はメールを開きます。

「相変わらず情報が早いな。喜ぶべきか悲しむべきか…」

宗田の言葉を笑い、男はソファーに腰を下ろします。

「ウチは貴方のシンパが多い。その証拠に俺が訪れた。一体、何時になったら俺を組み入れてくれるんですか。赤羽の外で動く手筈は済んでいますよ」

「漸くこっちの手筈が整った。明日にでも君は『特殊班』に異動だ。残念ながら君以外を動かすことは難しいようだが…」

メールを読み、返信を終えると、改めて宗田はソファーに腰掛けた男に眼を向けました。

警視庁公安総務課所属、片桐和利(カタギリカズトシ)

数年前より警察庁警備局警備企画課に出向している、宗田が企画課長であった頃の部下です。

「急すぎますからね。しかし、少数精鋭と思えば悪くない。貴方は何時、警察庁に?」

「この一件が片付き次第だ」

警察庁の警備企画課から、警視庁の公安課長職への臨時の出向―。

「局長の言葉を鵜呑みにされるのですか?」

半笑いで紡いだ、部下の言葉。

言われるまでも無い―。

「下らん話をしにきたのか?」

宗田の言葉に肩を竦めて見せ、片桐は口を開きます。

「冗談ですよ。そんなに睨まんでも良いでしょう。今日は、一つお耳に入れたい噂話が有りましてね…」

不愉快そうに宗田は口を開きます。

「長官サイドが総監と俺の繋がりを疑い始めたか?下らん。神輿を担ぐ人材にも気を使うべきだな」

―権力争いですねぇ。

実に嬉しそうにそう呟くと、片桐は宗田を笑った眼で見据えました。

「権力を手にしていると自覚する者は、自らの倫理的な過ちを正当化する傾向がある。他の者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、自らのスピード違反には適切な理由があると考える」

「『権力者の堕落実験』か。笑えんな」

「甘美な誘惑ですねぇ」

宗田は愉快痛快といった様子の部下を見ることを止め、

「相変わらず、口の減らん男だ」

言葉を零すと、PCでの作業を再開しました。

「都落ちした上司を気遣っての言葉ですよ。ああそうだ、ちょっと気になっていたのですが、どうして芹沢を選抜したんですか?」

「彼は光君ほど若くなく、君ほど捻くれていない。彼は良かれ悪しかれ…」

―警察官なんだよ。

宗田の言葉を鼻で笑い、

「その言葉、面と向かって言ってやって下さい。俺じゃあ多分、意味が無い」

言葉を紡ぐと、音も無く片桐は部屋を後にしました。



第二幕 



シーン1


ソマリア某所―。

治安という言葉の存在しない土地で、洋介は深く溜息を零していました。

「よくもまぁ、貴方も好き好んでこんな土地に来ますね」

「別に好んでいるわけではないさ…っと、確か『日本語』はこれであっていたよな。久しく使っていないから自信が無いが…」

「流暢なもんですよ」

「それなら良かった…少し待ってくれ」

そう言いますとと、六道は地元の住民らしい男達に別れを告げ、洋介を『ストライカー』と呼ばれる装輸装甲車に誘いました。

「御足労願って悪かったね。此方も仕事中で、おまけに一時も眼を離せん状況なんだ。全く…散々な眼にあったよ。仕事の内容は兎も角、何時まで経っても嫌悪感を抱くような差別だのには慣れんな」

心の底からの言葉のように感じました。

―だが…。

「祖国なんかでは想像もつかないものが有りますからね。此処まで行くと現実味が無い」

そうは言うものの、正直なところ、どうにも洋介には解らない話でした。

笑い、六道は口を開きます。

「安全地帯からの物言いだな。否定はしないが…」

やれやれ、と呟きながら、六道は硬い椅子に腰を下ろしました。

どこぞの軍の兵士達に混じり、洋介はその対面に腰を下ろします。

「それにしても…こんなもの何処から引っ張って来るんですか。こりゃ米軍のでしょう?」

「ミディアム旅団戦闘団、後のストライカー旅団戦闘団構想ってのは知っているか?」

「地域紛争・テロに対して迅速に戦力を展開する構想でしたか。映画やゲームでは良く見ますが、まさか乗る破目になるとは…」

「日本車程乗り心地は良くないが、安全でな。依頼人の配慮だ。仕事は選ぶべきだったよ」

笑い混じりにそう言いますと、六道は装甲車に詰まれたファイルの一つを洋介に差し出しました。

早速、ファイルに眼を通し始めた洋介をチラリと見て、六道は口を開きます。

「状況は順調に推移しているようだな。例のトライアド系のスパイ…正確には、トライアドの雇った企業スパイだが、そいつの逮捕に伴って、トライアド内部で内輪もめが始まった。暫くは足止め出来るだろう」

「足の引っ張り合いですか。何処も勢力争いに忙しいようですね…」

言葉を紡ぐ洋介の手が、ファイルの中程で止まります。

「―極秘会議?」

「極秘という程のモンじゃなかろうよ。現に情報が手に入っているしな。名目は、警察庁長官主催の『勉強会』だそうだ。出席者の四割がキャリア、六割がノンキャリ。次官、官房長、刑事局からも数人だな。警視庁からも数名だ」

「ふぅん。此方も内輪もめですか?」

眉間に皴を寄せる弟子の正面に立ち、六道はファイルを見下ろします。

「権力争い…に近いな」

歯切れ悪く六道はそう言いますと、揺れる車体を見上げます。

「長官サイドではなく、正確には警備局長・赤羽サイドと警視総監サイド。この二つが火種でね。元々、現警視総監である、石田総監と、赤羽警備局長は犬猿の仲と言われている。その総監側に長官が付くか否かで警察庁は揺れているようだ。結果、妙な捻れが生じている」

「しかし、頂点は警察庁長官でしょう?」

日本で唯一、階級と役職名が同じものが警視総監であり、階級として最上であるが、役職名の無い警察官が警察庁長官です。

警察庁は兵隊を持たぬが人事権等の権力が在り、警視庁は最大の兵力を有する。

国の治安を守る暴力装置の頂点が警視庁であり、その暴走を防ぎ、監督・指導が警察庁の役割なのですな。

組織の自浄装置として警備局―公安のみが、総監だけの命で動かず、長官の意向を反映しているという。

警察の警察、という表現はそういう意味です。

「あの赤羽ってのは、決して頂点には立たん、その背後に潜みたがるタイプでな。石田総監が頭角を現し、赤羽局長を目の敵にするまでは、総監・長官という職は赤羽局長の傀儡に過ぎなかった。赤羽と言う人物は、何年も前から公安のドンと呼ばれていてな。何れは政界にでも進出するハラなんだろう」

何処かで聞いた話だ、と洋介は心の中で笑いました。

「麒麟も老いては駄馬に劣るという奴ですか」

「それどころか、ありゃ老害だな。俺なら我慢ならん状態だ」

辛らつにそう言い放ち、六道は洋介の手の中にあるファイルを一枚捲ります。

「総監…と言うより、警視庁が排斥派に回っていると?」

三十名ばかりの相関図にざっと眼を通しながら洋介は問います。

「警察庁の方は、さして関心を示していないというのが現状だ。しかし、長官自らが排斥の急先鋒と手を結びつつある。警察庁にも飛び火するのは時間の問題と言えるな。その監視も兼ねて懐刀と呼ばれる宗田伯谷が警視庁に異例の出向を命じられているのだろう、というのがウチの解析担当の読みだ」

「宗田何某にしてみても、伏魔殿に住まう怪物にしても、どちらも前回の幕中に横槍を入れたりは有りませんでしたので、私には何とも言い難いのですが…違和感は有りますね」

そこで一度言葉を区切りますと、上から注がれる視線を見上げ、

「何か伝え忘れた事が有れば、今御話戴けますか?」

洋介が問いますと、六道は微かに嗤いました。

「立ち位置を間違えるな。君は役者であり構成作家、演出家でもある。だが、私は劇作家であり出資者だ。勘違いは命を縮める」

「勘違いも何も、貴方の範疇と私の範疇はまるで違う。そして、それは目的も…」

溜息を零し、洋介は此方に全く興味を示さず作業に従事している兵士に眼を向けました。

淡々と、二人の存在なんぞ無いかのように兵士達は彼等の日常をこなしています。

文字通り、二人の存在は無いものとして処理されているのだろう―。

胸の中に込みあがってくる虚しさを覆うように、洋介は『占い師』と言う名の仮面を被りました。



シーン2


柳のスパイ騒動の後、直ぐにスパイとセットで芹沢は警視庁へと呼び戻され、芹沢の到着と同時にスパイの取調べが開始されました。

しかし、始めに一言、思い出したように『占い師か』と呟くと、スパイは黙りました。

埒の明かぬ取調べを他の人間に任せ、正式に特殊班付けとなった芹沢は、引き続き『柳』に対する捜査を行うよう指示を受けました。

その際に、同期であり情報分析・解析のエキスパートである片桐和利(カタギリカズトシ)が配属され、柳近辺をテリトリーとする北条とも連携を取り、迅速な分析作業が行われる事になりました。

