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後編

【第三章】

 そこは二階建ての木造店舗が左右に建ち並ぶアーケード商店街だった。

 入り口にある少し錆びたアーチ看板には、川識商店街と書かれている。

 しかし、この商店街をその名で呼ぶ者はほとんどいなかった。

 通りに立ち並ぶ店の軒先には、HARではなく本物の鉄や木でできたレトロなデザインの看板が掲げられている。

「実物の看板なんて珍しいわね」

 言葉が興味深そうに周囲を見回して言った。

「ここの商店街はHARに対応していないからな」

「えーーーー⁉ それ本当⁉」

 信じられないというような声を上げる言葉の横で、絵美は物知り顔で頷いていた。

「言葉さん、アナアナアキのことを知らないんですか?」

「アナアキ?」

「その筋では結構有名ですよ。紙の本とか実際の木や石を使ったゲームなどのアナログなものを今も扱っている、珍しい商店街なんです」

「アナログの商店街でアナ商ってわけ?」

「あと、HARネットに穴が空いているみたいだからという意味もあるようですよ。近々、HARの大型アップデートがありますよね。たしか、その関係で少しニュースにもなっていたと思いますけど」

 少し興奮気味に話す絵美に、言葉はふと思った疑問を口にした。

「絵美は、ここに来たことがあるの?」

「いえ、知ってはいたのですが中々機会がなくて……。一度ここで、紙の本を思いっきり見たいと思っていたんです」

「そうなんだ。でも、まずはクーロンを探すのが先だからね」

 近くの本屋に熱い視線を向けていた絵美は、釘を刺されて少し肩を落としながらも大人しく頷いた。

「まあ、クーロンがここにいるかも怪しいけど……」

 人通りの少ない静かな商店街を見回しながら言葉はつぶやく。

「プリントは紙の表面を好むということですし……。それに、文章様は何か思い当たる節があるようでしたから……」

 絵美が少し期待するような視線を文章に向けて言う。

「神代さんは、よくプリントの好みを覚えていたね」

 絵美の記憶力に感心しながら、文章は話し始めた。

「それもあるけど、師匠がクーロンを連れてきたとき、たしか、ここで見つけたと言っていたんだ。詳しい場所まではわからないけど……」

「だからって、こんな所に来るかな?」

 華やかさの欠片もない、まるで荒野の宿場町のような通りを見ながら、言葉は少し不安そうに言った。

「こんな所か。まあ、お子様には少し早すぎたかもな」

「おじさんには言われたくないわね」

「な……。俺はまだ二十代だ!」

 にらみ合う二人をよそに、絵美は近くの店で立ち止まると、その中をじっと見つめていた。

「ん? どうした?」

 文章が後ろから声をかける。

「あの、こちらのお店は何をされているのですか?」

「ここは、CDショップだな」

 文章は入り口に掲げられた円と音符を形取った看板を見て答えた。

「シーディーですか?」

 絵美は首をかしげて聞き返す。

「音楽の入っている、こういう円盤を売っているんだ。七色に光って、結構きれいだったな」

 文章は説明しながら、両手で輪っかをつくってみせる。

「光る円盤……。空でも飛ぶとか?」

「そんなわけあるか」

 いつの間にか隣に来ていた言葉に文章が突っ込む。

 その横では絵美が、どこか遠くを見つめながら何やらつぶやいていた。

「小さな宇宙人?」

「え?」

「あ、その……。そういう形のプレイヤーなのですか?」

 文章の声に、絵美は少し慌てた様子で質問した。

「いや、CDには楽曲データが入っているだけで、別に機械が必要なんだ」

「そうなんですか」

「なんか面倒ね」

 どこか残念そうに言う二人に、文章は肩をすくめながら言った。

「まあ、師匠が若い頃には既に大分廃れていたらしいからな」

「へー」

「そんな昔のものも扱っているのですね」

 今度は感心した様子で、二人は改めて店内を見ていた。

「さあ、クーロンを探そうか」

 文章は手帳を広げながら話を元に戻す。

「そうね。さっさと見つけちゃいましょ」

 言葉も自分の手帳を広げて言った。

 それを横からのぞき込んだ絵美は、首をかしげながら感想を口にした。

「真っ黒ですね」

「何よ、これ?」

 言葉は文章のほうを向いて尋ねる。

 しかし、そこには手帳を見ながら怪訝そうにする文章の顔があった。

 地図にはクーロンを示す円が幾つも描かれ、商店街が黒く塗りつぶされている。

「クーロンって一人?っていうか一体じゃなかったの?」

「いや、クーロンは一体だけのはずだが、これは……」

 文章は少し考えると、隣の本屋へと入っていく。

「ちょっと、どこへ行くのよ?」

 文章の後を追って、言葉と絵美も続いて店へと入る。

 すると店の奥にいた店主の男が、文章に話しかけてきた。

「いらっしゃい。お、文章じゃねえか。なんだ、今日は両手に花か?」

 無精ひげを生やした男は、にやにやしながら文章を茶化す。

「そんなわけないだろ? 従兄弟の言葉とその友達だよ」

 文章は呆れ顔で店主に答えると、手帳を片手にさっさと棚のほうへと視線を向けた。

 店主は文章の後ろにいた言葉と絵美に軽く手を上げる。

「こんにちは」

「お邪魔いたします」

 言葉と絵美が挨拶を返すと、店主は人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「狭いとこだが、自由に見ていってくれよ」

