降りぞまされる(恋歌・四)
特別な訳など無くても恋心に振り回される人の想いに変わりはない。募る思いの苦しみも、逢えば逢うだけ増すばかり。別れた先からまた逢いたくなり、いっそ逢わなければ良かったと悔いたところでもう遅い。逢わずにいることなど考えられなくなってしまっているのだから。
あひ見ずは恋しきこともなからまし音にぞ人を聞くべかりける
(逢わなければこんなに恋することもなかったのに
あの人の事は噂だけを聞いていればよかった)
噂に恋い焦がれていた時は逢えない苦しみに襲われただろうが、逢えば逢ったで恋の喜びを知ったがために、一層逃れられない恋の苦しみを味わってしまう。恋は様々な感情を呼ぶから、何も知らずに憧れている時の方がずっと良かったとさえ、思ってしまう。
そんな古歌を見て思いついたのか、貫之は自分の歌を並べる。
石上ふるの中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは
(石上の布留と言う所に行く途中
この途中の道のように中途半端に逢わなければ恋しいと思わずに済んだだろうに)
「旅も恋も思い立った時や目的を果たす時は良いが、途中の道のりは辛いものだ。『中道』だけになかなかに容易ではないだろう」
そう言って笑う貫之に躬恒も、
「古い歌の心だけに『布留』への道と言う訳だな。いや、ひょっとして自分の懐かしい女の家への道を思い出したんじゃないか?」とからかった。
「勝手に想像するな」
「いやいや。そんな風に後悔するようではまだ心が浅い。この藤原忠行殿の歌の心情こそ恋心と言うものだろう」
君てへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなく燃ゆるわが恋
(あなたの事と言えば、逢おうが逢うまいが富士の嶺のように
珍しい事でもないように燃え続けている我が恋である)
「これぞ本当の恋心。どんな時でも恋の火が消えない思いこそ、深い想いと言うものだろう」
「うむ。逢えれば幸せと言うほど、恋は単純な物でもなさそうだしな。この伊勢の歌のように」
夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なわが面影に恥づる身なれば
(たとえ夢の中でも見られたくはないわ
朝が来る度に自分の鏡に映った顔を恥ずかしいと思う身だもの)
「女は寝起きの顔を見せたがらないからな。共寝の後のしどけない様子も、男にはいいものなのだが」
貫之が物足りなげにそう言うと、躬恒が早速、
「だから妻を持って打ち解けた仲になれば、毎朝寝起きの姿も見られるぞ」という。
余計な事を言ったと貫之は思い、これ以上口を挟まれない内に次の歌を選ぶ。
「しかし普通はどんなに逢っても足りないと思うものだろう」
石間行く水の白波立ちかへりかくこそは見めあかずもあるかな
(石の間を流れて行く水の白波が繰り返し立つように繰り返し逢おう
それでも飽きる事のない思いなのだから)
逢えば逢ったで物足りず、もっと逢いたいと思う。霞みたなびく山桜のように美しいあの人に、今逢っているにもかかわらず恋しく思えてしまう。この恋が終わることなど想像もできない。
飛鳥川の淵が浅くなり瀬になっても、秋が過ぎて木の葉の色が変わっても、あなたを思うと言う言の葉だけは変わらない。
そんな言葉を信じて待つ女。宇治の橋姫のように遠くに離れてあまり逢えない女は、自分の分だけ衣を敷いて一人寝の支度をしながらも、きっと男の訪れを待っている。男が来てくれるか。いっそ自分から行こうかと迷ったために、板戸も閉めずに眠ってしまう。
眠れるうちはまだいい。素性法師の歌。
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
(今すぐ来るとあなたが言ったばかりに
あなたの代わりに九月の有明の月が出るまで待ってしまいました)
来るかどうかも分からない男を一晩中眠らずに待ってしまう事もある。愛されている自信はそれなりにあるが、男は私が彼よりも多く愛しているか試しているのではないだろうか?
焦らされて、愛していることは伝えたい。だが安心しきって浮気に走られても困る。恋には駆け引きも必要だ。
月夜よし夜よしと人につげやらばこてふに似たり待たずしもあらず
(良い月夜です。良い夜ですとあの人に知らせたならば
「来て欲しい」と言う言葉に似てしまうかしら?
