第五話 二十五年目の仲直り
1
僕は目を閉じて深く深く息を吸い、吐く。
――どうしたら、いい? そんな事、もう決まりきった事じゃないか、そう思って、店内を見回す。
僕、華子さんの実の姉で妖怪の御手洗小豆さん、オカマバーを経営していたが今は無職の淀橋源一郎、源さん、その源さんの娘である小学生の恭子ちゃん。
その後ろに、この宿借町で縁が出来た様々な人達が集まっていた。
主婦に子ども、商店街の皆さんに店の常連さん、彼女によって心救われたと言うお客さん、常連の女子高生が呼びかけたという高校生達などが店の中、『トーベ・ヤンソン』の店内一杯に押し寄せていた。
その光景だけでいかに華子さんが周りの人達に愛されているのかが解り、僕は思わず胸のシャツを握りしめる。
華子さんを取り囲む世界は、こんなにも今温かい。僕は痛んだ胸から沁みるように血が流れるのを感じて、こんな時だというのに嬉しくなった。
華子さんがいてくれるこの世界は、まだまだ捨てたもんじゃない、と。
僕は彼らを再度ぐるりと見回し、言う。
「――ご存じの通り、華子さんが三日前、姿を消しました。お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、彼女は人間ではありません。この世の存在では無い所謂妖怪です。皆さんも知っているであろう有名な『トイレの花子さん』の一人です。ですが、彼女は全く害の無い、皆さんが怯え、怖がる心配の無い、どこにでもいる一人のただの女の子です。それは彼女を知る皆さんの方がよく知っているかもしれません……。ですから、もし彼女の正体を知って怖かったり、付き合うのを止めたいと思う人は協力しなくても結構です。むしろそれが自然ですし、当然の感覚だと思います。そんな人間外を、探す必要など無い、そう思っていても全然不思議じゃありません。――……でも」
自分に出来る最大の真剣さで頭を下げた。そう。今僕に出来る事は、それくらい。
「力を、貸して下さい」
頭を下げたまま続けた。
「華子さんにもう一度、会わせて下さい」
華子さんがいなくなって、今日で三日。
音信不通になってから、丸三日経っている。
時間は急を要する。彼女は思い出してしまった。
自分がレイプされ、そして殺された事を。僕は顔を上げ、その場に集まってくれた全員に、強い視線を送った。
全員の目が真剣になり、僕を捉えた。そこには既にドアの前に立ち、今か今かと出て行く準備をしていく人もいる。思わず滲んだ目を強くこすって、軽く咳をして誤魔化しながら、もう一度呼吸を整えて、言う。
「よろしくお願い、します」
裾をぎゅっと握りしめ、華子さんもここを頼りなげに握ってきたことがあったな、と他人事のように思い出し、思わずぐうっと声を出さずに呻いた。
噛み締めた唇が痛むくらいその感情を抑え込み――
「華子さんにもう一度、会わせてください……」
絞り出すように、言った。
全員の気持ちが、一つになって重なる。
華子さんを見つけ出す。ただ、それだけのために。
2
その事に気付いたのは、三日前、中村さんとの別れてすぐだった。
僕は急いで家の中に戻り、彼女のいる形跡はないか探した。それこそ僕の思い違いでありひょっこりと「ただいまですよぅ」とか言って帰ってくるのではないかと思っていたのだ。
馬鹿な事に、まだそんな事を考えていたのだ。その時の僕は。
結局、その日は道具も何もかも置きっぱなしだったので、とりあえずここに帰ってくる事に間違いないだろうとアルコールで揺れる頭から抗えず、布団に倒れ込むようにして眠った。その時、華子さんの匂いがした気がして一度目を覚ましたが、起き上がることが出来ず、そのまま深い眠りへと落ちた。
次の日。
源さんを起こして僕の描いた絵をプレゼントし、その中に入った領収書と僕のメッセージに涙ぐみながら彼は何度もお礼を言った。僕が「身体が資本。病気にはくれぐれも気をつけて下さいね」と言って、最後に朝食を一緒に取ってもらうことにした。
いつもと同じように朝食を作り、まだ昨日の飲み会のせいで覚醒しきらず二日酔いで痛む頭のまま華子さんの襖を叩いた。全く返事が無い事から、昨日の不安が覆ってはいたがすぐ自分に大丈夫さと言い直し、まだ帰って来ていないんだな、と思ってそこを開ければ――
何も、無かった。
華子さんの風呂敷も。
トランクも。
数々のリンゴグッズも。
花柄の布団も。
恋愛小説も。漫画も。
何もかもが。無かった。
生活していた空気のようなものすら残さず、まるでそんな存在は最初からいなかったような錯覚すら覚える、漂白された世界がそこにあった。
僕は急いで携帯のある自分の部屋まで走り、そこから華子さんの番号にかける。『お客様のかけた番号は現在使われておりませ――』という電子音が聴こえ、直ぐにメールを打つ。しかし即レスが基本の華子さんらしくなく、返ってくる素振りすら無い。その間に、動転した心のままに小豆さんの携帯に電話をかけた。もしかしたらいるかもしれない、番号に繋がらなかったのも、もしかしたら携帯を買い替えたばかりで、それでまだ僕はその新しい番号をもらってないのだと、そう自分を納得させるために必死だった。
電話がかかり、小豆さんの『はい……、もしもし御手洗ですがぁ……こんな時間に何の用だムーミンテメェ……大した様じゃなかったら殺すぞマジで』と恐ろしく不機嫌な声で言われた。姉妹だけあって朝が弱いのは同じらしい。いつもならほのぼのする所なのだろうが、今はそんな気分など一寸たりとも起こす気は無い。
