Prologue 女神その1
心機一転して転移物でも、と思い立って書いてみました。
駄文ですが、読んで下されば幸いです。
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━━ふと振り返ると、そこには何もなかった。
歩いてきた道程も、辛く苦しい痛みも、楽しく派手やかな賑わいも。
人間の人生という巨大な年月の足跡として、残るはずのそれが。
無かったのだ。
俺━━横枝枴童は、とあるブラック企業に務める男だ。
高卒で働き始めた俺は、とある会社に誘われた、それが現在も努め続ける企業だ。労働基準法を丸っきり無視した労働時間、サービス残業、社会に出て間もない俺が口を挟む事など出来ず、俺は流れ作業のままに仕事をこなし、キャリアを積んでいった。
その企業のやり口だった、と気づいたのは入社から五年が過ぎた頃だ。
社会に出て間もない、右も左も分からない高校生を対象に片っ端から勧誘していき、法外な労働を強いた上で、賃金はイイ所の企業の半分程度という過酷な条件。社会という名の闇が、学歴社会が及ぼす圧倒的な負の連鎖が、若い子供達を飲み込んでいったのだ。
だが、誰が言えようか。
俺達より数年も前に入社し、同じ苦しみを分かち合った者が上司なのだ。
彼らとて上に言いたい事はあろう、だが、それは無謀だ。
高卒者のように、学歴が足りない者の引き取り先など、高が知れる。俺や同僚、上司達は詰まるところ、ここを抜け出すというリスクを背負えない状況に迫られているのだ。抜け出した先が天国である可能性はあるが、その逆もまた然り。ここより酷い条件下では元も子もない。
結果、負の連鎖に絡み取られるようにして、俺という名の歯車は今日も景気良く回っていく。
だが、それだけなら良かった。
━━俺が、他人など全く気にしない、怜里冷徹なクズ人間であれば……。
入社から六年目、俺がこの社会の闇に溶け込み始めた頃。
新入社員として入ってきた、数名の男女が居た。
彼らは今時の若者、といった感じで、茶髪に髪を染めてみたり、派手なイヤリングやピヤスを付けてみたり、と就職する気がないような見た目だ。彼らは同期で知り合いなのか、入社当時からお喋りにかまけては、上司に叱咤され、すごすごと仕事を繰り返す、という無限ループを繰り返していた。
この会社に部署なんてものはなく、違う管轄でも同じ職場で働くのが普通だった。
兎に角コストを減らし、減らしたコストで失われた回転数を人手で補う。
そのやり方が定例で、俺も彼らと同じ職場に居た。
叱咤され、仕事をし、また叱咤され、仕事に戻る。
そんな円環連鎖を日々眺めていた、ある日。彼らが入社してから、三ヶ月後の事だ。
「あ~、枴童先輩っ! この仕事なんですけどぉ~」
奴らは、取り分け職場でも影が薄く影響力の無さそうな俺をターゲットにした。
まずは女性陣が先手を切って、スキンシップなんかで俺を堕とそうと迫ってきた。
━━そこが、運命の分かれ道。俺という、横枝枴童という人間の分岐点。
俺がそこで、奴らを邪険に扱い、ぶつくさ言われながらも彼らと距離を置けば━━
きっと、こんな事にはならなかったのだ。
「枴童先輩ー! こっちもよろしくっす」
奴らが入社してから既に五ヶ月が過ぎていた。
俺は別に奴らに従ったワケじゃない、色気で堕とされたワケでもない。
ただ、俺は優しすぎたのだろう。
俺がこの道に堕ちたから、彼らに後を辿って欲しくなかった、そんな自分勝手なエゴ。それ故に俺は奴らの領分である仕事まで引き受け、上司の命に従って出来るだけ残業もした。賃金はそれなりに上がってはいたが、増えた分の仕事まで賄う程の量ではなかった。
平均睡眠時間は軽く三時間程度。徹夜が何日も続く日々があった。
身体も心も疲れきっていて、休日は丸一日眠って過ごすことが普通になり始めた。
そうやって、俺は何度も何度も過労死しそうになりながら、毎日這うように生き続けた。
