よしや世の中(恋歌・五)
逢える恋でも苦しいのだ。逢うこともできぬ恋の苦しみはより深くなっていく。
五条の后の宮の西の対に住みける人に、本意には
あらで、もの言ひわたりけるを、睦月の十日あま
りになむ、ほかへかくれにける。あり所は聞きけ
れど、えものも言はで、またの年の春、梅の花ざ
かりに、月のおもしろかりける夜、去年を恋ひて、
かの西の対に行きて、月のかたぶくまで、あばら
なる板敷にふせりてよめる
(仁明天皇の后が暮らす邸の西の対に住む姫君に、
もとはそんな気は無かったが、いつしか恋心を訴
えるようになっていたのだが、一月十日過ぎに他
に移られた。宮中に入内したと聞いたけれど、も
う恋を訴えることはできないし、次の年の春、梅
の花が盛りの頃の、月の美しい夜、去年の事が恋
しくて、あの西の対に行き、月が傾くまであばら
家となった邸の板敷きの上に臥せって詠んだ歌)
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
(月はすでにあの月ではないのか。春も昔の春ではないのか。
私の身はただ一つ、もとのままの身であるのに)
業平が清和天皇の皇后となった、高子の入内を悲しんで詠んだとされる歌だ。
「どんなに身を焼こうとも思うに任せない恋も多い。この世は辛いものなのだな」
業平の哀切な歌に貫之がそう言うが、
「いやいや。お前は頭でっかちだな。恋と言うのは相性もある」
躬恒はそう言って歌を詠む。
わがごとくわれを思はむ人もがなさてもやうきと世をこころみむ
(自分の事のように私を思う人もいるだろう
それでも辛い世の中か試してみようか)
「世の中には多くの女と男がいる。相性に恵まれる恋もあるだろう」
しかし貫之が、
「多いからこそ厄介だ。この古歌のように」と言って示した歌は、
花がたみめならぶ人のあまたあればわすられぬらむ数ならぬ身は
(あなたの周りには花籠のように多くの美しい人が並んでいるのだから
忘れられてしまったのでしょう。数のうちにも入らぬわが身は)
「相性のいい相手と巡り逢う前に、どれだけ傷つく必要があるか分からない。女は特に気の毒だし」
伊勢は恋の悲しみの歌を詠んでいる。
あひあひてもの思ふころのわが袖に宿る月さへ濡るる顔なる
(逢いたい心を合せて、物思いに沈む私の袖は
涙に濡れたために月が映り宿っている
その宿った月さえも私の泣き顔のように濡れた顔をしている)
上手くいかない恋に沈む心は一人寝の手枕に白露の様な涙の雫を置き、かりそめにさえ来ない人を頼る自分の儚さを知る。何故こんなに深く思ってしまったのかと悩み、男の来ない夜を数え、ついには吹く風に噂さえも聞こえなくなってしまう。
わが袖にまだき時雨のふりぬるは君が心にあきや来ぬらむ
(私の袖にもう時雨が降りかかったのは
秋が来るより早く、あなたの心が私に飽きてしまったからでしょうか)
飽きられてしまった……。自分を否定された、あまりに悲しい恋の終末。その事実を抱えたままではとても生きてなどいられない。耐えがたい想いに恋を忘れようと必死になる。
忘れ草種とらましを逢ふことのいとかくかたきものと知りせば
(恋を忘れられる忘れ草の種を採っておけばよかった
あなたに逢うのがこんなにも難しいことだと知っていたならば)
それなのに恋を忘れる事が出来ない。相手は忘れ草の種を撒かずとも自分を忘れていると言うのに。
恋ふれども逢ふ夜のなきは忘れ草夢路にさへや生ひしげるらむ
(恋しく思っても夢でさえ逢える夜が無いのは
夢路にまでも忘れ草が生い茂っているからかしら)
だが、本当は気づいているのだ。相手は自分への想いなど忘れてしまったということを。
夢にだにあふことかたくなりゆくはわれや寝を寝ぬ人や忘るる
(夢でさえ逢うことが難しくなって行くのは
私が眠れないからか。あの人が私を忘れたからか)
恋しい心は恋人を忘れさせずに、その人の冷たさだけを忘れさせてしまう。
今は来じと思ふものから忘れつつ待たるることのまだもやまぬか