「小豆さん、そっちに華子さん行ってますか!? 行ってますよね、行ってるんでしょうねえ!! いるって言ってくださいッ!!」
僕が半ばパニックを起こしかけているのを聴いて、即座に目を覚ましたらしく、「どういう意味だおい」と口調に芯が通る。それを聴いて尚更その可能性が低くなった事に焦る僕は、
「いないんです!!」
「はあ!?」
息を吸い込み、大音量で、僕のおそらく人生上で最高に大きな声で、
「――華子さんが、いなくなったんですよぉッ!!!」
僕は悟った。これまでは華子さんをただ見て喜んでいるだけで良かった。そして徐々に彼女との距離を埋めていけるはずだった。でも、違った、全然違ったのだ。華子さんは、華子さんは僕にとってもう、いつの間にかそんな存在では無くなっていたのだ。
「お願いですッ小豆さん!」
僕はもう子どものように泣きじゃくりながら、必死で言葉を紡いだ。それしか、僕に今出来る事などなかったから。
「一緒に、探して下さい、華子さんを、僕、まだ彼女に、言いたいこと全然言ってない!! 華子さんの事、まだ全然、よく、知らない、全然知らない、知らない、知らないんですからあッッッ!!」
耳元で小豆さんの声がする。「落ち着け」とか「今からそっちに向かう」とか、「詳しく話を聴かせろ」とか言う声が聞こえてきたが、僕にはもう何も考える事が出来なかった。
源さんがおずおず家の中の僕に話しかけてきた。
「何かあったのお……ねえ、大丈夫なの、ムーちゃん。顔真っ青よあんたぁ……?」
食いしばった歯が軋む音がした。まだ源さんは僕の方を見て何か言っている。
どおんッ! とちゃぶ台を思いきり叩いた。源さんが驚いて息を飲む音がしたが、構わなかった。殴った手が痛む。
だけど華子さんがいない方がよっぽど痛い。胸が。痛い。
僕は痺れる拳を震わせ、ただ俯くしか出来なかった。
3
「最悪、だな」
そう言ってから髪をぐしゃぐしゃと掻き回して小豆さんは荒々しくポケットから煙草を取り出す。口に咥えるとすぐにライターから火を出し先端に火を灯す。紫煙を吐きながら、また再び上から髪を掻き上げる。ざあっとその赤茶色の髪が流れるように肩に落ち、ふわりとシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
僕はそんな女性の匂いに普段なら心ときめかせるのだけど、今は全くそんな気分になれなかった。事態は一刻を争う。僕には、いや僕達には時間が無い。それだけは確かだった。
「くそったれ……まさかこんな事で昔を思い出しちまうとはな……完璧誤算だったぜ……」
小豆さんは荒々しく一本目を吸い終わり、早くも二本目を口に咥えている。僕はそんな場合では無いというのに無意識に灰皿を持ってきて彼女の前に置いた。無言でそこに二本目を勢いよく押し付け潰す。僕の方を殺すくらいの勢いで睨みつけてくる小豆さんに、僕はどう返せばいいものかただ唸るしかなかった。
目を外に向ければぽつぽつと雨が数滴窓ガラスに跡を付けている。
僕は小豆さんに自分でも最高に不機嫌な感情を持て余しながら、訊く。「間違いないんですね?」そう言った後、小豆さんはため息をついた後、説明してくれた。
小豆さんが疲れ切った顔で言う事によると、華子は今携帯の番号も使ってないし、仕事もしていないらしい。
通常、そういう時は何らかの処罰の対象になったり、賃金の減額などもあるらしいのだが、そこは上司である小豆さんの尽力により、何とか回避されている状態らしい。そしてここが重要なのだが、一端妖怪がある地域に住民になってしまうと、その市町村にどうしても妖怪は縛られてしまうものらしい。
つまり、妖怪派遣会社側がその登録を確認し、その状態を了承すると、理由なくその場所から離れられなくなるのだ。
もちろん、それは建前上の物であることが殆どだが(旅行や休日に出かけたりする際は大体スルーされるくらいの緩さ)今回のように、誰かを傷つける可能性があったり、音信不通になるような場合にはその『場』に縛り付けるような処置をこうじる。
つまり、その住民登録した場所から移動できない。華子さんのように移動手段が異端であり、かつ速度も速い場合にも有効な処置として、つまりはここ宿借町から華子さんは一歩も出る事が出来ないらしい。
それを聴いた僕は、しらみつぶしに華子さんが行きそうな所を当たってみた。
だが、一向に手掛かりはおろか、その存在の欠片さえ見出すことが出来なかった。
初日にはまだあった希望もだんだんと擦り減り、二日目にはもう当たるところが無くなってしまう。
「どうしたらいいんだよ……」
思わず誰かにこの苛立ちをぶつけてしまいそうになる僕は、腿を思いきり拳で叩く。いけない、焦っては駄目だ。こんな感情のままではいけない、大きく息を吸い、吐く。そんな事で落ち着けたら苦労しない、と自分の中で愚痴りながらも。
途方に暮れる僕と、僕と一緒に彼女を探していた小豆さんは、疲れ切って夕方、『トーベ・ヤンソン』に帰ってきた。するとそこに、大小の人影が映った。
さらさらした雨が降り続いている。そこに派手な紫色のバラが描かれた傘と、シンプルで頑丈そうなオレンジの傘が二つ、暗くなってきた商店街に色を添えていた。
そこに居たのは二人の親子だった。『CLOSE』とかけられた店のドアの前で一言も互いに発さずに立ち続けている彼らに、僕は疲れながらもなんとかまだ働いている頭を使って考える。
何故、ここにいるんだろう。この二人。