次々と情報は上がってきていますが、これといったものは無い。

社長の失踪など、興味を惹くものは幾つか有るものの、どれも確証の無い『噂話』程度のものでした。

柩嬢の協力を得て北条が極秘に立ち入り調査を行いましたが、それも収穫は少ないものでした。

唯一の収穫は、潜り込んでいたスパイに与えられていた個室にあった爆発物と暗号化の施されたファイルでしたが、柳を調べる上では大したものでは無いように思われました。

暗号化されたファイルの解読を、宗田を通じて各方面に依頼しはしたものの、明日明後日に解読出来る代物ではないとだけが判明した。

つまりは―暗礁に乗り上げつつある。

その予感が芹沢の心には去来していました。

しかし、暗礁に乗り上げる以前に、今回の逮捕劇は振って沸いたものであった。

あの繁華街を訪れねば…。

そう思ったとき、『占い師』の存在が芹沢の脳裏を過ぎりました。

スパイの逮捕後、占い師は姿を消しました。

あの胡蝶にも暁美なる女性の姿しかなく、僅かの隙を付いて逃げられたようで。

胡蝶を見張る者の報告から、英田翔太なる男の帰宅は確認できましたが、今尚『占い師』事、双葉洋介の所在は知れない。

警視庁に戻り、芹沢は胡蝶の人間を一通り調べました。

―柳暁美。

27歳。

元柳研究所最高責任者兼技術顧問。

今現在は外部に監査機関の設立に尽力している、才媛。

妾の子ではあるが、柳一馬・柳明両氏との関係は良好。

二ヶ月前より胡蝶に姿を見せる―。

―英田翔太。

30歳。

大学卒業後、外資系民間警備保障に就職。

二年前に帰国。

柳近辺にある同警備保障に在籍していたが、一年前に退職。

暁美同様、二月ほど前から『占い師』と行動を共にしている―。

―『占い師』こと双葉洋介。

29歳。

高校卒業後、海外へ。

それより今まで、数度の帰国は確認しているが、矢継ぎ早に直ぐ海外に立っており、国内でのデータは無い。

今回の帰国が最長の滞在。

学生時代の評判は、明るく頭の良い人気者。

しかしながら学生時代の友人との交友関係は無く、今現在、交友があるのは胡蝶の二人のみと思われる―。

柳暁美はこの国指折りのハッカーとして、英田翔太は外資系民間警備保障時代に軍事訓練に類似した訓練を受けた者として、公安のデータベースに情報があったが、双葉洋介に関しては何も無かった。

