特殊マンションへの入り口
路上で昇天した酔っ払いが救急車で運ばれた。吐瀉物、人ごみ、喧騒、灯り。夜の街にまぎれると、家庭内トラブルが原因の僕のイラつきはずいぶんと紛れた。
ここは北海道のとある地方都市。札幌じゃないどこか、とだけ言っておこう。いずれにせよ夏は涼しいし冬は雪に埋まる。人びとは純朴だが自分たちが田舎者だとはそれほど思っていない。それでも鼻に付くような悪い奴も数えれば両手で足りる。きっと豊かな大自然が人びとを浄化するのだろう。移住しろとは言わないけれど旅をするにはいい所だよ。都会の世知辛い生活に疲れたら一度遊びに来ておくれ。
さて、夜の街へ繰り出した僕はアユムとの待ち合わせ場所であるクラブのバーにいた。少し蜂蜜をたらしたウィスキーを片手に。まだお子ちゃまなのでね。
そもそも僕の地元の繁華街には二つしかクラブがない。一つはブラックミュージックがじっとりと空気に溶け込んだ店。北海道の僻地で黒人を見ることは稀だが、そこはアフリカン・ブラッドが流れる道産子たちの溜まり場だ。一方僕がいる店は延々とEDMがかかっている。曲をコントロールしているのは預言者みたいなDJだ。ハイテク機器に囲まれたブースで、神の代弁者として重厚なエレクトリックサウンドを操っている。フロアにいる迷える仔羊たちは踊るというよりロックライヴよろしくヘッドバンキングしているという感じ。
両手を突き上げて頭を振っている連中を脇で見とれながらふと気づくと隣にはすでにアユムがいた。彼は笑顔でジントニックを飲みながら小皿の上のピスタチオで手遊びをしている。僕とアユムはカウンターに並び酒を飲みながらしばしおしゃべりに興じた。
「ヘィ、ユウタ、元気か?」
アユムが、観念しろお前の弱みは全て握ってるんだぞ、という不敵な微笑みを浮かべて言った。
「暇つぶしにちょうどいい話がある」
アユムが美味そうにジントニックを飲む、そして続ける。
「去年、祖父が亡くなり遺産を相続した」
「お前に女遊びを教えたおじいちゃんか?」
「いやいや、全然」
照れくさそうに笑うアユム。
「ただ幼い頃、若い女たちとのデートにいっしょに連れ回されただけさ」と、アユムは幼児体験をチラリと告白した。
「で、遺産って何だよ?」
「土地」
アユムはこともなげにそう答えた。おそらく彼は医師から死の宣告をされた時もこういう事後報告をするのだろう
「でも、大雪山の南にあるただの原野だ。課税対象になるので、今はあれだ、名義は俺の父親なんだけどね。ここからは遠い」とアユム。
深夜の誘惑に負け僕たちはローテンションでカッコつけてトークをした。コンクリート色の襟付きシャツに紺のネクタイ、えんじ色のベストでキメたバーテンダーたちがカウンター内でたくさんの客のために酒を作っている。フロアから流れている音楽は大人しく酔っ払ってる奴らのジャマをしないいい感じ。
「ガールフレンドのアカネが車を持ってる。話のタネに今度その土地見に行かないか?」
「美味しいクリームパスタとデザートごちそうしてくれたらね」
「よし決まり、雪が降る前にな。で、これから会うのはそのアカネの親友でミオって女、俺が寝そびれた女」
アユムはそう言って自嘲した。彼を見て僕も微笑む。
「ユウタがミオとつき合えば俺ら四人でいっしょに遊べる。紹介するよ、さぁ行こう」
飲食代はアユムが払った。僕たちは音楽とダンスに別れを告げた。
アユムの実家はイタリアンレストランを経営している。だが格調高いお洒落な店という訳ではない。街で有名な大衆料理屋といったところか。創業者は彼の祖父。今その店を切り盛りしてるのはアユムの父親だ。彼はパスタやワインの店からデリバリーピザにも事業を拡大した。この不況下、店はそこそこ流行っている。つまりアユムは裕福な家庭の子供ということだ。