そう僕に思わせたのは一昨日僕の家に泊まった源さんと、その横で腕を組んでむっつりしている源さんの娘である恭子ちゃんだった。
二人は僕達を見ると、いつもの様にふざけた顔は微塵も出さず、「どうなの? 今ちょうど店閉めてそのまま来たんだけど、やっぱり開いてないから。今電話しようと思ってたのよ。……で、どうなのよ華子ちゃん、ホントにいないの?」
源さんのいつもと違う低いトーンの声に若干驚きながらも、僕が無言で首を振ると、「そう……」とだけ言って後ろを向き、誰かに電話し始めた。その声をぼんやりとして聞きながら、視線をその隣にいた恭子ちゃんに向ける。
恭子ちゃんは若干居心地悪そうに身体をよじったが、すぐに顔に不機嫌とも心配ともつかない表情を浮かべ、「通りかかったら、ゲロ親父が変な顔してるからさ……話聞いたんだよ」とだけ言った。
恥ずかしそうにも見えるその顔に、何故か心が軽くなっていく。
きっと、ずっと居づらい源さんの隣で待っていてくれたのだろう。
僕が「ありがとう」と心の底から出た本心で言うと、「べ、別に何もしてないわよ私は……」と真っ赤になりながら言った。その言葉に隣にいた小豆さんも微笑み、「やっぱお前の人見る目は正しいみてえだな華子……」と呟いていた。僕はその言葉の意味がよく解らなかったが、何となく張りつめた冷たい空気が氷解していくのを感じた。
その時、電話を終えたらしい源さんが僕らの方に振り返り、
「いよし、準備出来たわよ、ムーちゃん!」と笑顔で言った。
何のことか解らず、僕が目を瞬かせていると、彼は笑って、「お礼よ~」とウインクした。
「絵も貰ったし、ツケさせてもらってるしね、気持ちよ気持ち❤」
と言われても。とは思ったのだが、その隣で恭子ちゃんが「うざ……」と言いつつもどこかおかしそうに笑っているので僕も微笑んでいると、
「こういうのはね、『人海戦術』に限るのよ」
源さんはにんまりと僕の方をいやらしく見て、「見てなさい」と言い、
「華子ちゃんがこの町にとってどれほどの存在か、思い知らせてあげるから」
僕の隣で小豆さんが「は」と空気が漏れたように笑った。
小豆さんと源さんは笑い合い、
「悪ィな源。恩に着るよ」
「小豆ちゃんらしくなぁ~い、いつもみたいに罵って~」
「あいつが見つかったら、嫌という程やってやるよ」
「あ~ん、楽しみィ~」
普段じゃれ合っている二人だからこそのやり取りに、僕の方もようやく視界が開けた気がした。でも時間が無い。小豆さんいわく、こういう状態になった妖怪は、何をするか解らない、自我が曖昧になってしまう事が多いらしい。
あの華子さんが人を傷つけるだなんて考えたくはないけれど、それを防ぐためにも、僕達は華子さんを見つけなければいけない。一刻も早く。
だが、その前に、僕にはやることがある。
それは、全くの予想でしかなかったのだが、理由としてあるのならば、当たっておいて損はないと思った。携帯に登録したばかりの番号をプッシュする。
出たのは――
4
後悔ばかりはしていられない。それは、もっと後になってでも出来る事だ。
ならば、今は集まってくれたこの人達に感謝しよう。
そして僕も出来る限りの事をしよう。
そう思いながら雨が降りしきる中、飛び出していってくれた皆の分のコーヒーと麦茶やジュースといった飲み物、サンドイッチやお握りなどを作っていた。
店に残った僕達は、探してくれている人たちが休憩出来る様にしていた。
今日は休日とはいえ、忙しい中駆けつけてくれた人も多い。そんな中、捜索に協力してくれる皆に何も出せないというのでは、喫茶店経営者として最低である。汗を拭きつつご飯を握り、隣では協力してくれる主婦やあのいつもサンドイッチをカウンターで食べて行く女子高生の姿もある。肩までの艶やかなショートカットが綺麗な、はっとさせられるような美人であり、今日は彼女の呼びかけによって集まってくれた子達も多かった。
僕が本当に恐縮しながらお礼を述べると、彼女は笑って「いいって。私が協力したかったんだしさ」とさばさばとした物言いで手を振って答えた。
それにしても、と僕は思う。
いくら華子さんが皆に好かれているからといって、あんなにあっさり彼女が妖怪であったり、ましてや『トイレの花子さんの一人』であるという事実を認めてくれたことが信じられなかった。
逆に僕なら、絶対に信じないか、信じたとしても半信半疑だったことは間違いない。それなのに、皆あっさりとそれを疑いもせず探しに行ってくれている。
外はだんだんと雨足が強くなり、激しく窓ガラスを叩いている。見つからなければまた明日探すことになるだろうが、明日はもう平日であり、探す人もぐっと減ることだろう。その事も考えた上で、今日という日はもう逃せない華子さんを見つけるチャンスだ。
「なんで皆にあんなにあっさり華子さんの事信じてもらえたんだろう……」
僕が首を少し傾げながら考えていると、くすりとその女子高生が笑い、
「慣れてるからかな。華子さんみたいな人がいるってことも……アンタみたいな底抜けのお人好しがくっついてるって事も」
そう言って彼女はまたお握りを握るのを再開する。
意味が全く解らなかったが、周りの人も同じように柔く微笑んでいたので、深くは考えない。まあいいじゃないかそんな事は、と暗に言われているようだった。
そして、僕は胸ポケットに入れたものをもう一度触って確認した。
昨日、連絡を取らせてもらった彼から、その人に会わせてもらえるように頼み、車を借りてこの宿借町から少し離れた風車市のある家へと向かっていた。