今回調べはしたが、『占い師』に繋がるものは無い。

今現在も公安の捜査員が探ってはいますが、これまで何の尻尾も出さなかった奴が何かを残しているとは思えませんでした。

それ故に気になる。

どうして今回は此処まであからさまに疑念を抱かせる形で『占い師』は出てきたのか―。

考えれば考えるほど疑問が浮かぶ問いを振り払うように、芹沢は立ち上がると顔を洗い、身嗜みを整えました。

久方ぶりに帰っては見たものの、ろくに眠れやしない。

それどころか、仕事に追われぬ分、想像が働いてしまう。

やつれた様に見える自分の顔を一瞥し、芹沢は自宅を後にし、警視庁へと向かいました。

特殊班初の捜査会議まで、後一時間を切っていました。



シーン3


蔦の這う古ぼけた館を、鉄製の門の向こうから棗は見上げていました。

―胡蝶。

繁華街でも噂の『占い師』の住処。

不気味とも思える外見を引き立てるように、周囲に人影は無い。

錆付いた音を立て、男―翔太が門を開きました。

よお、と言葉を寄越し、翔太は女を中に招きいれながら、それとなく周囲を見渡していました。

門を閉じ、庭の端にある大樹の下にあるベンチに男は棗を誘います。

「仕事あるのに悪いな」

棗の手にあるビニール袋に目をやりながら、申し訳なさそうにそう言う男に微笑を返し、棗は翔太の隣に腰を下ろしました。

「ううん、気にしないで。最近はあんまり座敷にも上がってないし」

正確には、あの日、翔太が一泊していったその日から棗は座敷に上がっていません。

半年働き、そこそこに貯金もあった。

それに加え、翌日に翔太より『頼みがあるんだが』、と言われ、それを切欠に骨休めをする事に決めたのです。

翔太の頼みとは、半月の間、数度食料を届けて欲しいというものでありました。

五日に一度、今日が最後。

「今日は暁美ちゃん居ないの?」

ああ、と言葉を返しながら翔太は館に眼を向けます。

「部屋に篭っているみたいだな。まぁ…元々、滅多に出てこないんだが」

そう言葉を続けると、男は微かに笑った―ように棗には見えました。

柳暁美―。

可愛らしい女の子だった。

初め、食料を届けに―幾分かワクワクしながら―胡蝶を訪れた際、翔太は彼女と一緒にこのベンチに腰掛けていた。

棗に気がつき、不安げな表情を浮かべる彼女を、翔太は館の中に連れて行き、その後、門を開いてくれた。

―よお。

その時も、今日と同じような言葉を掛け、翔太は―。

小さく頭を振り、棗は立ち上がります。

「じゃあ、行くね」

翔太の言葉を待たず、立ち去ろうと門の方へと向けた棗の眼に、見慣れぬ女の姿が映りました。

真っ黒な日傘を持った、ゴシックロリータ。

そこだけ違う世界を貼り付けたような、異質な存在が其処には居ました。

ふんわりとしたスカートが、引き締まったウエストを強調しています。

しかし、それでいながら男を誘うような色気は無い。

真っ黒な外見と、それに合わせたであろう黒を基調としたメーク。

幼さ故に妖艶さは無いが―。

ロリータの、幼い顔立ちに眼が行き、棗は何故だか息を飲みました。

「誰だ」

蛇に睨まれた蛙のように固まる棗を、翔太の一言が解き放ちます。

棗を残し、男は門へと歩を進めます。

門を挟み、二人は向かい合いました。

小首を傾げ、真っ直ぐに翔太を見据え、女は口を開きます。

「此処に『占い師』が居るって聞いたんだけど、間違いない?」

そう言い、門を開こうとする女の手を翔太は格子越しに掴みます。

「悪いな。今、占い師は不在なんだよ。相談の類なら別の日にしてくれるか?」

「私は相談者じゃない」

掴まれた手を、女は男ごと引きます。

よろけ、翔太は格子に手酷くぶつかりました。

「番犬風情が吼えるなよ。グダグダ言ってねぇでさっさと開けろ。噛み付く相手を間違えてんじゃねぇよ」

引き寄せた男の耳元で、女はそう囁きました。

睨み、翔太は手を放します。

「その言葉の通り、俺は番犬でな。テメェみてぇな危ない奴を中に入れるわけにゃいかねぇんだよ」

「目鼻は利く…か。だけど、賢くは無い。まぁ良いわ。今日は面当てだし」

不意に笑い、女は門に背を向けます。

「円が来たって洋介に伝えときなさい。それと、此処は見張られているってね」

言葉を残し、ゴシックロリータは門の前から姿を消しました。

去る機会も口を開く機会も失い、棗は無言で格子の前に立つ男の下に向かいます。

女の姿を見送った翔太の頬には、大粒の汗が伝っていました。

「ありゃ…」

去っていった女の背を眼で追っていた翔太が言葉を零します。

男に釣られるように、男の向ける視線と同じ方に眼を向けていた棗の眼が、翔太に向きました。

「ありゃ一体、何者だ…」

棗の視線など気がついてすらいないのか、酷く狼狽した様子で翔太はそう言葉を紡いぎました。

女の手を掴んだ、その右手の震えを必死に抑えながら。



シーン4


警視庁公安部総務課特殊班。

その頂点に宗田伯谷を据え、人員は芹沢を含め、総勢で六名。

それに加え、応援に加わった二十名の公安部員を見渡し、芹沢は自らの席に腰を下ろしました。

特殊班からは芹沢と、柳のスパイ騒動後に加わった、警察庁に出向していた情報分析官・片桐和利が出席しています。

「北条の嬢ちゃんは間に合わんらしい」

芹沢が席に着いた途端、片桐はそう言いました。頷き、芹沢は口を開きます。

「そうか。あそこも大分、ゴタゴタしているからな。例のスパイはどうなった?」

「口は割らねぇなぁ。どうも個人で動いているわけではなさそうだ、雇い主が居る可能性が高いだろう」

肩を竦めながら、片桐は手元の資料に眼を落とします。

暗号化された、件のスパイが隠し持っていた資料です。

「今のところ、目ぼしいのはコイツくらいだが…正直、難航しているよ」

苦笑いを浮かべる片桐を尻目に、芹沢は資料を捲ります。

意味の不明な箇所が多く、文章としても資料としても成立していない。

資料を眺めている芹沢の眼が、その中ほどで留まりました。

「『烈花』?」

「ああ。『烈花』という単語が所々に鏤められている。それ自体が暗号の可能性も有るが、どうも作戦名らしいな」

「作戦名?」

聞き返すと、片桐は周囲を憚るように顔を芹沢の耳に近づけました。

「作戦…というのも的確ではないんだが…どうにもこれは、『設計図』らしいんだ。確証は無いが、外の連れによれば、これと似たようなものを見たことがあるらしい」

片桐の言う『外の連れ』、とは海外の諜報員を指します。

暗号解読、情報分析のエキスパートである片桐ですが、そのスキルは海外で磨いたもの。

FBI等でも学び、その頃の人脈は彼の強い武器です。

「情報の漏洩は感心せんが、似たようなものというのは引っかかるな」

「前例という程でもないがな、この暗号は独自のものなんだ。エニグマは知っているだろう。あれと同じだ。ある『鍵』がなけれりゃ解読は不可能に等しい。外の連れも解読は出来なかった」

「仮にその『烈花』が作戦名として、作戦名を明かしている理由はどう見る?」

芹沢の問いに、片桐は楽しそうに顔を歪めました。楽しくてしょうがないのでしょう。

「コイツは宣戦布告さ。劇場型犯罪だ」

片桐の言葉を芹沢は鼻で笑います。

「夢見がちも大概にしておけよ。それに、幾ら上等なプランがあろうとも実行犯は捕まっているんだ。ウチの仕事はその全容解明だ」

「その前提が間違ってんだよ」

何、と聞き返す前に、俄かに周囲がざわめき始めました。

程なく、威圧的な雰囲気を撒き散らしながら宗田が姿を見せ、席に着いていた捜査員達は一斉に立ち上がります。

一度全体を見渡し、

「ほう。思いの他、数が居るな」

手で全体に座るよう促し、宗田は腰を下ろします。

それに従い、捜査員も腰を下ろしました。

「こんな新設の班の応援にすまないな。応援に来た20名の内、15名は直ぐに『柳』に飛んでもらう。現地到着後、北条光警部補の監督下に入ってもらう。行ってくれ」

既にその指令は受けていたらしく、然して驚いた様子も見せず、十五名は立ち上がると直ぐに会議室を後にしました。

「次に残りの五名だが、君達は現在拘束中の男の取調べ、調査を担当してもらう。現場との連絡は密に頼む」

五名も直ぐに立ち上がり、会議室を出て行きました。

残された二人に宗田の眼が向きます。

「さて…と。漸く会議が出来そうだな。三人で此処は広すぎる。場所を変えよう」

やれやれといった様子で男は立ち上がると、足早に会議室を出ます。

芹沢と片桐は一度顔を見合わせますと、一言も発する事無く、宗田の後を追いました。



シーン5


「ゴシックロリータ?」

電話先の男の言葉を、L.Kは訝しげに繰り返しました。

「いや、ウチは関知していません。ええ。何、占い師の一派…?」

やけに興奮している電話先の男の言葉を何とか聞き取りながら、L.Kは小首を傾げます。

「この状況下で手駒を増やしたと?そのロリータは何者なんですか?」

携帯を片手に、L.Kはバーのカウンターの中にあるノートPCに手を伸ばします。

キーボードを叩き、一斉に現状の報告を各情報提供者に呼び掛けました。

「直ぐに調べますので落ち着いて下さい。また折り返します」

要領を得ない言葉を垂れ流す電話先の男を諌め、通話を切りました。

―一体…何が起こっている…?

また鳴り出した携帯電話をゴミ箱に放り、L.KはPCに眼をやりました。

通常ならば、その正確さや重要度は別として、随時情報は寄せられます。

しかし、半日程前からL.K―『ゼロ』への情報提供は激減していました。

まるで、全てのルートが潰されたような―。

いや、しかし。

ゼロの情報ルートというのは、表と裏を問わず、個人・組織、国境すらも跨いで存在します。それが強みなのです。

それらの内、どれかでも潰れれば、その『潰れた』という情報が入る筈。

それも無いとなると可能性は一つ。

それらが一気に潰されたとしか―。

また携帯が鳴りました。

しかし、先ほどゴミ箱に放った携帯の着信音ではありません。

音に導かれ、出入り口辺りにある観葉植物の鉢植えの中で携帯を見つけました。

鳴りっぱなしの着信に、躊躇いながらもL.Kは出ます。

「よお、三流」

唐突に携帯電話はそう言葉を吐き出しました。

女の声です。

「良いわねぇ。状況が把握出来るまでは無駄に言葉は使わない。まぁ、基礎だわね」

例の―ゴシックロリータか?

そうとしか考えられませんが、そんな目立つ格好の女が店に来たのなら覚えている筈。

―ならば、仲間が…。

「今更、考えても無駄よ。無駄。アンタみたいなタイプの弱点は考え過ぎるところ」

女はそう言いますと、鼻で笑いました。

ふと、眼の端に影が走り、扉が開きました。

「随分と御忙しそうね」

電話から流れる声と、店内に足を踏み入れる女の口から発せられる言葉がシンクロしました。

真っ黒な格好の女を見つめたまま、L.Kは通話を切ります。

「テメェ…」

睨むL.Kの言葉を笑い、女はカウンターの一角に陣取りました。

「甘い。弱い。脆い。アンタみたいなタイプは誰かの影に隠れているのが正解―」

真っ黒なメークで彩られた女の眼が男を見据え、女の手元にあった畳まれた、小さな傘の切っ先が男の咽喉を捕らえました。

ハッとして腰に隠した銃に男が手を伸ばすと、傘が圧し折れる程手酷くその手を叩き、女は男の背後に回りこみます。

大きく、冷たい刃の感触が咽喉に触れました。

「ほら、言わんこっちゃない。人には得意分野もあれば苦手分野もある。分不相応ってのもあるわ。眼の前ウロチョロするのは良いんだけど、目に付いたら潰されちゃうわよ?」

言葉を失っている男の膝の辺りを蹴り、女はカウンターに戻りました。

椅子に腰を下ろしますと、フワフワとしたスカートに隠れている、足に装着された鞘に刃を収めながら、女は床に肩膝を着いた男に眼を向けます。

「しかし、此処までこの街をコントロールした手腕は評価するわ。でもね、アンタはアンタみたいな人種の天敵の存在を忘れてるわ」

―天敵…?

