追跡
横浜ってのは本当に汚い街で、特に西口なんか酷いもんなんだよ。路面のいたるところにガムと煙草、吐いた跡も珍しくないし、川沿いはドブの臭いがするし。キラキラしたイメージを出しといて、その裏では汚いものを隠していやがる。まあ東京とかの方が酷いのかもしれないけどさ。でもそこに地方都市っぽいショボさもあって、本当に残念な街だよな。
で、そういう街って必ずいるもんなんだよね。ホームレスだよ。あの人達は都市の余剰を喰って生きてるからね。残飯とか、段ボールだって奴らにとっては寝床を作るための貴重な資材だろ? そういうのを集めては路地裏で積み上げて、自分の生活範囲を必死に守っている。この間、路上に落ちていた煙草を拾い集めていた奴も見たよ。そんで拾ったらしい百円ライターで火をつけて吸ってんの。正直、ゾッとするよね。
そんな横浜に有名なホームレスがいるんだよ。有名って程じゃないかな。とにかく八十歳くらいのすげえ婆さんのホームレス。県のサポートセンターを利用する人なら皆知ってるね。あの駅近のデカい建物だよ。あそこはどんな人でも出入り可能だから、その婆さんホームレスがよく通ってんだよね。そんでフリーフロアの一角を占拠して仮眠してるんだ。デカいレジャーバックを引っ提げて(たぶんアレが全財産なんだろうね)、酷い臭いを振りまきながら毛布にくるまってたりする。で、起きたら起きたでブツブツと独り言。時々、奇声上げて意味の分からない悪態吐いてたりするよ。施設の人も困ってるらしいんだけど、もう諦めましたって顔してたね。
実は俺、この間その婆さんを外で見かけたんだよ。二十二時くらいだったかな。知り合いと横浜で飲んだ帰りに、ヨドバシカメラの辺りであの婆さんが目の前を歩いているのを見てさ。デカいレジャーバックを背負ってたから、一瞬であの婆さんだってわかったね。
相変わらず服は垢まみれだし、靴も踵が潰れて突っかけ状態。なぜか異常に黒くてひび割れた頬と無造作にくくった灰色の縮れ髪。なんとなくさ、さっきまで楽しく飲んでたのに酔いもさめちゃって、あぁ世の中にはこんな人もいるんだ。ああなったらお終いだな、とか頭の中で思ったよ。
でも同時に、なんか妙に興味が出てきちゃったんだよね。怖いもの見たさっていうのかな。こんな時間に歩いていて婆さんはどうするんだろって思ってさ。それで、ちょっと後をつけてみようってなったわけ。自分でもどうしてそんなことを思ったかは分らない。普通はホームレスなんて避けて通る存在だし、しかも婆さんを尾行するなんて良い趣味なわけがない。やっぱ、アルコールが残ってたのかな。
でもとにかく、俺はその婆さんをつけてみることにしたんだよ。エッチラオッチラと歩く婆さんを十メートルくらいの距離を空けて追ったね。そしたら婆さん、そんなに歩かないうちに立ち止まって近くのベンチに寝そべったんだよ。よく見るとそこはゴミ袋やらダンボールやらが集められてて、明らかにホームレスが溜まる場所って感じでさ。こんな雨もしのげない場所で寝泊まりしてんのかと思うと、少しは同情の気持ちがわいたね。普通の人だったらこの時間、家に帰って飯も終わって、早けりゃもう布団の中だ。それなのに、あの歳で寒空の下なんてむごすぎる。
婆さんはベンチで横になったまま、全く動こうとしない。喉が渇いたから缶ジュースを買いにその場を離れたのだが、戻ってみても一ミリも動いた様子がない。なんだ、これでお終いかと思うと、正直がっかりな気がした。このジュースを飲みきったら、もう帰るかと思っていた。
婆さんがまた動き出したのは、ジュースを飲み終わって行こうとした時だった。今週中にやらないといけないことを考えていたら、視界の隅で婆さんが寝返りを打ったのがわかった。えっ? と思って向き直ると、婆さんは何回か頭を振った後、おもむろに起き上がった。なんだ、寝てたのはたった十数分だったのか。そう思って俺は空き缶を捨てるのも忘れて追いかけたね。