そこで会いたかった人物の話を聴き、ある物を預かった。彼女が今は一応元気にやっている事。信じてもらえないと思ったものの今は妖怪である事。そして彼女が今昔のショックをで見つからない事など。包み隠さず全て話した。それからおもむろにそれを書き始めると、丁寧に封をし、これが華子さんの元に渡ることを、彼は涙を流して願った。
自分の過去への贖罪が、ようやく果たされることの喜びを伝えながら。
信じてもらえないどころか、その現在の華子さんが生まれた秘密さえも知ることが出来た僕は、軽くなったような、それと同時に凄く重苦しい気分にもなり、その人の家を去った。彼を責める事が出来るのは、おそらく華子さんだけ。この世にただ一人、『綺麗華子』さんだけだ。
一心不乱に、僕は握り飯を握る。雨合羽を着た協力してくれる人たちにタオルを持っていく。カウンターでは汗をかきながら皆が軽食を作り、お茶を出し、時折目には見えない誰かがいるのか、勝手にお握りが減っていったり、各々が全力でただ一つの目標、華子さんの捜索に向かっていた。
だが、一向にかんばしい成果は上がらず、疲れも出始めると同時に、何故見つからないのか、という苛立ちも出て来ていた。
現場の指揮を執っている小豆さんと源さんからももう皆目見当が付かないと言っていた。
店内の壁には大きな宿借町の地図が張られていて、探した所はすぐに×印がつけられているのだが、もう探していない所の方が珍しかった。
だが僕はその壁を見て直観的に解り始めた。いや、解っていたのだ、最初から。彼に話を聴いてから。でもそれが間違いだった時、打つ手が無くなってしまうので言いだせなかっただけ。だんだんと多くなる×印に、僕は決意した。
捜索は、雨が酷くなってきたことから九時には終了する事になっている。
今、八時四十分。もうすぐこの華子さんを探す集まりも終わる。
華子さんを必死に捜索してくれている店内が喧しくなっていく中、僕は一人決意する。
華子さんを、取り戻す。もう一度、あの華子さんに会う。これを、渡すためにも。
風が唸って、辺りの木々をざわつかせている。
時計は、否応なしに僕達に迫ってくる。誰にでも平等に。あるいは不平等に。
5
室内は、カウンターの所だけ明かりが付いていた。
轟々という風と雨の音が時折思い出したかのように壁を震わせる。
店内は僕ともう一人、小豆さんだけがいた。
結局、華子さんを見つけられないまま捜索は終了し、その場で皆自分たちのせいではないというのに申し訳無さそうな顔をして帰っていった。
呼びかけてくれた女子高生とその仲間の子達は最後までもう少し残って探すと言ってくれたのだが、僕の方から遅くなると皆の家族が心配するし、本当に今日はありがとう、今度はきちんともてなすから楽しみにしててね、と言いコーヒー一杯無料券を全員に渡した。そして全員が去った後、残った僕と小豆さんでどちらが言いだしたわけでも無く、晩酌する形になったのである。
僕は小豆さん用に買っておいた焼酎を取り出し、コップに並々と注いだ。
疲労の陰が色濃く残っているその顔に、何も言わずコップを置く。
小豆さんは無言でコップを掴むと思いきりそれを傾け、一気に飲み干した。げふっという大きなげっぷと共に、もう一杯と手でジェスチャーをし、僕は苦笑しながらまた注いだ。いつものようにスルメとマヨネーズを出し、皿に乗せて出した。これも何も言わずに小豆さんは無言で口に持っていき、スルメを引きちぎり、食べ、時折マヨネーズを付けて食べ、焼酎をあおった。
僕はそんな小豆さんをただ見ていた。見るしか出来なかったと言うべきかもしれない。それほど、この三日間は彼女にとって辛く重い時間だったのだ。
そっと自分のコップにも酒ではなくオレンジジュースを入れる。黄色と赤を混ぜたような色をした濃いめのオレンジジュースは昔からの好物だ。酸っぱさすら感じるようなこれを、今まで何杯飲んだことだろう。きっと千杯は超えているだろうな、とどうでもいい事を思う。
「責めねぇのかよ」
今まで黙っていた小豆さんが、コップを握りしめたまま、その少し震えているせいで表面に波紋が出来ている中身をじっと見つめ言った。何を、と訊くまでもなく、僕はオレンジジュースを飲んだ。酸味が口一杯に広がり、顔を少しすぼめる。
ことんと自分のコップをカウンターに置くと同時に、再び声が聞こえてくる。
「結局見つけらんなかったあたしをよ」
ぐいっとコップを傾けた小豆さんの顔は、早くも紅潮し始めていた。強いと思っていたけど、今日は色々あったから、酔いが回るのが早いのかもしれない。
そんな小豆さんは僕の方を見て、今にも泣き出しそうになりながら小さく呻いた。
「……どこにいんだよぉ、華子ぉ……」
僕は何も言わず、またオレンジジュースをコップに注いだ。
その行為を見つつ、酔った頭を振りながら小豆さんは叫ぶ。
「罵ったらいいだろうかスカしたフリしてんじゃねえぞムーミン!!」
僕はふうと息を吐き、静かに言った。
「行ってきます」
突然の僕の言葉に、意味が解らない、とでも言うように小豆さんは目を真ん丸にして僕を見た。
「何言ってんだ、お前……どこ行くって?」
僕は笑って、雨合羽をカウンターの下から持ち上げると、「ちょっと」と言ってそれを着込む。ますます解らない、とでも言うように首をぶんぶん振り、小豆さんは僕に向かって吠えた。
「だから、一体どこへ行くってんだよ、ムーミン!!」
「華子さんの所です」
「はあ!?」
最大の謎が目の前にある、とでも言うように全身で驚きと苛立ちを向けてくる小豆さんに、僕は華子さんが驚いた時と似てるなあと場違いな感想を思う。
