世の中(誹諧歌 四)
かいがなくとも嘆かずにはいられぬのが人の心というもの。それが世の中に隠す恋ともなれば苦悩はより重くなる。自分だけではなく、相手の苦悩も共に背負わなくてはならないからだ。
人恋ふることを重荷とになひもてあふこなきこそわびしかりけれ
(人に恋することを重荷として持ち続けようというのに、
二人の重荷を担ぐための天秤棒、朸すらない……
会ふ期、会う期すらないとはわびしいことよ)
よみ人知らずの歌とはいえ、実に理に合っている歌だ。
「恋に重荷はつきもの。だが二人の荷を担ぎながらも会うことさえ出来ぬというなら、許されぬ恋なのだろう。親の許しを得られずにいるのか、はたまた身分が違いすぎるのか」
恋を重荷という歌に興味をそそられ、貫之がよみ人知らずの恋の詮索を始めてしまう。
「憧れや片思いの歌ではないな。この歌の感じでは」
躬恒もつい、心動かされるようだ。そこに忠岑が年配者らしく諌めようとする。
「恋の事情を詮索するのは、あまり良いことではないぞ。……と言っても、この歌はそれを誘う罪作りな歌ではあるが」
この歌は誹諧歌らしく荷を担ぐための天秤棒を掛詞に詠んでいる。つまり恋の重荷は天秤にかける二つの荷があるということ。恋の重荷を互いが同じように感じている両思いであることを示すのだろう。
しかも作者はその重荷を二つとも担ごうというほど情熱を持っている。相手に逢うためなら二人分の苦悩を負うことも辞さない。前半にその恋の熱さが集約されている。
しかし一転、後半にそのむなしさが現れる。荷を背負うどころか現実には逢うことさえできない。その掛詞に使われた『あふこ』は、味気ない実用のためだけに存在する、粗末な一本の棒でしかない。その『あふこ』すら手に入らなければ、恋の重みは一層重増すことだろう。思わずその背景から作者の置かれた状況を憶測したくなる。誹諧歌の特徴を存分に生かした歌だ。
「実に掛詞をうまく生かした歌ですね。『あふこ』を持ち出すのだから身分の低い者が高貴な方と関係したか、あるいは高貴な方が事情のある恋をして、胸に秘する想いを詠んだか」
今注意を受けたというのに歌に感心するあまりか貫之はつい、さらなる詮索をする。
「高貴なご身分の人が『あふこ』を歌に詠むか?」
躬恒は疑わしそうにそういうが、
「高貴だからこそ、わざとそんな表現を使われたのかもしれないぞ。現実に重い荷など持ったこともない人だから、当然『あふこ』など手に入れることはできない。負わずとも良い恋の重荷を自ら背負ってしまった情熱に、むなしさを感じているのかもしれない」
と、貫之は持論を展開する。
「才能があると、いろいろと勘繰るものなのだな」躬恒はあきれ顔で笑っていた。
「いや、貫之の考えのほうが歌としては当世風ではないか? 古歌は写実的に現状を素直に表す読み方に良さがあるが、今では歌は空想世界を堪能するものとなってきた。目の前に咲く花を詠むのではなく、いつかの季節に、いつかの心を抱いた思いを歌に詠む。時も場所も、夢と現の境さえ超えて詠まれるのが今の歌の世界。そう考えれば歌の解釈も様々な状況から想像する方が面白いというもの。その思考の広がりが歌の世界を深めてくれるだろう」
忠岑が考え深げにそういうと躬恒も納得する。
「確かに世にある漢詩や唐文学もさまざまに解釈され、今でも論議がされています。公文書でさえも博士による解釈の違いから問題になったり解決されたりしてきた。歌も詠むことにばかり技巧的になるのではなく、これからは鑑賞する側にも深い考えがあるほうが飛躍できそうですね」
「その方が高貴な方々にも喜ばれるだろう。これから和歌を世に一層広げるためには、貫之のような考えを広める必要もある。ささやかな物にも繊細な心で接し、鑑賞する。そんな世界には歌が良く似合いそうだ。我々も心しておかねばならんな」
忠岑の心強い言葉に貫之も、
「そのように深く考えていただけるとありがたいです。ですから、人の恋の憶測に走ったことは、許してくださいますね?」と笑う。
「憶測ではなく、楽しい解釈だったよ。歌を詠んだ人には聞かせられないが」
と言って、忠岑や躬恒も共に笑いあった。
