大井川御幸
翌年の延喜七年二月二十七日。貫之は内膳典膳に任じられた。これも今まで通り七位の役職で、帝の食膳の調理責任者の仕事である。
「これまでとは畑違いで、慣れるのに手間がかかりそうだ」
貫之はそういって戸惑ったが、
「これも左大臣(時平)様のお気遣いだよ。本気でお前に食材の吟味や調理の仕上げを求めているわけじゃないだろう。内膳典膳は定員が六人もいるんだろ? 一人抜けても大して困りはするまい。出来るだけ帝のお近くに勤めて、歌をお求めの時はすぐにはせ参じることが出来るようにとのご配慮だろう」
と言って躬恒が慰めた。
「私は御書所のほうがお役に立つ仕事ができると思うのだが」
「まあ、筆跡のいいお前には物足りないかもしれないが、下を向いて物を書いてばかりいないで顔を上げて仕事をすることも覚えたほうがいい。それに責任者なら宴なんかの食膳を運ぶ時に付き添うこともあるだろう。そういう時に内裏を出入りする蔵人たちに顔を覚えてもらうことも必要だ。直接顔を合わせなければ、人柄と言うのは理解してもらえない。左大臣様はお前にそういう気遣いをしてくださったんだよ」
「そういうものだろうか?」
「鈍いなあ。ちょっとは歌以外の社交術も身につけろよ。俺よりはましな立場なんだから」
貫之は友則などに比べれば低い身分なのだが、躬恒や忠岑よりは良い立場にいる。内裏のうちに同族や知人がいるし、まだ若いが出世の見込める主人、兼輔もいる。兼輔は良い歌詠みで古今和歌集に掲載された歌も多かったこともあり、編纂者の貫之は特に目をかけられていた。
ただ貫之は歌や学問、書写や時簡の作成(御書所預の主な仕事)ばかりに没頭してしまっているので、本来なら必要な社交術が身についていなかった。
「いいか? 道真殿の事があったように、歌や詩だけで出世を望むのは、そもそも無理があるんだ。身分の良い人に顔を覚えてもらって、いろいろ使っていただけるようになれ」
「そういうお前も任を得たと言っていたが、どこになった?」
「御厨子所だよ。お前の勤める内膳司の人たちに従って、宴の膳の料理などを調理をする。俺が何かをやらかしたなら、お前が気付いてくれないと困る。何しろお前が最終責任者の一人なんだから」
そういって躬恒は楽しげに笑った。そして、
「俺は完全に裏方だから、表にいる人たちの目にはなかなか留まらない。まあ、そういう身分なのだから仕方がない。歌はともかく、俺はお前ほど学もないし達筆でもない。分相応の役目さ。それなのに割と内裏の近くにいられるうえに、上の立場にお前もいる。いい役目だよ。あとはお前が顔を売って、何かと俺を呼びつけてでもくれればありがたい。俺の社交は、お前の社交術にかかっているんだ。頑張ってくれよ」
などと言うので、貫之は渋い顔をした。
「そう、無理難題を言わないでくれ。内膳の仕事に慣れるのだって自信がないというのに」
「ははっ、気にするな。ちょっと大げさに言っただけだ。お前も友則殿のように世渡り下手になっては困るからな。きっと左大臣様は帝のお気に入り歌人のお前を、比較的おそばに置いておきたいんだ。お前なら顔や人柄なんて、自然に知れるだろう。気楽にいればいいさ」
気楽になどいられるものか。貫之は内心そう思ったが、友則の「友を助けてやればよい」の言葉が頭に浮かんでしまい、そう文句も言っていられないと思った。
今はもう、友則殿も、大納言だった泉大将(定国)様もいない。自分で内裏のことも気遣い、少しでも友を助けてやれるようにならなくてはいけない。
しばらくして桜の季節になると、定国を偲ぶ集まりがあった。そこには定国の弟の定方や定国の従兄弟で貫之の主人でもある兼輔のほかに、さまざまな立場の風流人が集まった。そして定国の思い出話を語り合ったり、故人の愛でた桜を見てはその人柄を偲んだりした。
貫之はその場で追悼歌を詠んだ。