二の句が継げずにいる彼女に、僕は頼むことにする。
「お願いがあるんです、小豆さん」
そう言った僕の顔を見て何故か何も言わなくなった小豆さんは、僕が頼んだ言葉の意味を図りかねているようだった。
「……んなことしてどうするってんだよ、確かにアイツは苦手だけど……」
「お願いします。まだ華子さんが僕の予想通り昔に戻っているんだったら、凄く大事な事なんです」
「だからさっきから何言って……」
「いるはずなんですあそこに。じゃ、あとよろしくお願いします」
「ちょ、私も行くって、あ、おいムーミン待てって、おい!!」
雨合羽を着込んで、僕は外へと飛び出す。そういえば、今日は暴風注意報が出ていたのを思い出した。
こんな空まで華子さんが来た日と同じだなんて少し笑ってしまう。僕は裏手にある車庫に行って原チャリを引っ張り出してきて跨る。ヘルメットをかぶり、アクセルをふかして店から出た。
雨がヘルメットに付いて跳ねて水滴となる。周りの空気が皆勢いよく後ろへと消えて行く。進む。
華子さんがいるであろう宿借小学校に。
その、五年生の女子トイレに。
6
「やっと着いた……」
ガタゴトと原チャリを引きながら、僕は荒れ狂う暴風の中でその校舎の入り口に立った。
「どうでもいいけどよく生きてたなぁ僕……」
そう、途中何度かこの嵐の中で原チャリごと転びそうになり、文字通り死ぬ気で走ってきた。結果、ズタボロの泥まみれで今こうして立っている自体不思議な状態だった。
「雨合羽がここまで役に立たない状況っていうのも、中々珍しいんじゃないか……」
一人呟きながら一つ大きなくしゃみをする。内側から雨が染みて来てしまっている用無しの雨合羽を思い切って脱ぎ捨てる。
寒い、でもそんな事を言っている場合では無い。ここまで来てしまえばやることは一つ。それは、
「全く、世話の焼ける人だよ君は」
やれやれとため息をつきたくなるが、気が付くと何故か少しの笑みに変わっていた。本当にさ、君って。
「待っててよ、華子さん」
引きずってきた原チャリを木製の自転車置き場に置き、運転の緊張で痛む節々に喝を入れ、玄関に向かう。懐中電灯を取り出して点けた。
用務員さんやセコムに連絡が行く事は考えたが、どう考えても上手い説明は出来そうに
無い。仕方なく強行突破する。使いたくなかったが、一本の針金をポケットから取り出し、玄関のドアの鍵穴の前にしゃがみこみ、針金を差し込む。少しいじること数十秒、中をいじるとガチャリと鍵穴から開く音がし、苦笑いしながら僕はノブを回して中に入った。
褒められた事ではないが、昔バイトで何でも屋みたいな所で働かせてもらっていたことがあり、いつ使うんだというような技術がこんな大切な所で役立つとは夢にも思わなかった。
「してる事は完璧に泥棒か変質者だけどね……」
憂鬱になりながら僕は急いで校舎の三階を目指す。
僕も通っていたこの校舎は、改築をしているようだが構造自体は全く変わっていない。
一年生と二年生、三年生と四年生、五年生と六年生がそれぞれ一階、二階、三階に分かれており、(僕の時は)トイレもそれぞれ階に一つずつ付いていた。
何らかの理由で階が逆になっていなければ(友人の学校ではあまりに三年生が荒れて安全のために一階に移されたという冗談のような事があったらしい)そのまま五年生のトイレ、目的の女子トイレがある。我ながら本当に見つかったら社会的に終わるような事をしているなあと他人事のように思った。
夜中に小学校の女子トイレに無断で忍び込んだ男となれば、僕は明日から明るい日の下で生きる事は難しくなるだろう。それこそ洒落にならない話である。
薄暗い校内に入り、正面に職員室があり、その廊下の両端に一つずつ階段がある。確か記憶に間違いなければ左の階段の方が三階に行くには早かったはず。迷わず左に走り、階段を一段飛ばし上がっていった。途中息が切れ、喉の奥が荒く鳴く。くそこんな事なら普段からもっと運動してりゃよかった、と悪態をつきながら進む。二階に着き、そこから更に上の階段を目指す。足が痛い。履いているのは運動靴のはずだが、どうにも濡れて重くなり思うように動かなくなっている。土足のため、校内には泥の跡だらけだが、捕まるにしてもやることをやってからだ。
唐突に小学校の通知表の事を思い出す。
『一つの事を終わらせてから次の事をするともっと良いでしょう』
走りながら笑いそうになり、慌てて口元を引き締める。でもにやける。そうだ、僕は変わっていない。何も、変わっていない。この場所で学んだ時から何も変わっていない。僕は、あの時のまま、こうやってここに立っている。だから、『一つの事を終わらせるため』に彼女に会いに、ここに来ている。
三階に来た。僕は記憶よりもずっと新しい校舎の中、新しいトイレ、その赤いスカートを履いた女の子のマークを見つけ、そこに近づく。
時間が無い。おそらく鍵を開けた事により警備会社が向かっているはず。用務員さんはどうやらいない様だが油断は出来ない。猪突猛進が出来なくなった時、猪は狩られるだけ。急がないと。
駆け足でトイレのドアに手をかける。
本当に合っているのか。
そんな疑問とも不安ともつかない気持ちが湧きあがってきた。本当にここでいいのか。
華子さんがいる確率はここが一番高いのは間違いない。
だが、間違っていたら? こんな所には既に居らずどこか別の場所で誰かを見境なく襲っていたら?
僕は今、本当に正しい道を選択しているのか?