 それに笑顔で応えながら、言葉と絵美は文章の後を追った。

 そして文章の隣に来ると、言葉は文章に話しかける。

「顔なじみなの?」

「ああ、ここには師匠の用事でよく来るからな」

 文章は棚と手帳を見比べながら答えた。

 そして、一冊の本を手にするとページを捲り始める。

「そういうことか」

「どうしたのよ?」

 文章は、手にした本を開いたまま言葉に渡した。

「これって……」

 それは古い医学書だった。文章が見ていたページにはアルファベットのような文字が並び、所々に手書きで血管や臓器の図が描かれている。

 その手書きの図の中に一つだけ、判子で押したような一センチ程度の円形の模様があった。

 言葉は、モバイルを取り出して一枚の画像を表示させる。

 そして、画像と本の模様を見比べて言った。

「大分小さいけど、これってクーロン?」

「そうだ。劣化コピーだけどな」

「コピーって?」

「プリントにはオリジナルとコピーの二種類がいて、オリジナルは一体しかいないんだが、コピーはオリジナルの体を使って幾つもつくれるんだ」

「オリジナルの子供みたいなものですか?」

 本を覗きながら聞いてくる絵美に、文章は頷いて話を続ける。

「ただ、コピーをつくるたびにオリジナルの体は削られる。このコピーは大分小さいが、それでもこれだけの数があるということは……」

「オリジナルが消えてるかもしれないとか?」

「いや、オリジナルが消えることはないが、相当小さくなってるだろうな」

「相当って、どれくらい?」

「オリジナルはA4サイズいっぱいの大きさだったが、それでもこれだけの数をコピーしたとなると、今は九ポくらいにはなってるんじゃないか」

「A4? ポ?」

「紙と文字のサイズのですよ。九ポということは、大体三ミリくらいですね」

 頭に疑問符を浮かべる言葉に、絵美が得意そうに説明をする。

「三ミリ……」

 その小ささに、言葉は目の前が暗くなった。

 地図に描かれた印は、ざっと数えただけでも二、三百はありそうだった。

「この中からどうやってオリジナルを探すのよ?」

「一つずつあたるしかないな」

「本気で言ってるの?」

 言葉は心底嫌そうな目を文章に向けながら言った。

「しょうがないだろ? この手帳じゃオリジナルとコピーの区別まではできないんだから」

 溜息をつきながら、文章も渋々という感じで答えた。

「面倒なことになったわね」

 そう言って言葉がコピーを軽く叩く。

 すると、コピーはみるみるうちに小さくなって、ついには消えてしまった。

「あれ?」

 言葉の驚く声に、文章も目を丸くした。

 文章が自分の手帳を見ると、そこにあった印も消えている。

「オリジナルに還ったのか? いや、しかし移動とは違うようだし……」

 考え込む文章に、言葉はため息をついて言った。

「もう、二手に分かれて、さっさと片付けましょ」

「では、文章様と私はこちらの並びをあたりますから、言葉さんはそちらの並びをお願いします」

 そう言って素早く文章の腕にしがみついた絵美は、戸惑う文章を無視して、その腕を引っ張って歩き出す。

 しかし、その背後から一本の腕が伸びて絵美を捕まえた。

「ちょっと待った。絵美はこっちよ」「何をするんですか、言葉さん? 邪魔をしないでください」

 襟首を捕まれた絵美が抵抗の声を上げる。

「何の邪魔よ、何の」

「そんなの私と文章様のデートに……、て何を言わせるんですか恥ずかしい」

 頬に手を当てて、絵美は横目で文章をちらちらと見た。

 しかし、当の文章は硬直して前しか見ていなかった。

「戦力的なバランスを考えれば、あんたはわたしのサポートでしょ」

「説得力がまったくありませんね。戦力で言えば明らかに……」

 そこまで言って、絵美は突如目の前に悪魔の気配を感じた。

「何か異論でも?」

「い、いいえ」

 言葉の静かな物言いに絵美は観念すると、文章の腕を名残惜しそうにゆっくりと放す。

「文章様、この件が片付きましたら商店街を案内してくださいね」

「ああ、わかったよ」

 その潤んだ瞳に、文章はぎこちなさと安堵の混じった表情で答えた。

「じゃあ、何かあったら連絡するから」

 連絡用の紙片をひらひらさせながら、言葉は絵美の手を引いて歩いていく。

              ◆

「おかしいな」

 手にしたモバイルを見ながら、モデルのような男は疑問を口にした。

「どうしたんですか、先輩?」

 その隣にいた、少し目つきの悪い金髪の青年が男を見上げて言う。

「モバイルが繋がらないんだ」

「いくらアナ商でも、さすがにそれは……」

 先輩が差し出すモバイルの画面を見た青年は、通信不能を表すバツ印を見て自分もモバイルを取り出した。

「確かに繋がらないっすね。メンテでもありましたっけ?」

 レトロな看板の並ぶ通りを見ながら、青年は先輩に言った。

「こんな昼間にメンテナンスか?」

「そうっすよね」

 腕組みをしながら考え込む青年の隣で、先輩と呼ばれた男――青儀優は胸騒ぎを覚えていた。

              ◆

「勘弁してくれ」

 高さ三メートルはある倉庫の棚を前に、文章は目を覆った。

 棚には将棋の駒箱が所狭しと並べられており、一つの棚でも百個はありそうだった。

「この棚にあるのと、あと奥のダンボールに入ってるので全部だから」

 店主はそう言うと、店のほうへと戻っていった。

 棚の奥を見てみれば、そこには山積みにされたダンボールがある。

「奥のほうから探すか」

 肩を落としながら奥へと向かうと、その肩が棚にぶつかった。

「いってー」

 そう言って肩を押さえる文章へと、揺れる棚の上から埃が落ちてくる。

 文章は少し咳き込みながら棚を押さえると、頭や肩にかかった埃を払った。

 すると、そこへ店主の声が聞こえてくる。

「そうそう、漆塗りの箱に入ってるのは百万以上するから気をつけてな」

「わかったよ」

 店主に返事をした文章の耳に、何かずれるような微かな音が聞こえた。

 何気なく音のした上へと目をやれば、一番上の棚からはみ出している箱が見える。

 箱は微かに揺れながら光を反射していた。

 光沢のある黒地と金色の花がきれいなコントラストを見せる、その高級そうな箱は、ゆっくりと傾きを大きくしていく。

「まさか……」

 そして、それは血の気が引いた表情を見せる文章の顔へと落ちてきた。

              ◆

「次はこの店ね」

 店先のショーウィンドウには、高そうなペンが幾つも並んでいる。

 言葉は、細かな細工の施されたそれらと手帳を見比べていた。

 隣ではガラスへ顔を貼り付けるようにして、絵美が興奮している。

「言葉さん、凄いですよ。これ、本物の万年筆ですよ!」

「へー、きれいな細工ね」

 そう言いながら、言葉は店頭の万年筆に反応がないことを確認すると、店内へと入っていった。

「お邪魔しまーす」

 店内には、棚を掃除していたらしい老人が一人だけいた。

 彼は、言葉を見ると少し驚いたような表情を向けたが、すぐに笑顔を見せると、立派なあごひげを撫でつけながら話しかけてくる。

「お嬢さん、何かお探しかな?」

「あの、えっと……」

 言葉が開いたままの手帳を胸に置いて苦笑いを浮かべていると、老人は手帳の表紙に視線を移し、そして次に言葉の顔を見つめて言った。

「もしかして、書道君ところのお孫さんかな?」

「え⁉ おじいを知ってるんですか?」

 いきなり出てきた書道という名前に、言葉は老人に顔を近づけて聞き返した。

 老人は少し驚きながらも、言葉の顔を見ながら答える。

「ああ、常連というか腐れ縁でな。調査から戻ってくるたびに道具の修理をしてやっておる」

「修理って、万年筆の?」

 言葉は店内を見回しながら聞いた。

「そうじゃ。万年筆はその名のとおり、大切に使ってやればいつまでも使える。それなのに……」

 そう言って溜息をつくと、今度は老人が言葉に顔を近づけて睨むように言った。

「書道の奴ときたら、必ず何本かダメにして帰ってきおる。しかも、毎回おかしな壊し方をしおって……。この前なんぞ、ペン芯が溶けておったんじゃぞ」

「はあ……」

 迫り来るどアップに冷や汗を浮かべながら、言葉は取り敢えず返事をする。

 そんな言葉に、老人は一つ咳払いをすると少し視線を外して言った。

「まあ、なんだ、今度書道に会ったら、少しは大切に使うように言っておいてくれ。えーと……」

 老人が外した視線を微かに言葉へと向ける。

 言葉は、思い出したように笑顔を浮かべると自己紹介をした。

「言葉です。空野言葉」

「そうか。言葉ちゃんというのか。わしは店主の雪村じゃ。よろしくな」

 雪村も笑顔を浮かべて手を差し出す。

 差し出された手を握り返しながら、言葉は厚くなった手の皮と、そこに刻まれた深いしわに笑顔と同じ温かさを感じた。

「ところで……」

 繋いだ手を見つめていた言葉に、雪村が話しかける。

「向こうでこっちを見ているのは、言葉ちゃんの友達かな?」

 後ろを振り向けば、そこには半目でこちらを見つめている絵美の姿があった。

              ◆

「こっちのモンブランやそっちのペリカンは、昔から人気のメーカーじゃな。こっちのステッドラーは製図用品で有名じゃ」

 雪村は万年筆を手に取りながら、それぞれを絵美に説明していた。

「このデ・ラ・ルーって、有名な作家さんが使ってたメーカーですよね」

 絵美も楽しげに話している。

 二人を横目に、言葉は手帳を頼りにクーロンのコピーを探していた。

 黒を基調としたペンが多い中、銀色の細長いペンが言葉の目に留まった。

「ボールペン?」

「違いますよ、言葉さん。これはアウロラのアスティルといって、美術館にも展示されるくらいの有名な万年筆ですよ?」

 いつの間に隣にいたのか、絵美が細身でシンプルなそのペンを見ながら言う。

「これがねー」

「建築家がデザインしたもので、記念品として大切な人に贈られることもあるんじゃよ」

 雪村も近くに来て、絵美と同じようにペンを見つめた。

 しかし、その目はどこか遠くを見るようで、ペン先に映る表情は少し悲しげだった。

              ◆

「ここに来るのは何十年ぶりになるか」

 黒塗りの高級車から降りたスーツ姿の男は、遠くを見るような視線を目の前の通りに向けた。

「速水。例のものは、いつでも使えるようにしておけ」

「はい、青儀様」

 サングラスをかけた男は、後部座席に座る白いタキシード姿の若い男に何かを話しかけると、その男から真っ白なアタッシュケースを受け取った。

 青儀は、車の外からタキシードの男を睨みつけるように見下ろす。

 しかし男は、ただ静かに笑みを返すだけだった。

「青儀様」

 速水が無表情に声をかける。

「なんだ、速水」

「御子息が来ておられるようです」

「優が?」

「はい」

 青儀は少し考えるそぶりを見せたが、

「放っておけ。行くぞ」

 そう言うと、楽しそうな表情を通りへ向けた。

 そして、歩みを進めながら青儀は言う。

「さあ、ゲームを始めよう」

              ◆

「ふう。ようやく半分ってところね」

 店を出ると、言葉は地図を見ながら一息をついた。

 隣の絵美を見れば、店先の雪村に笑顔で手を振っているが、その反対の手には綺麗にラッピングされた小箱が握られていた。

「買い物に来たんじゃないのよ?」

「いいじゃないですか」

 嬉しそうに言う絵美に呆れつつ、言葉は手帳に視線を戻す。

 四角形を基本とした、商店街を表す二列の並びが地図には描かれていた。

 その内、言葉と絵美が担当しているほうの列は、クーロンを示す印が半分まで消えている。

 しかし、文章が担当しているほうの列を見れば、まだ四分の一という感じだった。

「まったく、フミ兄は……」

 言葉はポケットから紙片を取り出すと、少し強い口調で話しかけた。

「フミ兄、何やってるの?」

 少しの間を置いて、紙片から声が返ってくる。

『ちょ……てな……』

「ん? フミ兄、なんか調子が悪いみたいだけど」

『そう……おか……な』

 言葉は紙片を見てみるが、特に紙や模様に変化はなかった。

