世界史の先生
「…夢を、みているはず」
細身で猫背で猫っ毛の、ひょろりとした、影のような外見をした男は黒板の上にびっしりと、まるで写経の如く漢字ばかりを人物名を書き連ねていたその手を止めて、お得意の中国史を中断させた。
「は、」
突然のことに小夜子は驚いて世界史教師───西縁を見た。
「ね、ね、寝てません、わたし、今日は…!」
ノートの上に走るミミズのような字をさりげなく手で隠しながら頭を振った。西はそんなことどうでも良さそうに、得意そうにまだ続けた。
「違うね。君は夢をまだ見ているはず。」
フレームレスの眼鏡がよく似合う切れ長のつり目や均整の取れた体型も手伝って、「黙っていれば」クールでミステリアスな先生だと女子生徒の間で密かな人気を得ている西は今日も自らの趣味だという中国史や仏教についてよくわからない話をしていた。
普段は優秀な女生徒たちも流石に置いてきぼりを喰らってぽかんとしている時に、彼は突然小夜子に話しかけたのだった。
「夢、ですか」
「そう、夢。今日はチベット仏教について少し話そうと思っていたんだ、ちょうどいい。」
そういって、西は吐蕃国がどうとか、ダライ・ラマがなんだとかよくわからないことをまた話だした。
「───で、そのチベット仏教が伝播した地域で普遍的に行われる葬儀方法、それがチョウソウというものだよ。」
そのとき西は、まるで小夜子だけに聞かせるかのようにして、彼女をまっすぐに見つめた。
全く話を聞かずにいた小夜子にはさっぱりで、ただ居心地が悪く思えたので一応ちょうそう、とだけ小さく呟いた。しかし西は何を知っているらしく、興味があるならまた教えるけど、と小夜子に笑いかけた。
その笑い方に、小夜子は違和感を覚えた。いや、違和感というのは語弊がある。デジャヴとでも言うべきか、彼の微笑みには小夜子の心を波立たせる作用があった。
「…おっと、今日も結局あんまり進めなかったな。授業終わります。」
西が時計も見ずにそう言うと終業のチャイムがタイミング良く鳴った。
西縁。彼は一体何者なのかしら───
小夜子は、ちょうそう、と、もう一度だけ復唱した。