そんな恐怖がじわじわと掌から冷たいドアノブより浸食される錯覚に陥り、一瞬この場から急いで離れ逃げ出したくなった。
別に僕じゃなくてもいいんじゃないか――
そう思ってしまった事自体、ショックだった。
そんな事を考える自体、精神的に華子さんに対して裏切ってしまったような気さえした。
逃げ出したい。助けを呼びたい。こんなこと、しなくていいじゃないか、僕が、僕自身がやる必要なんて、ないじゃないか、そう思いたくなる。
震える。ドアノブを持つ手が冷たくなる。心もどんどん固く、狭く、小さくなっていった。止めたい。背を向けたい。
僕がしなくちゃいけない訳じゃない。
頭が、非情とすら言えない様な重苦しい思考に囚われはじめる。道が見える。見えないが、確かに感じる。これが、僕にとっての、二つに分かれた大きな分岐点なのだと。
止め――
『ありがとうですよう、民ちゃん』
俯いて床を見つめていた僕に、声が聞こえた。それは、ほんの短い間に交わされたいくつもの些細な、たあいない、彼女の、何気無い言葉。表情。香り。体温。息遣い。その全て―
『待ってますよう、ずっと。ずっと――』
「くそったれがあッ」
無意識に叫んでいた。
思いきりノブを握り直し、思い切り開け放つ。
待ってんじゃねえよ。僕みたいなどうしようもない奴を、そんな笑顔で、安心しきった顔で、
「待ってんじゃねえよ」
背をかがめて入った女子トイレ。その、ドアの手前から三番目。
真っ赤に染まったドア。
血のように、いや、あれは血でしかない、血にしか見えない、そんな、塗りたてのペンキのように赤い、三番目の、ドア。
思わず息を飲む。喉が、動く。
いた。
『トイレの花子さん』の一人。
数々の伝説を纏ったものの一人が、確実にそこに、いる。
寒い。それは温度のせいでは無い。
こんなに寒いと思った事は、生きていてこれまで無かった。
開ける事を躊躇わずにはいられない。
そんなドアだった。
7
少しずつ、少しずつ、近づいていく。距離にして十歩ほど。しかし、その十歩がこれほどまで遠く感じるのは、生まれて初めてだった。
今まで、僕は妖怪や、幽霊や、神様仏様は人生の中で全く、本当に全く、縁遠い存在だった。
そういうものを見た事も無かったし、これからも見ないのだろうと思っていた。それが普通なのだと思っていた。
それが今、こうして最大級の恐怖として、僕に向かって襲いかかろうとしている。
見る者聞く者触れる者全てを冷たい世界に引きずり込む存在に、今、向かい合っている。どんな冗談だ、と言いたくなる。どれだけ、僕を引っ張り回せばいいんだ君は。
いや、違う。今は、違う。この中にいるのは華子さん―綺麗華子では、無い。
レイプされ、傷つき、痛めつけられ、そしてその後にさえ傷つけられてしまった一人の女の子、だ。
――『トイレの花子』さん。
手が震えるドアノブを握る。汗が、冷たい汗が止まらない。でも、一瞬、ほんの一瞬だけ目を瞑り、開け――
ゆっくり、押す。
開く。見える。
動いていく。扉が。前に。見える。
俯き、見える。
その、身体を、顔を、見える。真っ赤。
見える。
ドアが完全に開く。見える。その、だらりとした腕と、狂気をはらんだ瞳と、真っ赤になって血を含んだ、ごぽりと、まるでこの時のために用意しておいたと言わんばかりの、どろりとした血を垂れ流しながら。見える。
バケモノが、いた。少女の形をした妖怪、という言葉がもっとも当てはまる血まみれのモノが、いる。
悲鳴を上げない事にここまで努力が必要だとは思わなかった。何だ、何なんだ、これは。誰だ、これは、目の前にいる彼女は、いやコレは何だ――
その口が、血で満杯の口が、ゆっくりと三日月のように作られ、ゆっくりと、こう言った。
――ナンデ、ダレモ、タスケテクレナイノ?
華子さ――と言おうとした所でその細い腕が僕の首を締め上げる。見えない、まるで動きが見えなかった。見ようとも出来ず、気が付けばおかしな事にその小さな身体で、腕のはずで百九十センチはある僕の身体を軽々持ち上げていた。
動けない、息が出来ない。何も出来ない。ただ、ジタバタしてかろうじて腕と脚が動くくらい。
短い息が漏れ、本当に〝目が霞む〟という現象を体験する。
来い、来てくれ、早く、今しかない、今しかない、今しか、出来ない事なんだ。だから。早く。今――
早く、来い。この野郎。
息が続かず、本当に脳に酸素がいっていないとはこういう事かと思い始めた時、記憶の中からつい先ほど交わした会話が蘇る。
原チャリでここに向かう前、小豆さんに訊いておいた質問。
知り合いの神様に『雷神さま』というのはいるのか、という質問に彼女はこう言った。
『それなら、この店に時々来てたぜ。お前は見えなくて当然だろうけどな。それがどうしたんだよ』
その後、僕は小豆さんにこう頼んだのだ。
僕が頼んだ時に、すぐ近くに雷を落としてもらう事は出来ないでしょうか、と。
その時の光景が霞んできた思考の中で鮮明に浮かび上がった。来てくれ。早く。
轟音が轟いた。
辺りを一面焼き尽くすかのように燃え光る、まばゆい閃光。
視界を焼き、右手側に見える窓から目を瞑りたくなる程の明るさと共に来る。
爆発的な威力を持ち、そしてエネルギーを持つ自然界の放電。
――雷、が。
どさり。と僕の身体が冷たいタイルの下に落ちる。
思い出したように酸素を欲する身体が、急いで肺を、喉を動かし、体内に取り入れる。咳き込みながらタイルに手を付き、痛む喉に手をやり、涙で滲む瞳を開け前を見た。