「おかしいわね」

 紙片を振ってみるが、聞こえてくる音は途切れ途切れで変わらない。

 その様子を見ていた絵美が言葉に話しかける。

「言葉さん、ひとまず文章様と合流しませんか?」

「そうね」

 言葉は頷くと周囲を見回した。

 すると、近くの店から顔を出す文章が見えた。

「フミ兄!」

 手を振って呼ぶ言葉に、文章も気がつくと駆け寄ってくる。

「何かあったか?」

「それはこっちのセリフよ。大分遅れているようだけど、どうしたの?」

「いや、ちょっとした事故があってな……」

 苦笑いを浮かべる文章に、絵美は慌てて近寄ると心配そうに言った。

「文章様、大丈夫ですか? どこかお怪我はありませんか? だから言ったのです。文章様には私がついて行くと、それなのに……」

「あんたは黙ってなさい」

 文章を触りまくる絵美を引き離して、言葉も少し心配そうな顔をする。

「大丈夫なの?」

「ああ、問題ない」

 笑顔で言うと、文章は紙片を取り出した。

「それにしても、リンクの調子が悪いな?」

 言葉は自分の紙片を取り出すと文章に渡した。

 言葉から紙片を受け取ると、文章は自分の紙片と比べたり透かしてみたりする。

「ラインに問題はないみたいだが……」

「混信してるとか?」

「いや、理屈的にそれはないはずなんだが……」

 文章は紙片を見つめたまま首をかしげた。

「困りましたね」

 文章に近づくようにして、絵美も紙片に目をやった。

 手持ち無沙汰になった言葉は、なんとなく周囲に目を向ける。

 すると、近づいてくる人影が声をかけてきた。

「あれ? 言葉ちゃん?」

「青儀先輩?」

 そこには青儀優の姿があった。

              ◆

「まあ! こんなところでお二人に会えるなんて!」

 絵美が好奇心全開の視線を、優とその隣に並ぶ金髪の青年に向けて言った。

 青年はその短い髪を逆立てるようにして、絵美を睨みつけている。

「やあ、神代さん」

 そして優は、青年とは対照的に少し怯えるような表情を絵美に向けた。

 透き通るような青い瞳で敵意剥き出しの青年に、しかし絵美は「かわいい」と小声で言いながら笑顔で手を振る。

 その反応に、青年の顔が引きつった。

 そんな二人の様子に、言葉が小声で絵美に尋ねる。

「誰?」

左和毅ひだりともき。後輩君ですよ」

 絵美も小声で答えるが、その声は楽しそうだった。

「そうか。言葉ちゃんは初めてだったね。彼は一年の……」

 優の後を受けて、青年は一歩を踏み出して名乗り出る。

「左和毅だ。チーフに馴れ馴れしくすんじゃねえぞ」

「誰が、こんな奴に馴れ馴れしくするのよ」

 上目づかいで言ってくる左に、言葉は見下ろしながら言い返した。

 そんな二人を見て苦笑いを浮かべる優に、絵美が何か期待を込めた視線を向けながら話しかける。

「あの、青儀先輩は左君と一緒に、一体どのようなご用件でここに?」

「僕は……、古いレシピを探しにね。君たちは?」

 絵美の質問に、優は少し考えるようなそぶりを見せながら答えた。

 その答えに、絵美は「あ、そうですか」と少し残念そうな顔をするが、すぐに笑顔をつくると優の質問に答えた。

「私たちは言葉のお爺さまに頼まれて本を。先輩の探されているレシピというのは、スイーツのですか?」

「ああ、秘伝のレシピがあるかと思ってね」

「あの、本当に?」

 爽やかに笑顔を浮かべる優に、絵美は疑うような眼差しを向けた。

「おい、おまえ! チーフから離れろ!」

「あら?」

 間に割り込んできた金髪青年を身軽にかわすと、絵美は通りの向こうに視線を向けた。

「絵美、どうしたの?」

 言葉も視線をそちらに向けると、人だかりの中から怒鳴り声が聞こえてきた。

「さっさと帰りやがれ!」

              ◆

「どうしたんですか?」

 人だかりに雪村の姿を見つけた言葉は、その背中に話しかけた。

「ん? おお、言葉ちゃんか。ちょっと困ったことになってな」

 雪村が空けてくれた隙間から覗けば、そこには頭に鉢巻きをした数人の男と、スーツ姿の二人の男が対峙していた。

「私も無理矢理にというのは本意ではありません。ですから、皆様にもチャンスを差し上げようと言っているのです」

 スーツ姿の二人の内、鋭い目をした男が周囲の睨みつける視線を気にすることもなく話している。

 一歩下がった位置にはサングラスをかけた男がおり、彼は白いアタッシュケースを手に無言で佇んでいた。

「チャンスだと、ふざけるな! その手には乗らんぞ!」

 ボーダー柄のシャツを着た小太りの男が声を上げると、それに合わせて周囲も「そうだ。そうだ」と声を上げる。

 熱気に押されるようにして人々の輪が少しずつ狭まるが、それはサングラスの一瞥によって止められた。

「まあまあ、皆様、落ち着いてください。まずは私の話をお聞きいただいてから判断していただきたい。ここにお集まりの方々は、人・物かかわらず直接的な対話を大切にされる方々だと聞いております。違いますか?」

 男の言葉に、周囲の熱気が少し収まる。

「誰なんですか? あの人」

 男に視線を向けながら言葉は雪村に聞いた。

「青儀グループの会長さんじゃよ」

 返ってきた答えに、思わず言葉は後ろを振り返った。

 しかし、そこに優の姿はない。

 周囲を見てみるが、彼の姿だけでなく金髪青年の姿も見えなくなっていた。

 疑問を感じながらも、言葉は興味に引かれて雪村へと質問を続ける。

「なんで、そんな偉い人がここに?」

「言葉ちゃんは、ここがアナ商と呼ばれておることを知っておるかな?」

 雪村に言葉は頷きで答える。

BIITビットは?」

「BIITってHARの開発元の?」

「そうじゃ。そのBIITの正式名称を知っておるかな?」

 言葉は少し考えると、モバイルを取り出そうとコートの内ポケットに手を入れる。

 しかし、それが取り出されることはなかった。

「青儀情報技術研究所ですよ。言葉さん」

 それまで黙っていた絵美が、言葉の顔をのぞき込むようにして話に入ってきた。

「AIIT――AOGI Institute of Information Technologyが正式な略称ですが、今ではAOGIの部分をイメージカラーのBLUEに変えたBIITが、呼びやすいということで一般的になっていますね」

「そんなこと、知ってたわよ」

 コートから空の手をゆっくりと抜き出しつつ、言葉は絵美から視線を外した。

 絵美は雪村へ視線を向けながら話を続ける。

「青儀グループとしては、『いつでもどこでも』を謳っているHARに穴があることはイメージ的によくありませんものね」

 絵美に頷きながら、雪村も話を続けた。

「以前からHARの話はあったんじゃが、商店街の雰囲気もあるし、費用も出せんということで断ってきたんじゃ。しかし、まさか会長さんが直々に来るとは……」

 絵美と雪村は、群衆の中心にいる人物に視線を移しながら会話を続ける。

 言葉もそれに合わせて目を向ければ、青儀会長の演説はまだ続いているようだった。

「そういうわけで、我々としましても多くのユーザー様の期待と商店街の方々の想いを天秤に掛けるということはしたくはないのですが……」

 困ったような仕草を青儀は大げさに見せつける。

「私も会長としての立場があります。そこで一つ、私と勝負をしていただきたいのです。なに、勝負といっても簡単なゲームです。それに皆さんが勝てれば、私はおとなしく引き下がりましょう」

 青儀は一人、愉快そうな笑みを浮かべて周囲を見回した。

 群衆は戸惑い、声を上げていた男達も考え込むように口をつぐむ。

 よどんださざ波のような声がする中、波を突き刺すように勢いのある音楽が流れてきた。

 それは、レトロな感じのヒーローをイメージさせるBGMだった。

「甘い! 甘すぎるぞ悪党ども!」

 ついさっき聞いたような気がする爽やかな声が、群衆の背後から変な台詞を通りに響かせている。

 その現実に、言葉は一瞬よぎった嫌な予感を精一杯に否定していた。

「だ、誰だ!」

 青儀が何故かセリフじみた驚き方をする。

 サングラスをかけた男は表情を変えることなく、ただ数歩、青儀から距離を開けた。

「誰だと? 私は正義の味方、スイーツ仮面! だが、おまえのような悪党に名乗る名などない!」

 心の突っ込みとともに言葉が思わず声のほうへと目を向けると、そこにはシェフの格好をした全身白ずくめの男がいた。

 男の頭にはやたらと背の高いコック帽が乗っており、その顔は目の周りだけが仮面で覆われている。

 そして、その横には同じような格好をした金髪の青年らしき人物が、両手をポケットに入れたまま周囲を睨みつけていた。

 しかし、その青年の耳は真っ赤だった。

「あの金髪って和毅よね? ということは……」

 言葉が半眼で見つめながら目の前の状況を口にする。

 たまたま通りを歩いていた親子連れが、何事かとこちらを見ていた。

 子供は白ずくめの男を指さして、興奮気味に大きな声で男の名を呼ぶ。

「お母さん! スイーツ仮面だ! スイーツ仮面だよ!」

 興奮する子供とは対照的に、親は冷ややかな視線とともに子供を避難させた。

 そして言葉達と商店街の面々は、事態を理解した方がよいのか判断に迷っていた。

「スイーツ仮面って……」

 言葉は呆れた表情で絵美を見るが、絵美はただ苦笑いを浮かべて視線を返すだけだった。

「あれ、どう見たって青儀先……」

「言葉さん、ストップ!」

 言葉の口を慌てて塞いだ絵美は、そのまま群衆の中へと潜り込む。

「それ以上口にすると、あの金髪青年のようになりますよ⁉」

 警告じみた口調で言う絵美に、言葉は群衆の隙間からそっと和毅らしき人物を見る。

 彼は、堂々とこちらに歩いてくるスイーツ仮面の横で顔を真っ赤にしながら、まるで壊れたロボットのような動きを披露していた。

 絵美はスイーツ仮面に背を向けると、言葉の耳元に口を寄せて小さな声で言った。

「スイーツ仮面は、自分の正体を知った者を強制的に仲間にしてしまうんです」

 その衝撃の事実に、言葉も思わずスイーツ仮面に背を向けると小声で叫んだ。

「なんて恐ろしい奴なの。スイーツ仮面!」

 そして、言葉は冷や汗を浮かべながらも、ついつい怖い物見たさでスイーツ仮面のほうへと少しだけ視線を戻してしまった。

「ぐはっ!」

「言葉さん!」

 そこには、スイーツ仮面の熱い視線が待ち受けていた。

 言葉のMPは0になった。

 倒れ込む言葉を支えながら、絵美は思う。

(あなたの尊い犠牲は無駄にはしません)

 一人の少女が親友の胸の中で眠りに就こうとしたとき、群衆の中から声が聞こえた。

「これって、あのドッキリCMなんじゃないか?」

「え⁉ そうなの?」

 その声に、言葉の耳が微かに動いた。

「都市伝説だと思ってたけど、いきなり会長とか変な仮面野郎が来たりとか、色々おかしいって?」

 波紋のように、静まり返った群衆の間をCMという現実的な空気が広がっていく。

 いきなり表れた非現実は、あっというまに現実へと置き換えられていった。

 そして人々が共通認識を得て安心すると、それを待っていたかのようにスイーツ仮面が青儀に指を突きつけて言った。

「おまえは間違っている!」

「何だと⁉」

 相変わらず台詞じみた口調で、青儀は驚きの声を上げる。

「おまえごとき悪党では、この商店街の方々に勝つことなど到底できるわけがない!」

 自信満々に胸を張って言うスイーツ仮面に、青儀は何故か悔しがる。

「そんなことは、やってみなければわからないではないか!」

「では、やってみるがいい! そして商店街の力の前に己の無能さを思い知るのだ!」

 どこか悪役のようなセリフだったが、それでもスイーツ仮面の高笑いに周囲からは歓声が上がる。

 そして勝負が始まろうとする熱気の中、絵美の腕の中にいた言葉はゆっくりと目を開けて気怠そうに言った。

「わたし、このまま寝てていいかな?」

              ◆

「ルールは簡単です。そちらが用意したものをHARでコピーします。そのどちらがオリジナルかを当ててください。チャンスは三回。一回でもオリジナルを当てることができたら、この商店街のことは諦めましょう」

