かな文字(羇旅歌 二)
篁の歌の後はよみ人知らずの歌が続き、その後に業平の歌が並べられた。さらに業平の歌をもう一つ並べる際に貫之が、
「在中将(業平)殿が流された理由を詞書きであからさまに書くのはやや興が冷めます。いっそ、詞書きを物語にしてはいかがでしょう?」
と、皆に問うた。
「詞書きを、物語に?」これには一同目を丸めてしまう。
「在中将殿の恋の物語は、伊勢物語としてあわれ深く描かれています。無粋な説明を詞書きに記すくらいなら、いっそ伊勢物語のくだりを書き添えた方が良いと思いまして」
業平はその奔放な恋愛ぶりから藤原家の人間に目をつけられ、やむなく都を離れて東の国に下っていた。その旅の空の下で名歌が詠まれ、一連の出来事は業平の名こそ出ないものの、「昔男」と言う婉曲な表現で他の古くから伝わる伝説的な恋愛話と共に、『伊勢物語』と呼ばれて親しまれていた。すべてが業平の話と言う訳ではないのだが、業平の恋や歌のあわれさに彼は物語の「昔男」と同一視されるようになり、ついには物語の名も『在五中将』などと呼ばれるようになっていた。この呼び名は業平が在原家の五男であり、中将の地位にいたことからついたのだろう。
「確かにそのほうが風情を壊さずに済むが、歌集の中に物語を書きつけるというのはいかがなものだろう? 何より詞書きとしては長くなりすぎるのではないか?」
友則はそう言って異を唱えたが、
「詞書きとは、長くてはいけないものでしょうか?」
と、逆に貫之に問われてしまった。友則は思わず答えに窮する。
「いや、そのような決まりごとは無いが……」
「ではよろしいではありませんか。説明を詞書きに書き添えるよりも、よっぽどこの歌集に相応しいと思います。無駄な詞書きで歌の風情を殺すより、物語のあわれさで事情を語る方がよほど良いとは思いませんか?」
『伊勢物語』はあくまでも物語に過ぎない。伊勢物語の内容が業平の真実を語っているとは言えない。だから彼の不都合な事情をあからさまに説明するよりも、物語を連想させる方がずっと奥ゆかしくなると貫之は考えたのだ。
貫之の言葉に躬恒と忠岑は一時あっけにとられたが、やがて大いに笑いだした。
「ははは。これは貫之の方正しい。詞書が短く書かれるのは、長い言葉で歌の良さを殺してしまわぬためのもの。ゆかりの物語を書き添えて歌を生かそうとするならば、長さなど些細なことだろう。歌集に物語を書き添えるなどと言う発想は貫之で無ければ思い浮かばない。ここは流石貫之と褒めるべきだろう」
忠岑は笑いながら唖然とする友則の肩を叩いた。
「まったくです。私も貫之を撰者の中心とした友則殿の判断に今こそ心底納得しました。貫之の考え方は歌集と言うものにこだわってはいない。少なくともこの歌集をただの歌の集まりとは思っていない。こんな奴はこの国中を探しても他にいるとは思えない。貫之にこの歌集を任せた以上、我々はそれを認めるしか無いんです。今更驚かれるとは、友則殿も貫之のことを甘く見ておいででしたね」
躬恒も愉快そうにしている。歌集の枠にとらわれず、後の世に和歌の素晴らしさを伝えることだけを考える。貫之のそうした精神を見込んで自分達は彼に編纂作業の中心を任せているのだ。
その才能がこれほどのものだったことに彼らは驚き、それ以上に感激していた。自分達がどれほど素晴らしい出来事の中にいるのかを実感したからだ。
「ああ、甘く見ていた。貫之は想像以上の器があった。わざわざこんな提案をするほどだ。もちろん一部とはいえこの歌に見合った物語を書く自信があるのであろうな?」
友則はそう貫之に尋ねたが、
「お任せ下さい」
貫之はそう言うとすらすらと詞書きの「物語」を書いて見せた。一つの歌には衣に都へ残した妻を想い、「かきつばた」を句の頭に詠んだ「折句」であることを物語のように書き添えた。
もうひとつの歌は詞書きとしては例にないほどの長さで、まさしくこれこそ歌に寄せた物語と言っていい内容であった。その詞書きと歌は、
武蔵の国と下総の国との中にある隅田川のほとり
にいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しば
し川のほとりに下りゐて、思ひやれば、限りなく
