②魔獣
ざわめきが皮膚の表面を刺し、ルティアは覚醒する。
鼻腔の奥に、幾度も浴びた魔獣の血のにおいが蘇った気がした。
(――もしかして……)
これは「勘」だ。
戦いに身を投じてきた者だからこそわかる「勘」。
頭で理解するよりも先に、ルティアの身体は動いていた。
起き上がると視界に羊皮紙の束が映る。
どうやら昨晩、手紙を書き上げるとそのまま眠ってしまったらしい。ここは亡き父の書斎部屋だった。
ルティアは立ち上がり素早く愛剣を手に取ると、勢いよく隣の部屋に飛び込んだ。
下着しか身につけていない身体に、まず長靴を履く。
その後、袖が無く、ゆったりした身幅の衣服を頭から被って身に着けると、腰に革ベルトを巻きそこに愛剣を携えた。衣服は脚が動かしやすいように、わざと両脇の裾に切れ目が入っている。
……外から聞こえるざわめきが強くなった。
ルティアは「やっぱり」と確信を強めると、窓際に向かって歩みながら、真っ青に染めのかかったターバンを頭に巻く。
本来、ターバンはぐるぐると頭に巻きつけるが、ルティアは長い前髪を抑えるように当てると後頭部できつく縛った。
戦闘時にターバンは欠かせない。
前髪を抑えるだけでなく、頭や額から流れた汗を吸ってくれるのだ。もし汗が目に入ったりしたら戦闘の妨げになる。
それにターバンは長い布を使用していることから、怪我を負ったときの止血用の布としても使える。つまり、とても汎用性が高いのだ。
ルティアは最低限の装備を整えると、窓を開けてそこから街路へ飛び出した。
サアアア……と心地の良い風が頰を撫ぜる。
これが自然に吹いている風でないことを、ルティアはすぐに悟った。
そう……これは「風の精霊」が進むべき道を示している風だ。
ならば近くにいるはずだ……彼が。
「ルティアーー!」
風が声を連れてきた。
視線を向けると街路をものすごい早さでこちらに走ってくる者がいる。
翡翠をとかしたような緑髪で、ひょろっと背の高い、ルティアとそう年齢の変わらない青年……。
「キーノス! 魔獣が出たのねっ⁉︎」
「そうだ! 山から降りてきたらしい……これから討伐に行くとこっ!」
「私も一緒に行くわ!」
キーノスは、魔王を倒すため共に戦った仲間のひとりだ。
お互いに命を預けあった信頼できる同志……。
それにキーノスがいれば、ルティアは自分の能力を何倍にも高めることができる。
(私達ふたりなら、魔獣が何体いても楽勝だわ!)
速度を落とさず走ってくるキーノスの目指す方向へ、ルティアも走り出した。
後ろから追いついたキーノスと並走するよう近づくと、ふわりと身体が羽根のように軽くなる。
ルティアの走るスピードが格段に早くなった。
これはキーノスを取り巻く「風」による効果だ。
「オレの風に乗るの、上手くなったよなー」
「どれだけ一緒に戦ってきたと思ってるのよっ。……あ、シルフェちゃんいる?」
「もっちろん、一緒に着いてきてる」
「おはよう、シルフェちゃ〜ん!」
ものすごい速さで駆けながら、ルティアは空に向かって手を振った。
「シルフェ」というのは、キーノスが使役している「風の精霊」の名だ。
キーノスはエルフの血を色濃く継いで生まれた人間だ。その証拠に、彼の耳は少しだけ尖った形をしている。
「精霊」と契約し使役できるのは、力を持ったエルフだけだ。
キーノスはそのなかでも異例の存在だろう。
物心つく頃には、そばに「シルフェ」はいたのだから。
いつ契約を交わしたかもキーノスは覚えていないという……。
ルティアはシルフェの姿は見えないが、存在は確かに感じていた。たまに悪戯っ子のように、ルティアの髪を揺らして遊ぶのだ。
「――ねえ、フレッドは?」
躊躇いながら、ルティアは一応……聞いた。