 青儀が、スイーツ仮面と周囲に向けて勝負内容を説明する。

「よかろう。しかし、その前に決めなければいけないことがある」

 周囲を見回して確認したスイーツ仮面は、勢いをつけて体を妙な感じでひねりながら、ある方向を指さした。

「君に決めた!」

 そう言って向けられた指の先には、取り敢えず起きて様子を窺っていた言葉の姿があった。

「はぁ⁉」

 言葉は驚きの声を上げて、スイーツ仮面を睨みつける。

「さあ、お嬢さん。私のお手伝いをしていただけますか?」

「断る!」

 優雅に手を差し伸べる仮面男から顔を背けて、言葉は誘いを一刀両断した。

「そう言わずに。私にはあなたが必要なのです」

 そう言いながら近づいてくるスイーツ仮面に、言葉は背筋が寒くなるのを感じた。

「あんたには、もう助手がいるでしょ!」

 直立したまま小刻みに震えている、金髪ロボットと化した青年を言葉は指さす。

 しかし、仮面の男は左右にゆっくりと顔を振った。

「彼は実に優秀ですが、身内が手を出しては悪党どもによからぬ口実を与えてしまいます」

 優秀かどうかは見た目からして疑問だったが、それを言っては自分を追い詰めるだけだと、言葉は口をつぐんで俯く。

「あ……」

 拳を握りしめて、言葉は憎々しげに先輩の名を言いそうになるが、そこにスイーツ仮面が聞き耳を立てて近づいてくる。

「ん? 何かね?」

「後で覚えてなさいよ!」

 そう言って睨みつけながら、言葉は差し出された手に渋々自分の手を重ねた。

 看守に連れられる囚人のように人の輪の中心へと向かう言葉に、絵美はハンカチで涙を拭う素振りをしながら手を振っていた。

「それでは皆様、彼女にはこの勝負の立会人になっていただきましょう。快く引き受けてくださった彼女に盛大な拍手を!」

 スイーツ仮面は大きな拍手で周囲に呼びかける。

 しかし、返ってきたのは戸惑いを含んだまばらな拍手だけだった。

(し、死にたい)

 言葉は珍妙な四人組に囲まれながら、心の中で叫び声を上げていた。

「それでは、早速一つ目の勝負を始めよう。そうだな……」

 スイーツ仮面は再び周囲を確認すると、のけぞるようなポーズで鉢巻きをした男の中から一人を指さした。

「君に決めた!」

「え⁉ 私ですか?」

 指された初老の男性は、声を裏返らせながら周りの視線を窺った。

「さあ、何か勝負にふさわしい物を持ってくるのです!」

「いや、急に言われましても……」

 周囲の視線が濃くなる中、スイーツ仮面が体勢を崩すことなく男性に叫ぶ。

「さあ! 早く!」

「は、はい!」

 男性は自分の店へと駆け戻ると、何かを握りしめて戻ってきた。

「これで、よろしいですか?」

「これは?」

 男性の手には小さな紙の束があった。

「色々な銘柄の紙を集めた見本帳です」

 そう言って扇状に開くと、色や質感の違う紙が花のように広がった。

「おお、これは美しい」

 男性から見本帳を受け取ったスイーツ仮面は、それを円形に開いて頭上に高々と掲げた。

 群衆の視線もそれに合わせて上へと向かうが、その中にひときわ目を輝かせている絵美の姿を、言葉はスイーツ仮面の横で疲れた様子で見つめていた。

「では、最初はそれでよいのかな?」

 いつの間に用意したのか、豪華な椅子でティータイムを過ごしていた青儀は立ち上がると、カップを速水に渡しながら聞いてきた。

 スイーツ仮面は頷くと、無駄なポーズを決めながら見本帳を青儀へと手渡す。

「さあ、お手並み拝見といこうか」

 見本帳を受け取ると、青儀は隣の男の名を呼んだ。

「速水」

 呼ばれた速水は、白いアタッシュケースを青儀の前に持ってきて通りの床に立てた。

 そして懐から小さなリモコンを取り出すと、ケースに向けて何か操作を始める。

 ケースからは小さな駆動音が鳴り始め、底のほうから蝶が羽を広げるようにしてケースが開き始めた。

 開いた底からは三本の足が伸び、ケースの側面は完全に開いて取っ手を中心に左右対称な平面となる。

 取っ手自体も上下に分かれ、コの字をL字に変えて端へと移動した。

 そして、アタッシュケースは小さなテーブルになった。

「青儀様」

 速水がテーブルの前を開けて一歩を下がる。

 その位置に青儀は立つと、テーブルの中央に見本帳を乗せながら宣言した。

「それでは皆様、まだ調整中ではありますが、HARの次期バージョンを一足先にご覧に入れましょう」

 商店街のスピーカーからファンファーレが流れてくると、L字型の取っ手が上へと伸び始める。

 そして見本帳より高い位置まで来ると、今度はテーブルの縁をなぞるように点対称の動きを見せ始めた。

 取っ手からは赤や緑など、色取り取りの光が見本帳へと注がれていく。

 取っ手が縁を一周すると、光は収まり取っ手も元の高さへと戻っていった。

 しかし、そこには変わらず一冊の見本帳があるだけだった。

 誰も口を開かないが、沈黙の中からは小さな疑念がざわめきとなって生まれ始めていた。

 そんな視線に余裕の笑みを返すと、青儀は見本帳を手に取った。

「え⁉」

 それは言葉の声だったが、その光景を目の当たりにした全ての人の気持ちを代弁していた。

 見本帳は青儀の手の中にあったが、しかし、テーブルの中央にも置かれていた。

「これが、近々公開される予定のHAR3.0による圧倒的な再現性です。見てのとおり、今提供しているバージョンに対して、比べものにならないほどの高精細な表現が可能になりました」

 青儀はテーブル上の見本帳も手に取ると、それぞれの見本帳がよく見えるように周囲へと向ける。

 人々は驚きの声を上げ、中にはモバイルのカメラで撮ろうとする者もいたが、彼らは一様にして首をかしげた。

 そんな彼らに、青儀はすまなそうな表情を向けて言う。

「すみません。まだ正式リリース前ですので、撮影機器やネットについては商店街内だけですが、一時的に使えないようにさせていただいております。この感動は、ぜひとも記録ではなく記憶に留めておいてください」

 そう言うと青儀は二冊になった見本帳をテーブルに置き、それまで黙って成り行きを見ていたスイーツ仮面を見た。

「さあ、見破れるかな?」

 青儀の不敵な笑みに対して、スイーツ仮面は無言を返す。

 そして、見本帳を持ってきた初老の男性を見ると、テーブルのほうへと腕を真っ直ぐに伸ばして言った。

「さあッ!!」

 男性は、スイーツ仮面を見上げてきょとんとしていた。

 その男性の代わりに、言葉が疑問をスイーツ仮面に投げ掛ける。

「さあって、どういうことよ?」

「何を驚いている」

「いや、だって変でしょ。なんであんたがやらないのよ⁉」

 言葉の抗議にスイーツ仮面は腕組みをして一瞬考えた。

「私は部外者だ」

 言葉のチョップがスイーツ仮面の脳天に炸裂した。

「今まで、さんざん勝手に進めておいて、その答えかい!」

 蟹のはさみのように凹んだコック帽とともに、スイーツ仮面が膝から崩れ落ちる。

 その体を支えるようにして、金髪仮面が言葉を睨みつけた。

「いきなり何をしやがる!」

 言葉も睨み返すが、その間に蟹のはさみが揺れながら伸びてくる。

「大丈夫だ」

 そう言って立ち上がるスイーツ仮面を金髪仮面が支える。

「チーフ、じゃなくてスイーツ仮面。この女は危険です。やはり俺が……」

 金髪仮面の提案に、しかしスイーツ仮面は首を横に振ると言葉を見つめて言った。

「お嬢さん。あなたは何か勘違いをされているようだが、私は最初から自分が戦うなどとは言っていない。それに、この勝負はあくまで、この悪党と商店街との勝負。誇りをかけた戦いに、いきなり現れた素人の私が土足で上がり込むわけにはいかないのだ」

 玄関をぶち壊して怒鳴り込むような登場をしておきながら、何を言っているのかと思ったが、テーブルに置かれた見本帳を見ながら、言葉は確かに門外漢では厳しいかと考えを改めた。

「仕方がないわね。あんた、使えなさそうだし」

 スイーツ仮面は自分の胸に手を当てると、軽く礼をしながら言葉に言った。

「わかってくれればよいのです。では改めて、どちらがオリジナルか当ててくれますか?」

 スイーツ仮面に促された男性は、緊張しながらも頷くとテーブルの前へ足を運んだ。

「あなたのことを教えていただけるかな」

 目の前に来た男性に青儀が問い掛ける。

「紙を専門に扱っている、森紙堂という店をやっている森と申します。この商店街の組合長もやっております」

 組合長の登場に、鉢巻きをした男達の中から声が上がる。

「おやっさんのところは百五十年以上続く老舗なんだ。おやっさんに見分けられない紙はないぜ!」

 その声に、周りを取り囲む人々からも「そうだ。そうだ」と同意の声が聞こえてくる。

 気恥ずかしそうにしながらも、森は嬉しそうに周囲へと頭を下げた。

「ほお、それは手強そうだ」

 余裕の表情を崩すことなく、青儀はテーブル上にある二つの見本帳を森の近くへと進める。

 森は、青儀が向ける鋭い視線に緊張しながらも、まずは左の見本帳を手に取って、その中身を一通り確認した。そして、次に右の見本帳も手に取る。

 そこで、森の動きが止まった。

「どうかしたんですか?」

 森の顔を覗きながら、言葉は声をかけた。

 その顔には驚きの表情が浮かび、視線の先にある見本帳を持った手は震えていた。

「重い……」

「え? なんですか?」

 森のつぶやきを、言葉は理解できずに聞き返す。

 言葉のほうを向きながら、森は震える声で話し始めた。

「さ、最初に左の見本帳を持ったときは、こっちがオリジナルだと思ったんです。だって、いくらなんでも映像に重さなんてないでしょう? でも、右の見本帳も同じように重いんです」