遠くも来にけるかなと思ひわびてながめをるに、
渡し守、「はや舟に乗れ、日暮れぬ」といひければ、
舟に乗りて渡らむとするに、みな人もの侘びしく
て、京に思ふ人なくしもあらず。さる折りに、白き
鳥のはしと足と赤き、川のほとりにあそびけり。
京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず。渡
し守に、「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これな
む都鳥」といひけるをききてよめる
(武蔵の国と下総の国との間に流れる隅田川のほとりに
までやって来たので、都が大変恋しく思えて、少しの
間川のほとりで馬から降りて、都をはるかに思えば、
限りなく遠い所に来たものだと寂しく物思いにふけっ
ていると、川を渡す舟の船頭が「早く舟に乗れ、日が
暮れる」と言うので、舟に乗って川を渡ることにした
が、同行する人々も物悲しくしている。皆都に心を残
す人がいない訳ではないのだ。そんな時に、くちばし
が白くて足の赤い鳥が、川のほとりで遊んでいた。
京では見かけない鳥なので、誰もその鳥を見知った人
はいなかった。船頭に、「これは何と言う鳥か」と尋
ねると船頭は、「これは都鳥と言う」と答えたのを聞
いて詠んだ)
名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
(都と言う名を背負うなら問いかけてみよう、都鳥よ
都に残した私の思う人は、達者でいるかどうかと)
「これは完全に物語だな。それも、かな文字の」
忠岑が驚いたような、半ばあきれたような声をあげた。「物語」と言えば女の文学と呼ばれている。いくら歌人とはいえ男にはあまり縁が無い文学であり、文字でもあった。それを貫之は実に流麗な文字で、物語として分かりやすくも情緒深くしたためていた。
「貫之。お前、物語を書くことを考えていたな?」
躬恒がそう問いかけると貫之も白状して答えた。
「ああ、考えていた。いつかお前と話しただろう? 恋ができなくなったら、空想の恋をすると。空想の恋、空想の人生、それは物語さ。歌心があるかぎり私は物語を考える事が出来ることに気付いたんだ。物語は女だけの物ではないはずだ。物語は和歌に通ずるものがある。どちらも想像力があってこそ生まれるものだ。私は男が物語を書いても良いと思っているんだ」
「そしてこうして書いたわけだな。しかも和歌の詞書きとして。まったくお前はとんでもない奴だ。こんな才能、私は他に見たことが無い」
「いや、これは物語のほんの一部だから書けたのだ。本当に物語を書くには……女のための物語ではなく、男の立場で物語を書ききるには私はまだまだ未熟だ。これではまるで女の文章の真似事。男の文章の簡潔さが足りない。いや、やはり私は歌人。物語には向いていないのかもしれない」
貫之はそう言っているが友則はこれを見て興奮を隠さなかった。
「それは違うぞ、貫之。この詞書きには価値がある! このかな文字表現は必ずこれから必要になる」
「かな文字が、必要に?」友則の言葉に貫之の方が驚いた。
「ああ。これまでは内裏では漢詩、漢文こそが尊ばれていた。それを帝と時平殿は覆そうとしていらっしゃる。そのための和歌集編纂だ。やまとことばはかな文字で書かれた時に真価を発揮する。心の情緒も巧みな技巧も誰にでも親しめるかな文字によって広められてゆくだろう。かな文字はこれから漢字に代わって、我々の文化を支えることになる。そうせねばならない。そうで無ければ我々は真の意味で唐の文化から抜け出した自国の文化を育てているとは言えない」
「しかし、漢字で内裏の政務は十分に事足りていますが」
「政務はそれでいいかもしれない。だが、『古今集』が育てようとしているのは自国の文化だ。我々は便利さや合理性に負けて漢字に頼りきり、この国で生まれたかな文字を女子供の文字と軽く見て、ないがしろにしてきた。しかし見よ! 貫之の書いたこの文章を! これはかな文字でも漢文に負けず情緒豊かな背景を簡潔に表せることを示している。かな文字が女のための物ではなく、新たな言葉の情緒を記す可能性にあふれた文字であることを示している。かな文字には多くの可能性が宿っているのだ。貫之はこの詞書きによって、それを証明してくれたのだ」
