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前編

【序章】

「師匠、手紙出してきましたよ」

 そう言いながら字医文章あざいふみあきは薄暗い書庫の中へと降りていった。

 年期の入った木製の階段を一段一段降りていくにつれて、微かに流れる風は徐々に涼しくなり、それと同時に紙とインクの匂いが濃くなっていく。

 階段の半ば、およそ大人二人分の高さを降りたところで、文章は書庫の中へと目を向けた。

 そこには広大な闇があった。床や天井を見ることはできず、柱の代わりに天地の間を巨大な本棚が見渡す限り整然と並んでいる。さながら、本棚で造られたジャングルといった様相を呈していた。

 棚の作り出す幾つもの平行線の先には闇しかなく。その闇を見つめていると、得体の知れない何かが蠢いているかのような錯覚に囚われそうになる。

 師匠である祖父の書道かきみちから、この書庫のことを知らされて約三年。

 文章が未だに安心して行動できるのは、ベースと呼ばれる書庫の入り口にあるデッキ付近だけだった。

 それより先に進もうとするのなら、それ相応の覚悟と力が必要となる。

 そのことを彼は、体を這い回るような不快感とともに身をもって体験していた。

「…………」

 文章はしばらく見つめていた闇から視線をはずし、階段を再び降り始めた。

 下に見えるベースの第一研究室に目を向けるが、師匠の姿は見当たらない。

 この書庫を見せられて師匠と呼ぶようになるまで、文章は祖父のことをただの変人だと思っていた。

 考古学者として世界的には有名らしいが、その豪快な性格と奇怪な言動には常軌を逸したところがあった。

 それでも多くの友人から信頼を得ているらしい祖父を理解し、ましてや、その後を継ごうと決意したのは、この場所を見せられたことが一番大きかったと言っていい。

「一番古い友人との絆か……」

 そんなことに思いを馳せていると、ゆったりとした足音とともに聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「おお、文章君。商店街の様子はどうだったかね」

 落ち着いた声の主は、暗闇の向こうから大柄な柔道着姿で現れた。

「師匠、商店街は相変わらずでしたよ。レアな駒が手に入ったとか、とある国の機密文書にはアレなことしか書かれていないとか、俺には何のことだかさっぱりです」

「そうかそうか。変わってないのならいいんじゃが……。こっちは少し面倒なことになってな」

 豪快に笑いなが言う師匠――書道の手には一冊の本があった。

 小さいながらも金色の錠前のついた鮮やかな赤表紙の本。

 書道が肌身離さず持ち歩き、誰にもその中身を見せたことのない書物。

 そして、この広大な空間の管理者の証。

 その表紙にはアルファベットが五文字並んでいた。

『SEALS』

 それを見た文章の顔色は、その表紙とは対照的なものになった。

 書道は「英知の宿りし書」と言っているが、それからは人に畏怖の念を抱かせるような息づかいを感じることがある。

 未知への恐怖ともいえるような、できれば近づきたくないと思わせる雰囲気がそれにはあった。

 文章は、自分が緊張していることを自覚しながら、それでも平静を装って口を開いた。

「それじゃあ、俺は用事があるので、師匠の邪魔にならないように帰りますね」

 書道は帰ろうとする文章の言葉を無視し、その頭をわしづかみにすると大机の前へと立たせた。

「まあ、遠慮するな。多少緊急を要するのでな、文章君も手伝ってくれ」

 そう言うと書道は大机に本を置き、胴着の内側から小さな金色の鍵を取り出した。

 本の小口側で表紙同士を繋いでいる錠前の鍵穴へと、その鍵を差し込み、右へと回す。

 文章の耳には、解錠を知らせる小さな金属音が、やけにはっきりと聞こえた。

「例のページを」

 書道は、本に向かってそう言うと表紙を軽く二回叩いた。すると、開いてもいない本からページが一枚だけ音もなく滑り出し、そのままの位置で静止した。

「文章君、これをどう思うかね」

「どうって……、真っ白ですけど」

「そうなんだ。真っ白なんだよ」

 書道は、腕組みをしながら険しい顔を浮かべている。

「はあ……」

 文章は何も書かれていないページを前に、ただ気の抜けた返事しかできなかった。


【第一章】

 こめかみを引っ張るような目覚し時計の電子音が、柔らかな朝日の射し込む部屋の中を鳴り響いている。

 その音から逃げるようにして、ベッドで寝ていた少女は頭を布団の中へと潜り込ませた。

 それでも音は止まない。それどころか、くぐもった音は徐々に大きくなり、アナログなベルの音が追加され、さらには時計の載ったサイドテーブルを地震のように揺らし始めた。

「むー」

 眠りを妨げる不快な音のオーケストラに、彼女は蛇のように布団から腕だけを出すと、サイドテーブルにあるはずの時計目がけて手を力なく落下させた。

 しかし、オーケストラは止まらない。

 何度かオーケストラに紛れてテーブルを叩く音が繰り返されるが、それでもオーケストラは、ひるむことなく演奏を続ける。

 力尽きたのか、上昇と落下を繰り返していた手の動きが止まる。

「う~~~~~」

 恨めしそうな呻き声が布団の中から響いた次の瞬間、手は再び上昇し始め、狙いを定めたかのように手が勢いよく振り下ろされた。

 そして今度は、それまでとは違う金属とプラスチックによる音が鳴り、そして沈黙が訪れる。

 蛇の舌のように伸びていた腕は、獲物を掴んだまま胃袋の中へと消えていく。

 そして数秒。

「なんじゃこりゃーーーーー!!」

 布団を吹き飛ばしながら、寝癖に歪んだ金色のショートカットを頭に乗せた少女――空野言葉そらのことはは、時計を鷲掴みのまま、ベッドの上で仁王立ちした。

              ◆

「何で誰も起こしてくれないの⁉」

 一階に下りてきた言葉の大きな声に、キッチンにいる母は振り返ることなくかすれるような小さな声で応えた。

「ちょっと言葉。危ないから大声出さないでくれる」

「だって、もう九時じゃない! 完全に遅刻だよ!」

「何言ってるのよ。まだ六時よ?」

「え?」

 言われて台所の時計を見れば、短針は確かに真下近くを指している。

「あれ? 目覚まし鳴ったのに……」

 言葉は首をかしげて、しばらく時計を見つめていた。

「起きてきたなら手伝ってくれる? 今、ちょっと手が離せなくて」

 母の背で細かく揺れる栗色のポニーテールを見ながら、言葉は催眠術にかけられているような気分になり始めた。

(うー、なんか急に眠くなってきた)

 眠い目をこすりながらも、朝食は何かとテーブルの上を見る。

しかし、そこにはランチョンマットが敷いてあるだけだった。

(寝不足の上に朝食抜きは勘弁してほしいな)

 言葉は溜息をつきつつも、母を手伝うことにした。

「しょうがないなー。母さん、今、何やってるの?」

「豆腐を切ってるのよ。こっちは大丈夫だから、ほかをお願い」

 手のひらにのせた豆腐を凝視しながら、ゆっくりと包丁を入れつつ母は答える。

 その指は絆創膏だらけで、出来損ないのロボットのようになっていた。

「うん。わかった」

 とりあえず豆腐と見つめ合う母は置いておき、言葉はキッチンを見回した。

(炊飯器のご飯はできてるみたいね。それ以外は全滅か)

 一通り確認した言葉は、爽やかな朝を感じさせるスカイブルーのエプロンを身につけ、鍋に水と顆粒の鰹だしを入れると火にかける。

 次に冷蔵庫から卵を五つ取り出し、それをテンポよくボールに割り入れていく。そこに砂糖を多目、塩をひとつまみ入れて白身を切るように溶くと、油を引いて熱したフライパンへ一気に流し込んだ。

 フライパンから元気な音とともに、甘く芳ばしい香りが広がる。固まり始めた卵を焦がさないように菜箸でかき混ぜ、半熟の内に手際よく形を整える。あとは両面にほんのりと焼き色が付けば卵焼きの完成だ。

 美味しそうな匂いに言葉が満足していると、となりで沈黙していた母が話しかけてきた。

「そう言えば、言葉に手紙がきてたわよ」

「ん? 何が来てるって?」

 聞き慣れない単語に声のほうを見てみれば、母は未だに豆腐とにらめっこをしていた。

「だから、て・が・み」

 言葉が手紙という単語の意味を理解するには数秒を要した。しかし、それを理解した瞬間、言葉は驚きの表情とともに母へとフライパン片手に詰め寄り、興奮気味に問いかけた。

「ほっ、本当⁉ それ、どこにあるの?」

「ちょっと、急に大声出さないでよ。びっくりするでしょ」

「あ、ごめん。で、手紙は?」

 そう言って少し距離を離しつつも、好奇心旺盛な言葉の視線は母に向けられたままだ。

「冷蔵庫に貼ってあるでしょ」

 母はそう言うと、ようやく豆腐を横に切り終えて一息ついていた。

 冷蔵庫の扉には、白い封筒がマグネットで貼り付けてある。

 言葉は、手にしたフライパンから卵焼きをさっさとお皿に移すと、エプロンで手を拭いて封筒を手に取った。

『空野言葉 様』

 封筒には自分の名前が書かれていた。

「おおおお!」

 それを見ただけで、言葉の胸は高鳴っていた。

「ね、ねえ母さん。これ、どうやって開けるの?」

「どうって、封を破るのよ」

「えっ⁉ 破っちゃっていいの?」

 舞い上がる言葉に、母は呆れながら答えた。

「いいも何も、破らないと中身出せないでしょ」

「そうだけど、本当に? 本当にいいの?」

「もう、うるさいわね。豆腐が切れないでしょ」

「ぶー、どうすればいいのよー」

 文句を言いつつも、ボールが投げられるのを待つ犬のような言葉の表情に、母はようやく切れた豆腐を鍋に入れると、「ちょっと待って」と言って隣にある書斎へと入っていった。

 書斎からは、マシンガンのような音とともに呪われた獣のような声が漏れ聞こえてくる。

(父さん、また暴走してる)

 書斎にいる父の姿を想像して現実へと戻ってきた言葉は、苦笑いとともに思わず溜息を漏らした。

 そんな魔境へ母は平然と入っていくと、そこから銀色の羽のような物を持って帰ってきた。

「さて、これは何でしょう?」

 金属製のそれを見せながら、得意げに母が言う。

 言葉は少し考えると、すぐにポケットからモバイルを取り出した。

 それを見た母は、手にしたそれを後ろに隠す。

「ダメよ。検索したらクイズにならないでしょ?」

「えー、じゃあ、わかんない。何なの、それ?」

「まったく、何でも端末で済まそうとするんだから。もう少し自分の頭で考えなさい」

 モバイルはダメと念押しして、母は金属製の羽を言葉の目の前に掲げる。

 目を凝らして十数秒。しかし言葉は、俯いて首を横に振ると大きな溜息をついた。

「無理。わかんない。手紙もそれも初めて見るんだから、わかるわけないよ。早く手紙が見たいのにー」

 手紙を両手で抱きしめながら、言葉が捨てられた子犬のような瞳で言う。

「もう、しょうがないわね」

 可愛い娘の頼みに、自分の甘さを感じつつも多くを知る者として、母は得意げに話し始めた。

「これはペーパーナイフって言うのよ」

「へえ、ナイフなんだ。で? それを、どうするの?」

「これを封に差し込んで封筒を切り開くのよ。手で破いてもいいけど、やっぱり大切な手紙はきれいに取っておきたいでしょ?」

「ありがとう、母さん。じゃあ貸してくれる。自分でやるから」

 ペーパーナイフを見せながら胸を張って言う母に、言葉は軽く礼を言うと手を差し出してきた。

「え? 大丈夫? 使い方わかるの?」

「封に差し込んで切り開くんでしょ。そこまで聞けば大丈夫」

 寂しそうにペーパーナイフを渡す母に笑顔を返すと、言葉は少し考えるような仕草をして、その先端をフラップに差し込んだ。そして、手際よくナイフをスライドさせて封を開け始める。