 しかし、それでも森の話を言葉は理解できなかった。

 それは周囲も同じようで、疑問の波が広がっていく。

 その広がりを、青儀は目を閉じてある程度待った。そして、十分に広がったことを確認すると、両手を広げて声を放つ。

「皆様! これが、新たに我々が開発したクーロンエンジンの真の力! 驚くべき新機能! 手触りや重ささえも再現する触覚フィードバックです!」

「クーロン⁉」

 思わず出た自分の声に気づいて周囲を見れば、視線の集まる中、青儀も訝しげにこちらを見ていた。

 言葉は苦笑いを浮かべて視線をそらすと、横目で文章達のほうを見る。

 文章は手帳を広げて驚きの表情を浮かべていたが、それを伝える手段が今の言葉達にはなかった。

「オリジナルがどちらかわかりましたかな?」

 青儀は、不敵な笑みを浮かべながら森に尋ねる。

 それに答えることなく、森は見本帳を交互に手にとって、一枚一枚の色味や手触りを確認していった。その額には、薄く汗が浮かんでいる。

 スイーツ仮面は腕を組んだまま静観し、重苦しい時間が過ぎていった。

 そして森が何度目かの確認を終える。

「…………」

 森は見本帳の中から無言で一枚を選び、目を閉じた。

 そして左右で同じ紙を指につまみながら、紙の感触を時間をかけて確かめていく。

 紙のこすれる微かな音が、何度も何度も言葉の耳をくすぐる。

 耐えきれずに、言葉が指を耳へ持っていこうとしたそのとき、森の指が止まった。

「……決めました」

 見本帳を閉じながら、森は静かにそう言った。

 その声に、青儀が楽しげに問い掛ける。

「さあ、どちらがオリジナルですか?」

 青儀だけでなく、周囲も固唾を呑んで森を見つめる。

 森は一度青儀の目を見ると、震える指先で静かに左の見本帳を指さした。

「オリジナルは左の見本帳です」

 そうはっきり答えた森に、青儀は頷きを返して言った。

「理由を聞かせてもらえますかな?」

 森は一瞬口籠もるが、息を吸うとゆっくりと口を開いた。

「こちらのほうが、より本物らしく感じたので……」

 その答えに青儀は一瞬驚きの笑みを浮かべたが、それはすぐに消えて落ち着いたものへと戻っていく。

「では、答え合わせといきましょう」

 青儀が速水に目配せをすると、通りにドラムロールが鳴り始めた。

「これからHARをオフにします。それでも残っていたものがオリジナルです」

 周囲に確認の視線を送ると、青儀は両手を広げて声高に言う。

「正解は、こちらです!」

 ドラムロールの終わりとともHARによるコピーが消えていく。

 そしてテーブルに残ったのは、右の見本帳だった。

「初戦は、私どもの勝ちということですね」

 淡々とした青儀の勝利宣言が、沈黙する群衆の中へと響いていく。

 森は残った見本帳を手にしながらも、信じられないという表情をしていた。

「なんで……」

 うなだれる森に、青儀が慰めの言葉をかける。

「HARによるコピーが、オリジナルよりリアルだった。ただ、そういうことですよ」「シュールなことね」

 目の前の結果に、言葉は得体の知れない気味悪さを感じていた。

 その横では、スイーツ仮面が苦虫をかみつぶしたような表情をしている。

「ぬう、悪党め」

 そう声を漏らすと、青儀に指を突きつけてスイーツ仮面は言った。

「しかし、彼は四天王の中でも最弱! いい気になるなよ!」

「あんたは本当に正義の味方か⁉」

 スイーツ仮面の意味不明な雄叫びに、言葉の正拳突きが炸裂した。

 崩れ落ちるスイーツ仮面の横を、肩を落とした森が通り過ぎる。

「最弱……」

 寂しげにそう漏らす初老の背中が、群衆の中へと消えていく。

 それを言葉は、スイーツ仮面を踏みつけながら悲しげな表情で見ていた。

              ◆

「それでは、第二回戦とまいりましょうか」

 青儀が次の挑戦者を求めて周囲に呼びかける。

 言葉も周囲を見回すが、誰もが顔を見合わせているだけだった。

 ふと、言葉は違和感を覚えて再度周囲を見回した。

(フミ兄がいない?)

 絵美は、なぜか商店街の親父達に囲まれて笑顔を引きつらせていたが、その横に文章の姿はなかった。

《フミ兄はどうしたのよ?》

 言葉は絵美が自分に目を向けた瞬間、自分の横を指すジェスチャーを絵美に送る。

 絵美はジェスチャーに気づくと少し首をかしげたが、すぐにわからないといった感じで首を振った。

「誰もいないのですか? この商店街を救おうという勇気ある者は?」

 青儀が再度呼びかけるが、周囲の反応は変わらない。

 椅子に腰掛けると、青儀はつまらなそうな表情で速水から受け取ったカップに口をつけた。

 進展のない雰囲気に、言葉は隣の仮面男を見て言った。

「あんた、なんとか……」

 しかし、スイーツ仮面は呻き声を上げながら金髪青年に介抱されていた。

「あー……」

 言葉が気怠い疲れにうなだれていると、群衆の外側が少しざわつき始め、それは徐々にこちらへと移動してくる。

「悪いが通してくれ。次の挑戦者が通るんだ」

 ざわめきからは、文章の声が聞こえてきた。

 そして、人々の間からダルマのような小男を連れた文章が現れる。

「次は、この人が相手をする」

 そう文章が言うと、青儀は椅子から立ち上がって小男を見ながら言った。

「ほお、それで物はなんですかな」

「これだ」

 青儀の問い掛けに、文章は小さな風呂敷包みを見せて答えた。

 小男とともに文章はテーブルの前まで来ると、包みから取り出した中身をテーブルの上に置く。

 風呂敷の中から現れたのは、黒光りする箱が一つ。

 その蓋を文章がゆっくり慎重に開けると、中には将棋の駒が入っていた。

本黄楊ほんつげを使った最高級の盛り上げ駒。これで勝負だ」

 青儀は箱の中を一瞥すると、小男へと視線を移す。

「自己紹介をお願いできますか?」

「俺は、将棋専門店の店主をやってる月山だ」

 月山は低い声で少し不機嫌そうに、青儀から視線をそらして答えた。

「月山さんは、三十年近く駒を見てきたベテランだ。贋作なんて簡単に見破るぜ」

 文章が、挑戦的な目で青儀を見上げて自信ありげに言う。

 いつもと様子の違う文章に言葉は少し怪訝な視線を送るが、絵美は目を輝かせてうっとりしていた。

「贋作とは心外ですね」

 青儀は少し眉をひそめたが、「まあ、いいでしょう」と小さな声で言うと話を進めた。

「では、第二回戦といきましょう。皆様、再度よくご覧ください」

 再びテーブル端にあるL字部分が垂直に伸び、駒箱に入った将棋の駒に光の線が降り注ぐ。

 そして光が消えると、青儀は箱を両手で左右から挟み、ゆっくり上へと持ち上げた。

              ◆

「これで二敗か」

 文章は絵美の隣に戻ってくると、手帳を懐にしまいながら言った。

「文章様、何かわかりましたか?」

 絵美が文章の腕を抱きしめながら上目づかいで聞いてくる。

 文章は戸惑いながらも振り解くことが出来ず、仕方なくそのまま話を始めた。

「近くでサインの反応を確かめてみたんだが、やはりあのHARにはクーロンが使われているみたいだ」

「では、あの中にクーロンのオリジナルが?」

「いや、あのコピー能力がクーロンのサインによるものだとすれば、オリジナルの可能性は高いんだが……。クーロンの反応を拾うにも、あそこまで近づいてやっとだったからな。まだ断定はできない。言葉にもさっき話してきたが、もう少し様子を見たほうがいいと思う」

 そう言う文章の視線の先では、言葉が絵美に離れろとジェスチャーを送っていた。

 それを無視して、絵美は文章に話しかける。

「それにしても、あのHARはすごいですね」

「ああ、クーロンを使っていたとしても、その技術力は本当にすごいよ。偽物を超える偽物をつくり出すんだからね」

 絵美は文章の話を頷いて聞いていたが、ふと首をかしげると驚きの声を上げた。

「ええ⁉ あれ偽物だったんですか?」

 文章は慌てて絵美の口を押さえる。

「声が大きいよ、神代さん」

「す、すみません」

 頭を抱きしめられるような格好になった絵美は、顔を赤くしながら小さな声で謝った。

 そんな絵美の様子に、慌てて離れながら文章は話を続ける。

「よりリアルにっていう青儀会長の言葉を聞いたときに、ピンと来たというか……、降ってきたんだよね、頭上に」

「頭上にですか?」

 首をかしげる絵美に、文章は苦笑いを浮かべながら話を続けた。

「あのHARは、より本物らしく、逆に言えば偽物に思えるような部分が無くなるようにコピーするのかと思ったんだ。それで、わざと偽物をコピーさせたわけ。ただ、偽物だとばれて青儀会長に小細工されると困るから一芝居打って、偽物も限りなく本物に近い物を選んだんだけどね」