そこには、自分の身体を抱いて必死に僕から遠ざかろうとする彼女がいた。向こうのトイレの奥の壁に肩を付け、固く瞳を閉じている。その雰囲気から、もうそこにいるのは先程までの狂を含んだ『花子さん』では無く、身体は幼いが僕のよく知っている人物、紛れも無く、あの『人』だった。
がたがたと震えながら縮こまらせている彼女は、しきりに呪文のように「先生……先生……助けて先生……」と呟く。初めて一緒に寝た時の寝言のように、ぶつぶつ、ぶつぶつと悲しげに。
「――おかえり、……華子さん」
今の彼女には言っても解らないだろう呟きをして、首が引きつれて上手く出来なかったが笑みを作る。
帰ってきた。あの華子さんが。
ひとまずこれで、第一段階は成功した。後は、僕が間違わないだけ。
本当に、彼女が帰ってくるための、大切な儀式を。
震えているその小さな少女に、僕は近づくために立ち上がる。
その顔から、涙を止めるために。
それが出来るのは、今の所この世にただ一人、僕だけのようだから。
8
その子は酷く怯えていた。
まるでこの世の終わりが来て、まさにそこへの扉が音も無く開き始め、そして目の前に絶望という壁となって立ち塞がっているかのように。
小さな声で「先生……先生……」と呟いている彼女に、僕は深く鋭い痛みを感じた。
この子が言っている『先生』は、もうここにはいない。
この子が待っているその恩師は今はもう遠く離れた所にいる。
そのどうしようもなく健気な姿に、当時僕には何もできなかったとはいえ、憐れみと後悔すら覚える。
だが、今はその事は考えまい。
今は、この子の涙を止める事が先だ。上手く出来るか解らないが、やってみるしかない。
一歩一歩確かめるようにトイレの中に入っていく。血濡れたように赤いドアやトイレの中に足を踏み入れる。びくりと動揺と恐怖と驚きでもう行き場の無い壁にこれでもかと背中をくっつけて、彼女は目を閉じる。「先生……助けて先生……」と口の中だけで唱えながら。
僕はしゃがんでその子の前に屈みこんだ。言う。
「もう、その先生はここにはいないんだよ」
ばっと顔を上げ、恐怖と失望と後悔とが入り混じった顔を向け、彼女は僕の瞳を覗き込んだ。驚くほど澄んだ黒目には星が輝くように濡れており、その真っ直ぐに僕を見つめる彼女に思わず息を飲む。小柄で、線も細く、それでいて誰かの心を離さない不思議な雰囲気は間違いなく華子さん、『綺麗華子』そのものだった。
その顔に向けて、ビニール袋に入れておいた一つの手紙をポケットから取り出し、中身を出して彼女に渡した。
「預かって来たんだ」
そう言って小さな掌にそっと置く。
「読んでみて。君が大切に思っていた『先生』が、あの時の事をどんなに後悔しているか。知ってほしい。君を見捨てた事を心の中でどんなに悔やんでいたか。そして最後に君に知ってほしい。君は、一人じゃないんだ、って事を」
僕は内心涙が出そうになりながら言った。なんて偽善的なんだろう。なんて嫌なお節介なのだろう。一人胸に黒いものを渦まかせながら思考の縁へと乗り上げる。
その手紙は、当時小学五年だった華子さんが、一番大切にして、また尊敬していた担任の先生、『中村清砥』さんから預かってきたもの。
夢中でその手紙を読んでいる彼女に聞こえないように、小さく嘆息する。
渡せてよかった、という思いと、こんな事をしていいものなのかという自己嫌悪に陥りながら。
華子さんと小豆さんには両親がいなかった。元々夫婦仲も子供を育てるという気持ちも薄かった彼らはある時市内の孤児院の前に二人を置き去りにした。簡単に言えば養う事を放棄し、他人に押し付けた最低の親、ということだった。
それでも二人は温かい孤児院の仲間達や職員によって、元気に成長していった。
そんな時、華子さんが小学校五年生の時、初恋が生まれる。
相手は当時担任だった新任教師、中村清砥先生であり、その恋心は一気に燃え上がる。
当時の事を彼の家に尋ねた時、笑ってこう答えていた。
「教えているはずの僕でもドキッとするくらい綺麗な顔で言うんですよ。『先生、愛してます』って。びっくりすると同時に困惑しましたね、あんなに真っ直ぐに見つめられたら、誰だってそうなると思いますよ」、と。
そんな時だった。
彼、中村清砥さんは重たい声で話し始めた。
あの時の事を。今、熱心に読んでいる華子さんに対してしてしまった最低の行為に対して、遅すぎた懺悔を。
黙って聴いていた。
一人の男がしてしまった、魂を潰すような切なく痛い昔話を。
僕はどちらにも同情するしか出来なかった。
僕がその立場でもそうしてしまうかもしれないと、思ったから。
9
当時、担任だった中村先生に一番よく懐いていたのが何を隠そうずっと前、生前の華子さんだった。
中村先生には当時彼女と同い年の男の子がいて、それが中村清掃さんだった。よく家にまで遊びに来て、清掃さんと夜遅くまで庭や近所で遊んでいたそうだ。
中村先生に奥さんは「モテるわねえあなた」と冗談交じりにからかわれているくらい華子さんの熱の上げっぷりは凄かったらしく、気が向けば先生に好意を示し、また拙いながらもラブレターを渡していたらしい。
そんな彼女に先生は多少困惑していたらしいが、それほど好いてもらえるのは純粋に嬉しかったらしく、彼女にも優しく接していた。
そんな時、悲劇は起こる。
いつものように学校に向かおうとする中村先生の元に、緊急を告げる電話が鳴った。
それを聴いた先生は、見る見るうちに青ざめ、その場に倒れそうになった。
華子さんとその姉が異常者に襲われ殺された、と聞かされたのである。
先生はすぐさま孤児院に向かい、その事を確認しに行った。
理事長がいう事には、間違いなく事実であること。
