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一人越ゆらむ(雑歌 五)

「私の方こそ嬉しい。君に受験させなかったことを、私はとても悔いていた。だが、君ならきっと私の悔いを消し去るほどのことをやってくれるとも思っていた。……信じた甲斐があった。この歌集は必ず人々に称賛されるだろう。そしてその歌集に私も参加させてもらえて、自分の出世の糸口までつかめる仕事をさせてもらえる。私は君にどう感謝を表したらよいか、分からない」


 淑望はそう言って貫之に手を差し伸べた。貫之はその手を握り返しながらも、少しだけ気が咎めていた。貫之は新たな道を一心に進む決心をしていたから迷いが無かったが、自分だけが受験を許された淑望に様々な葛藤が生まれたであろうことは、今の貫之にも容易に想像できる。だが当時は自分のことで精一杯で、淑望に気遣いをしてやれなかったことを貫之も悔いていた。


「感謝なんてよしてくれ。これは友則殿の気遣いだ。君は自分の実力で今の地位にいる。方略史を合格した君だ。いずれ間違いなく大学頭になれるさ。さあ、その日に花を添えるためにも、良い序文を書いてくれ」


 こうして若い日の学友同士は、この歌集に共に携わる事となった。共に将来を夢見て目標を語りあった二人の未来は、今ここに繋がりあい、一つの形を見せようとしているのである。


「しかし、長い間無沙汰をしたままで悪かった。私も勉学一途で余裕がなくて」


 淑望は申し訳なさそうに言うが、


「それは私も同じだ。君が方略式を合格した時は政変にまぎれてしまい、落ち着く頃には和歌の編纂に勤しむ事となった……というのは、言い訳かな?」と貫之は笑って見せる。


「言い訳?」


「正直、自分が学問を辞めることで君に色々押しつけてしまったような気がしていた。だから君のもとに近づきにくかったんだ。気にかかってはいたのだが」


 すると躬恒が、


「ふうむ。貫之は意外と不義理なところがあるんだな。これは俺も注意をしておこう」


 とからかう。


「不義理は無いだろう? 私は淑望を忘れていたわけではないぞ」


「いやいや。友の心も女から離れる男の心のように頼りないこともある。いいか? 友に忘れられると言うのは寂しいことだ。そんな時に詠んだ私の歌を教えよう。淑望殿。今度貫之が不義理な事をしたら、この歌を聞かせてやればよい」



  水のおもにおふる五月の浮草の憂きことあれや根をたえて来ぬ


 (水面に生える五月の『浮』草と同じに、『憂き(辛い)』事があったのだろうか

  草の根が絶えたように、私のもとに来なくなったのは)



「おいおい。その頃は屏風歌を頼まれることが多くて、たまたま」貫之が言い訳をすると、


「なんだ。貫之は躬恒殿にも不義理をしていたのか」と、淑望まで言い出した。


「おや。俺はお前の事だとは一言も言っていないぞ。『友だちの久しまうで来ざりけるもとに』この歌を使わしただけだ」躬恒がそう言ってすまして見せる。


「……しっかり私に歌を寄こしたじゃないか」


「おお、ちゃんと覚えているな。うるさいほどに訪ねてきた友の足がぱったりと途絶えて見ろ。結構寂しいものだぞ。淑望殿、この歌は効きそうだ。今度貫之に不義理な真似をされたら使ってくれ」


「それは良い。躬恒殿、是非使わせていただこう」


 淑望がそう言うと三人とも笑いだしてしまった。釣られて忠岑までもが笑っている。これで久しぶりの再会の興奮と気まずさが消し飛んでしまった。


 この歌をきっかけに和歌の並びは足が遠のいた人の歌から、訪れを阻む白雪を越える歌、都を離れて庵などで暮らす人の歌が並んで行く。



  わが庵は都の辰巳たつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり


 (私は都のにぎわいからは離れた『鹿』の住むような場所

  東南の庵に『しっかり』と住んでいる

  人様は『憂し(辛い)』世の中の『宇治』山だといっているようだが)


「都を離れて暮らすのは辛いと言うのは、都人の思い込みでしか無いらしいな。喜撰法師殿はこのような歌を詠んで、悠々となさっているのだから」


 貫之はそう言いながら躬恒と共に「家」や「居所」にまつわる歌を並べて行く。


「ほう、このようにして編纂は行われているのか。かけ詞や縁語に季節の背景まで関連させて、随分細やかに行われているのだな」淑望はしきりに感心していた。


「そうなんですよ。この天才歌人の突拍子もない思い付きのおかげで、細かい作業に苦労させられています」躬恒がそう言って笑った。


「確かに細やかだな。これをすべて理解し見届けてから序文を書いていては時間がかかり過ぎる。だから友則殿は歌集の部立と主な歌人の名前、和歌の歴史と歌人たちの特徴、歌集が作られるに至った経緯をまとめた紙を下さったのだな」


