依頼(雑歌 四)
多くの老いを嘆く歌の後は、過ぎゆく時の無常を松にたとえた歌が並ぶ。さらにはそこから海辺の景色を、続いて水辺にかかわる歌が並べられた。水辺から川へ、川から歌は滝を表す物が並んで行く。ついには屏風画に書かれた滝にまつわる歌が並んだ。
思ひせく心のうちの滝なれや落つとは見れど音の聞こえぬ
(思いをせき止める心の中にある滝ですから
水が落ちる様子は見えても音は聞こえません
この絵を見て心に涙を落しても、泣き声はたてないのです)
「これは文徳天皇の御世に、仕える女房達が詰めている所にある屏風画を見た帝が、『滝の水が落ちる様子が実によく描けている。これを題にして歌を詠んで見よ』と女房に命じられた所、三条町と言う女房が詠んだ歌だそうだ。まるで本物の滝のように描かれた絵だが音はしない。同じように自分は声を立てて泣きこそしないが、その絵を見るとその滝のように涙が落ちるほど感動できると言う訳だ」
貫之が添えられた詞書きを解説する。躬恒も、
「女房たちも帝と共に感激を味わっていると言いたいのだろう。屏風絵を見て詠んだからこその歌だな」
と、その詠み方に感心していた。
「この歌は屏風に書かれた絵を見て詠んだ歌としては、もっとも古いと言われている。こうした帝のちょっとしたお心配りで、新しい文化が育まれてゆくのだな」
「この歌集も今上の帝の心配りで作られることになったのだしな。時の帝の御関心が文化を花開いて下さるんだ」
「そう言う良い帝の御世は、長く変わらずにいて欲しいものだ」
そう言って貫之は歌を詠んだ。
屏風の絵なる花をよめる
咲きそめし時よりのちはうちはへて世は春なれや色のつねなる
(咲きはじめた時より後は、いつまでも屏風の世界は春であって欲しい
色の変わることなく)
「描かれた春は永遠だ。帝の御世もそのようであって欲しい」
「我々にこんなに良い仕事を与えて下さったんだものな」躬恒も同意する。
二人は続いて世の悲しさ、侘びしさを詠んだ歌を並べて行く。
「こうして歌で帝や世の中のお役に立つ仕事ができるのは、本当にありがたいな。世を捨てて法師となる人など、どれほどさびしい気持ちになることだろう……しかし」
そう言って今度は躬恒が以前山に入った法師に贈った歌を並べた。
「この法師は世を捨てることを甘く見て、いかに自分が世の中で辛い思いをしたか散々言いふらしながら入山したのに、いざ山に入るとさびしいだの辛いだのと文句ばかりを言って来たのだ。だからこの歌を贈ってやった」
山の法師のもとへつかはしける
世をすてて山に入る人山にてもなほ憂き時はいづち行くらむ
(世の中を捨てて山に入る人が
山でもなお辛いことがあった時は、どこへ行くと言うのだろう)
「これはまた、キツイ皮肉だな」貫之が苦笑する。
「いいんだよ。都でまだできる事があるにもかかわらず、いい加減な気持ちで世を捨てたのだから。最初から身分のない俺にそんなことを愚痴られても、それこそ皮肉にしか聞こえない。こっちの身にもなって見ろと言いたかったんだから」
「相手の身に立ってようやく分かることは確かにあるな。それなら、この歌もちょっと皮肉だぞ」
貫之は面白がって業平の歌を持ち出した。
今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れずとふべかりけり
(今、知った。人を待つのは苦しいものだと。
自分を待つ女のいる里に、離れず通い続けるべきであった)
「ほう。好色家の在中将(業平)殿でも、そんな反省をしたのか。だが、この歌のどこが皮肉なんだ?」
躬恒は首をかしげたが、貫之が種明かしする。
「これは紀利貞殿が阿波介として任地に赴く時に、在中将殿が送別の宴をしてやろうと言ったのだ。ところが利貞はあちこちに出歩いて夜更けまでなかなか姿を現さなかった。おそらく知人に挨拶して回っていて遅くなったのだろう。そこで散々待たされた在中将が利貞に詠んだ歌がこれだったのだ。多くの女たちを待たせ続けた私を、こんなに待たせるとは大した奴だと」
「確かに、世に名を知られた好色家を女のように待たせるとは、利貞殿は大した方だ」
二人はともに笑ってしまう。
「まあこれなど、任地に向かう晴れの門出なのだから、このくらい明るくて良いだろう。悲しいのは高貴な方が御出家された時の歌だな。これは在中将殿が正月のご挨拶に、惟喬親王が御出家なさって隠居している小野に参った時に詠んだ歌だが」
そう言って利貞を皮肉った歌の横に並べる。
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏みわけて君を見むとは