 その様子を見ながら、母が感嘆の溜息を漏らした。

「本当に言葉は器用よね。いつになったらその器用さを、母さんにも分けてくれるのかしら」

 言葉の手元を見ながらそう言う母を尻目に、言葉は封を開けると中身を取り出しす。

 封筒の中には三つ折りにされた一枚の紙が入っていた。それを広げようとして、しかし背後の視線に言葉は手を止めた。そして、手紙を封筒に戻しながら視線の主へと告げる。

「母さん、味噌汁が吹きこぼれそうだよ」

「あら大変⁉」

 話しかけられた母は、ロボットのような声で笑いつつ、こちらを気にしながらも鍋を見に行った。

 ジト目でそれを見つつ、言葉は封筒から再び手紙を取り出すとそっと中身を見る。

「……母さん」

 呼ばれた母が、嬉しそうに背後からのぞき込んでくる。

「何? 何?」

「この模様って何かの情報インフォタグ?」

 紙に描かれた円形の模様を母に見せながら、言葉はそんな疑問を口にした。

              ◆

「おはよー、絵美。今日、寒くない?」

 教室に入ってきた言葉は、長い黒髪を後ろで一つにまとめた日本人形のような友人に声をかけた。

 声をかけられた友人は、隣の席に座る言葉に笑みとともに挨拶を返す。

「おはようございます。言葉さん。夕方頃から雪が降るみたいですよ」

「え、本当に?」

 言葉は持っていたモバイルで天気予報を確認すると、露骨に嫌そうな顔をした。

「言葉さん、寒いの苦手ですものね」

「寒いと中々眠れないんだよね。やだなー」

 文句を言いつつ言葉はモバイルを鞄にしまうと、NOTEを取り出して授業の準備を始める。

「うーん。それにしても今朝のは何なんだろう?」

「どうかされたのですか?」

「んー、ちょっとね」

 絵美は唇に人差し指を当てて少し考えると、小首をかしげながら言葉に尋ねた。

「また、お兄様とケンカでもされたのですか?」

「何で、あいつが出てくるのよ」

 言葉の不機嫌そうな視線が絵美に向く。

「でも、言葉さんが悩まれることといえば、そのことくらいしか……」

 視線を合わせないように話す絵美に溜息をつきながら、言葉は話を続けた。

「違うわよ。大体、最近はろくに家にも帰ってもこないし……」

「あら、そうなのですか? それは心配ですね」

「そうなのよ。まったく、本なんてモバイルで読めばいいのに、いちいち超高級な紙のやつじゃないといけないなんて……って、だから、フミ兄のことじゃないって!」

「違いましたか。では何を……」

 そこまで言って、絵美は何かを思い出したように言葉を見た。

「言葉さん」

「何よ?」

 教室に一時限目の開始五分前を告げる、鐘を模しただけの音色が鳴り響く。

「出席認証はされましたか?」

「出席認……あ!」

 言葉は慌てて鞄からモバイルを取り出すと、机の端にかざした。

 出席認証の確認音と一時限目の担当教諭が教室に入ってくるのは、ほとんど同時だった。

              ◆

「現在、一般的に普及しているHARハル、すなわち超拡張現実技術の基礎は……」

 大型ディスプレイ――電板の前で、教諭が情報技術の授業を進めている。

 生徒達のキーを打つ音が時折響く中、言葉は自分のNOTEに向かって視線を送っていた。

 NOTEのディスプレイには、電板に書き込まれた情報がリアルタイムで送られてくる。

 しかし、言葉の視線はその前、手に持ったモバイルに向けられていた。

(うーん。なんなのかなー。この模様)

 端末の画面には、今朝の手紙に描かれていた模様が映し出されている。

 模様は円と文字のような線の組み合わせでできており、手の込んだ情報タグのようにも見えるが、コードリーダーでスキャンしても反応はなかった。

 言葉は模様の画像をタッチすると、表示されたメニューから画像検索を選択する。

 検索が始まると、モバイルのディスプレイに、検索中であることを示すメッセージとともに回転するマークが表示された。《検索中……》

(タグじゃないとすると、何かのマークかな?)

《検索中……》

(いたずら?なわけないよね。わざわざ高い紙を使って、そんなこと……)

《検索中……》

(……なんか、重いわね)

《検索中……》

(そんなに大きな画像じゃないんだけど……)

《検索中……》

《検索中……》

《検索中……》

《検索中……》

《検索中……》

(ぐぬぬぬぬぬ)

 ディスプレイの表示は検索中のままで、一向に変わらない。

 検索中のマークも、ぐるぐると動き続けている。

 見ていると、段々とまぶたが重くなってくるような気がした。

 気のせいか、頭も重くなってきたような気がする。

(重い! 重すぎる!)

 言葉は検索画面を閉じようと端末に指を乗せた。

 そのとき、マークの動きが少し早くなったような気がした。

(お、もしかして……)

 その動きに期待を膨らませて、言葉はじっと画面を見つめる。

《検索が終了しました》

 検索終了のメッセージが表示された。

(よし! どれどれ。どんな結果が出たのかなー)

 検索結果へと視線を移動させる。

《検索結果は0件です》

(…………)

 0件だった。該当なし。その結果に言葉のやる気もどこかへ行ってしまった。

 モバイルのディスプレイに浮かぶ0という数字が虚しく輝いていた。

 言葉はNOTEにキーロックをかけると、溜息とともに机の上に突っ伏す。

(うー、あんなに待たせておいて0なんてひどいよー。わたしの時間を返せー)

 半目で窓の外を眺めれば、白い雲と青い空のコントラストは目に優しく、暖かな陽の光が心地好い。

 授業は今も淡々と続いているが、教諭の声も遠くに聞こえるような気がした。

(少し眠いかも……)

 今朝は普段より一時間以上も早く起きたことを思い出して、言葉は自分のまぶたを自然にゆだねることにした。自分の意識から離れたまぶたが、重力に引かれて落ちていく。そして、言葉の意識も落ちていこうとしたそのとき、手の中のモバイルが震えた。

(ん? この振動は……)

 上体はそのままに、言葉は机の端にぶら下がった腕だけを操り人形のように引き上げた。

 モバイルのディスプレイを顔に向ければ、そこにはメッセージが表示されている。

《絵美:そのまま寝たら、顔が凸凹になるで》

 顔だけを反転させて絵美の方を向けば、彼女は電板のほうを見たまま授業を受けている。

 ただ、その手にはモバイルがあった。

《言葉:眠い》

《絵美:反対側まで丁寧に。あんたはワッフルか》

《言葉:ワッフル食べたい。チョコソースたっぷりの》

《絵美:そうやなー。帰りにどこか寄ろか?》

《言葉:わーい。じゃあ、おやすみー》

《絵美:おやすみー。じゃなくて、ちょい待ち!》

《言葉:なによー》

《絵美:駒っちが、こっち見てるって》

《言葉:え⁉》

 そうキーを打った直後、いつの間にか静まり返っていた教室の中を、一つの足音が妙に大きな音を響かせた。

 その足音は、ゆっくりと言葉のほうへと向かっていた。

 そして、言葉と絵美の間まで来ると、足音は大きな影を残してぴたりと消えた。

 残された影は、その場で微動だにすることなく威圧感を放ちながらも、ただ佇んでいる。

 言葉は、確信に近い嫌な予感を抱きながらも、ゆっくりと影を見上げた。

 そこには、スーツの上からでもわかる空手三段という教諭の鍛えられた体が、壁のようにそびえていた。

 そして、その頂上付近にある口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

「空野、今日はいい天気だな」

「ははは、そうですね」

「私の授業は退屈かな」

「あー、退屈というか眠くなる?」

「そーらーのー!」

 こめかみに青筋を浮かべながら笑顔を浮かべる教諭に、言葉は慌てて手を振って自分の本意ではないことを示す。

「いえ!そういう意味ではなくてですね。心地好いというか、一種の催眠術といいますか……」

「空野」

 低い声で、情報技術の駒井教諭は言葉の名を呼んだ。

「はい」

 言葉は返事をしながら、上目づかいで教諭の表情を伺おうとした。

(まぶし!)