待っていないと言う訳ではないのだけれど……)
頼りにならない男心に甘い顔は見せられない。だが、愛情には気づいて欲しい。月を絡めた二つの歌を並べることで、複雑な女心の揺れる様子が浮かび上がる。
「恋の駆け引きに悩む女の歌。この辺で、あの敏行殿と在中将(業平)殿の歌の続きを締めくくろうか」
あの、少女になり代わって業平が代筆した恋には続きがあった。あの歌に興味を深く引かれた敏行はその後も少女に求愛を続け、ついに恋人となった。だが少女の立場は決して強くは無い。身分の良い敏行に捨てられはしないかと不安を抱えてしまう。
もとはと言えば業平の戯れ心が結びつけた恋。業平も責任を感じたらしく、少女の恋を見守り続けていたらしい。業平はまたもや少女の歌の代筆で恋の手助けをしていた。
藤原敏行朝臣の、業平朝臣の家なりける女をあひ
しりて、文つかはせりけることばに、「今まうで
来、雨の降りけるをなむ見わづらひはべる」とい
へりけるを聞きて、かの女に代はりてよめりける
(藤原敏行が、業平の家の侍女の恋人となった後に、
侍女に贈った手紙に書かれた言葉に、「今まで伺
おうとしていたが、雨が降っているのを見て困っ
ているところです」とあると聞いて、業平がその
侍女に代わって詠んだ)
かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる
(数々思い悩んでも、考えなしに問いかけられない立場ですから
自分の身の程を知らされます。降る雨にも劣る私ですから)
来て欲しいと懇願しにくい少女の立場を上手く利用した駆け引きの歌。自分を卑下した詠み方でありながら、愛する女を雨より軽く扱っているとやんわりと非難をしているのだ。遠回しな詠み方だが、かえって少女の身の上のあわれを誘う。もちろん少女の美しさや、日頃のつつましさ、確かな愛情があっての歌の効果なのだろう。
この歌を見た敏行は笠や蓑を身につける事さえ忘れ、全身ずぶ濡れになりながら少女のもとに駆けつけてきたという。戯れの恋歌が真実の恋を促したようだ。
しかし、恋のすべてがうまくいくとは限らない。特に男心は落ち着きが無い。須磨の海人が塩を焼く煙のように、風の吹き方で思わぬ女に心が動く。女は男が自分のもとに通う一方、玉蔓が木に這い回るように多くの他の女に男が通っていることに気づいてしまう。
「このほととぎすはどちらの里に夜離れをして、ここで鳴いているのやら」
と、他の女を放っておいて、我がもとに帰った男をたしなめる。
秋風に山の木の葉の移ろへば人の心もいかがとぞ思ふ
(秋風に山の木の葉の色が変わると、あの人の心も変わるのだろうかと思う)
恋の不信がやがて確信に変わって行く。そして恋が冷めると離れて行く心を止める事が出来ない。蝉の鳴き声にその羽のように薄い情けを女は嘆き、心の離れた男も気まずく思いながらも、恋の抜けがらとなった女のもとに世間を気にして通っている。形だけの恋となった苦悩に、いっそ別れてしまえと思いながらも、そう考えた途端に未練が生まれる。
まだ恋の火がともる者と、抜けがらに未練を断てない者。そんな二人には微妙な空気が流れながらも、互いに別れを切り出せない。失われゆく恋に苦悩する姿が、ただ歌として詠まれ、並べられていくだけだ。
忘れられぬと嘆き、罪悪感にかられ、まだ思いは川底のように深いとなだめ、恋の初めにどれほど深く心染めたかと思い返す。しかし心は乱れ染め模様のように乱れに乱れ、やはり心の色が変わったことを痛感するばかり。しかも心の色は目で見ることはできないのだ。無色だった心が恋の色に染められたが、それが色あせたことに狼狽し、昔の恋を悲しく思い出す。
ついに男は去ってしまった。残された女の嘆きは深い。深い喪失感を伊勢は詠んでいる。
ふるさとにあらぬものからわがために人の心のあれて見ゆらむ
(あの人の心は古い里ではないのに
どうして私には荒れ果てて見えてしまうのか)
ふるさとは古くに栄え、今は荒れた里のこと。二人の恋はつい最近まで華やかな都のように輝いていたはず。それなのになぜ……。現実を見ながらも認めたくない女心だろう。
悲しみに空を見上げれば、こうも空ばかり見るのは、あの空が恋しい人の形見だからか?
形見などあっても、それが何になると言うのか。心の慰めにもならないのに。
中には引き裂かれ、恋の形見すら返さなくてはならない者もいた。興風の歌
親のまもりける人の娘に、いと忍びにあひて、も
のら言ひけるあひだに、親の呼ぶと言ひければ、
いそぎ帰るとて、裳をなむ脱ぎ置きて入りにける、
そののち裳を返すとてよめる
(親が守っている人の娘に大変忍んで逢瀬をしたが、
言葉を交わす間に、親に呼ばれたからと急いで帰
る時、娘が裳を脱ぎ捨てたのでまた逢う時の形見
にしていた。だがそれも難しくなったので、その
裳を返す時に詠んだ歌)
逢ふまでの形見とてこそとどめけめ涙にうかぶもくづなりけり
(逢うまでの形見として手元に残していたが、難しくなった
これは裳ではなく、涙に浮かぶ藻屑であったのだろう)
恋の形見を返す心には、複雑な思いもあるようだ。
形見こそ今はあたなれこれなくは忘るる時もあらましものを
(形見の品こそ、今は仇となってしまった
これさえ無ければあの人を忘れる時もあるのだろうに)