嘆くと言えば「世の中」がつきものだが、その「世の中」を思って変わった歌を詠んだのは、在原元方であった。
世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に恨みらるれば
(何かにつけて人に疎まれがちな『世の中』だが
その『世の中』のほうはどんなに苦しいと思っていることだろう
ここいら中の多くの人に恨まれているのだから)
「これはまた面白い発想だ。『世の中』そのものを擬人化して、そこに同情を寄せている。確かにこれ以上多くの人々に恨まれているものはないだろう。『世の中』に罪はないとしても」
次々と現れる風変わりな発想に、貫之も身を乗り出して歌を詠みあげる。こういう面白さが誹諧歌にはある。
「そうかな? 世の中というのはなかなか罪作りだと思うが」
忠岑がそういうと、躬恒も幾度もうなずいて同意している。
「卑官の身である私もそう思っておりましたが、この歌を見て少し考えが変わりました。世の中というものは、実は川の流れや通り過ぎる風のように自然の営みと同じ、ただそこにあるだけのものなのではないかと」
「そこにあるだけのもの?」躬恒が繰り返す。
「世の中というのは人が作ったというよりも、人がこの世に生まれた時から存在したものなのではないかと思うのです。この歌は世の中を景物としてとらえ、それを擬人化して詠んでいます。つまり山や川、海や草木と言った自然と同じものなのです。そう考えると確かに世の中はほかの景物より損をしています」
「成程。山が崩れても、川があふれても、怒りや虚しさは口にするが、山や川を恨むということはないものな」
躬恒はすぐに納得した。こういう時にも頭の切り替えが早いようだ。それを受けて貫之は続ける。
「川に流されても、風になぎ倒されても、人々は恨まない。川は流れるものであり、風は吹きすさぶものだと、あるがままに皆が受け入れているからでしょう。けれども世の中のことは恨んでしまう。その理不尽さをこの歌は嘆いているのです」
「ううむ。それなら世の中のほうだって理不尽じゃないか。才能ある者に辛く当たったり、栄華を極めた人を滅ぼしたり」
「だが、それが世の中だろう? 安定する時もあれば急に動くときもある。冷たいときもあれば、暖かい同情を見せるときもある。川があふれるときもあれば、恵みをもたらす時もあるように、世の中だってただ流れているだけに過ぎない」
忠岑も納得したようで、
「確かに世の中を景物としてとらえると、そういう考えも浮かんでくるな。さらに擬人化まですると世の中に同情したくさえなる。元方殿は実に面白い歌をお詠みになられた」
と楽しげだ。だが躬恒は疑問が湧いたらしく、
「では、なぜ人は川や風と違って、世の中を恨んでしまうのだろう?」と聞いた。
「それは我々のおごりかもしれない」
忠岑は考え深そうに言った。
「世の中は人の力によって動くもの。我々は普段そう思っている。だが、世の中を歌の景物として考えればそれは間違いだともいえる。世の中は権力者によって動き方が変わるから、人の力によって動かせると思い込んでしまう。だから我々はつい、自分の味方になりそうな人が権力を持つことを願ってしまう。そうすれば自分にも都合のいいように世の中が動くと錯覚してしまうのだ。そのおごりがあるから世の中が思うようにならないと、まるで裏切られたように感じて恨みを抱いてしまうのだろう」
そういうと忠岑は深くため息をつく。
「所詮、世の中には逆らえぬものなのだな……」
その声は何とも寂しげなものだった。
「そんなことはないです! 確かに我々は卑小な存在ですが、人は川に橋を架けることもできます。船で流れを利用することだってできる。人は世の中の流れを止めることはできなくても、変えることはできますから!」
忠岑の寂しげな声を打ち消すように、貫之はそう言った。
「そうだな。この歌集が完成すれば、少なくとも友則殿は出世するだろう。そしてそのあとを君たちが追いかけてくれるはずだ。これからが楽しみだな」
忠岑はそういって表情を明るくした。この期待に応えなければと、貫之と躬恒も身の引き締まる思いがした。




