賀の歌
あけましておめでとうございます。
新年最初の更新ですので、おめでたく賀の歌からです。
今年もよろしくお願いします。
「祝賀と言うのは遠い昔から人の長寿を喜びつつ、主君や主を讃え敬う純粋な喜びを表すものであった。賀の歌もやはり古歌から始めるのが相応しいだろう」
賀の歌は明るい歌ばかりなので、貫之も楽しげに選んでいる。こういう歌は正式な祝賀の席で歌われるので様式は美しく整えられ、主などへの礼を尽くされた物となる。それだけにどうかすると平凡なよくある表現となったり、言葉だけが大袈裟に上滑りしたような歌となりがちだ。
だが、そういう性質を含んだ歌であるだけに詠み手の心が反映されやすくもある。古くから伝えられてきた歌には歌を贈る相手への尊敬の念と感謝の心が自然と現れていた。そんな歌を選ぶのは貫之には楽しい作業だ。
貫之自身も兼輔と言う主人を得て、その細やかな主人の愛情をここで使う紙や筆、油などを通して知るようになった。もともと業平と惟喬親王や、忠岑と定国の良好な主従関係に憧れていた貫之としては、自身が良い主人に恵まれた喜びを知ったために、主人に喜びを捧げる賀の歌に触れることが心地よかったのだろう。
「選んである古歌は四つか。古歌と言っても華やかで格式ある場で詠まれた歌だから、詠み様も皆巧みで美しい。長い時の流れを祝う、雄大で美しい歌を最初に並べたいな」
そう言って貫之が選んだ歌は、
わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで
(私の敬愛する人は、千の代も、さらに多くの代に渡っても
細かい石が集まり固まって、苔に覆われるまで御長寿であっていただきたい)
と言うものだった。
「ほう。千歳や八千代はよくつかわれるが、『千代に八千代に』とは語感に遊び心が現れた巧みな歌だな」躬恒がそう言って関心を示した。
「長い代のめでたさを表すには『よろず』も良く使われるが、不思議とこの繰り返し言葉の方が、長々と繰り返される時の流れを感じさせるようだ。字余りであるにもかかわらず音の巧みさが勝った歌だな」
忠岑が幾度か歌を繰り返しつぶやいた後にそう言った。それを聞いていた友則が、
「いや。この歌はその字余りな『さざれ石の』と言う所が返って良い。その前の繰り返し言葉をうまくまとめていて、印象が軟らかい。よく音が計算されている」
と言って、自分でも繰り返し声に出して見る。
「それに唐に伝わると言われている話をより雄大で雅やかに表現しているのがさらにいいと思います。唐ではこぶし大の石が時間の経過で巨石になったという珍しい出来事が伝えられただけですが、この歌は無数のさざれ石が集まり、やがて固まって岩となるという結束を感じさせてくれます」貫之がそう言うと友則は、
「成程。それはいかにも貫之の好みそうな歌だ。しかもその岩に苔が覆うというのも雅で良い」
と納得する。
「それにこの歌は古歌の中でも古い歌。この『君』と言うのも単なる主人の事ではなく、古くはもっと大いなる方への尊敬が込められていたかもしれません。この歌集は大いなる帝が編纂をお命じになられたものです。単なる賀の第一首目としてだけでなく、帝への称賛も込めた歌として選ぶのが良いと思うのです」
「小石のように多くの人々が集まり、結束し、帝を讃える。帝に奏上する歌集にはちょうど良い歌だな」忠岑もこの歌に特別な思いを持ったようだ。
「しかも繰り返される時の流れの中で結束は岩となって固く、強く、大きくなって行き、さらに苔むすまで見守られていくのだ。まるでこの国の未来の安寧を願うようではないか」
躬恒もこの歌の意味に夢中になっていた。
「帝と、この国と、この歌集を讃える歌か。この歌集にとても相応しい歌だな。古歌と言うのもこの国の歌の歴史を感じさせていいだろう。良い歌を選んだな、貫之」
友則は満足げに貫之を褒めた。