フレッドも、同じく魔王と戦った仲間のひとりだ。
同じ「東区」に住んでいるが、最近めっきり姿を見ていない。
理由はわかっているのだが……。
キーノスは苦い表情をしながら答える。
「魔獣が出たとは言ってみたんだけど……駄目だった」
「……そう……」
「多分……もうフレッドは戦えない……」
ルティアの胸が、哀しみにズキリと痛んだ。
一緒に戦えないことが哀しいのではない。
フレッドが魔王との戦いで深く心に傷を負ってしまったことに、やるせない哀しみを覚えるのだ。
(フレッドは、誰よりも責任感があって、優しい人だもの……)
魔王との戦い……。
あの後、フレッドは言葉を発することができなくなった。
次第に自分の内側に閉じこもるようなり、外へもあまり出なくなった。
今は幼馴染でもあるキーノスの家で、畑を耕しながら、ひっそりと毎日を送っている。
強く生きてきたルティアですら、魔王との戦いを思い出さないように努めていた。
それは何度も何度も、「死」と「再生」を繰り返すような凄惨な戦いだった。
今でも夢に見てしまう時がある。
意識だけの防御ができない領域で、ひたすら激しい苦痛を味わい、目覚めてからも涙が止まらず、嘔吐し、身体の震えがおさまらなくなる……。
そんな時……ルティアはひたすらリュードのことを想った。
リュードがルティアの名を呼ぶ穏やかな声音や、リュードがくれる祈りの光の温かさや、労わるように優しく傷に触れたリュードの手の感触を……。
そうやってルティアはいつも自分を取り戻していた。
例えそばにいなくても、リュードはルティアの心を護ってくれていた。
「フレッドも私達も今まで頑張ったんだもの……。もう、そっとしておきましょ」
「そうだな……」
「でも旅立つ前に、会いたかったな……」
「そうだよな。今日だもんな」
ルティアは頷く。
今日は旅立ちの日だった。愛するリュードにもう一度会うための旅だ。
ふと風になびくキーノスの翡翠色の髪に視線がいった。
そこでルティアは息をのむ。
毛先だけが色が抜け落ちたように、薄っすら白んでいる。
(まさか、キーノスも……)
ルティアの瞳の色は変わってしまった。髪の色も。
キーノスも同じかもしれない。
戦いを経て、身体に異常が出ている。
身体だけじゃない。フレッドは心までも壊してしまったのだ。
戦いによって、命が削れているのは明白だ。
(なら……私はあとどれくらい生きれるのかしら?)
せめて生きている間に、リュードに再会できたらいい。
今の願いはそれだけだ――。
「いたぞっ!」
キーノスが叫んだことで、ルティアは思考を振り払った。
余計なことを考えていては、戦いに支障が出てしまう。
視線を「魔獣」に定めた。
岩のようにゴツゴツした外殻を持つ魔獣だ。幸い、一体だけだった。
魔獣は、その身の内に魔核を宿している。
どんなに外側を切り刻んでも、魔核を破壊しなければ意味がない。
魔核はエネルギー源だ。魔核があれば魔獣は何度でも再生を繰り返す。
「毒性があるかもしれないから、キーノスは後方で援護よろしくっ!」
「あ、おいっ! ルティア、勝手に決めるなよ!」
キーノスの言葉は聞こえていたが、ルティアはあえて無視した。
剣を構えながら、魔獣に向かって突っ走っていく。
(今の私に、魔獣の「毒」は効かないからね……)
それをキーノスは知っている。だから無視したのだ。
魔獣といっても様々だ。
なかには血や体液に毒性を孕んだ魔獣もいる。魔獣の毒を浴びたら運が悪ければ即死。早めに治療を施したとしても、数日は苦しむことになる。
唯一、毒に侵されないのは「守護」「癒し」「浄化」の神々の加護をもつ「祈祷師」だけ。もしくは「祈祷師」が守護の祈祷により、一時的に加護を与えた者だけだ……。
