常に自分はおかしい人間だと思うこと
私は小学4年生あたりから自我というものが表に出てきていた気がする。
自分のすんでいる地区の子供会で会長などをやらせられたりしていた。
その時に会議というか子供会で何をするかとかの会議を行っている時に
なんでテンプレがあるのに会議なんかさせるんだろうと考えていた。
6年生の時には担任の先生に無理やり児童会の会長選挙に立候補させられた。
この時は両親がなんでそんなもんに立候補なんかするんだと
理不尽に怒られた記憶がある。
田舎の全校生徒が300人に満たない小学校で選挙の結果
自分が得票した票数が10何票だった。
後期は別の人に担任が立候補させたが自分よりも票を取っていた。
選挙の前に副会長からの会長という流れが基本的にできていた。
立候補させられた理由に成績が中途半端に高かったのもあるだろう。
中学の時にはいじめもしくは不登校の生徒に対して友人となり
いじりの対象から外してやり、自分がいじられたときには
苛烈に暴力で反撃した。
担任からすればプラスとマイナスが極端に振れた生徒だったと思う。
高校では、毎週末に中学の友人と徹夜麻雀ばかりしていた。
小中高と学校生活を送った末に学んだのは、
自分はほかの人間とは基本的に相いれないという思いだった。
なぜならば基本人間とは自分のことのみを考えるからである。
ロジック的に一番集団すべての人間が利益を得る方法を基本的に
人間の集団は取れない。
感情があるからである。
あいつより自分が上だ。あいつより自分が優秀だという感情。
テストの点数や運動能力で比べた場合、
ある程度順位は出るのだが、基本的に自分はこれぐらいだという認識を
行うだけで問題はないはずなのに、嫌いな人間に対して対抗心を抱く。
自分には理解できない。
不完全な人間だと認識していれば、相手に対して寛容でいられるだろう。
それが自己保身だったとしても。
感情のコントロールを教育するべきではないのか?
今の日本は個人の感情のみをぶつけあう
くだらない本質を無視した議論ばかりだ。
あいつは人間でないといわれても感情を排して
理性的に議論を行うべきではないのか?
今の日本人にお前はおかしい人間だといわれることは
ほめ言葉ではないのか?
常に自分はおかしい人間であるとしていい意見は受け取る気持ちで
議論を行うことでもっと世の中はよくなるのではないか。
自分の価値を自分で決め他人の価値は本人が決める。
自由だが自分を律して過ごしていきたいと考える。