視線だけでそう男は聞き返します。

「人を操ろうとする人間の天敵は、既に操られている人間。コントロールしているつもりが、コントロールさせられているってケースは殊の外多い。貴方はどうかしらね」

女の言葉の端々に見え隠れする、『教えてやっている。』という意図

恩着せがましい、神経を逆撫でする女の言葉。

それが逆に、乱れていたL.Kの心を静めさせていました。

余りに露骨過ぎる―。

疑念が浮かんだ途端、身体を縛っていた暴力の鎖が緩みます。

注意が自分以外に逸れ始めた事を男の視線の動きから察し、円はほくそ笑み、

「これはプレゼントよ」

カウンターに一枚の写真を置きますと、すっと席を立ちました。

歩き出し、扉を開き。

去り際に見た店主は、床に座り込み、頭を抱えていました。

『細工は流々。仕上げを御覧じろうってね。』

口から出そうになったその言葉を飲み込み、女はゼロを出ました。

時刻は午前11時。

昼に近づき、繁華街は目覚め始めています。



シーン6


警視庁の近くにある宗田宅で、改めて捜査会議は再開となりました。

マンションの一室であるそこに生活臭は無く、男の一人暮らしであるにも関わらず、埃一つ無い。ホテルの一室のような雰囲気です。

宗田という男の性分というより、この部屋の利用目的がその理由のようです。

ソファーに腰掛けるよう促し、宗田はPCの前にある椅子に腰を下ろしました。

勝手知ったると言った様子で片桐はキッチンで珈琲を煎れています。

「態々、ウチまで来てもらって悪いな。あそこの資料は全て此処に置いていてね…」

言葉を紡ぎながら、宗田はPCを操ります。

「確か、片桐は企画課出向でしたか」

―そして、宗田の前職は企画課長補佐…。

此処は、この部屋は、『企画課』の警視庁近辺での拠点といったところか―。

プリンターから吐き出される用紙を取り、宗田は芹沢の対面に腰を下ろしました。

「察しが良いな。そうだ、あの繁華街は大分前から監視対象だった」

「貴方の出向にも関係が?」

いや、と言葉を挟みながら、片桐は二人の前にカップを置きます。

「そいつは違うぜ。この『臥龍』様は虎の尾を踏んだんだ」

そこまで言いますと、片桐は先程まで宗田の居たPCの前にある椅子に腰を下ろしました。

画面に眼を向けながら片桐は言葉を続けます。

「赤羽か長官か。少なくとも総監じゃねぇな。唐突に飛ばされちまった。御陰で柳対策は宙吊り。現在の繁華街の悪化振りの一因だ」

フィクサーである赤羽と、それと真っ向から反目する石田警視総監。

この二人の影に隠れてしまっている警察庁長官。

それと―『柳』…?

「話が見えない。どうして警備局長やら長官が絡む?」

「あんまり二人とも良い噂は聞かねぇからな。あそこの悪党共に、少なからず手を貸している可能性も有る」

「言葉が過ぎるぞ片桐。手を貸すまでは行かずとも、眼を瞑っている箇所がある可能性が有る、程度の疑念だ。しかし―」

一度そこで言葉を区切りますと、手に持った用紙に宗田は視線を落としました。

「沈黙は多弁よりも誤解が深いのも事実だな…」

「誤解ねぇ…ちゃんと理解していないの間違いでしょうよ」

かもしれんな―。

そう言葉を零すと、宗田は眼を落としていた用紙を芹沢に差し出しました。

「これがウチで調べた分だ。一ヶ月前のデータだが…」

用紙を受け取り、芹沢は眼を通します。

繁華街における勢力図、柳の詳細。

繁華街の関係しているであろう事件と、それに対する警察の動きなど、様々なデータが簡潔に記されていました。

だが、一つだけ―。

「『占い師』のデータが無いようですが?」

「奴の存在はウチも知らなかった。警視庁での噂話が始めての報告だった」

―捕まった外国人犯罪者が取調べで零した、『カイム』または『占い師』という言葉―。

その時点で、警視庁公安部では噂になったが、その頃の繁華街では噂すら無かった…?

光の、『最近、胡蝶が出来た』という言葉を芹沢は思い出しました。

「噂話が出て、その後に繁華街でも活動を始めたと?」

そうならば、占い師は精々半年程度しか活動していない事になります。

曖昧に宗田は芹沢の言葉に頷きました。

「それを確かめる為に、君に動いてもらった。その結果、スパイを捕まえた」

「そして、あそこに巣食う連中の狙いが『柳』だと知れたわけだ」

―歪み。

光が零した言葉が蘇えりました。

言葉を選びながら芹沢は口を開きます。

「あの『占い師』も同類では?ならば誘導の可能性も…」

―いや。

短く否定し、宗田は片桐に視線を送ります。

視線に応え、片桐はプリンターに出力された用紙に手を伸ばしました。

用紙を受け取り、宗田はそれに眼を落とします。

「あの『占い師』は奴らとは違う。あの男だけが、繁華街の秩序を乱す異端児なんだ」

異端―か。

やけにその一言が印象に残りました。

「あの占い師…双葉だが、海外では名の知れた男だ」

ポツリとそう言いますと、片桐はPCの脇に積んである資料の一つであるファイルを芹沢に向かって放りました。

「初めにこの男が頭角を現したのは、米国で開催された競技ディベートの大会だ。腕を磨くのが目的か、名を売るのが目的かは解らんが、数年間、競技ディベート界に居た」

「ディベートか…正直、余り馴染みは無いな。あれだよな、あるお題に関して肯定と否定の立場に別れて討論を交わすって奴だよな?」

ファイルを捲りながらチラリと片桐に眼を向けますと、不快そうな片桐の顔が眼に映りました。

「そうだ。確かお前は高卒だったな。大卒なら少しは馴染みがあるだろうが…解り易く言えば、チームで分析し、チームで挑む討論会だな。ディベートの腕が良ければスカウトも来る。日本で言うところの、高校野球のドラフトみたいな感じでな。だが、あの双葉は名が売れ、スカウトが来る頃にはディベート界から姿を消した」

片桐の言うように、双葉の所属するチームは幾つもの大会で優勝を飾っているようです。

―しかし。

不快そうな表情の真意を探りながらファイルを捲っていた芹沢の手が止まった。

幾つかの見慣れぬ名前が記されている。

その下には構成人員数と居住地―。

「次に双葉らしき人物が姿を現したのは、宗教団体―それも新興宗教の世界」

芹沢に浮かぶ疑問に答えるように片桐は言葉を続けます。

「そう身構えるなよ。宗教と聞けばオウムのようなものしか連想しないのは問題だぞ。第一、あれはもはや宗教とカウントするべきではない。この国ではそんなに数は無いが、米国では星の数ほど新興宗教は在る。それらは監視され、危険ならば直ぐに当局に潰されるわけだが…」

話が逸れたな、と呟き、片桐は頭を掻きます。

「問題は、危険性の大小は兎も角、その新興宗教の教祖の隣に双葉の姿があった事だ。それも一回じゃない。少なくとも四回、四つの新興宗教の創設に関わっている。しかし、創設後は直ぐに姿を消し、放置しているようだ。詐欺紛いの真似をしていた痕跡も見つかっていない」

「―創設自体が目的…?」

小さく片桐は頷きます。

「何故、海外でそれをやったのかは解らん。同様に何の目的なのかも解らん。腕試しだとしても、物騒だ」

「そんな男が、今度は『占い師』としてこの国に帰ってきた…か」

―占い師こと双葉洋介。

『占い師』という人物の印象は濃いが、あの男の印象は実に薄い。

いや、占い師というインパクトに、同一人物である双葉洋介という存在が覆い隠されているというべきか―。

首を傾げ、芹沢は口を開きます。

「数年にも渡り、あんな繁華街が存続出来た理由もその辺りかねぇ?」

問いかけた途端、二人の顔色が変わりました。

少しの間を置いて宗田が口を開きます。

「北条警部補が危険性を確認したのが一年程前だが、奴ら―つまりは占い師と、それに関係しているらしい連中―街のカラーを変えるような連中が巣食い始めたのはその一、二年前だとウチは結論付けた」

視線を送られ、片桐が口を開きます。

「初めは、各組織なり個人が好き勝手にやっていたようだが、何時の頃からか共生を奴らは選んだ。まるで、何かの収穫を待つようにな。さて、何が狙いかとウチが興味を示し始めた矢先に『胡蝶』が現れた」

「胡蝶の出現依然の繁華街、各組織の共生の生命線となったのが情報屋・『ゼロ』だ。だが、その情報屋の子飼いが、昨夜より消息を絶ち始めた」

「子飼い?」

上目遣いで男を一度見て、宗田は芹沢の手元に先程まで読んでいた用紙を置きました。

それを手に取る芹沢を見つめ、片桐は口を開きます。

「ああ。ゼロってのは、割と大きな情報屋でな。世界中にその看板を掲げた奴らは居る。その店によって情報ルートは違うようだが、あの『繁華街のゼロ』は、アジアにルートを持つ、ゼロの中では小物だ。小物らしく、そのルートすらぼんやりとだが割れている。俺がツテで聞いた限りでは、小物の息の掛かった奴らが次々に消息を絶っているんだ。中には死亡が確認出来た奴も居てな、そこで俺に連絡が来て発覚した」