(あの人は今になっては来ない。とは思う先から忘れ始める
待ってしまうことをいまだにやめられなくて)
逢えない人を待つうちに季節は移ろい、花の色や木の葉の色も移って行く。
「女だって黙っているとは限らないぞ。この小町の歌は痛烈だ」
躬恒が選んだ小野小町の歌は、小野貞樹との別れに皮肉を詠んでいる。
今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
(今はこれまでと別れを告げられて、私は雨に濡れて古びたようですが
時雨に濡れた木の葉の色が移ろうように
あなたの言葉も色あせてしまっています)
「しかし貞樹も上手いことかわしてしまっている」貞樹の返歌を貫之が並べる。
人を思ふ心木の葉にあらばこそ風のまにまに散りも乱れめ
(あなたを思う心が木の葉だったなら
風に吹かれる間に散り散りとなって乱れてしまうでしょう)
「自分もそれほどの思いで別れるのであって、決して軽々しい心ではないと答えている。それで小町の心が癒えたかどうかはわからないが」
「冷たい言葉で別れるよりはいいんじゃないか? すぐに心が冷めるわけでもないのだから」
実際、恋人の心変わりを嘆く歌は多い。しばらくはそんな歌が並べられたが、
「だが、萎れて涙するだけが恋の終わりではない。心の火をしっかり灯すのは『小町の姉』だ」
あひしれりける人の、やうやく離れがたになりけ
る間に、焼けたる茅の葉に、文をさしてつかはせ
りける
(逢いに通っていた恋人が、だんだん離れがちになる間
に、焦げた浅茅の葉を添えて、手紙を使いに差し出さ
せた)
時過ぎてかれゆく小野の浅茅には今は思ひぞたえず燃えける
(時期を過ぎて枯れて行く小野の浅茅には
野焼きの火が浅茅に燃えているように
今でも恋の思いが絶えず燃えているのです)
「確かに心はすぐに冷める訳ではないな。相手がどうあろうが、自分の心の火を消すことは無い」貫之も歌に同感する。
「これは小町の姉本人の心かもしれないが、妹を励ます歌にも思える。ひょっとしたら両方の意味があるかもしれない。もしそうなら世の中はそう辛いばかりでもないだろう?」
躬恒は恋の道にも前向きな考え方が多いようだ。
「この、伊勢の歌も力強いな。恋の炎が春を呼びそうだ」
もの思ひけるころ、ものへまかりける道に、野火
の燃えけるを見てよめる
冬枯れの野辺とわが身を思ひせば燃えても春を待たましものを
(冬枯れの野辺を自分のことだと思えば
野焼きのように恋の火で春が来るのを待つものを)
「恋の火は力強いものだ。こんな強い心があれば、終わった恋でもそう悪い物ではない。思い出を胸に次の恋を待つことができる」
未練の歌が続いたが、その間に躬恒はこんな歌を加えた。
吉野川よしや人こそつらからめはやく言ひてし言は忘れじ
(かまうものか。あの人がつれなくあろうとも
ずっと前に私に言ってくれた言葉は、忘れない)
「そうやって、心は移ろって行くのだな。良い方にも」
「外からは気付かなくてもな。そうやって恋の痛手は乗り越えて行くものだろう」
表面からは分からなくても人の心は変化する。それが人と言うもの。小町の歌
色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
(表に現れることなく移ろって行くものは
世の中の人の心に咲く、花なのであろう)
そんな苦しい恋も、いつかは心の整理がつく。
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中
(流れては妹背と言う恋人のような名を持つ山の中に、吉野川は落ちて行く
まあ、いいじゃないか。これが世の中……男女の仲というものなのだから)
恋は始まりも終わりも人の心ではままならぬもの。そういう物なのだと自分に言い聞かせるしか無い。
恋心も人生もそう思うようにはいかない。そう結論付けて、五巻に渡る恋の歌は締めくくられたのだ。