(すべて忘れて、これは夢かと思ってしまう。
これまでに思ったことがあっただろうか。
雪を踏み分けて親王の君をお見上げすることになろうとは)
「惟喬親王は高貴な御身分でありながら、とうとう帝の地位が叶わぬまま御出家されてしまった。親王の悲嘆はもちろん、親友の業平殿も悔しかったことだろうな」
「思うようにいかないまま、引っ込まなくてはならないのも、世の中と言う事か。……そうそう、我々から引っ込んでしまわれた友則殿の、お見舞いに伺わなくては」
貫之が思い出したように言う。
「忠岑殿。昨日友則殿のご様子をうかがった友則殿の妻の文にはなんと?」
「だいぶ体調が回復されたと書いてあった。熱も下がったのでそろそろ序文を書きたいと言っているらしい」
「序文か。そろそろ書かないと厳しいな。だが、友則殿の事。きっとまた無理をなさりそうだ」
躬恒がそう言って渋る。それは貫之や忠岑も同じ気持ちだった。
「私と躬恒で見舞いに行ってきます。序文は他に誰か博士の方に書いてもらうことを説得してきます」
貫之がそう言うと忠岑も、
「ああ、そのほうが良い。友則はこの編纂作業の責任者だ。完成した歌集の奏上には、どうしても元気な姿で帝の御前に参上させたい。そのためにはきちんと病を治させなくては」
と言って、序文に入れる予定の文言を書いた紙を貫之に持たせてくれた。
友則に会ってみると、成程まだ少しやせ気味ではあるが、以前よりも顔の色つやなどは良くなっていた。やはり疲れがたまっていたのがいけなかったのだろうと、貫之と躬恒は友則が無理をせずに歌集の奏上の頃まで休むようにと勧めた。そして序文を誰か博士に頼むことを許可して欲しいと言った。
「二人揃って訪ねてきて、そうまで言われては仕方がないな。分かった。序文は他の人に頼もう。ただし頼む相手は私が決める。これ以上ない適任だと思う」
「どなたでしょうか? やはり、紀長谷雄殿でしょうか?」
「いや、違う。その人には依頼状を書いて送る。明日には御文庫に顔を出すだろう」
誰だろう? てっきり同族で博士の長谷雄だと思っていた貫之や躬恒は首をかしげたが、友則は楽しげに笑うばかりだった。
翌日、いつものように貫之たちが作業を始めようとすると、宮中の女官が、
「御依頼の方が、お見えになられました」
と言って、その人を御文庫に通した。そこにいたのは、
「久しぶりだな、貫之。君と共に文章に取り組めるのは、大学寮以来かな?」
「……淑望! まさか、友則殿が序文を依頼したのは」
「そうさ。友則殿は私に序文を依頼した。父ではなく私にね。私ならきっと和歌集に相応しい序文を書くと友則殿は言って下さった。それに私の序文が帝に認められれば、私の五位の位が得られるかもしれないと」
「友則殿が……」
貫之は万感詰まる思いであった。あのまだ若かりし頃、父のない貫之は和歌の道を選び、学者としての出世は学友であった淑望に託した。その淑望は四年前に方略式を受け、合格。官吏を得るに至っていた。貫之の最も親しかった学友は交わした約束を守り、順当に学者としての道を歩んでいた。
二人は当時友則の庇護のもとで学問にはげみ、共に同じ道を歩むのが難しいと知ると互いの道を認め合い、託し合った。それを見守り続けてくれた友則が、こうして二人に名誉ある同じ仕事を任せてくれたのだ。
「私は去年、民部大丞に任命された。私の仕事は帝や左大臣(時平)様にも認めていただいている。私なら友則殿の代わりでも十分に勤まると思っていただけたようだ。光栄なことだ」
「ああ、ああ……! 君なら誰よりもこの歌集の意味を理解してくれる。そしてそれを漢文に表すにふさわしいだろう! 立派な男になったものだ。私は鼻が高い」
久しぶりの対面で貫之はやや興奮気味だった。それは淑望も同じで、
「君こそよくここまで昇って来たのもだ。君の歌人としての活躍を耳にする度に、私もどれだけ誇りに思った事か!」
「いや、私の身分はまだ低い。まだ御書所預でしか無いんだ」
「かまうものか! それよりも君達が成そうとしていることの方がずっと意味がある! 歌はこれからこの国の文化の中心になる。そのすべての見本を君達は作り出そうとしているのだ。私は君がこうした国家の大きな事業の中枢にいる事が、本当に誇らしい。君は文章得業生などと言う決まりきった型に収まらなくて良かったのだ。私には分かる。唐の模範から抜け出した我が国で、この歌集がどれほど画期的で、これからどれほど重要になるか分かるのだ」
「君にそんなに絶賛してもらえて、他の誰に認められるより嬉しいよ」
貫之は心からそう言った。あの時、彼に受験の道を譲って良かったと思った。