 教諭の眼鏡に反射した光が視線を直撃し、思わず下を向いた言葉は、手にしたモバイルのディスプレイに映る画像に絶句した。

 そこには両頬にキーボードの跡を付けた自分の顔が、絵美のメッセージとともに表示されている。

《絵美:怪奇! ワッフル星人現る!》

「ちょっと! いつの間に撮ったのよ!」

 立ち上がって教諭の向こう側にいる絵美に抗議する言葉だったが、当の絵美は素知らぬ顔でこちらから視線を外し、さりげなく言葉と自分の中間を指さした。

「空野」

 教諭の声は、噴火前の火山のように重く震えていた。

 言葉の背中を冷や汗が流れ落ちる。

 恐る恐る教諭のほうを振り向けば、そこには笑顔を引きつらせた鬼の顔があった。

 鬼はゆっくりと口を開いて、人間の言葉でこう言った。

「後で職員室に来るように」

「えーーーーー!」

「えーじゃない!」

 即答で不満の声を漏らした言葉の頭上に、教諭の空手チョップが炸裂した。

              ◆

「あの岩メガネめ。いつかしっぽを掴んでやる」

 電子出版部の部室に来た言葉は、扉を閉めるなり拳を握りしめてそう言った。

「言葉さん、先生を猿呼ばわりしては失礼ですよ」

「いやいや、そこまでは言ってないから」

 四メートル四方の小さな部室の奥から、CUBEの大型ディスプレイ越しに絵美の声が飛んできた。

 言葉は溜息をつきながら、大型ディスプレイの裏にある自分の席に着くと、NOTEを鞄から取り出す。

 大型ディスプレイに隠れて絵美の姿は見えないが、そこからはペンを走らせる鋭い音が絶えず聞こえてきていた。

「絵美。今日は、どの記事を仕上げるんだっけ?」

「今日はスポーツ大会の特集記事ですよ、部長。それから生徒会と風紀委員の広報記事のチェック、そろそろ目だけでも通しておいてください」

「えー、その記事、どうしても載せなきゃだめかな?」

「だめです。両会からは多額の掲載料をいただいていますから」

「それはわかってるんだけど、会長のナルシスト話と風紀委員のプロパガンダを面白くするの、結構大変なんだよ?」

「面白くしなくても、そのまま載せればいいじゃないですか」

「いや、それは無理。あの背筋も凍るような駄文と某国の独裁者も引くような拙文をそのまま載せるなんて、考えただけで恐ろしい」

 言葉は肩を震わせて青ざめると、「あ、思い出したら熱が出てきた」と言ってずるずると椅子にもたれかかった。

「まあ、そうですけど、掲載料がなくなるのは困ります」

「いいじゃない、たまには」

「よくありません」

「なんでよ。何か新しい機材でも買う予定あったっけ?」

「機材の購入予定はありませんが……」

「が?」

 急に歯切れの悪くなった絵美に、言葉は悪い予感がした。

「予算が足りないんです」

「んー、そんなに今年使ったかな」

「まあ、取材でいろんな所に行きましたからね」

「聖地巡礼とも言うわね」

「素晴らしいところばかりでした」

 そういう絵美の声は、普段よりもキーが一つ高いような気がした。

「で、今回は何部出すの?」

「前回は百部で足りなかったので、今回は思い切って二百部にしようかと」

「それは思い切ったわね。でも、お高いんでしょう?」

「まあ、ちょっと紙にもこだわってみようかと思いまして、前回の三倍……」

 そこで絵美は、隣に現れた殺気に気がづいた。

「え~~み~~~!」

 そこには、周囲に邪悪な闇のオーラを漂わせた、金髪の悪魔が立っていた。

 悪魔の目は闇の中でも光り輝き、獲物を捕らえて放さない。

「で、出たな! マクスウェルの悪魔!」

「ふふふふ」

 おののき、後ろの棚に追い詰められながらも声を失わない絵美に、悪魔は愉快そうに笑った。

 悪魔は床に置いてあったCUBEの青黒いケースを見ると、それを両手でつかみ、ゆっくりと頭上へ掲げる。

「そ、それで私の記憶を消すつもりやな! そうは……」

 悪魔は笑みを貼り付けたまま、じりじりと近づいてくる。

「ちょ、あかん。それはあかんて! 冗談にならん! ストップ! ストッーーープ!!」

 目を閉じて、両の手のひらを前に突き出しながら叫ぶ絵美に、悪魔はケースをより高く掲げる。

「あんた、また、勝手に部費を使ってえええええ!」

 恨みを吐き出すような声とともに、悪魔は手にした凶器を振りかぶった。

「ごめん! 私が悪かった! 何でも言うこと聞くから堪忍や!」

「ゆ~る~さ~~~ん!」

 頭を抱えてかがんだ絵美の上を、厚みを持った空気の固まりが落ちていく。

「ひーーー!」

 小さく丸まった絵美の体から悲鳴が漏れる。

 しかし、黒い塊が落ちてくることはなかった。

「なんてね。よっと」

 言葉は軽くジャンプしてCUBEのケースを絵美の頭上にある棚に乗せると、しゃがんで丸まった絵美の頭をぽんと叩いた。

「え?」

 絵美は恐る恐る片目をゆっくりと開けて、周囲の状況を確かめる。

 目の前には、してやったりとほくそ笑む言葉の顔があった。

「もう! びっくりしたやんかー」

 そう言って絵美は言葉に抱きついた。その目尻には少し涙が浮かんでいた。

「ごめんごめん。ちょっとやりすぎちゃった」

 絵美を抱きしめ返しながら、言葉は絵美の頭を優しくなでた。

「言葉のいじわるー」

「でも、部費の横領はダ・メ」

 そう言って絵美のおでこを人差し指で軽くはじくと、絵美はおでこを押さえて頬を膨らませながら言ってきた。

「横領ちゃうもん。紙メディアという伝統を守る部の重要な活動や」

 拳を握りしめて力説する絵美に、言葉は「相変わらず、興奮すると口調が面白くなるなー」と感想を抱きつつ、一つの提案を持ちかけた。

「伝統ね。じゃあ、わたしのお願いを聞いてくれたら、今回は大目に見てあげる」

「お願い?」

「ちょっと待って」

 そう言うと、言葉は自分の机に掛けてあった鞄へと向かい、そこから手紙を取り出した。

「これなんだけど」

「そ、それって、手紙⁉」

 驚いた絵美が手紙に手を伸ばすが、言葉は直前でそれをかわすと後ろ手に隠した。

「ちょっと落ち着いて、絵美」

「落ち着けるわけないやんか! 何よそれ! 誰からもらったの? まさか⁉ 文章様からじゃ……」

「オ・チ・ツ・ケ!」

 暴走しながら迫り来る絵美の顔を、言葉は左手で鷲掴みにした。

              ◆

「暴力反対です。言葉さん」

「少しは落ち着いた?」

 ミーティングテーブルの向かいで乱れた髪を整えている絵美に、言葉は紅茶を勧めながら話しかけた。

「まあ、落ち着きはしましたが……」

 そっぽを向きながら、絵美はふくれっ面で答えた。

 落ち着いて口調の戻った絵美に、言葉は一息ついてから改めて話し始める。

「この手紙が今朝、届いてたんだけど……」

 そう言って差し出された手紙を受け取ると、絵美は興味深そうに眺め始めた。

「封筒はブレンド紙、これはカイゼルですね。素朴な感じですが、温かさがあって私はすきですよ。ああ、なんと言っても実物の醍醐味は、この肌触りですよねー」

 封筒にほおずりしながら、絵美はうっとりとした表情を浮かべている。

「うん、封筒の感想はいいから中を見てくれる?」

 拳を握りしめながら笑顔で言う言葉に促されて、絵美は咳払いを一つしてから封筒の中身を取り出した。

 手紙を手にした絵美は、感嘆の声とともに目を輝かせる。

「これ、和紙じゃないですか! しかも、この風合いは檀紙ですよ! この白さと香り、そして、この肌触り、癒やされますわー」

 手紙を撫で回しながら別世界にトリップしそうな絵美を、言葉は冷ややかな視線で現実に引き戻す。

「いや、だから紙の感想じゃなくて、聞きたいのは内容についてなんだけど?」

「あ、そうでしたわね。でも、言葉さん……」

 手紙を見ながら少し考え込んだ絵美は、続けてこう言った。

「この手紙、何も書かれていませんよ」

「え⁉ うそっ!」

 慌てて手紙をのぞき込もうとする言葉に、絵美は手紙を返しながら言った。

「嘘ではありません。表も裏も白紙で、実に綺麗な和紙そのものです」

 言葉は受け取った手紙を隅から隅まで目を凝らして見たが、横にして照明に透かして見ても、あの手紙に大きく描かれていた模様はどこにもなかった。

「そんなはずない。今朝見たときは確かに……」

 何度も何度も言葉は手紙を見返したが、そこにあるのは和紙のしわくらいだった。

 封筒の中も念のために確認してみたが、そこにも何も見つけることはできなかった。

 状況が飲み込めない言葉は手紙を見ながら唸っていたが、ふと思い出してモバイルを取り出すと、今朝撮った手紙の画像を絵美に見せた。

「今朝はこうだったんだよ?」

 画像を見ながら絵美はしばらく考えて、自信なさげにつぶやいた。

「もしかすると、あぶり出しでしょうか?」

「あぶり出しって、文字を反転させて見る、あれ?」

 言葉は、ネット掲示板などで背景色と文字の色を同じにして隠し、文字をカーソルで選択すると、色が反転して見えるようになる光景を思い浮かべた。

「それの元ネタです。ミカンなどの汁で紙に文字などを書くと、それだけでは汁にほとんど色がないので何が書かれているのかわからないのですが、火であぶると汁を塗ったところの色が変わって見えるようになるんです」

「じゃあ、この紙をあぶったら、またあの模様が出てくるってこと?」

「あくまでも可能性の一つですけれど……」

 眉尻を下げて言う絵美に、言葉は何か思いついたのか立ち上がると、誘うように手を伸ばして言った。

「じゃあ、おやつでも食べながら、その可能性を確かめてみましょ」

「それは構いませんけれど……」

 そう言って伸ばされた絵美の手を握ると、言葉はそのまま部室の外へと彼女を連れ出した。

              ◆

「言葉さん。どちらに行かれるんですか?」

 前を歩く言葉に絵美は尋ねた。

「予備調理実習室」

 言葉は振り返ることなく、それだけを告げると周囲を見回し、廊下に出ている標識を確認する。

 そして数歩行くと手元に視線を移し、それから再び周囲を確認した。

「では、まず職員室で鍵を借りないと」

「今日はスイーツ研が使ってるはずだから大丈夫」

 そう言いながらも、言葉は手元と周囲を見比べながら歩いて行く。

「相変わらず、ナビがないとだめなんですね」

「しょうがないでしょ。ただでさえ広い学園なのに、スイーツ研の部室ってころころ変わるんだよ?」

「正式な部ではありませんからね。でも、あそこのスイーツは本当に絶品でした。会長さんも素敵ですし」

「まあ、どこでやってても行列で部室の場所がわかるくらいだからね。会長は気に入らない奴だけど」

 うっとりした声で言う絵美に、言葉はそっけなく答えた。

「また、そんなことを言って。ファンの子達に怒られてしまいますよ?」

「そんなこと気にしてたら記事なんて書けないのよ」

 少し心配そうな絵美をよそに、言葉は廊下を曲がって階段を上り始めた。その後を絵美は静かについていく。

 部室棟の二階から四階へと上がり、そこから渡り廊下を通って実習棟へ。

 実習棟は南側に開いたコの字型をしていて、東西北の三方向に様々な実習室が並んでいる。

 言葉は、渡り廊下から実習棟四階の西側に入ると、目の前にあった階段を上り始めた。

 そして六階に着くと、今度は西側廊下を進んで突き当たりの階段を下へ。

 一つ下の階に来ると、次は北側の廊下を進み、突き当たりの階段をまた下へ。

 そこから北側廊下を進み始めた。

「あの、言葉さん?」

「何よ?」

 言葉はモバイルを見ながら、廊下を淡々と歩き続けている。

「間違っていたら申し訳ないのですが、渡り廊下のほうへ戻っているような気がするのですが……」

「何言ってるのよ。わたしはナビのとおりに歩いてるんだから、間違っているわけが……」

 そう言いながら顔を上げた言葉は、目の前にある物を目にして立ち止まると首をかしげた。

「あれ?」

 絵美は溜息をついて言葉の肩を叩くと、心底心配そうに言った。

「方向音痴なのは知っていましたが、まさかこれほどとは……」

 二人の目の前には、『渡り廊下』という表示があった。

「ち、違う! わたし、そんな可哀想な子じゃないもん! やめて! そんな目で見ないで!」

 絵美の視線にたじろぎながら、言葉は後ずさった。

 すると言葉の後ろ、渡り廊下のほうから足音が聞こえてきた。

 それに振り向いた言葉は、足音の主を見て苦虫をかみつぶしたよう声を上げると、すぐに絵美の後ろへと隠れた。

「やあ」

 軽く手を上げて挨拶をしながら現れたのは、長身痩躯の優男だった。

「元気な声が聞こえると思ったら、やっぱり言葉ちゃんだったんだね」

 男は爽やかな声でそう言うと、髪と同じ深い緑を湛えた瞳で言葉を見つめた。

 それに対する言葉は、絵美の後ろで毛を逆立てた猫のように男を睨みつけている。

「あら、青儀先輩。こんにちは」

 絵美は後ろで呻く言葉をよそに、目の前の男――スイーツ研究会会長へと慇懃な笑顔を向けた。

「こんにちは。神代さん」

 青儀も笑顔で絵美に応える。しかし、その視線はすぐに後ろの言葉へと向けられた。

 そして、優しい口調で言葉に質問を投げかける。

「こんなところで何をしているのかな? 可哀想な子猫ちゃん?」

 その時、絵美は背後で膨れ上がった殺意が爆発する音を聞いた。

 そして、自分の横を一陣の風が通り過ぎる。

 次に意識を目の前に戻したときには、既に自分と青儀先輩の間に人影があった。

「あんたに可哀想呼ばわりされる覚えなんてないんだから! さっさと実習室に戻って、ファンの子達のためにあくせく働きなさいよ!」

 青儀に噛みつかんばかりに背伸びをして抗議をする言葉に、青儀は驚きながら冷静に抱いた疑問を口にする。

「実習室?」

「そうよ。あんたなんかスイーツを作るしか能がないんだから、それだけやってればいいのよ!」

 そう言われた青儀は、少し考えてから困った顔を浮かべた。

「そうしたいのは山々なんだけど、今日は店の手伝いがあるからスイーツ研はお休みなんだ」

「はい?」

 間の抜けた返事をする言葉に、青儀は「だから、今日はお休み」と言いながら右手を言葉の顔へ伸ばした。

 自分の頬に青儀の手が触れる直前、言葉は「ひっ!」と短い悲鳴を上げると素早く腰を引いて上体を下げ、その流れから後ろに飛び退いて青儀との距離をとった。そして、少し赤くなった顔で青儀に疑問を投げつけた。

「や、休みってどういうことよ? ナビで検索したら、きょ、今日は予備調理実習室って出てたわよ」

 顔が熱くなっていることを自覚しながらも、さっき怒鳴ったからだと言葉は自分に言い聞かせた。「おかしいな。予備調理実習室なんて二カ月前に使ったきりだし、スイーツ研のタグも休みに更新しておいたはずだけど……」