ルティアの愛するリュードは祈祷師だ。
リュードがいる時は、彼の祈りによって守られていたから平気だった。
でも、もうリュードはいない。
だからルティアは多額の金を積んで神殿にもぐりこみ、祈祷師の業を身につけたのだ。故に、魔獣の毒性には対処できた。
「ちっ……無理はするなよ!」
背後からキーノスの舌打ちが聞こえたが、ルティアは逆に微笑する。
これから彼がどういう攻撃をするのか、手に取るように解った。
きっとキーノスも同じだろう。
それくらい長い時間、二人は一緒に戦ってきたのだから……。
まずキーノスが精霊を使役し、疾風を巻き起こす。
疾風は鋭い刃となり、四方八方から魔獣の外殻を切り裂いていく。
「あれ……意外に柔らかい……?」
岩のように硬質に見えた魔獣の外殻だったが、疾風の攻撃が効いているようで呻き声をあげ血を流している。
これなら一撃で仕留められそうだと、ルティアは唇を湿らせながら思った。
するとシルフェの意志だろう――魔獣の軀の一箇所を、何度も突き刺すように風がぶつかっているのに気付いた。
(あそこに魔核があるのね! シルフェちゃん、ありがと!)
「ルティア! ――今だ!」
「わかったわ!」
ルティアは助走をつけて力強く踏みきると、高く上に跳躍した。
さらにそこでキーノスが風を操り、ルティアをさらに高みへと押し上げる。魔獣の攻撃が届かないくらい上空でルティアは攻撃体制に入る。
落下が始まった……これならルティアの軽い体重でも、じゅうぶんに負荷がかけられる。
剣の柄をしっかりと両手で握り、思いっきり斜めに振りおろす。
ザシュッッッ――
魔獣の血飛沫が舞った。
ルティアが地上に着地するのと、魔獣が真っ二つに裂かれたのはほぼ同時だった。
「よしっ、あとは魔核を――」
ルティアは顔色一つ変えずに、素手で魔獣の内部を弄る。
斬ったばかりの魔獣の軀からは濁った鮮血が噴き出し、ルティアを濡らしていく。
「んー……あった! キーノスあとは頼んだわっ」
ルティアは魔核を取り出すと、キーノスに向かって放り投げた。
キーノスは腕を薙ぐ。
するとふたたび疾風が鋭く舞い、魔核を粉々に砕いた。
「楽勝だったわね! それにこの魔獣には毒性はないみたいだから、このままでも大丈夫よ!」
もし毒性を孕んだ魔獣であれば、その体液が染み込んだ大地は雑草のひとつも生えなくなってしまう。その場合、魔獣の躯までも浄化をしなければいけないが、今回はその必要はなさそうだ。
「あ〜あ〜、ルティア、べっとべとになってんぞ」
「いつものことでしょ……慣れちゃってるから」
「慣れちゃってる……じゃねえだろっ。ほら〜ちゃんと拭かねーと……」
キーノスが自分の首に巻いていた木綿のマフラーを外すと、ルティアに近づいてくる。
「それは勿体無いから駄目よ! 私はこれで大丈夫だから!」
ルティアは頭につけたターバンを外すと、汚れていない箇所で、腕についた血を拭い始める。
こういう時にもターバンは非常に役立つのだ。
キーノスは何も言わずルティアの頭にマフラーを被せると、ぶつぶつと文句を言いながら髪についた血を拭っていく。
髪が終わると、今度は顔についていた血を擦るようにして落としていく。
「もういいよキーノス。くすぐったいわ……」
そう言いながらも、ルティアはキーノスの好きにさせた。
キーノスの優しさ伝わってきて、なんだか心地よかった。
「ったく、リュードだったら、頭から容赦なく聖水ぶっかけてたぞ……」
「ふふ。リュードさんなら、やるかもしれないわね」
「ああ、間違いなく。リュードなら絶対にやってたぞ」
ルティアは愛する人の姿を想像し、ふふ……とまた笑いを漏らした。