宗田が眼の通していた情報は、海外からの三通のメール。

一通は、片桐宛の海外からのメールです。

その国で発生した殺人事件の捜査に噛む某捜査機関捜査員から、ゼロに関連する人物が死亡した、という内容。

もう一通は、同じ国からだが、宗田宛です。

同じ棒捜査機関捜査員の上の管理職を含む複数の捜査機関の人間に、非公式に御伺いをかけた結果のようです。

そして、最後の一通は、二つの情報照合の結果。

正直、芹沢は驚きました。

幾ら非公式とはいえ、此処まで海外とも連携を取れているとは思いもしなかったのです。

流石は『臥龍』…か、と小さく芹沢は言葉を零しました。

「繁華街の蝙蝠野郎はまだ生きてはいるらしいが…状況を見る限り、誰かがあそこの天秤を動かしているのは明白だ」

片桐の言葉に耳を傾けながら、芹沢は照合結果に眼を通します。

照合の結果、小物の情報源が、確かにほんの数日の間に潰されているのは事実のようです。

しかし―。

「それが『占い師』の仕業だと?」

いや、と宗田は首を横に振りました。

「各国を股にかける犯行だ。幾ら口先の上手い『占い師』こと双葉洋介でも、個人では無理な芸当だろう。昔、幾つか造った宗教団体の人間にやらせようにも、海外ではその手の団体に対する当局の監視は厳しい。しかも、奴はあくまでもコンサルタントとして創設に関わっただけらしいからな、信者が動くとは思えん。だが、奴の活動と共にバランスが崩れ始めたのは事実だ。しかし…目的が読めん」

深くソファーに腰掛け、冷めた珈琲に宗田は手を伸ばしました。

「その、柳の…」

―研究所で『占い師』自身が語っていた、裏産業で需要の高まるサイバーテクノロジーではないのだろうか。

そう言おうとしたのを察したのか、苦味の増した珈琲に顔を顰めながら、宗田は口を開きます。

「それを知ろうにも最高権力者の社長殿は失踪。現研究所所長は消息不明。元最高技術顧問は占い師の手の内だ」

現研究所所長こと柳明は、数ヶ月の間、地下二階から出てきていないと周囲は語っている。

しかしながら、機密エリアに当る地下二階に踏み入る事は出来ず、周囲の言葉を確かめたわけではないので、宗田は消息不明だと言っているのだろう。

手続きを踏めば立ち入りも出来るのかも知れないが―。

だが、漸く攻める方向は見えてきた。

「では、どう動きます?」

「今のところ、『占い師』に手は出せん。だが、このままでは遅からず繁華街は暴発するだろう」

「だが、下手に手を出せば全てを逃がす」

口を挟んだ片桐を芹沢は睨みます。

「捕らえる為に、被害を見逃せと?」

鼻で笑い、片桐は芹沢を見据えました。

「極端な話、被害が無くば動けんのが警察だ。特に、公安は毛色が違う」

―人を護るか、国を護るか…か。

暗にそう言っているとしか思えない、事務方の男を睨み、芹沢は口を開きます。

「下らない。俺は何処までも警官でしかない」

待て待て、と宗田は二人の間に割って入ります。

「正直なところ、企画課でも意見は割れた。無論、安全は優先すべきだ。だが、この事態がどれ程のものを引き起こしかねないか、それが誰にも計れなかった。そうして監視をしている内にこの状況となった」

怖気のするほど間抜けな話だがな、と宗田は言葉を続けました。

「貴方達のケツを俺に拭けと?」

皮肉を利かせてそう言ったつもりでした。

しかし、目の前の二人の反応は、芹沢の想定外でありました。

笑みを携え、宗田は口を開きます。

「そうとも。横車は俺が押そう」

「バックアップは任せろ」

ニヤリと宗田の背後で片桐が笑みを浮かべました。

管理・指揮側の二人と、その対面に居る自分。

その構図に此処で芹沢は気がつき、顔が引き攣ります。

「待ってくれ…まさか…」

「現段階で繁華街の危険性を認識・体感出来ているのは私と片桐を除けば、公安内に君と北条君のみ。下手に情報を限定して動ける案件では無かった為、まずは現場の状況を知ってもらった」