 そう言って青儀は、途中まで伸ばした右手を頭にやりながら、不思議そうな顔をした。

 隙のないファイティングポーズで威嚇を続ける言葉。

 そして、そんな言葉に可愛らしい小動物を見るかのような視線を送る青儀。

 無言の攻防は、しばらく続くかに思えた。

 しかし、それは一人の溜息とともに打ち砕かれた。

「まったく、つきあっていられませんわ」

 絵美はあきれ顔で淡々と言うと、言葉の襟首を掴んだ。「言葉さん、行きますよ」

 そして、そのまま渡り廊下へと歩き始める。

「え? 絵美、何? どこ行くの?」

「スイーツ研がやっていないのなら、職員棟に行って実習室の鍵を借りないと。青儀先輩、私たちは用事があるので、ここで失礼いたします」

 すれ違いざまに軽く青儀に会釈をしながら、絵美は言葉を連れて渡り廊下へと向かった。

 そんな二人を笑顔で見送りながら、青儀は思い出したようにブレザーのポケットから小さな紙袋を取り出すと、引きずられていく言葉へ向かってそれを投げた。

「言葉ちゃん。これをあげるよ」

 放物線を描いて飛んできたそれを思わずキャッチした言葉は、紙袋からほのかに香る甘いバニラの匂いに、まるでマタタビを与えられた猫のような表情を浮かべた。

              ◆

 言葉は部室でクッキーを食べながら、真っ白なままの手紙を見ていた。

 あの後、調理実習室のコンロで手紙をあぶってみたが結局何も現れず、二人は途方に暮れていた。

 絵美も紅茶を飲みながらNOTEで調べてくれてはいるが、時折眠そうな顔をしている。

 言葉は最後のクッキーを口に入れると、冷めかけた紅茶を飲み干して一息ついた。

「絵美、今日はここまでにしよ」

 絵美はNOTEの時計を見ると、背筋を伸ばして大きく息を吐いた。

「もうこんな時間ですか。結局、何もわかりませんでしたね」

「手がかりが、この紙と画像だけだしね。でも、今日はつきあってくれてありがと。あとは自分で調べるわ」

「わかりました。私も、時間があるときにでも調べてみますね」

「うん。助かる」

 二人は立ち上がると、ティーセットを片付け始める。

 すると、部室にモバイルの着信音が響いた。

「ん? なんだろ?」

 言葉はモバイルを取り出すとディスプレイを見た。

「フミ兄からメール?」

 その名前に、目の前で食器をバスケットに片付けていた絵美の動きが止まった。

 言葉はメールの中身を確認するが、そこには単語が二つあるだけだった。

《ことは おかしい》

「いきなり何これ?」

「実にお兄様らしい、真理に満ちあふれた言葉ですね」

 眉をひそめる言葉に、いつの間にか隣に来た絵美が感心しながら言った。

「勝手に見ないでよね。それに、真理ってどういう意味よ?」

 睨みながら言う言葉に、絵美は笑ってごまかした。

「まったく。あの機械音痴が送ってきたメールよ。そんな高尚なわけがないでしょ」

 言葉が呆れていると、再度メールの着信音が鳴った。

 そこには、やはり単語が二つ並んでいた。

《ことは きれた笑》

「まあ、お兄様には何でもお見通しですね」

「な……」

 絶句する言葉の横で、絵美はくすくすと笑っていた。

 何を言いたいのかはよく分らないが、あのテレビのチャンネルさえもろくに変えられない人間の、しかもこんな短いメールに自分が馬鹿にされている。

 その事実に、言葉は自分の顔が引きつっているのを自覚じた。

 また、メールの着信音が鳴る。

 今度は単語が三つだった。

《だめだ ことは つかえない奴》

 言葉の中で何かが切れた。

「ああ! もうわけわかんない!」

 笑いを堪えている絵美を無視して、言葉はモバイルを素早く操作すると、それを耳に当てて数秒待つ。

「もしもし! フミ兄? まったく、さっきのメールは何なのよ! 馬鹿にしているの?」

 語気を荒らげて、言葉はモバイルに苛立ちをぶつけた。

「え? おかしなこと?」

 しかし向こうの返事に、モバイルに耳を当てていた言葉は急におとなしくなる。

 絵美が隣に来て、モバイルの裏側に耳を近づけてきた。

 言葉は少し考えたが、そのまま話を続けた。

「変な手紙が来たことくらいかな……」

『手紙? もしかして何か模様が描かれてなかったか?』

 文章の声には少し焦りが感じられた。

「何で模様のことを……」

『描いてあったんだな?』

「ええ、でも……」

 切羽詰まったような少し威圧的な声に、言葉は嫌な予感を覚えつつも話を続けた。

「その模様がいつの間にか消えちゃって……」

『……まずいな』

「まずいって何が?」

 話の要領を得ないまま、嫌な予感だけが膨らんでいく。

 そんな言葉の気持ちを置き去りにして、文章の質問は続いた。

『今日、学校でおかしなことはなかったか? 特に、そうだな、電子機器関係で』

「学校でおかしなことは別に……。まあ、ナビの情報が少し変だったり、ネットが重かったりはしたけど」

 言葉の回答に、文章は少しの沈黙を挟んで声を漏らす。

『もう影響が出始めているということか』

「だから何なのよ、さっきから。ちゃんと説明してよ」

 こちらに構わず話を進めていく文章に、言葉はイライラを募らせながら尋ねるが、文章からの回答はなかった。

「ねえ、聞いてる?」

 何も説明をしようとしない文章に、言葉の不安はさらに募っていく。

 しかし、文章は沈黙を破ろうとはしなかった。

 そして、言葉が沈黙に耐えかねて再び話そうと息を吸ったその時、それを遮るようにして再び文章から質問がやってきた。

『言葉、今からこっちに来れるか?』

「こっちって、おじいのとこ?」

 それまでの流れを無視した質問に、言葉は半ば諦めながらも話を続けた。

 今の文章には、こちらの話を聞こうという余裕が感じられない。

 そのことを理解した言葉は、とりあえず文章の話を最後まで聞くことにした。

『ああ、大事な話があるんだ』

「今、学校だから三十分くらいかかるけど、モバイルじゃなだめなの?」

『ああ、だめだ。これ以上は耐えきれん』

「は?」

 意味を掴みかねて言葉は聞き返したが、聞こえてきたのは文章の荒い息づかいだけだった。

「ちょっとフミ兄?」

 いきなりの怪しい雰囲気に心配する言葉。

 しかし、その荒い息づかいは徐々に激しくなり、まるで心臓の鼓動や吐く息さえもが伝わってくるような錯覚を覚える。

 そして、それが大きく息を吸う音へと変わった直後、言葉は一つの叫び声を聞いた。

『もう限界だ! これ以上電波を浴びたら頭が割れる!』

 とっさにモバイルを耳から離した言葉だったが、絵美は隣で目を回していた。

 言葉は絵美の体を支えつつも、通話の切れたモバイルを見て呆れ気味に言った。

「そういえば、すっかり忘れてたわ。フミ兄の電子酔いのこと」

              ◆

 祖父の屋敷は、言葉の家の向かいにあった。

 まず目に入るのは白木造りの倉庫を思わせる長い平屋だった。

 屋根以外に窓はなく、その床は一メートルほど高くなっている。

 上から見下ろすような存在感は威圧的であり、どこか神聖な雰囲気を醸し出していた。

 そして床下から向こうに目をやれば、そこにはうっそうとした森が広がっている。

 森は野球やサッカーの行える競技場が優に百個は収まる広さで、その奥に広がる闇は吸い込まれそうなくらいに深かった。

 ブレザーにコートを羽織った姿で森を見ていた言葉は、目の前の平屋を横目に、その隣にある明かりのついた小さなロッジに向かった。

 彫刻の施された大きな扉をノックハンドルで三回叩く。

「フミ兄、来たよー」

 すると、中からゆったりとした足音が聞こえてきた。

 足音は扉の前で止まり、鍵を開ける音に続いて扉がゆっくりと開く。

 扉につけられたベルが、長目に一回鳴り響く。

 開いた扉の向こうには、ぼろぼろの柔道着を豪快に着込んだ大男が立っていた。

「あれ? おじい、フミ兄は?」

「おお、言葉。よく来てくれた。文章君は奥におる。さあ、中に……」

 おじいと呼ばれた男は、そこで言葉の後ろにもう一人いることに気がついた。

 それは、言葉と同じ学校指定のコートを着た黒髪の女性だった。

「神代家の御令嬢も来ておったのか」

「お久しぶりです。書道様」

 言葉の後ろにいた絵美は、恭しく大男――書道に礼をした。

「うむ、久しぶりじゃな。元気にしておったか?」

「はい、おかげさまで」

「そうか。しかし困ったな……」

 書道は熊のような手で顎をなでながら考え込む。

「もしかして、お邪魔でしたか?」

「いや、そういうことではないのだが、多少込み入った事情でな」

「そうですか。ぜひとも文章様のお力になりたいと思ったのですが……」

 そう言うと、絵美は俯いて黙り込んだ。

「おじい、手紙のことなら絵美にも今日は手伝ってもらったし、どうしてもダメ?」

「ダメということはないのだが……」

 言葉のお願いにも、書道の困った表情は変わらない。

「言葉さん、ありがとうございます。でも、もういいですわ。残念ですけれど、今日は帰ることにいたします」

「絵美……」

 申し訳なさそうな言葉に、絵美は寂しげながらも微笑む。

 そして、気持ちを切り替えるように颯爽と踵を返すと、そのままぴたりと立ち止まった。

「ああ、そういえば書道様」

 背を向けたまま、絵美は書道へと語りかける。

「お祖母様から、書道様がお戻りになったら教えるようにと言われておりました」

「なに⁉」

 書道の巨体が驚きとともに硬直した。

「とても会いたい御様子でしたので、お伝えしておきますね」

「ま、待つのじゃ!」

 立ち去ろうとする絵美を、書道は冷や汗を流しながら呼び止めた。

「あー、なんじゃ、せっかく文章君のために来てくれたことだし、夜道を女性一人で帰すわけにはいかんな」

「おじい、急にどうしたの?」

 その態度の変わりように書道のほうを見れば、そこには視線をさ迷わせて何かに怯える祖父の顔があった。

「さ、さあ、外は寒いからな。まずは茶でも淹れよう」

 事態について行けない言葉だったが、書道は引きつった笑みを浮かべながらも二人をロッジへと招き入れた。

「まあ、書道様の淹れるお茶がいただけるなんて光栄ですわ」

 絵美は笑顔でそう言うと、頭に疑問符を浮かべる言葉を置いて、さっさと中へ入っていった。

              ◆

「何よ、ここ」

「すごいところですわね」

 言葉と絵美は、目の前に広がる深い闇に目を奪われていた。

 ロッジの奥へと案内された二人は、そこで床下につくられた通路へと案内され、地下深くへと下る通路を二十分近く歩いた。

 その間、言葉は三分おきに疲れたと文句を言い続けた。

 しかし、目の前の光景はそんなことを言わせないほどの迫力に満ちていた。

「二人とも、こっちじゃ」

 そんな二人の驚きをよそに、書道は先を促す。

 呼ばれた二人は、壁に沿ってつくられた木製階段を、書道の後に続いてゆっくりと降り始めた。

 左手には階段と同じ木製の広大な壁が延々と続いているが、反対側には無数のクレバスを並べたかのような闇のカーテンが続いていた。

 クレバスの雪に当たる部分は木製の壁でできており、それによって闇は何層にも区切られている。

「ねえ、おじい。あの壁は何?」

 言葉の疑問に、前を行く書道は振り返ることなく答えた。

「あれは本棚じゃ」

「本棚って……、これ全部⁉」

「そうじゃ」

 書道は事も無げに言った。

「では、書道様。この本棚全てに本が収められているのですか?」

「本を収めるのが本棚じゃからな」

 絵美の質問にも書道は淡々と答える。

「これ全部って、いったい何冊あるのよ」

「知らん」

「知らんって」

 あきれ顔の言葉だったが、無限に続く本棚を見返して、その理解の範疇を超えた光景には溜息をつくしかなかった。

 階段の下には、幾つものパーティションで区切られた広いウッドデッキがあった。

 広いと言っても周りに広がる深い闇のせいで、宙に浮いた魔法の絨毯のように見える。

「文章君。気分はどうかね?」

 先にデッキへ降りていた書道は、ベッドで横になっていた青年に声をかけた。

 その声の先に目を向けた絵美は、その瞬間に着ていたコートを脱ぎ捨てると、言葉を押しのけてベッドへと突進した。

「文章様!」

「ぐおっ!」

 蛙のような声がしたかと思うと、ベッドから身を起こそうとしていた文章は、絵美のタックルで再びベッドに沈み込んでいった。

「文章様、お久しぶりです」

 上から見下ろす絵美に、文章は蛇に睨まれた蛙のように脂汗を浮かべた。

「か、神代さん? 君が、なぜここに?」

「なぜって……。いやですわ。文章様がいるからではありませんか」

 長く艶やかな髪をかき上げて、絵美は文章をじっと見つめている。

 文章は目をそらそうとして視線を泳がせ、そして見つけてしまった。

