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賢さと愚かさ(誹諧歌 二)

「しかし、女心はのぼせるくらいの暑さではすまない事もあるようだ。この歌は滑稽どころかあまりに激し過ぎて興を催すどころではない。別の意味で誹諧歌に加えるしかないだろう」


 笑いあう貫之と躬恒に忠岑が見せた歌は、小野小町の激し過ぎるほどに情熱的な歌だった。



  人にあはむつきのなきには思ひおきて胸走り火に心焼けをり


 (恋しい人に逢う手立ての無い月の無い夜は、想う気持ちがおきびのようで

  胸が高鳴り、爆ぜるように火が心を焼いている)


「胸走り火に。ああ、これは……実に熱い。隠しだての無い情熱を詠んだ歌ですね」 


 貫之が思わず口をついたようにそう言った。躬恒は深々とため息をつく。


 和歌と言うのは人の心を表す世界である。しかしそれと同時にその心を単純につまびらかにするのではなく、その繊細な心模様を様々な例えや自然美などと共に、情緒豊かな表現で行う世界でもある。苦悩も悲しみも切なさも、情緒と言う霧や霞みが覆うように、薄衣をまとうように表現される。それを人は雅やかさとして味わう。


 しかしこの歌は違う。何か心をあらわに詠んだ歌と言う印象を受ける。


 実際はこの歌も情緒的手法が凝らされている。『つきのなき』とは「月の無い闇夜」と「手立てがない」という二つの意味が掛けられていて、二人の逢瀬を闇が阻む悲しみを表している。

『思ひ』は「想う火」に通じ、『おきて』は「起きて」や炭火の「おきび」に通じる。心が焼けると言うのも恋の情熱によく例えられる言葉だろう。

 だが、この歌の『胸走り火に』と言う言葉がこの歌を鮮やかに、恋の本音をはっきりと表している。


「胸走る」とは、胸が高鳴る、騒ぐと言う意味でつかわれる。これは和歌としては比較的はっきりとした表現と言っていい。この言葉があることでこの歌は本音の歌となり、誹諧歌に相応しい歌となっている。

 しかしこの歌はそれにとどまらず、「走り火」と言う言葉がさらに掛けられている。「走り火」とはぱちぱちと火が爆ぜる様子の事。この二つの言葉が合せられることにより、この恋心は単に胸を焼くばかりではなく、闇が深いほどに赤々と存在を主張する炭火のように燃え、その日が爆ぜるように心が熱く胸を焼き続けているのだ。

 情熱をこれほど具体的に表す歌。しかも、炭火と言う誰もが見慣れた日常の品に自分の心を例えることで、まさに燃える想いをはっきりと感じさせる歌。誹諧歌でありながら実に技巧に長けた、情緒を越えた感慨を与える歌となっている。小野小町の情熱と歌才が詠ませた、素晴らしい歌の一つと言ってよかった。


「これぞ誹諧歌の醍醐味。季節の情緒やもののあはれでは表現しきれない何かが、この歌には感じられる。言葉遊びがその意味を越えた好例だろう」


 忠岑も感慨深そうに言う。


「女の情念となると、どうしても愚かで重くなりがちなところを、どうにかして雅に美しく詠もうとするものですが……。これはいっそ爽やかさを感じる。暗闇の中に赤々と燃える火が見えるような所もいい」


 貫之は歌に感心するが、躬恒は、


「いやはや。これは愚かどころか賢い歌だ。女にこれほどの情熱の歌を贈られて見ろ。男はどんな闇夜であろうとも、女のもとに駆け付けずにはいられまい。これほどの想いを暗闇ごと抱いたならば、どれほどの熱い夜を過ごせる事か」と言う。


「まるで自分が求められる恋人になったような言い方だな」


 貫之はそう言って笑ったが、


「おや、ではお前はこの歌を見てそんな気にならなかったか?」と聞き返されると、


「ああ、なるな。素直な心が真っ直ぐに伝わる。現実なら苦しいのかもしれないが、こんな風に熱く愛されてみたいと思える歌だ」と認めた。


「素直故に正調から外れてしまう誹諧歌。それだけに印象的な歌も詠めるのだ。こういう歌は躬恒も得意だろう? そら、この歌のように」


 忠岑が示した躬恒の歌は、



  蝉の羽のひとへに薄き夏衣なればよりなむものにやあらぬ


 (蝉の羽のような単衣の薄い夏の衣も、着慣れれば皺が寄るのだから

  そんな衣のようにひとえに情の薄いあなたも

  いつかは慣れて私に身を寄せてくれるのではないか)



「なかなか手ごわい女人に言い寄ったようだな。贈った相手が慣れて身を寄せたかどうかは分からないが」


 忠岑はそう言って躬恒に笑いかけるが、躬恒は照れたのかあいまいな表情をした。そこで貫之が、


「まあ、こういう事を詮索するのは野暮と言うものでしょう。衣を見知っている仲の女人なら、そう悪くも思われていない相手を口説いているのです。おおかた妻を口説いた時の歌でしょう。そんな事なら忠岑殿も、このお相手はどうなのです?」