 文章は、そう言うとため息をついた。

「本物のようなコピーと限りなく本物に近い偽物ですか……」

「そうなる予定だったんだけどね。月山さんも驚いてたよ。偽物らしい偽物なんて初めてだって」

 二連敗で人々がざわめく中、青儀は手にしたカップを傾けながら最後の挑戦者を待っている。

 言葉は手帳を見ながらも、横目でHARに注意を払っていた。

 そんな静かな空気を破るように、一人の男が突然立ち上がった。

「はっ! 私としたことが……。悪党どもめ、よくもやってくれたな! さあ、次の挑戦者、カモン!」

 そう言った瞬間、スイーツ仮面の足が宙を舞う。そして、背中を床にたたきつけると男は再び静かになった。

「チーフ! しっかりしてください、チーフ!」

 そう呼びかけながら、金髪仮面は慌ててスイーツ仮面を抱きかかえた。

「あんたは、もう少し寝てなさい」

 言葉は足の素振りを続けながら、二人を横目で見下ろしていた。


【最終章】

「次が最後のゲームとなりますが……」

 青儀が周囲を見ながら話し始める。

 いつしかヒーローショーのような偽りの現実は剥がれ落ち、人々の顔には不安の色が表れていた。

「私どもとしては、もう十分に次期バージョンのHARをご覧いただいたので、これ以上無用な勝負はしなくても構わないのですが、皆様はどうなされますかな?」

 満足そうな笑みを浮かべる青儀に、組合長を初めとした商店街の面々に焦りの表情が加わる。

 そのとき、近づいてくる大きな足音に言葉は気づいた。

 足音のほうに顔を向ければ、見知った顔がそこにはあった。

「次は、これじゃ」

 聞き覚えのある太くて大きな声とともに、柔道着姿の大男が現れる

「おじい!」

 言葉の声に書道は豪快な笑みを見せると、彼女のほうへと何かを放り投げる。

 それは光沢のある銀色で、細長い形をしていた。

 飛んできたものを掴んで、言葉は手の中のそれを見る。

「これって……」

 それは、細長いボールペンのような形をしていた。

「ア……なんだっけ?」

「アウロラのアスティルじゃ。おまえは、また人の話をすぐに忘れよって」

 ため息をつきながら、書道が万年筆の名前を言う。

 その足で書道は森のところへ向かうと、その手を握って大きく上下に振り回した。

 小柄な森の体が、書道の手の動きに合わせて何度か少し宙に浮く。

「久しぶりじゃな! 元気にしておったか!」「字医さん、どうしてここへ……」

 書道の握手から解放された森は、ふらつきながら書道に答えた。

「ちょっと立ち寄ってみただけなんじゃが……。どうかな、わしもこの勝負に参加させてもらえんかな?」

「いや、しかし……」

 渋る森に、書道はグローブのような手で背中を叩きながら言った。

「なに、悪いようにはせんよ」

 咳き込む森に、今度はその肩を掴みながら書道は笑顔を向ける。

 観念したように頷く森に、書道は「任せておけ」と言って青儀のほうを向いた。

 しかし、その視線は青儀の後ろに止めてある車に注がれていた。

 その車の中、白いタキシードの男は下を向いたまま口の端をつり上げてつぶやいた。

「教授……」

              ◆

「これで、おじいが勝負するの?」

 文章や絵美を連れて近くへと来た書道に、言葉は疑問を投げかけた。

 書道は、きょとんとした顔を言葉に向けて答えた。

「いや、勝負するのはおまえじゃが?」

「?」

 言葉も書道と同じ顔をした。

「えーーーーーーーー!」

「ちょっと、言葉さん⁉」

 集まる視線に、絵美が慌てて言葉の口を押さえる。

 文章は理解できないといった顔で書道を見た。

「師匠! 言葉には無理ですよ!」

「無理とは何よ」

 ムッとした表情をして、言葉は小声でつぶやく。

「いや、この勝負は言葉でなければダメなんじゃ」

「おじい……」

 両肩を掴んで力強く言う書道に、言葉は胸に温かいものを感じて笑顔を浮かべた。

 しかし、それはすぐに歪んだものとなって言葉の口を開かせる。

「痛い。痛いから!」

「おお、すまんすまん」

 言葉は、苦笑いを浮かべる書道を見上げて口をとがらせた。

 そして肩をさすろうとして、その手にした万年筆を見る。

 その銀色の表面には、周りで見守る商店街の人たちの姿が映っていた。

「本当にわたしがやるの?」

 言葉は不安そうな目で、書道を見上げる。

「そうじゃ」

「でも、わたし、これのことボールペンとか言っちゃったし、それに、こんな大事な役目……」

 俯く言葉の頭を、書道はその大きな手のひらで優しくなでた。

「大丈夫。この勝負に知識は不要じゃ。むしろ無いほうが今回は有利なはずじゃ」

 書道はそう言うと、言葉をテーブルのほうへと向かわせながら青儀を見て言った。

「そういうわけで、今度はわしの孫が相手をさせてもらうぞ」

「いいでしょう」

 視線を向けられた青儀は、微かな笑みを浮かべて椅子から立ち上がる。

 言葉は、ふと未だに白目を剥いて倒れているスイーツ仮面を見た。

「あんたの尊い犠牲は無駄にしないから」

 そうつぶやいて、言葉は万年筆で青儀を指しながら言った。

「さあ、勝負よ!」

 対する青儀は、言葉を見下ろして冷笑を浮かべた。

              ◆

 銀色に光る二本の万年筆を前に、言葉は唸っていた。

 見た目は同じ、持ってみた感じも同じ、二つに違いは無いように思えた。

(どうやって見分けろっていうのよ)

 言葉は早くも途方に暮れる。

 プロの目でも見破れないほどのコピーなのだ。ただの学生である自分にわかるはずがない。

「もー、どうすればいいのよ!」

 言葉はテーブルに両手をついて、万年筆を睨みつけた。

 苛立ちに、右手の人差し指がテーブルを小刻みに叩く。

 トントン ト トントトント トトトト トントントン。

 そして、それは突然聞こえてきた。

《ナーニ?》

 耳ではなく、頭の中に広がるような声。

 言葉は書道達のほうを見る。

「言葉さん、頑張ってください!」

 絵美が応援する横で、書道は笑顔で手を振っている。

 そして文章は、開いた手帳に視線を落としていた。

(気のせい?)

 テーブルへと視線を戻し、言葉は勝負に集中しようと深呼吸をする。

(何か手がかりを探さないと)

 目を閉じて、言葉はこれまでの勝負を思い出す。

 自分にはオリジナルとコピーを比較してもわからない。

 それなら比較ではない、別のアプローチが必要だ。

(本物らしい本物。偽物らしい偽物)

 小刻みだったテーブルを叩く音が、次第にゆっくりになっていく。

(そんなの、それっぽい印象でしか……)

 頭をよぎった違和感に、言葉は息を止めて数秒思考を巻き戻す。

 そして、言葉は顔を上げて真っ直ぐに青儀を見て言った。

「ちょっとタイム!」

 相変わらず優雅なティータイムを過ごしていた青儀は、手にしたカップを揺らすことなく言葉の視線を受け止める。

「これが最後ですからね。まあ、いいでしょう。わかっているとは思いますが、テーブルにある万年筆は、そのままでお願いしますよ」

「感謝するわ」

 言葉は優雅に一礼すると、書道のところへと向かった。

「おじい」

「言葉、どうした?」

 何か考えているのか、視線を合わせることなく俯いて言う言葉に、書道はどこか楽しそうな声で尋ねる。

 言葉は、テンポを刻むように頬を人差し指で叩きながら、ゆっくりと書道に言った。

「クーロンのオリジナルが、どこにいるかわかる?」

「いや。文章君、手帳に何か変化はあるかな?」

 文章のほうへ視線を向ければ、手帳を見ていた彼は首を横に振る。

「クーロンって電磁波を操るのよね?」

「ああ」

 再び下を向いて、言葉はつぶやき続ける。

「そして、あれにもクーロンが使われている……」

「言葉さん……」

 そんな言葉を、絵美は心配そうに見つめていた。

「言葉ならわかるはずじゃ」

 肩に乗る大きな手に、言葉は書道を見上げた。

「おじい……」「自分を信じるんじゃ。みんなの思いが力になってくれるはずじゃ」

 言葉は周囲を見回す。多くは諦めの表情を浮かべていたが、期待を込めて応援してくれる人もいないわけではない。

 そして、言葉は青儀へと視線を移す。

 テーブルの上をただ見つめる青儀の姿が、そこにはあった。

「おじい、プリントにも思いは伝わると思う?」

 言葉は青儀を見たまま、書道へと問い掛ける。

「もちろんじゃ」

 楽しそうに言う書道に、言葉も笑みをその顔に浮かべた。

 そして立ち上がると、決戦の場へと戻っていった。

              ◆

「待たせたわね」

 言葉は、テーブルの前で万年筆を見つめていた青儀に声をかけた。

 しかし、青儀は万年筆を見つめたまま何も答えない。

 その様子に言葉が青儀の顔をのぞき込もうとすると、青儀はハッとして少しぎこちない笑顔を浮かべながら聞いていた。

「何かヒントくらいは見つかりましたか?」

 言葉は訝しむが、青儀はすぐに踵を返して椅子へと戻りながら言う。

「まあ、違いに気づいたとしても見破ることはできないでしょうが」

 青儀が椅子に座るのを見届けると、言葉は頭を切り換えて目の前にある二本の万年筆を見た。

 再度、片手に一本ずつ乗せて重さを感じてみたり、二本を並べて長さや太さを比べてみる。

(やっぱり、わたしには同じにしか思えないか)

 言葉は万年筆をテーブルに置くと目を閉じた。

(クーロン、電磁波、印象、感じ、感覚……)

 テーブルを叩きながら、言葉は思い浮かぶままに断片的な単語を並べていく。

 音はテンポを刻み、一つ一つのイメージを思考へと組み立てる。

 トントン トトン トントン トトン。

 そして言葉は、単語の中から一つの名を再び呼んだ。

(クーロン)

 周囲は何も変わらず何も反応はない。しかし、言葉は続ける。

(クーロン、お願い! 応えて!)

 思考に応えるものはなく、周囲の落胆を含んだざわめきが忍び寄る。

 言葉は大きく息を吸い込んだ。

 そして、ざわめきを吹き飛ばすようにテーブルを平手打ちする。

(クーロン!!)

 テーブルを打ち付ける音に周囲は静まり返るが、

「大切なテスト機に何をする!」

 青儀は慌てて抗議の声を上げた。

 しかし、言葉は無言のまま深呼吸をすると、もう一度手を振り上げる。

「おい! 速水、やめさせろ!」

 青儀の声とともに、人の近づく気配がする。

 そのとき、言葉は振り上げた手に違和感を覚えた。

「痛っ!」

 手の甲に走った痛みに顔をゆがめ、言葉はその手を抱きしめた。

 痺れるような痛みは次第に熱を帯び、鼓動のような響きを生み出す。

 そして、響きは一つの答えを生んだ。

《ヨンダ?》

 腕を伝う微かな痺れとともに、それは確かな声として頭に響く。

 言葉は抱えていた手をゆっくりとほどき、熱を持った手の甲に視線を落とす。

 そこには見覚えのある円形模様が、手紙にいたときと同じ大きさで描かれていた。

「ふふふふ……」

 言葉の口から不気味な笑い声が漏れる。

「君、大丈夫か?」

 落ち着いた声色の問い掛けに顔を上げれば、サングラスの男が心配と警戒の混じった色を浮かべていた。

 言葉は手の甲を隠すようにして、胸の前で手を合わせながら目の前の男に笑顔を返した。

「ごめんなさい。ちょっと緊張しちゃって」

 警戒の態度を崩さない速水に、言葉は笑顔のまま「大丈夫だから」と念を押す。

 そして、その笑顔のまま青儀のほうへと視線を向けて言う。

「心配をおかけしました」

「今度、同じようなことをやったら即刻負けだぞ」

「ええ」

 笑顔のまま答える言葉に、青儀は不機嫌ながらも少しは安心したのか、それ以上は何も言わずに腰を下ろした。

 それに合わせるように、速水も青儀の傍らへと戻る。

 言葉は周囲の落ち着きを確認すると、深呼吸をして声に出さずに語りかけた。

(クーロン、手のひらに来て)

 胸の前で重ねた手のひらを見れば、そこには円形の姿がある。

 言葉は小さく頷くと、次は袖の中へ移動するように思考する。

 腕を伝って袖の中へと消えるクーロンを確認すると、言葉はテーブルの上に視線を戻した。

 そこには、二本の銀色に光る万年筆が変わらずにある。

 二本の銀線を手のひらに載せ、言葉は目を閉じてクーロンへと呼びかけた。

 それは自分を中心に広がるイメージ。

 商店街に散らばるコピーを、HARごと一つに繋げていく。

 そして、商店街を覆うようにクーロンの場が形成される。

 言葉は、場を俯瞰するようなイメージの中に、クーロンとは違う小さな靄の塊を幾つも見つける。

 それは、商店街の一カ所で輪を形成していた。

 言葉はそこへ意識を集中する。まるで上空から雲の中へと降りていくように。

 輪の中へと思考を潜り込ませれば、キャベツのような小さな靄の塊が幾つも並んでいた。

 その一つに言葉は触れる。

(あんな子に任せて本当に大丈夫なのか?)