 今にもブレザーからこぼれ落ちそうなほどに見事な二つの逆さ富士を。

「文章様?」

 絵美の不思議そうな声にはっとすると、文章は頭を振って絵美の下から這い出るように後ずさる。

「し、師匠! どういうことですか、これは!」

「いや、どうしても文章君の手伝いをしたいと言ってな」

 目を合わせずに言う書道に、文章はうっとりとした笑顔で自分を見つめ続ける絵美を横目に、脂汗を流しながらも話を続けた。

「手伝いって……。師匠、いいんですか?」

「まあ、なんだ、今回はいいんじゃないかな」

「そんな、師匠……」

 退路を断たれた文章は、それまで無言で立っていた言葉に視線で助けを求めた。

「まったく……」

 言葉は文章と絵美の光景をジト目でしばらく見ていたが、絵美が文章の顔に手を伸ばそうとすると、溜息をついてベッドへと近づいた。

「はいはい、人目を少しは気にしましょうね。お嬢様」

 絵美の襟首を掴むと、言葉は嫌がる絵美を無視して文章から引きはがした。

「あん、言葉さん。ひどいですわ」

「今日は、そんなことをしに来たんじゃないでしょ」

 文句を言う絵美だったが、不機嫌そうな言葉を見ると、渋々ベッドから降りて軽く身なりを整えた。

「フミ兄も話があるんでしょ。早くしてよね」

 ベッドの上でへたり込んでいる文章にそう言うと、言葉は絵美を連れてベッドの反対側にあるテーブルへと向かった。

              ◆

 どら焼きを一つ咥えながら、言葉は向かいに座る文章をじっと見ていた。

 言葉の横では絵美が、書道の淹れたお茶を上品にすすっている。

 そして書道といえば、「説明は文章君に任せた」と言って隣のキッチンで外国語の歌を流暢に歌いながら冷蔵庫を物色していた。

「言葉、何か言いたいことがあるなら言え?」

 居心地悪そうに文章は言った。

「すけべ」

 言葉はそれだけを言うと、そっぽを向いてどら焼きを頬張る。

「ぐっ……」

 自分で振っておいて挫けそうになるやわな心を自覚しながらも、この程度では挫けないぞと自分を奮い立たせて、文章は話し始めた。

「まず話をする前に、一つ守ってもらいたいことがある」

 言葉はお茶をすすりながら、横目で文章のほうを見た。

「ここで見聞きしたことは、外では話さないでほしい」

「他言無用ってこと?」

 二つ目のどら焼きを取りながら言葉が尋ねた。

「そうだ」

「理由は?」

「まあ、理由はいろいろとあるが、一番の理由は、知るだけで危険が伴うからだ」

 真剣な眼差しで言う文章に、言葉は絵美のほうへと目を向けた。

 しかし、絵美は相変わらず静かにお茶をすすっている。

 しばしの沈黙の中、キッチンで書道の振るう包丁の音だけが淡々と響いていた。

 言葉は延々と続く本棚のカーテンに目をやり、一息ついてから文章に言った。

「いいわ。このままじゃ手紙のことが気になって眠れないし、秘密の一つや二つ、安眠のためならどんと来いよ」

「言葉、冗談じゃないんだぞ?」

 文章のまっすぐな瞳に、言葉は少し目をそらしながら答えた。

「わ、わかってるわよ。絵美もいいわよね」

 優雅にお茶を飲んでいた絵美は、言葉と文章に不敵な笑みを向けていった。

「ええ。秘め事は婦女子の嗜みですから」

 二人の回答に頷いた文章は、キッチンを一瞥した。

 そこでは書道が雄叫びを上げながら、逃げ惑う鶏目がけて跳び蹴りを繰り出していた。

 その様子に溜息をつく文章だったが、一度大きく深呼吸をすると言葉達に視線を戻して口を開く。

「わかった。じゃあ、話を始めよう」

 文章はそう言うと、表紙にSEALSと書かれた緑色の手帳を取り出した。

              ◆

「これを見てくれ」

 文章は手帳を広げて、言葉達の前に差し出した。

「これは、フールス紙ですね」

 絵美が広げられたページを見て興奮気味に言う。

「フールスシ?」

「筆記用の高級紙のことですよ! 書き心地はもちろん、にじみや裏うつりもしないんです。文章様、この透かしは、もしかしてオリジナルですか?」

「透かし? いや、わからないけど……」

 目を輝かせて言う絵美に、文章は少し戸惑い気味に答えると言葉へ視線を送る。

「まったく……」

 言葉は前のめりだった絵美を座り直させると、再び手帳に視線を落とした。

 手帳には「書の道は字宙に通ず」と、筆で書かれたような文字が並んでいた。

 言葉はその文字をしばらく見ていたが、首をかしげると文章に言った。

「ねえ、フミ兄。真面目な話の途中で悪いんだけど」

「なんだ?」

「これ、字が間違ってるわよ」

 言葉は文章のほうを見ていった。

「本当か?」

 文章は疑うでも驚くでもなく、淡々と聞き返した。

「本当よ。宇宙の宇が字になってる。ね? 絵美」

「ええ、文章様には申し訳ありませんが、確かにそうですね」

 言葉は得意げに「ほら」と、文章が確認しやすいように手帳の向きを変える。

 しかし、文章は手帳を軽く見ただけで元の向きへと戻した。

「なるほど。じゃあ、もう一度確認してくれるか」

 そう言って、文章は文字の書かれた部分を指でトントンと叩いて示す。

「何よ。何度見ても同じでしょ」

 言葉は怪訝に思いながらも手帳を見直した。

 そして、次に開いた口からこぼれ落ちたのは疑問の声だった。

「あれ?」

「どうしたのですか?」

 隣から手帳をのぞき込むようにして聞いてきた絵美に、言葉は手帳をよく見えるように動かすと、その一点を指さして尋ねた。

「これ、なんて書いてある?」

「書の道は……」

 そこまで読んだ絵美は、手帳を見たまま無言になった。

「どうかしたか?」

 どこか小馬鹿にしたような文章の言い方に、二人は顔を見合わせて密談を始める。

 そして、二人を代表して言葉が口を開いた。

「フミ兄、なんでこんなときに手品?」

「手品って何のことだ?」

 何を言っているのかわからないという大げさな身振りで、文章が尋ね返す。

「とぼけないでよ。さっきまで間違ってた文字が直るなんて、古典的な手品でしょ?」

「文章様。お見事です」

 呆れる言葉と拍手をする絵美に、文章は不敵な笑みを浮かべて言った。

「残念だが、これは手品じゃない。もう一度よく見てくれ」

「いい加減にしてよね! 冗談じゃないって言ったのはフミ兄のほうだよ?」

 どこかはぐらかすような文章に、言葉は噛みつくような勢いで苛立ちをぶつける。

「い、いいから、もう一度見てみろ。ただし、今度は俺がいいと言うまでずっとだ。いいか? 目を離すなよ?」

 一瞬ひるんだ文章だったが、すぐに気を取り直すと二人にもう一度手帳を見るよう促す。

「だから何なのよ? また字が変わってるんでしょ?」

 言葉は詰まらないといった様子で、手帳を見ようともしなかった。

「ちょっと……言葉さん?」

「何よ?」

 絵美が服の腕を引っ張るが、言葉はそれでも見ようとはしない。

「字が……」

「字が何よ?」

「動いてます」

「ああ、そう。動い……はあ⁉」

 予想外の展開に、言葉は驚いて手帳に目を向けた。

 そこには変わらず「書の道は宇宙に通ず」と書かれている。

 しかし、よく見ると宇のはねの部分がうにょうにょと動いているように見えた。

「何よ、これ?」

 そして言葉の目の前で、宇宙は宅宙へと変化した。

「わかったか?」

「いや、わかったか?とか言われても……」

「そうですね。手品ではないようですが……」

 そう言いながら二人は文章を見た。

「まあ、そうだろうな」

 文章は手帳を手に取ると、文字の書かれたページを言葉達に見せながらページを指で叩いてリズムを刻む。

 トントン ト トントトトン トトトトン トン。

 二人はその様子に怪訝な顔をするが、文章は文字を指さしたまま何も言わない。

 仕方なく文字のほうへと視線を戻せば、そこには先ほどよりも明確な変化が現れていた。

「嘘でしょ?」

 言葉達の目の前で、ページに書かれた文字は虫のように紙の上を動き回り、次第に文字を構成していた線がほどけて流れをつくり始める。

 そして線は分裂と伸縮を繰り返し、やがて円を基調とした一つの模様になった。

「これって手紙にあった……」

「いや、同じ仲間だが、これは違う」

「仲間?」

 浮かんだ疑問とともに、言葉は視線を文章のほうへ投げかける。

「こいつは、プリントと呼ばれる生命体の一種だ」

 目の前の奇妙な出来事と意味不明な単語の合わせ技に、言葉の思考は停止寸前の状態に追い込まれていた。

 そんな言葉を見かねて、絵美が文章に質問した。

「この模様は生きているのですか?」

 文章は頷くと話を続ける。

「ああ。プリントは生きているし、意識も持っている。その起源はピクトグラムの発生よりも古く、かつて紙が一般的に使われていた時代には、その表面を好むことから誤字の一因としても確認されていた。しかし、情報技術の発達とHARの普及により……、ん? なんだ?」

 目を回しながらも手を上げる言葉に、文章は話を中断した。

「あのさ、フミ兄。歴史の授業はいいから、要点だけ話してくれない?」

 言葉は熱にうなされるような顔で言う。

「結局、手紙に描かれていた模様、プリントだっけ? あれは、なんで消えたの?」

 少し残念そうにしながらも、文章は言葉の質問に答えることにした。

「ああ、あれは消えたんじゃなくて移動したんだ。プリントは二次元知的生命体。簡単に言うと、物の表面に存在する生命体なんだ。だから、あらゆるものの表面を移動することができる。しかも厚さを持たないから三次元的に閉じ込めることはできない。今回の場合も、手紙に触れた何かほかのものに移動しただけだと思う」

 そこまで説明して文章は二人を見た。そして言葉が手を挙げる。

「で、それの何が問題なの?」

「今日、学校で電子機器が少しおかしかっただろ?」

「おかしかったって言っても、ネットが重かったくらいだよ? ナビだってわたしの見間違いかもしれないし……」

 確信を持てない言葉に、文章は人差し指を立てて話を続ける。

「それから、目覚まし時計もそうだ」

「え? なんでそれを……」

 驚く言葉に、文章は不敵な笑みを浮かべた。

「クーロンを探しておまえの家に行ってみたら、葉子さんが開口一番に教えてくれたよ。あの意地でもぎりぎりまで寝ている言葉が、今日は一時間も早く起きてきたって。なんか、その時は豆腐に集中してて気づかなかったとか言ってたけど……」

 そこで文章は、大げさに頷きながら話を続ける。

「そうか。おまえは、今でも眠り姫を目指して頑張っているんだな。幼稚園の頃からずっと……」

 そう言うと、文章は遠い目をして「言葉は偉いなー」と棒読みの台詞を口にする。

 乙女の秘密をばらした母を思い浮かべながら、言葉は拳を握りしめた。

「そんな昔のことはいいから、さっさと話を続けなさい!」

 瞳に復習の炎を燃やしながら言う言葉に、自分にもその火の粉が飛んできてはたまらないと、文章は話を続ける。

「問題なのは、言葉の手紙にいたプリントが特殊なタイプで、電磁波を操ることができるという点。そしてもう一つは、面倒なことに奴が無類のいたずら好きという点だ」

「では、言葉さんに今日起きたことは全て、そのプリントのいたずらだということですか?」

「ああ、十中八九間違いない。今の世の中は電子機器だらけだからな。奴のいたずらで誰かが早起きするくらいなら大した問題じゃないが、そうとは限らない。だから、これ以上大事にならないうちに、奴、クーロンを捕まえる必要があるんだ」

 絵美に頷きながら答えると、文章は言葉のほうを見る。

 そこには、無言で俯く言葉の姿があった。

「おい、言葉、聞いてたか?」

「聞いてたわよ。へえ、あいつクーロンって言うんだ」

 言葉は、なぜか抑揚のない声で静かに答えた。

「言葉?」

「言葉さん?」

 何か殺気のようなものが言葉の周囲に渦巻いている。そう、二人は思った。

 少し距離を置いた二人を気にすることなく、言葉は抑揚のない声で尋ねる。

「フミ兄、クーロンが今どこにいるのかわかる?」

「え? あ、ああ、この手帳と手紙を使えば大体は」

「じゃあ、さっさと夕飯にしましょう」

 俯いたまま淡々と話を進めていく言葉に、文章は一抹の不安を感じた。

「言葉、今日はもう遅いし、それにさっきは大げさに言ったが、クーロンの力は局地的なものだから、そんなに慌てる必要はないと思うんだ」

 絵美も、文章に続いて言葉に話しかける。

「言葉さん。文章様もこう言っておられますし、クーロンさんについては明日からでも……」 そんな二人に、言葉は顔を上げると不思議そうな表情を向けた。

「何言ってるのよ? 夕飯食べたら、今日はさっさと寝るわよ? 早起きさせられた上に先生に怒られて、しかも学校中を歩き回って、もうくたくた。さらに睡眠時間を削られるなんてありえないわ」