過労死とはその実、辛い現実に抗えずに自殺する者を指すのだそうだ。
━━責務を放って逃げ出せはしなかった。それだけが、俺の唯一の信念だったからだ。
だから、俺は奴らの分まで働いた。
そうしてゆく内に、いつしか俺の同僚さえも俺を頼るようになった。
断らなかった、否、断れなかった。俺は、そういう人間だったから。
働いて働いて働いて、いつしか働く意義を問う事さえ放棄して。
これが俺の人生なのだと、俺という人間が犯した初歩の過ちなのだと、そう理解したフリをして。
俺は、懸命に生き続けた。
━━━だが。
俺の仕事が普段の三倍近くなって数ヶ月が過ぎた。
奴らが入社してからは八ヶ月、もしくは七ヶ月、といった頃か。
周囲はクリスマス一色に染まっていた。時期も時期だ、当然と言えば当然だろう。
カップルで寒空を仲睦まじく歩く姿。
友人数名で連れ立って冬の街を掛ける少年達。
暖かそうな服に身を包んで他愛ない会話に花を咲かせる少女達。
━━無邪気に笑いながら雪を見て瞳を輝かせる子供達。
きっと、俺は何一つ享受出来ない。
愛する人を見つけ、生涯の愛を誓う事も。気の知れた友人と酒を酌み交わしながら会社の愚痴を零す事も。そして、無邪気にこの景色を喜ぶことも、もう出来ない。
枯れた草木同様に、俺に感情という一切のそれは無くなっていた。
消えて、果てて、失われて、初めてその物の大切さに気づく。
無邪気に笑い、談笑に口元を綻ばせ、寒さに負けずに友情を深め合う。
その全てが、ずっと前には持っていたもの。
俺が、あの企業に勤める前、高校に入学する前、果ては小学校に入学する前……。
誰もが持つべき人間の尊厳にして、人間の重要な精神の柱。
「(……俺は………)」
ふらふらする頭で、俺は冬に包まれた街を歩く。
ぐらつく視界を気概だけで何とかして、俺は雪が積もる道を進む。
「(……明日も仕事、明後日も仕事………。あぁ、俺は休んでなんか━━)」
その時、視界に映ったのは、艶やかな白銀の煌きだった。
それはダイヤモンドのそれによく似ていて、思わず口元から「綺麗だな」と言葉が漏れた。
━━それが、車のヘッドライトだとは、気づかずに。
ドシャ、という湿っぽい音が響き、何かが地面に打ち付けられた。
それが俺の身体だと気付くのに、数十秒を要した。
真っ白に染まる雪景色が、俺の血肉で染まっていく。
視界さえ赤く染まって、残された正常な右目だけを強引に動かして空を見た。
暗黒に染まる空から、淡く切ない雪が降り積もる。
「………綺麗……だなぁ…」
そうして、俺は意識を失ったのだ。
◆ ◆ ◆
「……も、……身、受け……」
真っ黒な視界に幾つかの煌きが差し込んで来た。
俺は死んだ事を知っていたし、だからこそ俺はここが天国だと思っていた。
だが、現実は違った。
「…ってあら、起きてたの?」
「………」
目をクリリと丸くしたのは、妙齢の女性だった。
格好は然して派手ではなく、寧ろ色素の薄さが目立っていた。それもそうだろう、本人の肌が雪同様に真っ白なのに対して、服装もアクセントを付ける事なく真っ白な白衣なのだから。
しかしそれが、近寄らせ難い、踏み入れ難い雰囲気を醸し出す。
「ようこそ、哀れなる子羊さん」
「……あんたは、一体何者だ?」
「あんたとは無礼ね。私は女神アルテナ……運命を司る女神よ」
「ほう……言うに事欠いて女神様とは、これまたイカれた人間も居たもんだ」
「…あーそう。そこまで言う……ならね、証拠に、いいもの見せてあげるわ」
女は、静かに右手を空中に掲げた。
ぶつぶつと怨念みたいな呪詛を撒き散らし、次の瞬間……。
ゴォ、と豪快な音を上げて爆炎が女の掌から湧き上がった。
「ッ!?」
「どう、これで分かったでしょ? 少なくとも《人》ではないって」
「……そうだな。思い返せば俺は死んだんだった…神の一人や二人、居てもおかしくないか」