「何故、私を選んだんです」

そう芹沢が問いますと、不意に片桐の顔に影が挿しました。

「今回の案件、大々的に行動するのはリスクが高い…が、人手は必要だ。故に、人材を派遣するのは可能だ。だが―」

宗田は言葉をそこで区切りますと、芹沢の眼を見据えました。

「問題は指揮官だ。私にしろ片桐にしろ、此処に居るからこそ能力が発揮出来る。現場では大して役には立たんだろう」

それで私を、と問いますと、宗田は頷きました。

「君には現場のノウハウと経験がある。それは、君から唯一指導を受けた北条君の能力の高さからも解る。故に、君を選んだ。北条君はその補佐と考えてくれ」

真顔でそう語った宗田を一瞥し、シニカルに芹沢は笑いました。

顔を歪め、宗田は口を開きます。

「何が可笑しい?」

いや、と呟き、芹沢は席を立ちます。

「光嬢も言っていましたが、貴方は随分と毛色が違うようだ。手腕も、臥龍なる異名が似合う程素晴らしい。だが」

―嘘は下手だ。

笑い混じりにそう言いますと、芹沢は資料を手にその場を後にしました。



シーン7


やけに警察車両が増えています。

繁華街では制服警官以外にも、見知らぬ顔が増え、何やら不穏な気配が漂っているようで。

その繁華街の外れ。

胡蝶近くの、シャッターの降りた商店の二階で、円は携帯を片手にスカートを脱ぎました。

「―ええ。大分こっちは賑やかよ」

言葉を送りながら、メークを落とします。

真っ黒なメークで覆われていた素顔が鏡に映り、女は一息をつきました。

カーディガンを羽織り、円は窓にそっと近づきます。

「警察が動いたか。規模はどの位かな?」

そうね―。

呟き、円は繁華街の向こうにある警察署に目を向けました。

繁華街を見下ろす『柳』と『柳研究所』。

その後ろ。

地図上では直線で結べる先に警察署はあります。

柳という、この辺りでは類を見ない巨大な建築物の為に見えぬが、実は意外と近くに警察署はあるのだ。

警察署の視界を塞ぐように出来た、『柳』の膝元で栄える繁華街。

警察、柳、繁華街。

その三つを一直線に結ぶラインの最端が『胡蝶』―。

何の気無しに。

その場しのぎの拠点として此処に不法侵入した際に円はそれに気がつき、朧ながら『占い師』の描く絵図面が見えました。

記憶を手繰りながら円は口を開きます。

「応援に来たのが二十人くらいね。それ以外の、大分前から潜り込んでいるの含めて四十も居ないみたいよ。良く知らないけど、あれも『警察』なんでしょう?」

ああ、と電話の向こうの男―占い師こと双葉洋介は言葉を返しました。

更に洋介は問います。

「警察には違いないかな。一口に警察といっても色々あるし。其処以外はどうかな?」

「外資系民間警備保障が居るけど、何か知ってる?」

「君達系だろう?」

ううん、と言葉を返しながら、円は窓から離れますと、室内に無造作に転がっているアタッシュケースを開きます。

着替えやら携帯食やら。

小型の刃物まで仕舞ってあるその中から、手頃な履く物を探します。

「一つは馴染みだけど、もう一つ居るのよ」

黒のスキニーを選び、ジャケットにトレンチコートを選びました。

コートを羽織り、スカートと一緒にククリ刀をケースに詰め込み。

代わりにカランビットナイフをコートの内側に忍ばせ、続いてダーツ程度の全長である小さなナイフを幾つか腰の辺りに忍ばせます。

「それは外野かな。随分と上手いとこやったようだね、ギリギリで『占い師』の手の中に入ってきていない」

「私も知らないトコなのよねぇ。ダミー?」

仕度を済ませ、女はケースの上に腰を下ろしました。ちなみに、ダミーとは隠れ蓑など意味しますが、今回は『幽霊会社』を指します。

「十中八九そうだろう。中々やるね」

―『占い師』はそう言うが、単なる幽霊会社ではあるまい。

魔女並みに手の長い『占い師』一派にすら悟られぬ存在が、この国に居るとは思えない―。

「この国にもあんなん居るのねぇ。他と比べたら遣り辛そうだけど」

二つの外資系民間警備保障。

一つは、柳研究所の警備も担っている、その道では有名な会社です。

名を『イージス』。

世界に支店を持ち、油田等の危険区域での警備も行う業界大手・『ガルーダ』の子会社。

もう一つは、葉桜警備なる看板を掲げた、始めてみる小さな会社でした。

『イージス』が繁華街から比較的近くに支店を置いているのに対し、『葉桜』は大分離れたところに事務所を置いています。

『イージス』は、柳の警備を一手に担っており、其処以外にも、繁華街を中心に幾つかの商店・企業と契約をしているようです。

しかし、『葉桜』と契約を結んでいる商店なりの存在は確認出来ませんでした。

ただ、その存在だけが薄く、繁華街を探る中で出てきただけ―。

「君の仕事に差し障りがあるかな?」

男の問いに、別に、とぶっきらぼうに女は答えました。

「でも正味なとこ、ギリギリよね。あと少し特定に時間喰ってたら中止だった。でも、良いの?占い師様は濡れ仕事(人殺し)は嫌いなんでしょう?」

カラカラと電話の向こうの男は笑います。

「この幕は君と彼が主役だ。裏の人間には裏の人間が相手をするのが妥当さ」

「キッツいとこは人に振るのよね、アンタにしろカイムにしろ…」

一ヶ月以上にも及ぶ情報収集の日々を思い出し、女は深い溜息を零しました。

「申し訳ないな。その代わり、今度から演技の類から君は外そう」

「結構、上手いもんだったでしょ?」

ああ、と男は言葉を返します。

「騙すつもりの無い演技の、教本のようだったよ。今回のケースには適任だった」

嫌味ったらしい―。

浮かんだ言葉を口には出さず、髪を掻き揚げると円は立ち上がりました。

「…まぁいいわ。正し、金輪際あんな格好はしないから」

「あはは。是非、この眼で見たかったよ」

返す言葉すら思いつかず、円は通話を切りました。



シーン8


葉の寂しい木の生い茂る林の一角をテープで封鎖し、その封鎖線の中で北条光は携帯電話を耳に当てていました。

「はい、諒解しました。到着は…四時間後くらいですか?」

「今から高速を使ってその位だろう。そっちはどんな様子だ?」

芹沢に問われ、光は視線を真正面に向けます。

目の前では、静かに数人の男がスコップを片手に話しこんでいます。

その直ぐ傍で、鑑識がしゃがみ込み、白い物を調べています。

電話をしている光に一度視線を送ると、数人の男達は足早に林を抜けていきました。

「応援に来て頂いた方々の協力で弾数は足りました。ついでに、一つ気になる情報も入りまして…」

言いよどみながら、光は男達を追うように林を抜けました。

抜けた直ぐそこにバンがあります。

それに光が乗り込みますと、直ぐにバンは発車しました。

「事実確認はまだですが、どうも柳に長いところ潜り込んでいるスパイが居るようで…」

「スパイ?またか?」

「またと言えばまたですが、今回は少しばかり毛色が違います。何せ、『背乗り』のようでして」

背乗りの言葉が出た途端、運転手以外の乗り込んでいる男の眼が一斉に光に向きました。

驚いたような男達の視線を肩で透かし、光は窓から外に目を向けます。

突然、思わぬ疑惑を口にした上司に驚きを隠せない男達と同じように、芹沢も驚いていました。

『背乗り』、とは諜報員が他国に潜入し、その国の人間に成りすます行為です。

成りすますと言ってもその場凌ぎではなく、その国の人間の戸籍までも奪い、長期間その人間としてその国で過ごし、情報収集や破壊工作などの目的を果たします。

インターネット等の情報分野の発達によって世界が収縮したと言われる昨今では聞かない手法ですが―。

「大分、時代錯誤だな。何か証拠があるのか?」

「今、そのタレコミに基づいて発掘をやっていたんですが…その…」

―人骨が出ました。

そう言葉を紡ぎながら、光はポケットから写真を取り出しました。

表には先程の林が写っており、裏面には簡単な地図が記されています。

「骨?身元は割れたのか?」

「それがですね…骨自体は鑑定がすまないと何とも言えないのですが…」

此方からのアクションを待っている男達に、視線すら送らずに光は写真を渡しました。

ざわつく男達を尻目に、光は言葉を続けます。

「どうも埋めなおされた、或はそこにもう一度埋められたような様子なんですよ。その証拠に、掘り返された跡が有る上に、骨の上には御丁寧に白骨の身元を示す免許証が置いてありました」

はぁ、と言葉とも溜息とも取れる音を芹沢は口から零しました。

「誰かが一度掘り返してまた埋めたか、別の場所から移したってのか?」

ええ、と光は頷くと、懐からスマートフォンを取り出します。

「フェイクの可能性も有りますが…免許証の名前は『椎名耕太』、当時二十歳。現在は三十歳です。免許証の再発行・紛失届け受理の記録は有りません」

「そいつは何者だ?」

スマートフォンの画面を指で横に撫で、光は口を開きます。

「二流大卒の平凡な男ですね。大学時代に家族を丸ごと事故で亡くしています。本人もその際に重傷を負ったようですが、一年の入院を経て退院。大学を復学後、無事卒業。海外、国内を転々とし、つい一年ほど前から『柳研究所』に研究者として籍を置いています。この前の調査の際に提供された、従業員・研究員名簿に名前があった為に容易に特定出来ました」

「同一人物なのか?」

「―微妙ですね。当時の彼と今の彼を比較出来るモノは有りませんし、家柄か親戚付き合い等も乏しくヒトも居ません。友人なんかは居たでしょうが、如何せん時間が…血液型は一致しているようですが…」

スマートフォンを男達に手渡し、また光は外に眼を向けました。

「DNA鑑定をしようにも、比べるものが無い。証人を探そうにも家族すら居ない。血液型だけで同一とするのは論外。事故の際に多少なり整形でもしていれば…」

「記録によれば、軽度の火傷で整形をしています。一時は記憶の混乱も見られたようで…」

ふむ、と芹沢は電話の向こうで唸りました。

「成り代わるには最適だな。可能性だけでも見つけたのは奇跡に等しい」

人為的なそれが奇跡なのか、と口から出そうになるのを光は飲み込みます。

「ええ。しかし、残念ながら打てる手が有りません。現在、数名に当時の友人関係洗わせていますが、結果が何時出るか…。車を運転しているとして、出来て精々、免許証の偽造で引っ張るくらいでしょう」

「そんなミスをするとは思えんな。特に、今は周囲に警察の影が見ているのだろう?」

「そうですね。一度、立ち入りまでやっていますので…」

―長期間、背乗りをやってのけているような奴ならば、まず警戒しているだろう―。

ふぅむ、と唸り、芹沢は口を開きます。

「取り替えず、俺が到着するまで監視を頼む。だが、動けるのなら動け」

―諒解しました。

短く光が言葉を返しますと、芹沢は通話を切りました。

すっと、光の目が男達に向きます。

「状況の説明は後よ。あの白骨と繁華街の監視は応援に任せて、ウチは椎名宅の監視に行くわよ。指揮車の手配、人員の把握を」

無言で男達は頷きますと、各々行動を開始しました。

そんな部下達を一瞥し、光は外に目を向けます。

警察署が見えてきた。

その奥に見える、背の高い柳本社。

更にはその奥にある、本社ビルの陰に潜む繁華街を見据えるように、光は眼を細めました。



シーン9


「ねぇ翔太さん、どうしたの―?」

二階の、翔太に宛がわれた部屋の前で暁美は声を掛けました。

幾度かノックもしましたが、返事は一切無い。

首を傾げ、暁美は円卓に腰を下ろしました。

約半月引き篭もり、いざ出て来て見れば今度は翔太が引き篭もっている。

―一体、何があったのだろう。

首を傾げる女の手元にある端末が震えました。

着信のようです。

「洋介さん?やっぱり、翔太さん出てこない

よ」

「そう。部屋には居るの?」

唸り、暁美は二階を見上げます。

物音はありません。

「居る…と思います。不機嫌なのか、大分強くドアを閉めた音で私、起きましたから」

言葉を紡ぎながら、暁美は欠伸を堪えます。

「退屈しているみたいだね」

ええ、と相槌を返しながら、暁美はポケットに仕舞っていたスマートフォンを取り出しました。

「そんなに遣る事も有りませんしね。仕事もしちゃいけないんでしょう?」

仕事用に使うスマートフォンにはメールが多く届いていました。

その幾つかに眼を通し、返信はせずに暁美はスマートフォンをポケットに仕舞います。

「そうだね。机上の研究くらいはいいだろうけど、此処は柳ほどセキュリティが堅牢じゃないからね。万に一があったら面倒だ。後一月待って。その代わり、依頼は果たすよ」

二人の間で交わされた密約―とでも言うのだろうか。

依頼を引き受ける条件が、三ヶ月間、胡蝶で生活をする、でありました。

あの『端末』も、実際は依頼品ではなく、時間潰しに持ち込んだ各メーカーのスマートフォンを弄り、個人的に楽しむ為に造ったモノ。それを偶々見た洋介が気に入り、同じものを三つ拵えさせました。

試作機であったそれもこの半月の間で完成し、手持ち無沙汰なのですな。

「あの『端末』、海外では使えんが、すこぶる評判が良いよ。何でも、そのOSとセキュリティが気に入っているらしい」

―気に入っている…?