 そう言ってキッチンの書道へと手を振る言葉に、二人は胸をなで下ろした。

「話は終わったようじゃな」

 書道が持ってきた鍋からは湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが漂ってくる。

「さあ、どんどん食べてくれ。今日は新鮮な鶏の水炊きじゃぞ」

 目の前に置かれた鍋を見ながら、言葉は獲物を狙う猫のように目を輝かせた。

「ふふふ、待ってなさいよ、クーロン。わたしの睡眠を邪魔したことを後悔させてやるわ」

 よだれを拭きながら不気味に宣言する言葉に、文章と絵美は顔を見合わせると深い溜息をついた。


【第二章】

「うー、寒い」

「おはようございます。言葉さん」

 ロッジに入ってきた言葉を出迎えたのは絵美だった。

「おはよー」

 絵美は言葉に席を勧めると、「お茶を淹れますね」と言って対面キッチンへと入っていく。

「フミ兄、おはよ。なに食べてるの?」

 言葉は文章の隣に座ると、その前に置かれた小さな丼を見て言った。

「おはよう、言葉。ん? これか? これは、おかゆじゃないかな」

 そう言うと、文章はれんげでおかゆをすくい言葉の前に差し出した。

 れんげからは湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが流れてくる。

「フミ兄、その糸生姜と油条ヤウティウも乗っけてくれる?」

「ヨウ……、何だって?」

「ヤウティウ。その小皿にある中華風揚げパンのことよ」

「面倒な奴だな」

 そう言いながらも文章は、れんげにトッピングを乗せていく。

「本当にフミ兄は料理に疎いよね」

「ほら、これでいいだろ?」

「ありがと。いただきまーす」

 ぶっきらぼうに差し出されたれんげに言葉が口を伸ばすと、キッチンのほうから足音が小走りで近づいてきた。

「ななな、何をしてるんですか⁉」

 近づく気配に視線をやれば、絵美が手にしたティーセットを震わせながら立っている。

「ん?」

 絵美に目をやりながらも、言葉は気にせずれんげを口に頬張った。

「ああああああ!」

 叫び声を上げる絵美を不思議そうに見上げながら、言葉はおかゆをハフハフしている。

 両手でその顔を挟み込んだ絵美は、言葉の口を凝視して叫んだ。

「あんた、なんてことをしてるんや!」

              ◆

 言葉の隣で絵美がふてくされている。

 絵美は文章と言葉の間に座ると、「もう少し離れてください」と言葉を横へと押した。

「そんなに怒らなくても……」

 暖かな部屋の中で、言葉はあくびをしながら椅子を少し横へとずらす。

「怒ってなんかいません」

 そっぽを向く絵美に言葉が呆れていると、絵美の淹れた紅茶を飲んでいた文章が、一息ついてから二人へと話しかける。

「じゃあ、今日のことについて話をしようか」

「あれ? おじいはいいの?」

 言葉が周りを見回すが、どこにも書道の姿はなかった。

「師匠は朝早くに遺跡の調査に行ったよ」

「もう? じゃあ、またしばらく会えないのかー」

「書道様は、相変わらずお忙しいのですね」

 二人の残念そうな顔に、文章は胸を張って言った。

「師匠は世界的な有名人だからな。まあ、今回の件は俺に任せとけば問題ない」

 自信ありげに言う文章に、言葉は無言で視線だけを向けた。

「なんだ? その目は」

「ううん。こっちは気にしないで進めて」

 訝しむ文章に、言葉は貼り付けたような笑顔を返した。

 しばらく二人の間に沈黙が流れるが、文章は頭を切り換えると言葉の前に一冊の手帳を置いた。

「あれ? これ、昨日のとは色が違うね」

 文章の手帳と同じようにSEALSと書かれてはいるが、その表紙はオレンジ色をしていた。

「あれは俺のだからな。これは予備の手帳だ」

「へえ。これ、もらっていいの?」

 言葉が手にした手帳を見ながら文章に聞く。

「やらん。貸すだけだ」

「えー」

「言葉さん、私にも見せてくださいよ」

 不満を漏らす言葉の横で、絵美は物欲しそうに手帳を見ていた。

「ああ、神代さんには、この辞典を」

 そんな絵美に文章がそう言って渡したのは、文庫本サイズの辞典だった。

「え⁉ 私にですか?」

 絵美は目を輝かせて辞典を受け取る。

 光沢のある表紙には、黒い十字のラインが描かれていた。

「きゃ……」

 短く悲鳴のような声を上げると、絵美はうっとりと辞典を見つめた。

「絵美?」

 絵美は辞典の向きを変えながら、しきりに感嘆の溜息を漏らして言う。

「キャストコート紙の表紙ですよ、言葉さん! きれいですね!」

「そ、そうね」

 絵美の勢いに少し気圧されながら言葉は答えた。

 言葉の目の前では、今度は絵美が辞典を手でさすったり頬ずりをしている。

「まずは、その手帳と辞典の説明からだ」

 そんな二人をよそに、文章は淡々と話を始めた。

「ほら、絵美。話を聞くよ」

 言葉は絵美から素早く辞典を取り上げると、テーブルの上に置いて文章のほうに顔を向ける。

「ああ、私の辞典……」

 その横で、絵美は名残惜しそうに辞典に手を伸ばしていたが、文章がこちらを見ていること気がつくと、慌てて姿勢を正した。

「あ、すみません。あの、文章様、お話をどうぞ」

 恥ずかしそうに言う絵美に、文章は頷いて話を続けた。

「まずはこの手帳だが、これにはプリントを封印する仕掛けが施されている」

 手に取った手帳を開いて、文章は表紙の裏を二人に見せた。

 そこには円を基調にした模様が、大きく一つ描かれていた。

「もしかして、これもプリント?」

「ああ」

 手帳を裏返しながら文章は頷く。そして裏表紙から手帳を開くと、そこにも同じような模様が描かれていた。

「この二つのプリントが、手帳内のページを全て管理してるんだ」

「管理?」

「ここを見てくれ」

 開いた手帳の背を指さして文章は言った。

 そこにはページを綴じるためのリングもなければ、糊や紐で綴じているような跡もなかった。

 言葉は試しに数ページを捲ってみたが、ばらけることなく普通に捲ることができる。

「フミ兄、これ、どうやって綴じてるの?」

「これが、このプリントの力だよ」

「へえ。で、これだけ?」

「これだけって、おまえな……」

「だって、これなら普通に綴じればいいじゃん。ね、絵美?」

「そうですね」

 驚かない二人に文章は納得のいかない様子だったが、取り敢えず話を続けることにした。

「まあ、これだけじゃないが……。それは実際に封印の説明をしながらにしよう」

 文章は懐から自分の手帳を取り出すと、その表紙をテンポよく叩き始めた。

 トントン トントトント トントト トトン。

 すると、閉じたままの手帳からページが一枚だけ飛び出してきた。

「おお」

 言葉が、手品でも見る子供のようにわざとらしく拍手をする。

 その横で、絵美も楽しそうに驚いた顔をしていた。

 文章は飛び出したページを素早く手に取ると、それをテーブルに置く。

 そして腕を振り上げると、勢いよく手のひらを紙の上に叩きつけた。

 テーブルを打ち付ける大きな音が響き、その音に絵美は短い悲鳴を上げて、言葉は耳を塞いだ。

「びっくりしたー。いきなり何するのよ」

「あー、悪い。こいつを試しに封印しようと思ってな」

 手のひらとともに文章が紙をどけると、そこにはいつの間にか何かが描かれていた。

 それは、単純な線だけで描かれた「人」だった。

 いわゆる棒人間というやつだ。

 棒人間はふらふらとした感じで、頭上には星が衛星のように回っている。

「あら可愛い」

 絵美が棒人間を突っつくと、棒人間はよろめいてそのまま倒れた。そして、ピクピクと痙攣し始める。

「何? この、浜に打ち上げられた魚みたいな棒人間は?」

 絵美とは対照的に、言葉は少し引き気味な表情で言う。

「地下の書庫に住んでるプリントだ」

「え? 地下に住んでる?」

「ああ、言ってなかったか。あの地下はプリントの巣なんだ」

「巣って……。あそこ全部が?」

「そうだが?」

 言葉は地下に広がる闇を思い出して黙り込んだ。

「あの、文章様。では、あそこにある本は……」

「プリントの家みたいなものだな。まあ、住んでるのは、ほとんど、こいつみたいに何の能力も持たないプリントだが」

「そうなんですか。ぜひ、ほかのプリントさんも見てみたいですわ」

 そう言って目の前のプリントと戯れている絵美の横で、言葉は青ざめた顔をしていた。

「言葉、どうした?」

「あ、えーと、こんな黒い棒みたいのが、あの本全てにいるんでしょ?」

「まあ、そうだな」

「それが動いてる様子を想像したら、ちょっと……」

 言葉は笑顔を浮かべていたが、その頬は引きつっていた。

「言葉、おまえ……」

「それって、まるでゴキ……」

「わああああああ!」

 文章が慌てて叫び声を上げる。

「文章様⁉」

 急に大声を出した文章に絵美は驚くが、文章はそれに構わず言葉を指さして一気にまくし立てた。

「おまえ! いいか、それ以上言うなよ! 言ったら、おまえが今想像したことを現実にしてやるからな!」

 鬼気迫った様子で言う文章に、言葉は無言で何度も頷いた。

「どうしたんですか、文章様? それに言葉さんも。二人して汗なんかかいて」

「いや、なんでもないんだ。ほんとに。急に大声出してすまなかった」

「そうそう! なんでもない、なんでもない。いやー、フミ兄、ちょっとこの部屋暑くない?」

「ああ、そうだな」

 引きつった笑みを浮かべながら話す二人に、絵美は小首をかしげる。

「は、話を戻そう。こいつを手帳に封印するんだが……」

 一呼吸置くと、文章はさっき手帳から飛び出した紙を言葉と絵美の前に置いた。

 紙には四方に太い線で黒い縁取りがしてある。

「感覚としては、封印というよりは捕獲だな。言葉。虫……、じゃなくて、例えばライオンを捕まえるには何を使う?」

「そ、そうね。ライオンと言えば、檻かな?」

 何かを思い出したのか、言葉は身震いしながらも文章の質問に答える。

「そう。何かを捉えて閉じ込めておくには檻を使う。だが、物の表面を自由に移動できるプリントに普通の檻では意味がない」

「つまり、その紙がプリント用の檻ということですか?」

 絵美が人差し指を立てながら言うが、その指ではプリントが動き回っていた。

「絵美、あんた……」

 可愛らしい子犬でも見るようにプリントを見つめる絵美に、言葉はジト目でつぶやいた。

「何ですか、言葉さん。あ、くろっちさんは渡しませんよ」

「くろっち?」

「黒いから、くろっちさんです。可愛いでしょ?」

 指を隠しながら言う絵美に、言葉は何も言わず文章に話の続きを促した。

「まあ、なんだ。あんな感じで、二次元生命体に三次元的な檻は通用しない。で、二次元には二次元というわけだ」

 文章は、持っていた紙を二人の前に置いた。

「神代さん。その指をテーブルに置いてくれる?」

 絵美がテーブルに人差し指を付けると、文章はテーブルをリズムよく指で叩いた。

 トントン トトト トトトト トト トトトント トン トントントン。

 リズムが終わると、絵美の指にいたプリントがするするとテーブルへ降りてくる。

「じゃあ、今から封印するから、よく見ててくれ」

 そう言うと、今度はテーブルを三回叩いた。

 トントントン。

 プリントは絵美の指から文章の方向へと移動し、その間にある紙の下へと消えていく。

 そして、次の瞬間、

「成敗!」

 気合いとともに文章の平手が紙の上に炸裂した。

 テーブルを叩く大きな音とともに紙が浮き上がる。

 その紙がテーブルに落ちる前に、文章は縁の部分をつまみ上げた。

「はい、これで捕獲完了」

 つまんだ紙をひらひらさせながら文章は言う。

 その紙には、再び頭に星を浮かべた棒人間が描かれていた。

              ◆

「くろっちさ~ん」

 星をきらめかせながら気絶しているプリントを、絵美が心配そうに見つめている。

「神代さん。縁以外の部分には触れないでくださいね」

 文章の注意に頷きを返しつつも、絵美は紙を振ったり息を吹きかけたりしていた。

「あの縁が檻ってこと?」

「ああ」

 紙を指さしながら言う言葉に文章は頷いた。

「でも、あれって縁が描いてあるだけでしょ」

「あれはラインで描かれているからな」

「ラインって、線のこと?」

「俺が言ったラインっていうのは、プリントがつくった道具のことだよ。プリントは物の表面を住処にしてるんだが、表面と言っても少し特殊でね」

 文章は絵美から紙を受け取ると、それをテーブルにおいて赤いペンを取り出した。

 そして、そのペンで気絶中のプリントを塗りつぶし始める。

「文章様、何をするんですか!」

「まあまあ」

 慌てる絵美をなだめつつ、文章はプリントの上をさらにぐりぐりと円状に塗りつぶしていった。

 それを見ていた言葉と絵美の表情が、次第に驚きへと変わっていく。

「こんな感じで直接触れることができないんだ」

 紙の上には赤く塗りつぶされた円と、その上で気絶している黒いプリントの姿があった。

「おい、いい加減に起きろ」

 文章がプリントを指で叩く。

 すると、プリントの頭上に飛んでいた星が消え、そして周囲を見回すような仕草をすると、赤い円の中で体操を始めた。

 その様子を見て、絵美は胸をなで下ろした。

「くろっちさん、よかったです」

「フミ兄、今のは触ったんじゃないの?」

 指で紙をトントントンと叩きながら言葉は言った。

 しかし、文章はその指の先をさすだけで答えない。

「言葉さん、くろっちさんが……」

 紙の上に視線を落としながら言う絵美に、言葉も視線を紙に移す。

「え、なんで?」

 そこには、言葉の指先へとスキップで近づいていくプリントがいた。

 言葉が不思議そうな顔を文章に向ける。

「振動に反応したんだ」

 文章が、もう一度紙の縁を三回叩く。

 トントントン。

 すると、プリントは一旦止まってから文章の方へと歩き始めた。

「触れることができるのはプリント同士かラインだけなんだが、振動は伝わるんだ。だから、プリントとの意思疎通には振動を使ったりもする」

「くろっちさ~ん」

 今度は絵美が紙を指で叩く。

 トントントン。

 縁に阻まれてきょろきょろしていたプリントは、絵美のほうへと転がっていった。

「こいつは単純な反応しかできないが、プリントによってはモールス信号を理解できるやつもいるし、声を理解できるやつもいる」

「会話ができるの?」

「レアケースだけどな」

 文章はペンを回しながら言った。

「えーと、話を戻すが、そんなわけで、プリントを捕まえるにはラインの檻が必要なんだ」

「あれ? じゃあ、触れないプリントをどうやって紙に移したの?」

「確かに、そうですね」

 言葉の疑問に声だけで同意しながら、絵美は紙を叩いてくろっちと戯れていた。

「あれも振動を使ったんだ。プリントは、振動を受けたときに別の平面が近くにあると、そっちに移動する性質がある。まあ、近くと言っても接触していないといけないんだが」

「ああ、それで」

 言葉が納得したような表情を浮かべた。

「フミ兄がさっきページをいきなり平手打ちしたのも、テーブルにプリントを移すためだったんだ」

「まあ、そういうことだ」

 文章は自分の手帳を開くと、絵美がいじっていた紙を手にとって手帳に戻そうとした。

「あの! 文章様?」

「な、何かな? 神代さん」

 テーブルに身を乗り出して訊いてくる絵美に、文章はやや押され気味に聞き返す。

「その……、くろっちさんを私にください!」

「え⁉ くろっちって、こいつを?」

「はい! お願いします!」

 胸の前で手を組んで言う絵美の目は、うるうると輝いていた。

 文章は視線のやり場に困りつつ、腕組みをしながら考え込む。

「絵美、本気なの?」

「もちろんです。一目見たときから、この子しかいないって思ったんです」

「あんたは恋する乙女か……」

 言葉は溜息をつきながら文章を見る。

「プリントの存在が公になるのはちょっとな」

「秘密は守りますから! 文章様、お願いします!」

 渋る文章に絵美が食い下がる。

「んー、じゃあ、こうしよう」

 文章は絵美の前に置いてあった辞典を手に取ると、そこにプリントのいる紙を差し込んだ。

 そして、手のひらに辞典を水平に乗せると表紙をリズミカルに叩きだす。

 トントン トントン トントントトン トトトトン ト。

 そして、勢いよく合掌した。

「これでよし。はい、神代さん」

 文章は差し込んだ紙を抜いて辞典を絵美に渡すと、手にした紙を自分の手帳に戻した。

「あ、はい。それで、あの、くろっちさんは……」

 よくわからないまま辞典を受け取った絵美が聞き返すと、文章は手帳を懐にしまいながら言った。

「辞典の中を見てくれるか?」

 絵美は言われるままに辞典を開くと、ページを捲り始める。そして、その途中で手を止めると目を輝かせた。

「くろっちさん!」

 絵美が開いたページには、アイコンのような模様が格子状に並べられていた。

 そして、そのアイコン同士の狭い隙間に、その棒人間はいた。

              ◆

「じゃあ、プリントの捕まえ方の説明はしたから、あとは……」

「えー、まだあるの?」

「まだって、これだけじゃクーロンを捕まえられないだろ?」

「手帳のページでクーロンを叩き潰せばいいんでしょ?」

 平手で豪快な素振りをしながら、言葉は文章に言う。

 文章は溜息をつきながら、言葉の目の前にあるオレンジ色の手帳を指さした。

「それなら言葉、その手帳を開けるか?」

「何よ、いきなり」

「いいから開いてみろ」

 手帳を手にとって、言葉は表紙を開こうとした。

 しかし、表紙にかけた指が動くことはなかった。

「あれ?」

 言葉は指に力を入れて無理矢理にでも手帳を開こうとするが、カバーが少し歪むだけで結果は変わらない。

「何なのよ、これ?」

 ついには両手を使ってこじ開けようとし始めた。

「言葉さん、手帳が壊れてしまいますよ」

「そんなこと言ったって……。これ、鉄板でできてるんじゃないの?」

「んなわけあるか」

 文章は手帳を渡すようにと言葉に手を伸ばす。

 そして、手帳を受け取りながら話を続けた。

「この手帳はサインでロックされているんだ」

「サイン?」

「プリントの特殊能力のことだ。クーロンの電磁波を操る能力もそうだな」

「ふーん。で、どうやってそのロックを外すの?」

「サインの操作には、まず契約が必要なんだ」

 そう言った瞬間、言葉の隣で椅子が音を立てた。

 音のほうを見れば、そこには絵美が驚愕の表情で立っている。

「契約……ということは、ついに言葉さんが魔法少……」

「いや、変身とかしないから」

「はいはい」

 冷静に突っ込む文章に、言葉も絵美を椅子に座らせた。

「じゃあ、その契約をすればいいのね」

「ああ。後で神代さんもするから、よく見てて」

「ええっ! 言葉さんだけでなく私も魔……」

「しつこい!」

 言葉のチョップが、立ち上がりかけた絵美の頭部に炸裂した。

「言葉さん、痛いですー」

 頭を押さえる絵美を無視して、言葉は文章に先を促す。

 文章は苦笑いを浮かべながら手帳を開くと、表紙の裏を複雑なリズムで叩き始めた。

 トントン トトト トン トトン トトント トン トトトント トトン。

 音が止むと、手帳はTの字を逆さにしたように、表紙だけを残して全てのページが垂直に立ち上がる。

 ページを挟んで左右に並んだ表紙裏のプリントに、文章は手のひらを乗せた。

「契約開始」

 文章の声とともに、プリントが淡く光り出す。

 それを確認すると、文章は手をどけて言葉に言った。

「俺がやったように両方のプリントに手を乗せて」

 言葉がプリントに手を乗せる。

 光は微かに温かく、少しくすぐったいように思えた。

「それじゃあ、なんか適当にしゃべって」

「え? 適当にって……」

「何でもいいから。早くしないと認証時間が終わっちゃうぞ」

「そんなこと急に言われたって……。ええっと、わたしの名前は空野言葉。軌条学園高等部二年。電子出版部所属。趣味は読書とブログで、えーと、好きな食べ物はチョコレートです!」