俺は特別気にした風もなく、事も無げにそう告げた。
生命の死、それを享受する事で、こんなに心が洗われたような気分になるとは。
全く物騒で不謹慎な話だが、これなら早めに死んでおけば良かった。
そんな気持ちさえ沸き立つ、何というか、何かをやり遂げた達成感に近い。
「憑き物が落ちたみたいな顔してるわよ、貴方」
「文字通りのそれだろう」
「……まぁ、あんだけ過酷な人生歩んでれば、こうなって当然よね…」
「なんだ、知っていたのか、俺の事を」
「知ってたって言うか、気になってた、って感じかしら。私は運命を司る女神、そして運命の導きを示すのは《輝き》なのよ。歴史に名を残す英雄ってのは、生まれた瞬間からその宿命を背負っているの。その逆、生まれた瞬間から、死ぬまでこき使われる下っ端人生ってのもあるわ」
女の言い分は中々酷かったが、的を射ているので文句は言わなかった。
今更文句など沸き立つはずもない。俺は死に、横枝枴童の人生は幕を下ろしたのだから。
━━と、勝手に自己完結していると、女神を名乗る女はふふん、と鼻を鳴らした。
「ただし、貴方の場合は、少しおかしな運命をしていたの」
「……つまり?」
「輝きを背負っていながら、その実貴方は運命に背いた結果を齎していた、ってこと。本来貴方はそれこそ名のある英雄よろしく、此の世に名を刻む著名な人間であるはずだったのよ。だけど、何故か貴方はその道を拒んだ、運命を享受しなかった」
「……はてさて、それが運命だったのかもな、アルテナ。運命を運命が覆す、運命は運命によって決められていて、その全てに運命が干渉する。つまり、不変の事実と言われる運命でさえ、同じく不変の性質を持つ運命に関与されれば、その性質を著しく失う、という事だろう」
「……貴方、遠まわしな言い方が好きなのかしら。率直に言ってちょうだい」
「簡単な事だ。俺の運命は、俺の意思が持つ運命によって強引に捻じ曲げられただけだ」
女━━いや、それでは名を名乗った彼女に失礼か。ではこれより女をアルテナと呼ぶ。
アルテナは言った。「生まれた瞬間より宿命を背負っている」と。
だが、それは俺という媒体、横枝枴童という人間の身体が背負っている運命だ。
横枝枴童という人間の意思にまでは反映されない。
行動と意識が乖離されている、と考えればいい。例え俺の強靭な肉体が、運命という便宜上トップアスリートに君臨するならば、俺の意思は怠惰で人の良いブラック企業社員への堕落という運命を背負っていたのだ。本来、別々で区分される事のない肉体と意識が。
つまり、俺の運命は二面性を秘めていた、という事なのだ。
「……そんな事って…」
「流石の女神様でも分からないか。人間ってのはそーいう生き物だ」
「違うわ……人間という生命体を今まで何百年もの間見続けてきて、貴方のような例外は初めてよ」
「…そりゃそうだろうな。俺は自分で言うのもなんだが、変人のそれに近い」
自分より他人、人が困ってたら助けるし、悩んでいたら捌け口になる。
横枝枴童はそういう男だ。自分自身の生命の価値を、人生の勘定に含めていない。
奉仕の精神の極地。生まれ持っての慈悲精神の塊。
多分俺が歴史に名を刻む人間になるのだとしたら、マザーテレサ等と同類だったのだ。
博愛主義を掲げ、万人を平等に愛したとされる伝説の女性。
だが、俺にそんな大層な真似は出来ない。
俺は中途半端な人間だ。死にたいという人間を救い、苦しいと嘆く人間を助ける。その先がどれだけ辛かろうと、俺は救う事に意義を見出してしまっている。例えその先に今まで以上の暗雲が立ち込めていようとも、俺は情け容赦なく、躊躇いもなく、救ってしまう。
「…呆れたものね」
「まだ呆れてもらえるだけマシだ」
「減らず口を……。…ま、いいわ。それじゃ貴方に一つ聞きたい事があるの」
「何でも言ってみろ、俺が聞き届けてやる」
「……なんかポジション逆転してないかなぁ…?」