君まさで昔は露かふるさとの花見るからに袖の濡るらん
(あなたがいなくなって、昔は儚く消える露のように散った懐かしい桜の花を見ては、涙で袖を濡らしてしまう)
貫之の歌に定方も、
「ああ、この桜を見なければ、こんな悲しい思い出に浸ることは無いかもしれない。けれど、兄を思い出すよすがに、こうして多くの人たちと桜を眺めずにはいられない」
と感慨深げだ。すると兼輔が、
「いえ、定国殿はこうして共に桜を眺める、良い仲間を遺してくださいました。皆同じ心を分かち合える、風流人です」
と、従兄弟の定方をなぐさめる。
「そうだな。こういう交流は本当に貴重な事だ。私は兄が残してくれたこの繋がりを、大事にしようと思う。兄の心は私が受け継がなくては。これからも、歌心を愛する人々でこうして集まり続けよう」
定方がそういうと兼輔も、
「その通りです。ここに御集りの皆さんも、定国殿がいなくなったからと言って身分を気にして顔を見せなくなるというような、薄情なことはなさらないでください」
と、歌人たちに言い含めた。低い身分に内心不安を抱えている歌人たちである。定国亡き後の活躍の場をどう求めたらよいか悩んだ者も多かったはずだ。
そんな中での定方と兼輔の気遣いに、その場にいた誰もが感激したのは言うまでもないだろう。もちろん貫之も一層自分の主人への忠臣を誓ったことだろう。歌の心は脈々と次につながっている。歌人たちが三十一文字に込めた小世界は、それほど弱々しいものではなくなっていた。そしてこの、定方と兼輔の歌人たちへの協力が、和歌世界が華やかに咲き誇るための一大拠点となっていくのである。
その年の九月十日。貫之たちは宇多院の御幸に随行した。この日は詠歌よりも漢詩を題材にして和歌に転用する、賦詞が中心となった。御幸では共に随行する臣下たちも歌を求められる。だが事前準備もなくその場で耳目に値する歌を詠むのは、いわば素人の彼らにはまだ難しかったためにそうした形式をとった。
逆に専門歌人たちはこの機会に、自分たちの能力を存分に発揮することが出来た。この場で貫之が詠んだ歌は、
法皇西河におはしましたりける日、「鶴、洲に立
てり」といふことを題にて、よませたまひける
あしたづのたてる川辺を吹く風に寄せてかへらぬ波かとぞ見る
(鶴が立っている川辺を吹く風に、寄せてきても返ることのない波のように見えてしまう)
あしたづとは葦辺に住む鶴のことを指す鶴の歌語。その鶴がまるで川に寄せる波のように見えるという歌意の歌である。本物の波ならば風に吹かれて白波が寄ってきても、すぐその波は川へと戻っていく。しかしこの景色は遠くに見える川の洲に白波が立っているように見えても、それは鶴の群れの白い羽の色なのだ。波のように美しく群れる鶴の姿を白波と言う動きのある見立てによって、情緒豊かに表現していた。
躬恒の詠んだ歌は、さらに技巧的だった。
法皇、西川におはしましたりける日、「猿、山の峡
に叫ぶ」といふことを題にして、よませたまうける
わびしらにましらな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
(猿よ、わびしげに鳴かないでくれ。山に峡があるように、法皇の御幸と言う晴れの日である今日は、効がある日なのだから)
『わびし』と言う言葉に『まし』という猿を表す歌語を並べ、さらに接尾語の『ら』をともにつけて調子に面白味を持たせている。『あしひき』と言う枕詞で歌題にある山を導きつつ、『峡』と『効』をかけるという古典的手法を用いながら、法皇がこの地にいらしたことがそれほどに喜ばしいことなのだと、猿に言い聞かせるという擬人化めいた見立てをしている。遊び心を感じさせながらも、巧みな言葉を使った歌である。
どちらも専門家人ならではの技巧に凝った歌だった。後にこの歌は古今和歌集の雑歌にそれぞれ書き加えられた。