婆さんはまたレジャーバックを担ぐと、よろよろと歩いて車道に出る。思わず嘘だろってつぶやいたね。横断歩道も何もない所を横切ろうとしてるんだから。こっちが慌てているうちに車も迫ってきて、それでも構わず婆さんは向こうの歩道へ歩いてる。結局、車の方が止まって、婆さんは何事もなかったかのように歩道まで辿りついたんだよ。仕方ないから俺は近くの横断歩道を回って追いかけたね。一瞬見失いかけたけど、まあ婆さんすごく遅いからなんとか見つけたよ。
追跡を再開して、ふと気がついたんだよ。こんな時間でも横浜なら酔っ払いとかキャッチ、眠れない不良どもがいるもんなんだけど、そいつらは全く婆さんを見ようとしないんだ。それなのに、婆さんの通る道はパッと空けるんだよ。まぁそれが普通なのかもしれないけど、後ろから見ていると魔法みたいで面白いんだよな。薄汚い婆さんが魔法ってところも、なんかいかにもって感じだし。
婆さんはどんどん人のいない道へと入っていく。全く、今夜はどこで過ごすのやらと思っていったら、これまた細い路地に入っていってさ。仕方ないからついていったの。そして角を曲がったところで、思わずギョッとしたね。だってもっと先にいると思った婆さんが目の前にいたんだから。
婆さんは角のところで体をかがめて、そこに落ちていた空き缶を拾っていたみたいだった。そしてレジャーバッグを乱暴に開けて、空き缶をそこに放り込む。そういえば空き缶を集めて集積所に持っていけば、いくらかのお金になると聞いたことがある。婆さんもそれ目当てだろうか。
それにしても、とりあえず俺はどうしたらいい。婆さんとは二メートルも離れてない距離だ。とにかく間を空けたい。そう思って一歩下がったのが良くなかった。砂を踏んだ音に婆さんが気づいてこっちを振り向いたんだ。それはもう、まるで野生動物みたいな反応速度だったよ。
完全に目が合っちゃって、ヤバいなと思ったね。なんていうか、やけに目がぎらぎらしてるんだ。理不尽な怒りの形相って言ってもいいかもしんない。とにかく尋常じゃない目で、そこだけ人間離れしてたね。本当は婆さん相手なんだから、こっちの方が腕力では有利って、理屈ではわかっている。それでも脅威を感じる程怖かったんだ。
婆さんはすごい表情で睨みつけたまま、甲高い声で何か喚きだす。全然聞き取れないけど、何か怒っているのは分かった。その時とっさに、金を要求されるんじゃないかって思ったんだよね。その時ちょうど、三万は財布に入ってたしね。情けない話だけど、ホームレスの婆さんにカツアゲされるかもって思うのは、後にも先にもあの時だけだね。
婆さんが喚きながらこっちに近づいてきて、なぜか逃げ出せなかった。ほんのちょっとでも視線を逸らせばその場から離れられるだろうけど、体が言うことを聞かないんだ。婆さんが何か言うと唾が飛び出し、唇の端にも泡がついているのがわかった。けど、逃げられない。本当に手の届くところまで来ると、婆さんは乱暴に俺の手を払ったんだ。ざらざらの肌の感触だったよ。
持っていたジュースの空き缶が間抜けな音を立てて落ちて。それを婆さん、まるで奪われないようにパッと拾うと、俺を睨んだまま後ずさった。そんで例のレジャーバッグに空き缶を放り込むと、もう何事もなかったかのように道の先へと歩いていったよ。
悠々と去っていく後ろ姿を俺は呆然と見ていたね。ただただ圧倒されたというか、妙な体験だった。今更ながら俺はなにしてたんだろとも思ったし。ただなんとなく、こちらを睨んでいた目が忘れられなかった。
婆さんが路地の角を曲がって行ってしまうと、辺りは本当に誰もいなくなった。仕方がないから俺は駅に戻ると、家に帰ってすぐに寝た。
どうも、伊奈です。またつまらぬものを書いてしまった。
前作と関連性がありそうで全く無いです。皆無です。ていうか自分でもなんでこんな作品書いたのかわからぬ。物語性も何もない。ただ、過去の経験と自分の無意識を寄せ集めたような小説というしかありません……。