 別の一つに触れてみる。

(あー、腹減ったなー)

 次々に言葉は触れていく。

(頑張って)

(あの子、寝てるんじゃないか?)

(この集まりは何をやっているのかしら?)

(言葉ちゃん、この商店街を守っておくれ)

(どこのカメラで撮ってるんだろ?)

(今は、あの子に頼るしか……)

 それは人の思考。商店街の人々の心の声だった。

 言葉は、人々の思考を撫でるように覗いていく。

 そして、自分の近くにあった思考の一つに触れた。

(待って、僕の可愛い子猫ちゃん)

 その瞬間、言葉の背筋に寒気が走り抜ける。

「さ、最悪なものに触れてしまった」

 うなだれながらも目を開けて声の主を見れば、そこには和毅に膝枕されて気持ちよさそうに寝ているスイーツ仮面の姿があった。

 言葉は頭を振って気を取り直すと、再び目を閉じて集中する。

(万年筆のイメージに限定したほうがいいわね)

 もう一度イメージを俯瞰に戻すと、言葉は靄の群れに万年筆というイメージを重ねていく。

 全体的に靄は薄くなり、その中で相変わらず濃いままの場所が二カ所だけ浮かび上がる。

 一つは、さっき触れた中にあった雪村のもの。

 そして、もう一つ。それは自分の正面にあるもの。

 言葉は自分が緊張していることを自覚しながらも、その靄に触れた。

 その瞬間、言葉は引き込まれるような感覚に襲われ、意識が闇で塗りつぶされた。

              ◆

 雨が降っていた。

 灰色の空気の中を、傘を差すこともなく佇む男がいる。

 その前には立派な墓標があった。

 男は喪服を雨に濡らしながら墓標を見つめている。

 その顔には、何かをごまかすような笑みが浮かんでいた。

《私は悪党にさえなれない愚か者だな》

 感情とともに漏れる笑い声は、雨音の中へと霧散していく。

 そして、男は陽のない空を見上げた。


 重厚感の漂う、しかし無駄のない書斎に青年はいた。

 青年は居心地の悪さを隠すことなく、不機嫌そうな顔をしている。

 だらしなく着崩した制服は所々が破け、口の中には血の味が広がっていた。

 書斎机には一人の男がおり、青年をただ見つめている。

《おまえは……》

 男はそこまで言って、何かを振り払うように頭を軽く振る。

 そして、引き出しから小さな箱を取り出すと、青年を近くに呼んだ。

 箱に興味を惹かれたのか、青年は書斎机の手前に足を運ぶ。

 青年が近くに来ると、男は箱を開けて中身を取り出す。

 箱には、銀色をした小さな筒状のケースが入っていた。

 男はケースを開いて中身を見せると、自分は椅子を回転させて背を向ける。

 そして、そっけない口調で言った。

《これを持っていけ》

 ケースには銀色の細長いペンが入っていた。

 青年は子供のように喜びの声を上げる。

 そして、さっさと箱をケースにしまうと、軽く礼を言って書斎から出て行った。


 カウンターの向かいにいる男に青年は話しかけていた。

 男は銀色のペンを手に、苦笑いを青年に向けた。

 手を合わせてお願いをする青年に、男は渋々といった感じで電卓型のHARディスプレイを見せる。

 青年はディスプレイをのぞき込むと、少し考えるような仕草を見せたが、頷くと男に笑顔を向けた。

 男は安堵の表情を浮かべ、小さなトレイに十枚程度の紙の束を載せて青年に渡す。

 それを受け取ると、青年は軽く礼を言って出ていった。

              ◆

 言葉は目を開けて、手のひらを改めて見つめる。

 そこには、変わらず二本の万年筆がある。

 しかし、それは言葉にとって既に同じものではなかった。

(ずっと、待ってたんだね)

 言葉は万年筆を握りしめて思う。

 冬の雨のように冷たかったそれは、徐々に温もりを思わせる雪へと姿を変える。

 雪は降る。想いとともに言葉の心へと。

 手のひらで雪の粒が溶けるように、言葉の頬を何かが流れ落ちた。

 驚きの表情を浮かべる青儀に、言葉はごまかすように笑みを浮かべる。

 そして、濡れた頬を拭って大きく深呼吸をすると、言葉は自信に満ちた瞳を青儀に向けて言った。

「待たせたわね」

              ◆

 商店街には歓声が響き渡っていた。

 書道や商店街の人たち、文章や絵美も言葉を囲んで嬉しそうな笑顔を見せている。

 そして、いつ起きたのかスイーツ仮面は「正義は常に勝つのだ」などと言って高笑いを上げていた。

 そんな中、自分のほうへ近づいてくる足音に言葉は視線を向けた。

 視線と足音を繋ぐように、人々の間に道ができていく。

 言葉の前まで来た青儀は、笑顔とともに手を差し出していった。

「改めて言おう。君の勝ちだ。おめでとう」

「あ、ありがとう、ございます」

 少し恥ずかしそうに目をそらしながら、言葉は差し出された手を握り返す。

 そして、力強く大きなその手の温かさに、言葉は青儀を見上げた。

 手を繋いだまま、青儀が爽やかな声で言葉に尋ねる。

「一つ、教えてもらえるかな?」 青儀の目を見つめ返して言葉は頷いた。

「あれがオリジナルだと、どうしてわかったのですか?」

「それは……」

 青儀の問いに、言葉は何かを思い出すように上を見つめる。

 通りを覆う屋根の向こうには雲が一面に広がり、通りを冷たい風が吹き抜ける。

 そういえば天気予報は雪だったと、そんなことを言葉は思った。

 すっかり冷え切った両手を息で温めると、言葉はその手の内側にある円形の模様を見ながら言った。

「温かいものを感じたから……」

「……そうですか」

 青儀はどこか納得したような表情で、優しい笑みを浮かべていた。

 そんな二人の間に、一人の老人やって来る。

「雪村のおじいちゃん」

 雪村は言葉に笑顔を返すが、一転して青儀には厳しい目を向けて言った。

「やっぱり、あんただったんじゃな」

 そう言うと、雪村は手にした銀色の円筒ケースを青儀に見せる。「これは、あんたのじゃ」

 ぶっきらぼうに言う雪村に、青儀はケースを見たまま黙り込んだ。

 ケースに向けられた視線は微かに震えていたが、それでも青儀は恐る恐る手を伸ばす。

「ああ、やはり……」

 そしてケースを手にすると、ゆっくりそれを開いていく。

 ケースに収まった銀色の万年筆を見つめて、青儀はつぶやきとともに涙をこぼす。

「やっと、見つけた」

「青儀さん、それは……」

 言葉の問い掛けに、青儀は息を整えると静かに語り始めた。

「これは、父からもらった成人祝いの贈り物なのです。しかし、当時の私は父に反抗して遊びほうけていましてね。家の物を勝手に売っては遊ぶ金にしていました。そして丁度その日も、遊ぶ金がなくて困っていたのです。その三日後に、父が事故で亡くなることも知らずにね」

 力なく笑う青儀に、雪村は折り畳まれた一枚の紙片を差し出した。

「ケースに入っていたそうじゃ」

 紙を受け取りながら、青儀は驚きの表情を浮かべる。

「え、私が受け取ったときには万年筆以外には……」

「反対側じゃ。ロゴの入った板がスライドするじゃろ」

 雪村の言うとおりに青儀は、万年筆の収まっていたケースの半円筒部分ではなく、ただのふただと思っていた、もう一つの半円筒部分にはめられていた板をずらす。

 すると、そこにはインクコンバーターなどの付属品が入っていた。

「本当に私は、何も見えていなかったのですね」

 そう言うと、青儀は雪村から紙片を受け取って広げた。

 そこには、こう書かれていた。

『Buon giorno a te.(素晴らしい朝を君に)』

              ◆

「なんか、疲れたー。ねむいー」

 絵美の腕にぶら下がりながら、言葉が甘えた声で言う。

「そうですね」

 苦笑いを浮かべながら、絵美は相槌を打ってそれに応えた。

「あんたは、食事して買い物してただけでしょ?」

「ひどい!」

 ジト目で言う言葉に、絵美は言葉を振り解いて走り出す。

 その向かう先には、書道と文章の姿があった。

「文章様!」

「うわっ!」

 絵美は文章に後ろから抱きつくと、思わず立ち止まった文章の前へと躍り出た。

 そして、綺麗にラッピングされた箱を両手で差し出す。

 文章はいきなりの展開について行けず、思いついた疑問をただ口にした。

「これは?」

「万年筆です。文章様にお似合いだと思って」

 そんな二人を、言葉は文章と書道の間から顔を出して半目で睨みつけていた。

 しかし、絵美は気にすることなく文章との話を続ける。

「お昼のお礼ですから遠慮しないでください。あ、でも食事代に困ったからって売らないでくださいよ?」

 上目づかいで言う絵美に「わかった」と頷くと、文章は箱を受け取った。

 そして、箱をしばらく見つめると、文章は絵美を見て言った。

「神代さん」

 文章の呼びかけに、絵美は小首をかしげて彼を見る。

 文章は恥ずかしそうにしながらも、そんな彼女を真っ直ぐに見つめて言った。

「ありがとう」

 それを聞いた絵美は、両手で顔を隠すと体をくねらせ始めた。

「なに、顔を赤くしてるのよ」

 言葉は文章の腕をおもいっきりつねると、抗議の声を無視して隣の書道に話しかける。

「おじい、結局あのクーロンのコピーって何だったの?」

 言葉は、勝負が終わるとすっかり消えてしまったコピーについて尋ねた。

「あれはコピーに似とるが、サインマーカーと言って、サインの影響範囲に現れるただの印じゃ。恐らく、撮影や通信ができないように、HARに使ったコピークーロンで結界を張ったせいで現れたんじゃろ」

 それでクーロンの大きさが変わってなかったのかと納得しつつ、言葉は青儀会長のことへと思いを巡らす。

「結界ね。じゃあ、青儀会長もプリントが使えるってことかー」

「いや、恐らく青儀はプリントのことは知らんじゃろ。そういうことができるチップか何かという形で、何者からかの提供を受けたんじゃろうな」

「何者って誰から?」

 言葉の質問に書道は少し考える素振りを見せたが、事も無げに「わからん」と言うと「あのスイーツ仮面とやらも何者なんじゃろうな?」と一人で考え始めてしまう。

 すっかり忘れていた名前の登場に、言葉は今日の出来事を思い出して気が重くなった。

(次に会ったら、どうしよう?)