 忠岑も憎からず想っている相手が、世間体を気にして打ち解けてくれぬので、懸命に口説いている歌を詠んでいた。



  隠れの下よりおふるねぬなはの寝ぬ名は立てじくるないとひそ


 (隠れ沼の下から生える『ねぬなわ(ジュンサイ)』のように人目につかない地味な私だが

  あなたに言い寄りながら怖気づいて『寝ぬ』などと不名誉な噂は立てさせません

  だからねぬなわの深い根を繰るように通う私に、「来るな」と嫌がらないで欲しい)



「女人に対して濡れる『隠れ沼』を男が『根』を『繰る』後に『寝ぬ』と言わせないとは、なかなか艶やかで意味深い言葉遊び。隠れ沼に相応しい、しっとりとした仲を楽しまれたようですね」


 貫之がそう言ってニタニタ笑うと、流石の忠岑も顔を赤らめ、


「あー、解釈は人それぞれだし……」と口ごもる。


 貫之に助けられて余裕を取り戻した躬恒は、


「何せこれは誹諧歌ですからね。そう言う勘も働こうと言うものです。おかげで賢くなれますね」とやり返した。


「そうですね。私も躬恒も、忠岑殿や友則殿のおかげで、だいぶ賢くなれました」


 貫之までが調子に乗ってそう言うと、忠岑も別の歌を取り上げる。


「人間、賢ければ良いと言うものではないぞ。特に恋は利口ぶっていてはままならない。この歌のように」



  さかしらに夏は人まね笹の葉のさやぐ霜夜をわが一人寝る


 (かしこそうに夏は人のまねをして、恋に興味のないような顔でいたのだが

  笹の葉のさやさや鳴る霜の降りる夜になって

  私は一人寝の侘びしさが身にしみている)


「夏の恋は浅はかだと訳知り顔をしたところで、秋になったからと言って急に恋人ができるわけでもないのだ。利口ぶって心に逆らったからと言って、幸せになれるとは限らない」


「上手くお逃げになられましたね。だが、それは一理ある。貫之は耳が痛いのではないか?」


 躬恒の問いに貫之は答えずに、


「確かに利口ぶっていても時が流れれば人は老いてゆきますね。賢く、美しく老いても、老いは老い。伊勢の後悔の歌などそれがよく表れています」


 伊勢の詠んだ老いの歌とは、



  難波なる長柄ながらの橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ


 (古いが美しく趣のある、難波の長柄の橋さえも新しく作ると言う

  賢いと褒められようとも今となっては

  老いたわが身を一体何に例えたら良いのだろう)

  


 例え老いても華やかな人には、古く美しいものに例えて人は称賛を贈る。しかし一方で人は若々しい、新たな華やぎを感じさせる人に惹かれて行くものである。

 だがそれを冷静に受け止めて歌に詠み、自らを古くとも趣のある存在として律する矜持を持つすがすがしさを、この歌は感じさせる。人は橋のように新たに作り替えることはできないが、人の心は賢い誇りを持っていれば、朽ちることも無いのだろう。


「たしかに心賢く、美しくあれば、その姿はすがすがしいな。だがそう堅苦しく考えなくてもいいじゃないか。ここに並ぶのは誹諧歌。ほら、こんな歌だってある」


 躬恒がそう言って気楽に示した歌は、



  まめなれど何ぞはよけく刈萱かるかやの乱れてあれどあしけくもなし


 (真面目であることの何が良いのか

  散らばりやすい刈る萱のように乱れても、悪い事なんかないじゃないか)



 と、不真面目でもそう悪い物ではないと言う開き直りとも、生真面目者が損をする揶揄とも取れる歌だった。


「人と言うのは弱いもの。だからこそ、こうした本音が歌われることに価値がある。愚かな心を抱えつつ、賢く生きようと人は懸命になる。その姿こそが歌心を呼ぶのだろう。我々歌人は賢くも無く、かと言って愚かでも無く、歌を通じて人が賢く生きる知恵を学び、心にある愚かさからくる憂さを晴らせるようにすればよいのだろう。このような歌の数々を記した歌集を残すことによって、和歌がいかに自由なものであるか後の世の人に示すことができるのだ」


 躬恒の言うとおり、和歌の持つ自由さが人々の心に「やまとことば」を根づかせる事となる。

「やまとうた」は単に言葉を三十一文字みそひともじの中に窮屈に詰め込むだけではない。僅かな言葉の中に人の人生や世の中の森羅万象を表そうとする、小世界を作る試みに満ちた文学だった。その要素が凝縮されているこの誹諧歌こそが、後々長い世に渡って和歌が人々に愛され続ける根本となった事を、当時の貫之たちは知る由も無かったのだ。

 



御察しの事と思いますが……。

この誹諧歌が後々独自の発展を遂げて行き、『俳句』として現代まで私達に親しまれる文化となっているのです。

今ではさらに自由になった『川柳』が、私達の生活に密着した言葉の楽しさを与えてくれていますね。

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