一方僕の父親は計りの会社に勤めている。計りといっても体重計ではない。食品加工業者やコンビニ弁当工場を相手に食材を計量する巨大なマシンを卸している。実は、店で売られている出来上がりの総菜は消費者の口に入るまで何度も何度も厳密な計量にかけられているのだ。僕の父親は対象素材の計量に命を掛けている。しかし自らの体重の計量にもう少し神経を遣うような生き方をしていれば父親も今のようなうだつの上がらない立場に甘んじることもなかったのに、とも思う。結局僕は雪降る街の小さな借家住まい。北海道内にいくつもの別荘を持つアユムとは訳が違う。
それでも僕らがいいチームだったのは似た者同士だったからだ。暇な時、僕はアユムと嫌いな奴らの不幸をよく笑った。不思議と二人が嫌悪する人物は一致した。他人の不幸は蜜の味っていうのは本当だよ。ただ誰かを傷つけると自分も巻き添えを食うというのは覚えておいた方がいいが。まぁそれでも僕らは共通の話題でストレス発散が出来る仲なんだ。
さて、僕とアユムはクラブを出たものの田舎街の不夜城の中をあっちに行ったりこっちに来たりしていた。そもそも僕らがいたクラブは繁華街中心部にある八階建ての複合ビルの最下層にある。その建物内には老若男女が夜遊びするための飲食店が数多く存在していた。そこである者は昨日を忘れるために酒を飲み、ある者はその夜のために女を口説き、またある者は明日のために働いていた。 酒、ダンス、そしてセックスが人生において如何に重要かを僕が学んだ場所でもある。
やっとアユムがエレベーターを見つけた。それは一般客が普段使うものではなかった。アユムに誘導されるままボックスに入り僕は吐き気を感じた。そこが以前テレビで見た海外セレブのリアリティー番組に出てきた高級ホテルのそれに似ていたからだ。ゴージャスな内装からは俗物たちの匂いがした。
「オマエ、このビルの上層階がマンションだって知ってたか?」
アユムがしたり顔で言った。ケケケ、昔アメリカ大統領ってマリファナ吸ってたんだぜ、とでも続けそうな口ぶりだ。そのアユムが僕にミオという女を紹介するべく、エレベーターは急上昇している。
「ミオって女はスペシャルか?」
「ああ、スペシャルだ」
ーーー暇つぶしにはいいかもしれない。
母親とのイザコザをチラリと思い出し僕は投げやりにそう思った。
エレベーターは六階で止まりドアを開けた。そのまま僕とアユムはロビーへと続く。僕はその場に満たされているやさしい黄色の光を肺いっぱい吸い込んだ。広さはラケットを振り回しシャトルコックを打ち合うスポーツのコートくらいか。正面には屈強な面構えの深紅のドア。右側には野暮ったい応接セット。そして左側にカウンターテーブルがある。その奥から太った男が出て来た。
「こんにちは、俺は深田アユム、こいつは小柳ユウタ。ここに住んでいる藤川ミオに用があるんだが……」
アユムは大人が微笑ましく思える程度に無礼だった。太った男はマンションの管理人らしい。管理人はさっきまで何かを食べていたのだろう、口をモゴモゴさせている。立ったまま置電話を操作してミオらしき人物と話し始めた。油で汚れた左手を黒ズボンで拭いながらの管理人。もしかすると僕らは管理人がスナック菓子を食べながら休憩していたところを邪魔したのかもしれない。
「藤川さんは歓迎するってさ、今ドアを開けるよ。あの娘は116号室だ」
管理人はそう言いながら受話器を置き、壁の赤いボタンを押した。と同時に鳴る警報のような大きなブザー音。そして入り口が解錠された。
僕は奇異なマンションに驚いた。昔のハリウッド映画に出てきた精神病棟を思い出させる。そして僕の胸は騒いだ。ミオとはどんな女なのだろう? 隣のクラスの可愛い女子を紹介されるのとは訳が違う。ミオは大人で、僕は子供扱いされ傷つけられるかもしれない。
僕とアユムは禁断の特殊マンションへと侵入していった。紅茶色の絨毯の毛が足にまとわりつく。脇の下の汗がハンパない。のど仏が上下する。僕は誰にも気づかれないように生唾を飲み込んだ。まるで麻酔なしで開胸手術を受ける前夜のような気分だった。