「オーケー。契約完了だ。手をどけていいぞ」

 言葉は光を失ったプリントから手をどけると一息ついた。

「言葉」

「な、何⁉」

「なんだ、緊張したのか?」

「ち、違うわよ!」

「まあいい。ちょっと左のプリントを一回ノックしてくれるか?」

 膨れつつも、言葉は指でプリントを一度叩いた。

 すると、立ち上がっていたページは支えを失ったように左右へと崩れていく。

「よし、これで言葉は大丈夫だな。それじゃあ、次は神代さん、いいかな?」

「はい、文章様。よろしくお願いします」

 文章は十字の描かれた表紙を開くと、またリズムを刻み始めた。

              ◆

「それじゃ、クーロンを捕まえに行きましょ?」

 言葉は手帳を手にして言った。

「そうだな。あとは実際に使いながらでいいか」

「では文章様、まずはどうしますか? やはり学校に行くんですか?」

 絵美の質問に、文章は自分の手帳を広げて言った。

「いや、大体の位置はこの手帳でわかるから、それを見てからにしよう」

 手帳の最初のほうを捲れば、そこには黒一色で描かれた地図があった。

 言葉も自分の手帳を開いてみる。

 それには、今いるロッジを中心とした地図が描かれていた。

 そして、その地図の中心には矢印が描かれている。

「フミ兄、この地図でどうするの?」

「手紙はあるか?」

「あるけど……」

 言葉は文章に手紙を渡す。

「この手紙にあるクーロンの痕跡を使おう」

 何も書かれていない手紙を広げると、文章はそれを地図の上に置いて指で叩いた。

 トントン。

 すると地図の上部が光り始め、光は下へと手紙をなぞるようにして移動していく。

 ページの端まで行って光が消えると、文章は手紙を言葉へと返した。

「今やったようにできるか?」

 言葉は頷くと、文章と同じように手紙を地図に乗せて指で二回叩く。

 そして光の消えた地図から手紙をどけると、そこには矢印のほかに丸印が一つあった。

「もしかして、ここにクーロンがいるってこと?」

「そうなんだが、よりにもよってこことは……」

 地図を指さしながら言う言葉に、文章は憂うつな顔をした。

「ここは……、図書館みたいですね」

 手帳をのぞき込んで絵美が言う。

「フミ兄、ご愁傷様」

「うるさい。さっさと行くぞ」

 哀れみの目を向ける言葉を無視して、文章はさっさと出かける準備を始めた。

              ◆

「ここね」

「そうですね」

 言葉と絵美は図書館の前に来ていた。

 地図上の表示は、変わらずクーロンが図書館にいることを示している。

 図書館は緑に囲まれた二階建てで、ほとんどがガラス張りの建物だった。

「外は寒いし、早く行きましょ」

 言葉は、後ろでうなだれていた文章に声をかける。

「じゃあ、俺は向かいの公園で待ってるから。あんまり目立つなよ」

 文章は方向転換をして歩き始めた。

「ちょっと待ちなさい」

「なんだよ?」

 襟首を掴まれた文章は、振り向きながら面倒臭そうな視線を言葉に向ける。

「待つなら中のカフェでもいいでしょ。フミ兄も来るのよ」

「こんな電波だらけの場所に入れるか!」

 文章は図書館を睨んで言った。

「中で何かあったらどうするのよ?」

「そのときは連絡をくれ」

「連絡してくれって、フミ兄、モバイル持ってきたの?」

「はあ? そんなわけないだろ」

 即答する文章の首を背後から締め付けて言葉は言った。

「何、偉そうに言ってるのよ!」

「う、く、くるし……」

「か弱い女性が危険にさらされるかもしれないってのに、こいつはー!」

「ちょっと言葉さん⁉」

 前後に揺さぶられて目を回し始めた文章を見て、絵美が慌てて止めにかかる。

「大丈夫ですか? 文章様」

「ああ、大丈夫。大分重かったが……」

「なんか言った⁉」

 背後に黒い炎を揺らめかせながら睨みつけてくる言葉に、文章は後ずさりながら顔を勢いよく左右に振った。

「まったく。ほら、フミ兄も行くわよ」

 言葉が文章を見下ろしながら呆れて言う。

「いや、だから俺は……」

「往生際が悪いわね」

 低い声で俯きながらゆっくりと迫り来る言葉に、文章は慌てて言った。

「待て待て! モバイルがなくても大丈夫だから!」

「何が大丈夫なのよ?」

 文章は手帳を取り出して開くと、白紙のページを左右半分に折った。

 そして、縦長になったページに筆ペンのようなもので模様を描き始める。

 模様はS字のような形で、何重もの渦がその両端には描かれていた。

「神代さん、辞典を出して三十七ページを開いてくれるか?」

 絵美は十字の描かれた辞典を取り出すと、ノンブルを確認しながらページを捲っていく。

「ここですか?」

 言われたページを開いて見せる絵美に、文章は頷いた。

「そのページの上から二番目、左から三番目のやつをリリースしてくれるか?」

「えーと、上から二番目の左から三番目……」

 並んだ円や四角の中から目当ての模様を見つけると、絵美は指で軽く二回叩いた。

 しかし、特に目立った変化は起こらない。

「文章様、リリースは二回ノックでしたよね?」

「ああ。神代さん、大丈夫だから。自分の指を見てみて」

 自分の指を見て、絵美はその変化に気づいた。

「あら。これは……」

 そこには辞典で触れた模様と同じものが描かれていた。

「その指で、この模様に触れてくれ」

「あ、はい」

 絵美が模様に触れると、黒一色だった模様の表面を虹色の光が波のように流れた。

 そして、絵美の指からは模様が消えていた。

「文章様、このプリントは?」

「リンクと言って、ライン同士をシンクロさせることができるプリントだ」

 光の収まったページを手帳から外しつつ文章は言う。

 そして、折り畳まれたままのページを折り目に沿って半分に切ると、文章はその片方を言葉に渡した。

「で、これは何?」

 渡された紙には、文章の持っている紙片と同じ模様が描かれている。

「これで通話できるから」

「これで?」

 疑う言葉に、文章は紙片を右耳の下から顎にかけて貼り付けた。

「こうやって使うんだ」

 ヘッドセットのマイクのように指で押さえて文章は言う。

 言葉も同じようにすると、文章が口を動かした。

『聞こえるか?』

 耳の内側から響くような声が聞こえた。

 言葉は文章から五メートルほど離れると、後ろを向いて小さな声で話してみる。

「フミ兄、聞こえる?」

『ああ、よく聞こえるぞ』

「これ、どうなってるの?」

『ライン同士をシンクロさせて、振動を共有してるんだ』

「ふーん。あ、そうだ。絵美に代わってくれる?」

 紙の向こうで絵美が「私ですか?」と言っているのが微かに聞こえた。

『もしもし、言葉さん。代わりましたけど?』

「どう? 温もりは?」

『…………』

 無言になった絵美のほうを見てみれば、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。

「今、確認したでしょ?」

『な、何を言ってるんですか! 文章様の、ぬ、温もり、なんて……』

「あっれー? わたしは絵美のことだから、てっきり紙のことだと思ったんだけど」

 ハッと自分のほうを見る絵美に、言葉はにやりと笑って視線を返す。

『言葉さんのいじわる! もう知りません!』

 そう言うと、絵美は紙片を文章に返してそっぽを向いてしまった。

 その横で紙片を受け取った文章は、絵美と言葉を交互に見て首をかしげた。

              ◆

「じゃあ、何かあったらそれで呼んでくれ。それから神代さん……」

「はい。なんでしょうか? 文章様」

 文章は、絵美の目を正面から見つめると、その両肩に手を置いた。

「言葉を頼みますね」

 それだけを言うと、文章は向かいの喫茶店へと歩いて行った。

「今のどういう意味?」

 夢見心地でいる絵美の横で、言葉は離れていく文章の背中を睨みつけた。

「さあ、行きましょう。言葉さん」

 そんな言葉の手を掴んで、絵美は図書館へと向かい始める。

 その嬉しそうな表情に、言葉は溜息をつくと気持ちを切り替えて歩き出した。

「しょうがないわね。さっさと捕まえて帰りましょ」

 二人は図書館へと入っていく。

              ◆

 ガラス張りの自動ドアを抜けると、エントランスは吹き抜けになっていた。

 天窓から入る明るい光の下には円形の広間があり、そこにはHARによる案内が幾つも浮かんでいる。

 広間の中心には二階への螺旋階段とエレベーターがあり、そこを中心に建物の左手前と右奥にも同じように階段とエレベーターがあった。

 左側は全面ガラス張りのカフェスペースになっていて、右側にはパーティションで区切られた読書スペースが設けられている。

 それ以外にも椅子やテーブルが所々に置かれていて、利用者は思い思いの場所でHARによる読書を楽しんでいた。

「どこを探すんですか?」

「そうね」

 言葉は手帳を見るが、地図には四角い輪郭の中に矢印と丸印があるだけだった。

「まずは、ここのフロアマップを見ましょ」

 周囲を見回して言葉は右側のブーススペースを指さした。

「あそこで調べてみましょ」

 絵美は頷いて言葉の後に続く。

「昔の図書館には本棚があったんですよね」

「何よ、いきなり」

 周囲を見回しながら言う絵美に、言葉は余り興味なさそうに答えた。

「いえ、ここも昔は書道様の書庫のようだったのかなと」

「気味の悪いこと言わないでよね」

 地下に広がる深い闇とそこに蠢く黒いものを思い出して、言葉の顔が青ざめる。

「あれは書庫じゃなくて魔窟よ」

 鳥肌の立った腕をさすりながら、言葉は頭を振ってそのイメージを追い払う。

「そうですか? くろっちさんの仲間がいる素敵なところだと思いますけど」

 楽しそうに言う絵美を横目に、言葉は空いていたブースの椅子に腰掛けた。

 少しぐったりした言葉の顔をのぞき込みながら、絵美が声をかける。

「何か飲み物でも買ってきましょうか?」

「じゃあ、アイチョコお願い」

「冬なのにアイスチョコレートですか⁉」

「うん。お願い」

 驚く絵美に言葉は短く答えると、目の前のHAR端末に話しかけた。

「ここのフロアマップを」

              ◆

「甘くておいしー」

 アイスチョコレートドリンクを飲みながら言葉は一息ついた。

「こんな寒いときに、よく飲めますね」

「一仕事した後だしね。それに、寒いときに暖かい室内で冷たいものを飲む。これが幸せなのよ」

 紅茶を上品に飲む絵美の隣で、言葉は「つめたーい」と気持ちよさそうにグラスを額に当てている。

「一仕事って……。いきなり走って行くから驚きましたよ」

「ごめんごめん。でも、意外とすぐに確認できるところだったから我慢できなくて」

 絵美が飲み物を持って席に戻ってくると、言葉は待ちきれないとばかりに、絵美の手をつかんでエレベーターの裏手にある広告スペースへと走り出した。

 そして、地下一階から三階のすべてのスペースを探してみたが収穫はなく、今に至る。

「まったく、言葉さんはせっかちなんですから……。それにしても、トカゲのように壁に張り付いてまで見る必要はなかったのではありませんか? 周りの視線を一身に集めていましたよ?」

「え? そう?」

「そうですよ。私、恥ずかしかったんですから」

 絵美は赤い顔を背けながら、頬を膨らませて言った。

「アイチョコが溶ける前に戻ってこられたんだから、気にしない気にしない」

「そういう問題ではありません!」

 思わず声を大きくして言う絵美に、言葉が唇の近くで人差し指を立てる。

 絵美はハッとして周囲を見回すが、パーティションで遮られて様子を窺うことはできなかった。

 しかし、さっきまで微かに聞こえていたはずの周囲の話し声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 ますます頬を膨らませる絵美を横目に、言葉は宙に浮かぶHARディスプレイを見て溜息をついた。