「かな文字の、可能性……」
「そうだ。かな文字は女子供が扱えるだけあって親しみやすい文字。それに深く、豊かな表現が加われば我が国の文化は明らかに発展できる。教養は位の高い男だけの物ではなく、多くの者達が共有する物となるだろう。この国には多くの民がいる。その中には不遇でありながら才ある者もいる。忠岑や躬恒の様な無名でありながら才能が隠れている者が多くいるはずだ。そうした者達が和歌やかな文字によって見出されるようになれば、必ずこの国の未来は開ける。『古今集』が編纂される意味は、一層深くなるだろう」
友則のこの言葉は、まだ他の者には少し飛躍が過ぎるように思えていた。しかし和歌は恋の歌やかな文字によって生き残ってきた。和歌にかな文字は相性が良い関係があるのだろう。そこに何らかの可能性を見出そうとする友則の姿勢は貫之たちにも共感できた。
「これは歌集。そうそう詞書きばかり多く書く訳には行きませんが……。この詞書きがこれからのかな文字による文章の、一つの手本となれたら良いですね」
それでも絶賛されて貫之は嬉しそうに友則に言った。
「なる。必ずいつか、この詞書きの素晴らしさが世に広まる日が来る。貫之、本当にかな文字で物語を書いてみないか? お前ならできそうな気がするのだが」
貫之は自分に物語が書けるとは思えなかった。友則の期待と裏腹に貫之は、
「とても物語など書けませんよ。でも、やってみたい事はありますが」
「何かあるのだな? どんなことだ」
「私は歌人です。やはり歌が詠みたい。ですから空想上の男女になりきって、相聞歌を詠んでみたいのです。もちろん女の歌はかな文字で」
「空想の相聞歌? 貫之、お前は本当にどんなことを思いつくか分からんな。それもやってみればよい。だが、かな文字の事も考えて見て欲しい。お前ならかな文字で何かを生み出せそうな気がする」
「かな文字をより豊かに使う工夫は歌の中から見つけ出すよう心がけましょう。この、詞書きを書いたように」
貫之はそう言って歌の並べを再開した。いくつかの歌の後に自分の主人、兼輔の歌なども並べ、また業平の歌を並べる。だが今度は業平が生前残した詞書きをそのまま書き写した。
惟喬親王の供に、狩にまかりける時に、天の川と
いふ所の川のほとりに下りゐて、酒など飲みふける
ついでに、親王の言ひけらく、狩して天の河原に
至るといふ心をよみて、盃はさせといひければよ
める
狩暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり
(一日狩をして日も暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう
天の河原に私は来たのだから)
この見事な歌に親王は大変感心したらしい。そしてご自分で御返歌をしようとしたのだが、
親王、この歌を返す返すよみつつ、返しえせずな
りにければ、供に侍りてよめる
と言う詞書き通り、親王は何度繰り返しその歌を口づさんで見ても良い歌が浮かばなかったらしい。代わりに紀有常が詠んだ歌は、
一年に一度来ます君待てば宿貸す人もあらじとぞ思ふ
(一年に一度おいでになる親王様を待っているのです
織姫も他に宿を貸す人などいないと思います)
と、「織姫には親王様と言う素晴らしい彦星がいらっしゃるのだから、業平は宿に泊めてはもらえまいよ」と戯れて答えている。惟喬親王と業平、有常の親しさが伝わる旅の歌である。どんなに政治的には複雑な立場で、時には罪人となろうとも、友情の素晴らしさは変わらない。
それは道真も同じ事であった。この旅の歌の最後には道真が宇多上皇の宮滝への御幸に付き添った時の、『このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに』と言う歌と、それに返歌した素性法師の『手向けにはつづりの袖もきるべきに紅葉に飽ける神や返さむ』によって締めくくられた。歌人たちがこの旅の歌に込めた思いは、表面に現れている歌以上に複雑な物があるのかもしれない。