 それは撰者たちが序文に入れるべきだと思う内容として、大まかにまとめたものだった。本当なら編さんに携わった友則が歌集の内容についてもう少し述べた文を書くはずだったが、今から淑望にそれを望むのは時間的に無理がある。


「大まかな内容で申し訳ないが、それが我々の序文に入れたい希望だ。それをもとに序文を書いて欲しい」貫之がそう言うと


「分かった。だが私も民部省(税に関する戸籍などを扱う省庁)の仕事がある。省の仕事を終えてから時間が許す限りこちらに来て取り組もうと思う。何としても和歌の完成には間に合わせよう」と心強い返事が返ってきた。


 淑望は早速作業に取り掛かった。その間にも貫之と躬恒の作業も進んで行く。


「家や住処にまつわる歌を並べたが、この歌はちょっと珍しいな。家を売る歌だ」


    家を売りてよめる


  飛鳥川淵にもあらぬわが宿もせにかはりゆくものにぞありける


 (飛鳥川の淵でもないのに、私の家も『瀬に』変わって行く

  つまり『銭』に変わって行くものである)


「伊勢と言う人は女人でありながら、なかなか物の「おかし」を知る人のようだな。思い出深い自分の暮らした家を売ってしまったと言うのに、流れて離れて行く瀬の水のように、手放した家が銭に変わったと詠んでいる。明るい心意気を持った人なのだな」


 貫之はこの歌のさばさばとした詠み様に感心していた。躬恒は、


「優しく情が深いが、流されやすい女人とも言われたが……。何しろお相手が高貴な方ばかりだ。色々口で語れぬ事情もあったのかもしれない。この歌を見る限り、芯のしっかりした女人に思える。女人は芯がある方がいい」と言って、歌以上に伊勢と言う女性を褒めた。


「確かに、女に芯があると男は安心出来るな。それで一途でいてくれればなおさらありがたい」


「一途な女の歌なら有名な歌がある。大和の国に住む女が両親を亡くし、家運も悪くなる間に通っていた男が河内の国に女を作って夜離よがれがちになった。だが女は嫉妬のそぶりも見せずに快く男が河内に行くのを送り出している。男は自分に女が出来たことは薄々感づいているはずなのに妻の様子が変わらないのは、他に男を通わせているのではないかと疑った。そこでいかにも男が忍んで来そうな、月の美しい晩に河内に行くふりをして庭の植え木の影に隠れていると、女は一人で琴をかきならしつつ歌を詠んだ」



  風吹けば沖つ白波たつた山夜半よはにや君が一人越ゆらむ


 (風が吹くと沖の白波が立つと言う

  その『立つ』の名を持つ立田山を

  こんな夜中にあなたは一人きりで越えるのでしょうか)


「他の女に会いに行くのを知っていながら、女は悲しみをこらえて山越えをする男の身を案じる歌を詠んだ。そのまま突っ伏して泣く女を見て男は女が愛おしくなり、それからは他所に通うことは無くなったそうだな。良い歌が徳をもたらす、歌徳説話として有名だ」


 貫之が話の続きを引き取った。


「歌徳か。確かにそう言えるが、何より女の心の一途さが、この歌を詠ませたのだろう。悲しみをこらえる芯の強さと、それでも男を想う一途さ。この歌を詠んだ女は、男にとって理想の一つと言えそうだ」


 躬恒にとっては自分の妻がこのようであって欲しいと言う願望もあるかもしれない。


「しかし、そこまで強い女はそうはいまい。あの家を売って銭になると明るく詠んだ伊勢さえも、上皇様と共に出家し都を離れた事は寂しいらしい。歌集に乗せる歌を頼んだらこの歌を提出してきた。和歌集が編纂されると聞いて、都の風を思い出したのだろうな。尼の身で無ければ奏上にも出席したかったのかもしれない」


 それは数々の高貴な貴族たちに愛され、ついには宇多天皇に愛されながらも天皇の皇子の妻として子を生み、それでも宇多帝が出家した時はともに尼となって宇多上皇についていった伊勢の、歌人としての未練を都に残していることを示す歌だった。この歌を最後に雑歌の巻は締めくくられている。



  山川の音にのみ聞くももしきを身をはやながら見るよしもがな


 (山川の音のようにだけ聞く宮中での噂を

  上皇の御在位の時の様な身の上で、見てみたいものです)




 

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