思わず、暁美はその言葉を繰り返しました。

「柳の技術を計るのに最適な材料だった、というだけさ」

洋介の言葉に、暁美は心の底から驚きます。

「隙も何もあったものじゃありませんね…」

電話の向こうの男は笑いました。

「情報漏洩なんてそんなもんさ。だから、明君は完全に地下に篭っているのだろう」

―それはそうかもしれない。

研究所時代、よく暁美も柩に叱られた。

どれが駄目で、どれが大丈夫なのかが良く理解出来ていなかったのだ。

これは一馬にも良く言われていた。

何でも一馬が言うには、暁美の無意識に零す言葉自体が企業秘密を孕んでいたり、何の気無しに組んだプログラムが商品クラスであったり。

普通のレベルというのが全く理解出来ていない、技術という面で世間ズレしているというのだ。

そこまで言うのならそうなのだろう、と暁美は理解していました。

ふと、疑問が浮かびます。

そんな、企業的には危険な自分を、何故社長である一馬は外に出したのだろう…?

「おや、時間潰しが出来たようだね。もう暫くしたら帰るよ」

物思いにふけ始めたらしい女にそう言葉を送り、洋介は通話を切りました。

その眼下では、一つの民家の周囲に数台の車が止まり、監視体制が引かれる様子が見て取れます。

「ラブコールは終わり?」

ああ、と短く言葉を返し、洋介は端末を背後に放りました。

「さて、此処からは観照の時間だ」

放られた端末を受け取りますと、監視体制の引かれる直前に民家を後にした円は洋介の隣に立ち、同じように眼下の様子に視線を注ぎました。



シーン10


繁華外近くにある椎名宅前に着いた時、既に日は落ちていました。

車を降り、黄色いテープを芹沢は通り。

直ぐに光が駆けてきました。

―やられたか。

眉間に皴を寄せた彼女の表情で、現場の様子の、凡の検討はついていました。

忌々しそうに此方に視線を向けている刑事の視線を避けるように、芹沢は光を連れてテープの外に出ました。

自分の車に光を乗せ、芹沢は口を開きます。

「状況は?」

「監視体制の整う前に匿名の通報が有りました。通報により到着した警官は、呼び掛けに答えない椎名宅の扉を開いた。そして、濃い血の臭いに気がつき、死体を発見しました」

獣みたいな奴だな、と言って芹沢は少し笑います。

「それで、通報者は?」

「発信元は椎名宅の固定電話。女の声だったそうですが、到着時には居ませんでした。女の声だったところ、鍵が開いていたところから、椎名婦人を重要参考人として探しているようです」

―配偶者が居るのか。

視線を泳がせながら、

「背乗りに関してはどうだ?」

芹沢は声を潜めながら問いました。

「一切、気がついてはいないでしょう。婦人に関しては、前日より職場を無断欠勤していたらしく、捜査の矛先がそっちに向くのは間違いありません」

歯痒そうに光はそう言いますと、視線を伏せました。

「婦人に不可解な点は無いのか?」

ええ、と目頭を押さえながら光は答えます。

「確定では有りませんが、現段階の情報から推測するに、十中八九、同類では無いでしょう。しかし、一つだけ気になる事が…これを」

視線を寄越さずに、写真を光は差し出しました。

差し出されたのは、現場写真。

犯行現場は和室。

まるで時代劇の舞台のように障子には鮮血が飛び散り、畳に倒れた男の首には口よりもぱっくりと開いた傷がある。

鋭利な刃物で首を一閃。

衣服に乱れは少ない。

血の飛び散り具合から見て、背後から羽交い絞めのような形で首にナイフのような刃物を刺し、捻り切るように首を切り裂きながら正面に突き飛ばしたのだろう。

結果、衣服が乱れる前に、刃を捻った時点で男は絶命し、突き飛ばされた為、派手に血が撒き散らされた―。

その気になれば、血を出さぬ方法もあったであろう。

この腕前から見て、そのくらいの方法は知っているように思える。

あえて残虐さを際立たせた理由は何だ―?

「最近、研究所の外れで死亡していた男と、凶器のサイズは違えど手口は似ています」

芹沢の疑問を汲むように光が言葉を紡ぎました。

写真から眼を上げ、芹沢は正面に眼を向けます。

「その事件も洗いなおす必要があるか」

―同一犯…というより、二つの犯行に対する認識を改めざるを得まい。

行き当たりばったりの凶行でもなければ、痴情の縺れなどでもあるまい。

―先手。

そう、今回と同じように、前の殺人も『先手』を打たれていた可能性が高いだろう。

彼女が歯を噛み締めている理由もそこなのだろう、と芹沢は思う。

手掛かりがあったにも関わらず、重要な手掛かりであったであろう椎名を、むざむざと消されてしまったのだから。

あの時、彼女の眼を曇らせたのが『占い師』の存在であったのは疑うまでも無い。

噂に聞く『占い師』が姿を現し、柳に出入りするなど、活動を行っていた。

そちらに眼を奪われたとしても仕方ない―。

スマートフォンに眼をやりながら、光が口を開きます。

「今、監視に割いていた者をそっちに行かせています。この現場に噛むのは難しいでしょうね」

ああ、と芹沢は相槌を返します。

「捜査権はあっちにある上、このままでは畑違いだ。ゴリ押しで介入して、背乗りに感付かれても面倒だろう。本庁が出張っているのは知られているか?」

「いいえ。私が嗅ぎまわっている位の認識でしょう。繁華街絡みの可能性から、数人の刑事から情報提供を要請されています。一旦、引き上げますか?」

「そう…だな。幸い、手数は有る」

小さく光が頷きます。

「ええ。バックアップがあるのなら、あの繁華街とその周辺は丸裸に出来ます。問題は時間ですね。今回のように先手を打たれてはどうしようもない」

小さく最後に『クソッ』と言葉を零す光の隣で、芹沢は車のエンジンを掛けました。

「急がば回れ。これも鉄則だな」

我を忘れそうな後輩に言葉を掛け、芹沢は車を走らせ始めました。



シーン11


―胡蝶。

二階の、自分に宛がわれた自室で、翔太は窓越しに繁華街に眼を向けていました。

「その情報の鮮度・出所は?」

片手に持つ携帯に言葉を投げかけます。

電話の向こうでは、忙しく複数の人間が動き回っているらしく、雑音が酷い。

「『グルベル』の死亡に関してはさっき入った。今は地元の警察が駆けつけて、周囲は大騒ぎだよ。公安が出張ってきているという話もチラホラ出ている。『占い師』はどうだ?」

「半月前より姿を消したままですよ。L.Kのところに行こうにも、暁美嬢を残して此処を離れるわけにもいかない」

微かに聞こえていたサイレンの音色も今は聞こえない。

ベッドに腰を下ろし、翔太は煙草に火を灯しました。

「そのL.Kだが、どうも雲行きが怪しい。聞くところによれば、ゼロの情報源がこの数日で壊滅しているらしい。無論、『小物』のルートだけだがな…」

―奴が潰れたか。

電話の向こうから齎された言葉に、そう静かに翔太は心の中で頷きました。

しかし、あの男は、所詮は小物。

問題は―。

「その上、グルベルまで取られましたか。状況は最悪と言わざるを得ませんね。行動を開始しますか?」

「いや、まだ動けん。既に他の連中も嗅ぎつけているようだ。場合によっては、そっちに出番を譲る可能性も有る」

眼を見開き、思わず怒鳴りつけようとするのを必死に翔太は抑えました。

「危険分子は有ります」

「君の遭遇したゴシックロリータか。繁華街でも少しばかり話題になっていたが、そんなものはグルベル殺害で吹き飛んだよ。寧ろ、君のその報告で監視の眼が緩んだ隙を突かれたとも言える」

嘲笑するような言葉に、翔太は絶句しました。

―監視の眼を緩めた…?