「知らん。早く言わないと……ん? この場合は先へ逝くぞ、とか言って死んだ方が良いのか? いや待てよ、俺はもう死んでるんだからそれはちょっとおかしいだろう…だが━━」
「あーもう! 分かった、分かったわよ! んじゃ聞きます! 耳かっぽじってよぉく聞きなさい!」
ぷんすか怒鳴り始めたアルテナは、一瞬で表情を真剣そのものに豹変させた。
張り詰めた空気の中で、彼女の問いが空間を揺らす。
「……貴方には二つの選択肢がある。一つは、私の厚意であの地獄の日々に舞い戻る道。もう一つは、このまま楽に死んでしまう道。……だけど、貴方には特別に少し変わった道を用意してあるわ」
一息つくと、ハッキリとした声音でアルテナは短く言葉を紡いだ。
「もう一つ、異なる世界で生きていく道」
「……それはつまり、どういう事だ」
「異世界ってヤツよ。疎いのね。時折迷い込んでくるお馬鹿さんに一言そう言えば一も二もなく喜んで泣き喚くっていうのに……」
「おい、それじゃ俺に用意された道は全く特別じゃないだろう」
「急かさないでよ、これからその特別の意味を教えてあげるから」
そう言うと、アルテナは空間に円を描いた。
瞬間、描かれた円の中から一冊の古ぼけた大きな古文書らしきものが現れた。
「なんだこれは」
「《スキルブック》よ」
「……なんだその、B級臭漂うネーミングは」
「失礼ね! それには此の世の英知とも呼べる、最高級のスキルが詰まってるのよ?」
「…あ、そう」
「…えぇー? なんでそんな反応薄いの? 貴方何者?」
いや、そんな顔されても困るのは此方なのだが。
兎に角、《スキルブック》とやらを見てみなきゃ何も始まらないらしい。
俺はページが破れないよう、細心の注意を払って文字を読んでいく。
「そこから三つ、貴方に選ばせてあげるわ」
「三つ……というと、この軽く万はありそうな種類の中からか?」
「ええ、そうよ」
「……これ、読むだけで時間相当掛かりそうなんだが」
「時間なら幾らでも有るじゃない。生前の貴方じゃあるまいし」
そう言われて言葉を返せないのは、それが真実だからに違いない。
「というか、俺は一体どういった目的でこんなものを選ばせられている?」
「え、ちょっと、貴方って本当にそういう事に興味が無いの?」
「なんだそれは」
「異世界を舞台にした物語、とか読まないの? 別に俗世で有名な軽小説なんかじゃなくても、普通に色々あるでしょう? 古ければ神話や逸話、まぁ後は毛色は違うけど聖書とか…」
「ライトノベル、とかいうヤツか。あぁ、そう言えば見た事が無くもないな」
テンプレートなアレだ。異世界にポイッと放り出されて、なんか色々やるやつ。
だが何かがおかしい。話が噛み合ってない、というか、俺はこの話を噛み合わせたくない。
俺が死ぬ⇒女神様現る⇒「スキル三つあげる」☚イマココ
的な状況だろう。そしてこの先に控えているのはまず間違いなく……。
異世界転移、もしくは異世界転生。
畢竟、俺が今やらされているのは、俗に言うチートの選択というやつで……。
「え、俺が異世界行くのか?」
「……ねぇ、話聞いてた? 真面目な顔して私そう言ったんだけど」
「そこは、その、あれか。チートとやらが無いと生きられない世界なのか」
「そんな酷くはないけど、有るに越した事ないでしょ?」
何て事だ。こんな下らない事に付き合わされていたとは。
しかし相手は女神、逆らって地獄行きとか言われたら何か色々とおしまいである。
それに━━━
「(第二の人生、武に生きるってのも悪くはないか)」
法律上ぶん殴り合う事さえダメだった世界で、俺は学歴社会の闇に飲み込まれた。
そういった意味合いを含めれば、ある種手っ取り早く闇から抜け出せる世界なのだろう。
「(……それなら、生命線になるであろう《チート選択》を完遂しなきゃな)」
こうして、俺は《スキルブック》を読み明かしていく事となった。