落としたもの
ふと視線をずらせば、窓の外はもうすっかり夜だった。西の言うように月の姿はない。
今宵は、新月。
「先生…?」
小夜子は無意識に「先生」という言葉を口にし、二人の立ち位置を声に出して確認していた。
わたしたちは、「先生」と「生徒」。
それは眠る=西と夜通し二人きりという図式がふと小夜子の頭の中に浮かんでのことだった。西の口ぶりからして、そこに下心や欲望といったものは感じられない。しかし、だからと言っておいそれと彼について行こうとは思わなかった。
小夜子が見せた僅かな防衛本能に西も気付いたようで、苦笑した。
「大丈夫、変な事はしないから…、って、変な事するやつは大体言うんだよね、あ、いやいや、僕は本当に何もしないよ…」
小夜子を安心させようとしてか、やけに明るく、おどけて言う。
小夜子としても、逆に自分が「そのようなこと」を考えるような自意識過剰でイヤな女とは思われたくなくて、そんなのわかってます、と空っぽの笑い声をあげつつ答えた。
今日、一番に気まずい瞬間だった。
「でも、親がなんて言うか」
「そうだな。…電話でもかけておくか、友達の家に泊まるだかなんだか言って…えーと、電話、でんわ。」
西から嘘をつくようにと持ちかけられて、いよいよ後ろめたい気持ちが盛り上がってくる。小夜子の複雑な心を知ってか知らずか、西はやたら騒々しく電話を探している。確かに、この散らかった部屋では電話を見つけるのには苦労しそうである。それにしても、彼は携帯電話を持っていないのかしらと小夜子は不思議に思う。
「あ、そうだ」
ぽんとわざとらしく手を打って、そういえばここに置いてあったかな、と大きな独り言を言う彼の目線の先にはテーブルの端に書類で埋れた一角があった。紙の束を雑にどけると時代遅れな黒電話が姿を現した。彼には何処か懐古的趣味があるらしい。
「あ、それなら持ってます…スマホ。」
制服のポケットから取り出して見せると、西はすかさずにやにやと笑った。
「あっ、学校にそういうもの持って来ちゃいけないんだぞ!言いつけてやる」
「今時持ってこない生徒なんて居ませんよ。」
フフフ、と急に子供っぽい歓喜のような声を挙げた西を軽くあしらうと、小夜子は母親に電話をかける。西の茶々入れはさらりとかわした小夜子だったが、先生の前でこんなにも堂々と携帯を弄るのは始めてで、内心どきどきしながら画面に触れた。
母親の名前を見つけ、緑の受話器ボタンを押す。
友達の家に急遽泊まることになった、といった旨を伝えると母親は余った晩御飯について少し不満げな声を上げたが、勉強会が終わらなくて、と半ば苦しい嘘を重ねてつくと案外信じてくれたらしく、仕方ないわね~とのんびりした口調であっさりと承諾されてしまった。
このご時世、なんて楽観的な親だろうか。
母親に嘘をついてしまった事、そしてこれから先生とはいえ男性(いやむしろ先生だからこそ)の家に泊まりに行く事に罪悪感を感じた小夜子だったが、今日だけは深く考えないことにした。
「さて、そろそろ施錠の時間だ。」
施錠の時間は確か8時半だ。自分自身でもやたら長く居座った自覚はあったが、それ程までとは思わなかったので驚いた。計算すれば、軽く4時間はここに居たことになる。
帰りの身支度をする西を見て、小夜子も慌ててお気に入りの赤いコートを着込み、マフラーを巻いた。
その時、カツンと甲高い金属音がした。
「あっ」
恐らくコートのボタンでも外れたのだろう。
「電気消すよ」
西はもうすでにドア付近に立っていて、入り口のそばにある電灯のスイッチに手をかけていた。
「あ、はい、今行きます」
小夜子は手元もろくに見ず、手触りだけを頼りに落とした物を拾い、ポケットにしまった。そして急いで部屋から出た。