「でも、困ったわね」

「そうですね」

 絵美は、こちらを見ることなく不機嫌そうに言う。

 言葉は苦笑を浮かべながらも、HARディスプレイに表示されたフロアマップを見た。

 そこには自分たちのいる位置が赤い丸で示されている。

「ここって多分、部外者以外立ち入り禁止よね」

「中央サーバールームって書いてありますからね」

 絵美は相変わらずこちらを見ていないが、言葉は気にせず話を続けた。

「だよねー」

 言葉は表示されているHARマップをつまむと、広げてあった手帳の上に重ねる。

 マップの縮尺と方向を指で変えて、手帳にある図書館に合わせてみると、手帳に描かれた丸印はマップの中央部分やや上方に位置していた。

「二階も一階もエレベータの裏でしょ」

 言葉は地上二階、地下三階の五層で表示されたマップを、上から順に手帳の上に落としていく。

「地下一階もそうですね」

「で、地下二階がサーバールームで地下三階が機械室と」

「地下一階は視聴覚ルームや会議室関係ですから入れましたけど、それより下は難しいですね」

 いつしか、絵美も言葉の隣でマップを見ながら話し始める。

「エレベーターの裏には広告があるだけで、特に何もなかったし」

「昔ならポスターも紙だったんですけどね。今は全てHARですから、隠れるところなんてありませんしね」

 二人はマップを見ながら黙り込んでしまう。

 クーロンを示す印も、特に動くような気配を見せることはなかった。

 ドリンクの氷が溶けて、澄んだ音を響かせる。

「眠い……」

「ちょっと言葉さん?」

 マップから声のほうへと振り向けば、そこにはよだれを垂らして船をこぐ言葉の姿があった。

              ◆

「しょうがない。フミ兄に連絡しましょ」

 額を赤くしながら、言葉は拳を握りしめて決意を口にした。

「何がしょうがないんですか。盛大におでこをテーブルにぶつけておいて」

「うるさいわね」

 文句を言いながら、言葉は紙片を取り出す。

「まったく、言葉さんはせっかちな上に飽きやすいんですから」

 濡らしたハンカチを言葉のおでこに当てながら、絵美は困ったような口調で言った。

「もしもし。フミ兄、聞こえる?」

『どうした?』

 紙片で話しかけると、すぐに文章の声が返ってくる。

「クーロンが関係者以外立ち入り禁止の区画にいるみたいなんだけど」

『それは、少し困ったな』

「少し?」

『あ、いや……』

「つまり、何か方法があるのね?」

 紙片の向こうで言い淀む文章に、言葉は確信を持ってそう聞き返した。

『まあ、ないこともない』

「じゃあ、教えてよ」

『教えるのは構わないが、できるのか?』

 心配そうな声で言う文章に、言葉は胸を張って言い返す。

「できるかですって? わたしを誰だと思ってるの?」

『それなら、まあやってみるか』

 少しの沈黙の後、文章は絵美に代わるように言葉に言ってきた。

「はい。神代です」

『神代さん。今から言うプリントのサインを言葉にかけてくれるか? 使い方はリンクと同じだから』

「はい。わかりました」

 文章は絵美にページと場所を教えると、再び言葉に代わるようにと絵美にお願いする。

「何をするの?」

 言葉の問いに、文章は事も無げに答えた。

『今からおまえを透明にする』

「は?」

『いや、だから、おまえを透明にして扉とかの隙間を通れるようにするから』

 言葉が沈黙する。

「まずはプレンからですね」

 辞典を捲っていた絵美がページをノックして、その指を言葉に近づける。

「ちょ、ちょっと待って!」

 避けようとする言葉だったが、狭いブースでは思うように体を動かせない。

「えいっ!」

 絵美の指が言葉のおでこに触れる。

 次の瞬間、言葉の体は風船から空気が抜けるように薄くなり、ついには模造紙のようになってしまった。

 言葉は自分の両手や体をしばらく見つめると、青ざめた顔で絵美のほうを向いて言った。

「絵美、わたしに何をしたの⁉」

「見たとおり、厚さをなくしました。これで、どんな隙間でも通れるみたいです」

 絵美の説明に、言葉の表情は白紙のようになる。

「な、ななな……」

 両手を見下ろしたまま、言葉は震える声で何かを叫ぼうとした。

 しかし、それは突然の異変によって遮られた。

 HARディスプレイの表示が、フロアマップから地図へと変わったのだ。

 しかも、それは目の前のディスプレイだけではない。

 周囲の広告や館内情報を表示していたものまで、全てが同じ地図を表示していた。

「どうなってるの?」

 言葉は絵美を見て言うが、絵美も状況がわからないといった様子で周りを見回している。

 ディスプレイに表示されているのは図書館周辺、それも広範囲に及ぶ地図のようだった。

 地図には赤い点がいくつか表示され、それは次第に増えていく。

「何が起きているの?」

 誰もが赤く塗りつぶされていく地図に目を向ける中で、言葉の疑問に答える声はなかった。

 数カ所だった点が加速度的に増えていく。

「言葉さん……」

 絵美も不安そうに地図を見つめている。

 そして、地図が赤い点で埋め尽くされる直前、図書館は突然の暗闇に包まれた。

              ◆

「大丈夫か? 何があった?」

 図書館から人が次々と出てくる中、言葉と絵美は駆けつけてきた文章と合流していた。

「文章様、図書館のサーバーが急にダウンしてしまって……。それで、あの、私は大丈夫なのですが……」

 絵美の視線の先を見れば、そこには下を向いてぐったりとした言葉の姿があった。

「どうしたんだ?」

「それが、その……」

 そこまで言うと、絵美も下を向いて黙ってしまう。

「おい、言葉。何があったんだ」

「踏まれたのよ」

 言葉は下を向いたまま、つぶやくように言った。

「踏まれた? 誰に?」

「あの……」

 言葉への質問に絵美が口を開いた。

 そちらへ視線を向けると、絵美が小さく手を上げながら「私」と小声で言った。

「は? 神代さんに踏まれたぐらいでこんなに凹んでるのか?」

「踏まれたぐらいで⁉」

 睨みつけてきた言葉を見れば、顔のど真ん中にくっきりと足跡がついている。

「おまえ、それ……」

「急に暗くなったかと思ったら絵美はわたしを踏んで転んじゃうし、それで絵美はパニックになっちゃうしで、気がついたらこんなことになってたんですけど⁉」

 よく見ると、顔だけでなく体中のあらゆるところに足跡がついていた。

「それで、どうやったら全身踏まれるんだ?」

「フミ兄が、わたしをペラペラにしたからでしょ⁉」

「あー」

 文章の脳裏には、バナナの皮のように絵美に踏まれた言葉の姿が浮かんでいた。

「言葉さん、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 絵美が何度も何度も言葉に頭を下げる。

「あー、絵美はいいのよ。暗いの苦手なんだし、フミ兄が元凶なんだから」

「あれは、おまえができるって言うから……」

 睨んできた言葉に、文章は黙って視線をそらした。

 そして、言葉は文章から絵美に顔を向けると、何かを企むような顔で言う。

「ねえ、絵美。お腹空かない?」

「え? そうですね、そう言われれば……」

「でしょ。じゃあ、あの喫茶店でお昼にしましょ。もちろんフミ兄のおごりで」

 何か言いたげな文章を置き去りにして、言葉は絵美を連れて歩きだした。

              ◆

「絵美の辞典って便利よねー」

 自分の服を見ながら言葉は感心していた。

 さっきまで足跡だらけだった服はクリーニングでもしたかのように汚れ一つなく、顔にあった足跡もきれいに消えている。

「遺跡調査だと汚れるのは当たり前だからな。いちいちクリーニングに出す時間もないし、そこらへんの使えそうなものは大体揃ってるんだ」

 文章は、外を見ながら無愛想に言った。

「そうなんだ。ねえ、フミ兄、これってもう一冊くらいないの?」

「あるか。世界に十冊もない貴重なものなんだぞ。それに、一万近くもあるプリントを覚えられるのか?」

「一万もいるの⁉ これに⁉」

 言葉は辞典の中身を想像して頭痛を覚えた。

「絵美、よろしくね!」

「あ、はい」

 親指を立てて清々しい笑顔を向けてくる言葉に、絵美は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「それよりも言葉さん、そろそろ何か頼みませんか?」

「そうね。フミ兄は何にする?」

 宙に浮かんだメニューを見せながら聞いていくる言葉に、文章は少し顔をしかめると、ろくにメニューを見ることなく顔をそらす。

「俺はコーヒーだけでいいから、そんなにメニューを近づけるな。頭が痛くなる」

「えー、コーヒーだけなの?」

「なんだよ。いいだろ?」

 そう言う文章に、言葉は少し困ったような表情を絵美に向けた。

 絵美も同じような表情で言葉と数回視線を交わす。

 そして、言葉が溜息をついて言った。

「じゃあ、フミ兄はカルボナーラの大盛りね」

「はあ⁉ 俺はコーヒーだけって……」

「い・い・か・ら!」

 足を踏んで文章を黙らせると、言葉はさっさと文章の料理をメニューから選んで注文する。

「じゃあ、わたしはチキンベーグルサンドとレモンティーにしようかな。絵美は何にする? 遠慮はいらないわよ。フミ兄のおごりなんだし」

 笑顔で勧めてくる言葉に、絵美はちらりと文章のほうを見る。

「ああ、神代さんは好きなものを頼んで」

 真っ直ぐに見つめてそう言う文章に、絵美は俯きながらも注文を言葉に伝えた。

「それでは、私はサーモンベーグルサンドとミルクティーでお願いします」

 言葉は文章を睨みつけながらメニューにオーダーを入力していく。

「あのー、言葉さん、この足をどけてくれますかね?」

 メニューで注文をしている言葉に、文章は抑えた声で言った。

「あら、鈍感なのに気がついたんだ」

「誰が鈍感だ」

 言葉は足に力を込めながら、見下すような視線を文章に向けて言った。

「女の子との食事でコーヒーしか頼まないような、ケチな男のことよ」

              ◆

「近くにクーロンはいないみたいね」

 隣で死んだカエルのように仰向けになっている文章を無視して、言葉は手帳を見ていた。

「文章様、大丈夫ですか?」

 何かうわごとを言っている文章を、絵美が心配そうに見つめている。

「あれの、どこが大盛りなんだ」

 文章が関取のような太い声で感想を言った。

「まさか、ナイフで輪切りにして食べるスパゲッティが出てくるとは思わなかったのよ」

 文章の抗議めいた視線を感じながら、言葉は少しばつの悪そうな顔をして答えた。

「巨大化とか、あれは何か? どこかの怪人か?」

「まあ、いいじゃない。見事片付けたんだし」

 言葉の視線の先には、空になった大皿がある。

「まあ、俺にかかれば、どんな強敵だろうと……」

「それよりもフミ兄、あれもクーロンの仕業だと思う?」

 話を遮られて少しむっとした文章だったが、言葉の真面目な表情に一息つくと、席に座り直して質問に答える。

「そうだろうな。学校でも電子機器に影響を与えていたし、そう考えるのが自然だ。ただ、今回のはいたずらの範疇を超えてる。やっぱり、早く捕まえないといけないかもな」

「捕まえるっていっても地図に反応はもうないし、どうするのよ?」

「手帳の地図は有効半径が数キロだからな。図書館で、何か手がかりなるようなものはなかったのか?」

 文章の問い掛けに、言葉は腕を組んで考え込む。

「手がかりといっても、それを探している途中で逃げられたようなものだし……」

 答えの出そうもない言葉に、文章はふと思いついた疑問を口にした。

「そういえば、なんでサーバーはダウンしたんだ?」

 その質問に、言葉と絵美はアッと顔を見合わせた。

「あれをクーロンがやってたとしたら……」

「そうですよ。だとしたら何かの手がかりになるかも……」

 言葉と絵美は、サーバーがダウンする前に起きた出来事を文章に説明した。

 話を聞き終えると、文章は目を閉じて考え始める。

「そんなことがあったのか。それがクーロンの仕業だとしたら、やつは地図で何をしていたんだ?」

「あれは、何かを探しているようでした」

 その声に、文章は目を開けて絵美を見る。

「探している?」

 絵美は、文章の疑問に頷くと話を続けた。

「そうです。地図に印を付けていましたから」

「でも、結局全部真っ赤になっちゃったし……。もしかしたら、ただ塗りつぶしていただけかも」

 言葉の推測に、絵美は首を横に振る。

「違うと思います」

 そうはっきりと言う絵美に、言葉と文章は視線を向けて先を促す。

「サーバーが落ちる直前まで、ある部分だけは赤い点がまったくありませんでしたから」

「間に合わなかっただけじゃないの?」

「いえ、赤い点に偏りはないようでしたから、そこだけ一つも点がないというのは、逆に不自然だと思います」

 絵美の話に文章は頷くと、彼女にペンを渡して尋ねた。

「それが、どこだかわかるか?」

「たしか、このあたりだったと思います」

 絵美が地図に楕円を描く。

「フミ兄、ここ、どこだかわかる?」

「ああ、ここはよく知ってる。ここは、アナ……」

 そこまで言って、文章は急に地図を見つめたまま黙り込んでしまった。

「穴?」

「穴ですか?」

 言葉と絵美の疑問をよそに、文章は立ち上がると一人納得したように口を開いた。

「そうか……。そういうことだったのか!」

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