こいつ等は何も解っていない…。

相手にしているのはあの『占い師』で有り、その背後に潜むのは『カイム』。

表に顔を出すことは無く、あらゆるジャンルの犯罪の設計図、絵図面を描く者。

地獄の弁論者の名を冠す者―。

その弁舌は嘘を真に、錯覚を事実に。

その慧眼は光の果ての闇を、闇の中の光を。

漂う如く場を舞い、駆けるように心を乱し、爆ぜるように煌き。

魅了し、堕落させ、喰らい、捨てる。

悪という帰属性すら無い、『魔物』―。

煙草を圧し折り、灰皿に放り込みました。

「つまり、全ては水泡に帰したと?」

ううむ、と曖昧に電話の向こうの男は唸りました。

「水泡に帰したというより、元より、ウチとしてはどうすることも出来ん事案だ。繁華街の危険性・特異性より監視し、内外に情報を提供していたが、此処までの事態が生じたとなれば、繁華街も長く有るまい」

「手負いの獣ほど危険です」

微かに、電話の向こうの男は笑いました。

「手負いではなく、瀕死ではないか。それも、傷を与えたのはあの『占い師』だ。呪われたのさ、あの街は」

「静観を決め込むと…?」

「警察庁の動きも気に掛かる。内輪揉めが酷く、手遅れになるだろうと思っていたが流石は赤羽だ。有効策を練っていたらしい」

男のこの言葉で、翔太は多くを悟りました。

「成程。貴方達にしてみれば、これ以上はリスクが高すぎる、と。クソ喰らえですな」

この国内で、おおっぴらに活動が出来るのは『警察』のみ。

それ以外の勢力には厳しい制約がある。

それを破ってでも取るべき益は無い、とこの男は判断したのだ―。

「言葉を慎みたまえよ、これまでは中々良い協力関係だったと思うが?」

乾いた笑いを零し、翔太は立ち上がりました。

「ふざけるなよ。おい、よく聞け。こっちは情報と手をくれてやった。機会も多分にくれてやった」

―もう少しで、手が届いた…。

そう続けそうになった言葉を飲み込み、翔太は繁華街に眼を向けました。

夜の闇に、煌々と繁華街は光を放っています。

「君と同じにしないでくれよ、愛国者君」

翔太に満ちていた想いを、嘲笑を含んだ男の言葉が吹き飛ばしました。

「この国はな、アイデンティティという画一された帰属性に、愛国心というカテゴリーが無い国なんだよ。無論、ウチは愛国心に溢れている。だが、他は違う。上の一部なんかは特にな。しかし、これまでの協力は感謝する。御陰で一大事にはならずに済んだ」

一瞬、翔太には何を言っているのか理解出来ませんでした。

―一大事にならずに…?

既にあんなものが自国内に出来ていて?

事勿れ…か―。

一度笑い、翔太は拳を窓ガラスにぶつけました。派手な音を立て、ガラスが砕けます。

「日和見か。貴様らは嵐が過ぎ去るのを物陰に隠れて見ているのと何ら変わらん。それで何が護れる」

「私達が護れるものは、黄昏と一緒に沈む今日だけさ。今も、恐らくはこれからも」

本心。

歳月が育んだ諦観か。

損得勘定の果てに辿り着いた境地か。

掛ける言葉も見つからず、翔太は通話を切りました。

背後で、物音に驚いた暁美が扉を叩いている。

彼方で、あの悪魔が嗤っている。

あそこで、悪党共が宴に酔い痴れている。

何処かで、治安の守人が武器を手にしている。

俺は―。

片手に伝う血を舐め、翔太は叩かれる扉を開きました。



シーン12


警察庁警備局警備企画課―。

宗田の古巣であるそこの片隅に、宗田・片桐二人の姿はありました。

「そうか。至急方針を決定する。ああ、君はそっちに残ってくれ」

通話を切り、宗田は隣で、ヘッドフォンで二人の会話を聞いていた片桐に眼を向けます。

公安指折りの解析者は呆けたように眼を泳がせています。

「一気に動きましたね。どう見ます?」

問われ、宗田は片桐を睨みます。

「解析は君の本分だろう」

―そうですねぇ。

苦笑交じりに言葉を零しますと、チラリと片桐は宗田に視線を寄越し、直ぐに目の前のPCに眼を向けました。

「これまでの『繁華街』は、歪ながら共存共生の状態でした。目的は不明ですがね。そこに異物である『占い師』の登場。一気に均衡は崩壊、警察が介入。端的に見れば、それこそが目的に見える。しかしながら、それだけでは『占い師』に利が無い」

「情報屋…ゼロの地位を奪う?」

首を横に振り、片桐は画面に胡蝶のデータを呼び出しました。

―繁華街ゼロ店主。

通称・L,K。

数年前よりアジアにて活動を確認。

それ以前は、麻薬カルテルなどを転々とし、逮捕歴も有り―。

「無理がありますねぇ。既に似たような地位を持っては居ますし、あんな存在、これまでのポテンシャルを見る限りではリスクを犯さずに奪える。それに、あの繁華街の最大の利点は、これまで表立った第三勢力の介入が無かった事だ。態々、その利を捨てるのなら、繁華街の壊滅まで見ているでしょう」

「第三勢力とは?」

宗田の言葉に、片桐はこの世の終わりでもみたような表情を浮かべて宗田を横目で睨みました。

「いやなトコを突きますね。その裏づけは、俺では出来ない」

言葉の意味を考えながら、宗田は口を開きます。

「質問を変えよう。今回の騒動を引き起こした『占い師』の目的は何だろうか」

そうですね、と呟き、片桐は視線を自らの足元に向けました。

「恐らく、『占い師』自体は抗争を行えるような手駒を持っていない。これは監視の報告からも明らかです。まっさらな経歴も『占い師』の武器の一つですしね。だが、単独犯でもない。つまり占い師は、そこそこの規模を持つ組織ないしチームの一員だと見るべきだ」

その根拠は、と宗田は問います。

考えれば解る、と言って片桐は笑いました。

「ディベートにしろ宗教にしろ、単独では行えない。実行者は一人でも、その裏で情報収集・分析や雑用を行う者達が複数居なければ出来ない芸当だ。あの『占い師』は、あくまでも矢面に立っているだけ。十中八九、裏にはデカイ奴が居ますよ。そいつの描いた図面が『烈華』だと俺は見ていますが…」

そこまで言うと、片桐は頭を振りました。

「烈華に関しては判断材料が少なすぎますね…確実なところで言えば、『占い師』自体にはマフィアのような武力は無い。ならば、他を誘導して潰させていると見るに間違いは無い。不可能にしか思えない所業だが、双葉なる人物には、天賦の才とも言える人心掌握の術がある。そして、恐らくそれは未だ不完全だ」

「まだ続きがあると?」

ええ、と相槌を返しながら片桐は光から送られてきた椎名殺人事件のデータを画面に呼び出しました。

現場の様子から、捜査の進展状況まで事細かに表示されています。

現場写真を選び、画面に拡大しました。

「今回の殺人は眼を惹き過ぎる。御陰で現場の刑事達のやる気は空回り寸前です。所構わず噛み付きかねない。下手に椎名の不可思議な点を見つけられる前にウチは背乗りに冠しての決着をつけねば、全ては有耶無耶になってしまう可能性が有る」

「芹沢もそれを懸念していたよ。これ以上の後手は危険だとな」

宗田の言葉を、鼻で片桐は笑います。

「現場の雰囲気を読んだか、雰囲気に呑まれたか―そこが問題ですね。どちらにせよ、ウチは迅速に動くほか無い。ウチ以外に動けるところは無いのだから」

「乗っかり、潰すか」

浅く、宗田は吐息を漏らしました。

「どちらにせよ、あそこを放置出来ません。御膳立てをしてくれているのなら、美味しく戴きましょう。問題は、その次だ」

「芹沢は柳を気にしていたな」

物思いに耽るように頭を抱えている宗田の零した言葉に、片桐は天を仰ぎながら頷きます。

「あそこ、社長が失踪しているんですよねぇ」

「情報が極端に少ないのも解せんな」

「暁美なる『ハッカー』でも手元に居れば話は早いと思うんですが…」

「明氏はどうだ?」

視線を寄越され、片桐は首を傾げました。

「無理でしょう。札が無い。取れもしない。手掛かりは…椎名と暗号」

そうか、と宗田が言葉を返しますと、二人の間に沈黙が流れました。

心を沈めるような沈黙を振り払うように宗田は歩を進め始めました。

「作業を続けてくれ。少しばかり揺さぶってくる」

「お互い、得意分野で最善を。劇的な逆転劇は嫌いじゃない」

片桐の言葉を笑い、宗田は企画課を後にしました。

椅子に深く腰掛け、片桐は天を仰ぎ、

「全く…面倒な事になったもんだ…」

呟くと、PCの電源を落とします。

片手にUSBを持ち、片桐も宗田に続くように企画課を後にしました。




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