なぜイドラの主人公は棒読みと言われるのか
昨年11月末にSEGAよりリリースされた「イドラ ファンタシースターサーガ」(以下「イドラ」)というソシャゲをご存知だろうか。ファンタシースターシリーズ30周年記念作品の肩書きとともに世に送り出された同作であるが、主人公である「ユリィ」にあまり魅力がないのでは、と言われることが多い。キャラクターデザイン、声優の演技、心情描写など、考えうる要因は様々であるが、私が考えるに、目的意識の薄さが最も大きいのではないだろうか。これを説明、考察しようというのが本稿の目的である。
そもそもなぜユリィが白羊騎士団に同行することになったかと言えば、アンナマリーに誘われたからである。最終的に判断を下したのはユリィではあるが、彼自身がそう望んだわけではない。同行する目的にしても、「世界で何が起きているかを確かめる」という大層ふわっとしたものである。こちらについてもやはり、アンナマリーがこの目的を提示し、それにユリィが従う形であり、彼自身がそれを望んでいた描写は(恐らく)ない。物語の始動する重要な場面に主人公の意思が関わってこないのである。序盤において彼が自分の意思を表明した場面がないというわけではないが、「あの巨大なイドラをどうやって倒すのか知りたい」だけであったから、ケートスを倒した時点でその目的は達成されている。
だがしかし、先導者に導かれるまま渦中に身を投じる主人公は結構居る。主人公が自ら意思決定をしないのは未熟さの描写になり、先導者の存在そのものが主人公の目標たりえる。が、このTシャツ君はなまじ強いので、成長ストーリーとしてもあまりのびしろがないのである。腕っぷしが強いことは勿論、喧嘩しているローザリンデとジャスパーの仲裁をするなど、精神的な強さも兼ね備えている描写がなされている。これは、ロウとカオスの対立という(ある種)縁起的な世界の在り方において中庸の立場を取る、主人公の到達地点として充分なものであろう(と、少なくとも私は考える)。そしてこの強さの源は「海で育ったから」という(理解不能ではないが)弱い根拠によるものであり、若干のナロウティシズムを感じずにはいられないが、ここでは言及しない。
ここまでくると、最早ユリィはこの物語の主人公とは言えない気がしてくる。物語に対して能動的に関わろうとする姿勢があまりないのだ。どちらかというと重要NPCである。しかしそれとは対照的に、当主として自らの弱さを克服しようともがくステラを始め、ユリィの周りのキャラクター達は個性豊かに描かれている。では何故ユリィだけここまで受動的なのだろうか。それは、彼の物語における役割が単なる緩衝材に過ぎなかったからではないか。主人公の一行を様々な勢力の寄せ集めにしたいが為に、他ならぬ主人公の意思がなくなってしまったのだろう。故に、声優の演技自体は良いのに棒読みと言われてしまうのだ。
とりあえず書きたいことを書きなぐってみたが、ストーリーが進むにつれてユリィとユリィパパの過去が明らかになりつつあるし、私がここで述べたことは大方的外れになるだろう。イドラの問題点は主人公ではなく、キャラクターに作者の代弁をさせてしまうところとか、砂漠の旅とかいう結構大きいイベントを何の描写もなくはしょっちゃうような適当さとかかもしれないと、最近は思っている。ロクサーヌがただのツアーガイドでしかなかった。