そして犯人は捕まったものの、未だ黙秘を続けていることも聞いた。
肩を落とし、先生は学校に着くと、その様々なクレームや抗議の電話で忙しく対応に追われている内に、一人帰り二人帰り、ぽつぽつと同僚の教師が帰宅していく中、どうしても家に帰る気になれず、一人残って仕事をしていた。
何かをしていないと、おかしくなりそうだったのだ。
用務員さんが「お先に失礼します」と言う言葉を聞いて、今晩はここに泊まろう、と思った先生は、仕事を切り上げ、少し休憩することにした。
そして薄暗がりの中、懐中電灯で床を照らしながら三階まで進むと、その華子さんと自分がいつも使っている教室に入り、自然と華子さんの机の前に立ち、そっと表面を撫でた。
今になってようやく涙が出てきて、その雫が机の木目に弾かれた。それを何度か呻きながら繰り返していると、隣のほう、少し離れた所にあるトイレから、何や音が聞こえてきてきた。
不思議に思った彼は教室を出て、音のするトイレ、女子トイレの方に向かった。
中からは誰かがすすり泣く声としゃくりあげる声と誰かを呼ぶ声がし、迷いながらも先生は扉を開けた。
バケモノがいた。赤い服を、顔を真っ赤に染めた、泣き続けている一人の少女が、いた。
彼女を一目見た彼は卒倒しなかったのが不思議なくらいの恐怖を感じた。
その子は自分を見ると急に顔を綻ばせ、こう言う。
「ア、センセイダ。ネエ、タスケテ、センセイ、ワタシ、ココカラウゴケナインデス――」
中村先生は悲鳴を上げ飛び出し、
『近寄るなバケモノ!!』
と叫びながらトイレから飛び出た。無我夢中で走り、用務員室にまで止まらずに走ると、やっと息をつく。
そこで、気付く。何だったんだあれは、え、待て、あれはまさか、まさか――
『タスケテ・センセイ』――
また急いで三階まで戻り、女子トイレを開け放つ。
自分がしてしまった事の大きさに、ようやく自分自身で気付きながら。
誰も、いなかった。
あの、赤い服を着た、真っ赤に染まった身体と顔をした女の子、華子さんは、もうどこにも、欠片さえ、痕跡さえ残さず消え去っていた。
そこには、只一つ、血のように赤い字でタイルにこう書かれていただけだった。
シンジテタノニ。
顔を覆って、中村先生は叫んだ。後悔の悲鳴を。
誰に聴こえてもいいというような声で、大きく、激しく。
今、自分は決定的な事をしてしまったのだ。自分は、取り返しのつかない事をしてしまったのだ。そう思えば思う程、目からはとめどなく涙が落ち、タイルを濡らす。
その床の赤い文字も、だんだんと色を失い、最後に消えた。
中村先生は、一つの歯車が壊れた音を聞いた。
最後の最後で一番自分を信頼してくれていた人を、自らの手で放り捨てた。
落ちた心はガラスのように砕け散り、脆い細工が全くの意味を無くし、欠片が辺りに散らばった。
その床に、膝をついて先生は祈った。
どうかもう一度、もう一度、彼女に会わせてほしい。もう一度だけ、償いをさせて欲しい。そう思いながら。
残酷に時間は過ぎる。
それから、二十五年が経っていた。
10
目の前には、読み終わったらしい華子さんが、しきりに涙を流して笑っていた。
時間はずっと前に戻り、小学生だった頃の彼女に戻っていた。そう、死ぬ直前、彼女の身体がまだ人間だった頃の最後に、立ち戻っていたのだ。
手紙は、今までの後悔と、あの時の事を詫びた言葉が綴られていたようだった。
見ていないから解らないが、彼女の眼は殺気も狂気も消え穏やかな湖面のように落ち着きを取り戻していた。
ゆっくりと笑いながら、
「先生の字、久しぶりに見ましたねぇ……」
と大切そうにその手紙を封筒の中に入れ戻すと、彼女は再び僕を見つめて言った。
「あなたが届けてくれたんですねぇ、ありがとうございますぅ」
気付いていた。だが気付かない振りをしていた。
「初めて会う人にこんな事をしてくれるだなんて、相当のお人好しですねえ、あなた」
僕は拳を痛いほど握り、唇から血が出そうなほど強く噛み締めながら、何とか笑顔を作って答える。
「ただの性分ですよ」
震えそうになりながら、僕はそうとだけしか言えなかった。
華子さんは、成仏する。心残りが無くなった時点で、もうこの世に留まる必要など無いのだから。
例え僕の事を、忘れてしまうにしても。
笑顔で僕は言う。
「これ以上、人に迷惑をかけちゃいけませんよ。お節介な大男からの忠告です」
次第に光り輝き、その姿を霞ませていく彼女に、僕は最後にこれだけは言っておくことにした。
「また!」
彼女が消えかかる直前に、僕は叫んだ。
「また来てください!」
息を吸い込み、大声で叫び続ける。
「待ってますから!!」
華子さんの瞳から涙が零れた。自分でそれに驚き、目元に手をやってしきりに首を傾げている。
僕も涙混じりになりながら言う。
「美味しいコーヒー淹れて、待ってます!! だから華子、さんッ!!!」
光が強くなり、目も開けていられなくなった後、僕はその輝きの中で一瞬、彼女の顔が見えた。
次第に収まってくるその中に溶け込むように、彼女は消えて行く。
手でひさしを作りながら、僕は最後まで目を閉じずに彼女を見続けた。
彼女が大きな声で何か言った気がした。
光が消え、完全に元の闇に戻った中で、誰かが走り込んでくるのが解った。
警棒を持った肩幅の広い男性二人が、僕に大声で腕を掴まれ押し倒される。
為すがままにされる中で、僕はただ泣き続けた。
『また会いましょう』、そう、言われた気がしたから。
都合のいい、幻聴かもしれないと思いながらも。
華子さんが消えたトイレで僕は泣き続ける。
だだっこのように、ただ、泣き続けていた。