 脳天チョップに鳩尾への正拳突き、そして最後は足払いの三連コンボ。

 どれも綺麗に決まったなと思い返して現実逃避をしていると、横から文章の声が聞こえてくる。

「言葉。おまえHARが人の思考をフィードバックしてるって、よく気づいたな」

 言葉は手の甲にクーロンを呼ぶと、それを空にかざして言った。

「んー、本物らしいとか偽物らしいとか、プロがそう言うのって変じゃない?」

「そうか? プロの直感ってやつだろ?」

 それのどこがおかしいのかと、不思議そうな表情を文章は浮かべる。

「直感って、その人の経験に裏打ちされたものでしょ。直感で選んだとしても、それを説明できないっておかしいでしょ。自分の経験だよ。ましてやプロが『らしい』って」

「そ、そうだな」

 有り得ないでしょと言いたげな言葉に、随分と上から目線だなと文章は思いつつも取り敢えず頷いた。

「だから、もしかしたら印象というか個人的な感覚や思いみたいな、言葉にしにくいようなものをHARは触った人に伝えているんじゃないかって思ったわけ。あとは、クーロンの力が電磁波を操るってことからピンとくるでしょ? 人の脳に直接働きかけてるんじゃないかって」

「おまえ、意外と考えてたんだな」

 感心する文章を横目で睨みつけながら、言葉は話を続ける。

「意外は余計よ。わたしの想像力をなめないでくれる? それに今思えば、重さまで再現するなんて、どんな重力魔法よって感じじゃない」

 最後の魔法という単語に違和感を覚えつつも、文章はふと思いついた疑問を口にした。

「それにしても、言葉はいつクーロンと契約したんだ?」

「やっぱり、あのテーブルを叩いたときじゃない?」

「いや、勝負が終わった後も青儀会長の近くには一つだけクーロンの反応があったし、それにあのときは声で認証してないだろ?」

「そういえば、そうね」

 言葉は書道を見るが、書道は肩を竦めるだけだった。

「クーロンさんに聞けないんですか?」

 絵美が文章越しに言ってくる。

「その手があったか」

 言葉は手の甲にいるクーロンへと、いつ契約したのか聞いてみる。

 すると、手に走る鈍い痺れとともに意思が聞こえた。

《ナンジャ、コリャ?》

 クーロンの返事に言葉はしばらく考えを巡らすと、俯いて何かをこらえるように肩を震わせ始めた。

 絵美と文章は、その不気味さに自然と一歩を言葉から引く。

 その直後、言葉は顔を上げると手の甲を睨みつけて叫んだ。

「だったら、さっさと出てこいやあああああ!」

 言葉の怒りは、雪の降り始めた空へと虚しく響き渡った。

              ◆

 数週間後。

 HARのアップデートは、当初の予定どおり行われた。

 その反響はすさまじく、テレビでもネットでもその話題で持ち切りだった。

 勝負の様子もしっかりCMとして放送され、『HARの実力を体験するならここ』ということで、商店街の売り上げも伸びているらしい。

 ただ、店のほとんどが個人経営で突然増えた客への対応に苦慮しているとことや、HARがその場で使えないことを残念がる人が多く、売り上げの一部でHARを導入しようという話もあるとかないとか。

 そんな感じでHARに沸き立つ世間だったが、言葉はそれとは関係なく書道のロッジに来ていた。

「大事な話って何かな?」

 隣の文章に話を振れば、文章はテーブルに置かれたクッキーを頬張りながら、わからないという仕草で答えた。

「まあ、茶でも飲みながら気楽に聞いてくれ」

 そう言って書道は持ってきたティーセットをテーブルに置くと、それぞれのカップに紅茶を注いだ。

 言葉は淹れてもらった紅茶を一口すすると、さっそく書道に用件を尋ねた。

「それで話って何?」

 話を促す言葉に、書道は自分のカップにも紅茶を注ぐと、それを一気に飲み干して話し始める。

「しばらく屋敷を離れることになってな。その間のことは文章君に任せようと思っておるんじゃが……」

 そう言って書道は、文章ではなく言葉を見た。

 そのことに疑問を抱きつつも、言葉は話を進めるように書道に頷き返す。

「言葉、文章君のことは好きか?」

 書道の問いに、言葉と文章の時間が数秒静止した。

「い、いきなり何言ってるの⁉」

 言葉は驚きの声を上げたが、文章は驚きの余り口を開いたまま固まっている。

「いや、おまえクーロンと契約しておるじゃろ?」

「?」

 話の展開について行けず、言葉もそのまま固まる。

「今回の件でわかったと思うが、プリントには今の科学の範疇を超えた力がある。それは人類にとって有益である反面、悪用されたり使い方を間違えれば、当然のことじゃが人類を危険にさらすことにもなる。特にオリジナルともなれば、人類の歴史そのものに影響を与えかねないほどの力があると考えられておる」

「へ、へえ。そうなんだ……」

 真剣な表情で人類の歴史云々を語り始めた書道に、言葉は激しく鼓動を打ち続ける胸を抱きしめながら頷いた。

 オリジナルであるクーロンは、何故か手帳に入ることを嫌がり、今は言葉の胸の表面をその住処にしていた。

「その力を手に入れた以上、制御する術を身に付けないと危険じゃ」

「契約を取り消すことはできないのかな?」

 少し落ち着きを取り戻して言葉は書道に尋ねるが、書道は難しそうな顔をしながら答えた。

「オリジナルの契約は双方の同意で成立するんじゃ。じゃから、契約の破棄も双方の同意があれば可能なんじゃが……」

 そう言って、書道は言葉の胸をのぞき込む。

「ちょっと、どこ見てるのよ⁉」

「いやあ、大分気に入られたようじゃからな」

 書道はすぐに目をそらすと、紅茶をすすり始めた。

「そんなわけでじゃ、言葉が文章君を嫌いでなければ、わしが留守の間、文章君とともにプリントについて学ぶのはどうかと思ってな。それに、言葉は来月から受験生じゃろ? ここは静かで受験勉強には丁度良いぞ?」

 言葉は未だに固まったままの文章を見ると、少し考えてから口を開いた。

「まあ、契約が取り消せないんじゃ……」

 そこまで言ったとき、突然ロッジの扉が勢いよく開いた。

 そして、そこに突如現れた人影が仁王立ちで言い放つ。

「ちょっと待ちや!」

 その声に気を取り戻したのか、文章が扉のほうを見てその名を呼んだ。

「神代さん?」 絵美は文章に笑顔を向けると、すぐに言葉を指さして言った。

「言葉さん、抜け駆けは許さへんで!」

「抜け駆けって……」

 額を押さえる言葉をよそに、着物に身を包んだ絵美は足早に書道の前へと来ると、懐から扇子を取り出して書道へと突きつけた。

「私も文章様と同棲させていただきます!」

 絵美の宣言に、言葉は慌てて説明する。

「同棲⁉ 違うわよ! プリントのことをフミ兄に教えてもらうだけなんだから! それに、あんたは辞典返したんだから関係ないでしょ?」

 しかし、絵美は微動だにすることなく、真っ直ぐ書道を見つめていた。

「書道様、問題ありませんよね?」

 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その目は一ミリも笑ってはいなかった。

 書道の額に汗が浮かび始める。

「そ、そうじゃな。部屋は余っておるし、しっかり者の神代君がいてくれれば、より安心じゃな」

「ちょっと、おじい!」

 書道は乾いた笑いを浮かべつつ、抗議の声を上げる言葉から目をそらした。

「では、そういうことで」

 絵美は満足そうにそう言うと、文章の隣に座って両手をついた。

 そして、深々とお辞儀をして言う。

「不束者ですが、末永くよろしくお願いします」

「え、あ、はい」

 釣られて文章もお辞儀を返す。

「はい、じゃないでしょうが!」

 怒鳴り声とともに、言葉は雷が落ちるイメージを思い浮かべながら文章の脳天へとチョップを落下させた。

《カミナリ、ゴロゴロ?》

 頭に響く声とともに胸に鈍い痛みが走る。

「いっ……」

 言葉は脳裏をよぎった嫌な予感に、その手を止めようとした。

 しかし、痛みに縮こまった体は逆に手を加速さてしまう。

 そして文章の頭に言葉の手が触れた瞬間、ロッジ全体が電子レンジと化した。

 全身の毛という毛は逆立ち、重低音を聞かせた羽虫の飛ぶような音が頭を揺さぶる。

 それは数秒続き、静寂が訪れると言葉達は糸の切れた人形のように倒れ込んだ。

 チーンというベルの音とともに玄関の扉が開いていく。

「こ、事は急を要するようじゃな」

「そう、ですね。命に関わる、緊急事態です」

 書道と文章は、痺れの残る体をなんとか起こしながら口々にそう言った。

 そして絵美は文字通り髪を逆立てて、言葉の目の前に自分の腕を突き出しながら怒鳴り声を上げた。

「このカサカサになったお肌、どうしてくれるんや!」 言葉はテーブルでうつぶせになったまま、力なく笑うしかなかった。

 体全体が火照って、極上の毛布にくるまれているように心地好い。

「これは、よく眠れそうね」

 顔を引きつらせながらそう言うと、言葉はゆっくりと目を閉じた。

                             了

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