「賀の初めにはこれ以上ない歌ですね。さて、では第二首は一首に負けない雄大な歌にしましょう。小石から砂になってしまいますが、海は時の流れに劣らず雄大でしょう」
そう言って次に選んだのは、
わたつみの浜の真砂をかぞへつつ君がちとせのあり数にせむ
(大海原の浜辺の砂を数えながら
あなたの千にもおよぶ御長寿の数としましょう)
「海も雄大だが、浜辺の砂の数も雄大だな」躬恒がそんな感想を述べると貫之も、
「きっと、それほど大きな感謝の心を持った人が捧げた歌なのだろう。『やまとうた』は人の心を表すもの。良い主に恵まれた幸せな人が詠んだ歌なのだろう」と言う。
「主に恵まれるというのはありがたいことなのだろう。この歌などその喜びが素直に詠まれているではないか」
躬恒がそう言って示したのは、
わが齢君が八千代にとりそへてとどめおきてば思ひ出にせよ
(私はこれ以上の長生きを望みませんから私の残された寿命を
あなたの八千代にもわたる長寿にさらに添えて留めておくことができましたら
それを長生きなさるあなたが私を思い出すよすがにして下さい)
自分の寿命を主に与えてまで長生きして欲しいと願う、深い深い感謝の念が込められた歌だった。
「我が命より主の長生きを願う。その心も素晴らしいが、そんな気持ちにさせる主も素晴らしい人柄だったのだろう」躬恒は羨ましげに言った。
「これほどまでの主従関係はめったに結べるものではないのだろうが、それほどの関係を結べばこのような後の世にまで讃えられる素晴らしい歌が生まれるのだな」
貫之もそう言って同意したが、忠岑は、
「いや。これは私が主人に恵まれているから言える事かも知れないが、良い主人がいなくても、良い人生を送っていなくても、どんな時でも歌は生まれるのだろうと思う。ただ、その生まれた良い歌を理解してくれる人間に恵まれるのは、歌人にとって幸福な事。だから我々は歌の良さを世の中に知らしめるため、こうして良い歌を選び、編纂しているのだ」と言った。
「そうでした。たとえ歌が軽んじられ、恋のために詠み捨てるものと言われた時でも、歌そのものは脈々と詠まれ続けてきました。これからも良い歌は詠まれ続けることでしょう。我々はそれを伝えることが大切なのですね」
貫之はそう言って忠岑の意を汲んだ。自分や忠岑は主人に恵まれたが、敏行を喪った友則や躬恒はごく普通の主従だろう。誰もが良い主人に巡り合えるわけではないし、息の合う主人と出会っても出世できるかどうかはわからない。実際自分たちを含め多くの歌人は不遇な存在だ。
だからこそ人々の和歌への理解が必要だ。そのためにはこの和歌集は何としてでも多くの人々に認められなくてはならない。これからは主人の関心に頼らずとも世の人々に和歌が認められるように。多くの人に『やまとうた』の心を伝えなくてはならない。
「そのために貫之は屏風画に添える歌を詠んだよな。今では漢詩同様に屏風画に和歌を寄せる人が増えた。興風殿や素性法師殿も屏風画を寄せるようになっている。これも和歌の価値を大いに高めてくれた。あの、本康親王の七十の賀の屏風画の歌は、興風殿の歌の後に是非並べよう」
躬恒がそう言って貫之の歌を並べようとするが、貫之は、
「いや。あの時は素性法師殿が骨を折って下さったから、私も歌を書かせていただけたのだ。ここは素性殿の歌を先に」
と言う。貫之が以前本康親王の賀の屏風画に寄せた歌はその絵に合せた『春くればやどにまづ咲く梅の花君がちとせのかざしとぞ見る』であったが、素性法師の歌は
いにしへにありきあらずは知らねどもちとせのためし君にはじめむ
(昔にあったか無かったかは知りませんが
千歳もの長生きは親王様をはじめといたしましょう)
と言う、親王の長寿を信じているという内容の祝いの歌であった。
「素性殿の歌は良い歌ではあるが、屏風歌としては景色が目に浮かばないので物足りなさが残る。これは屏風歌であるという詞書きを添えて貫之の歌を先に並べるのが筋だと思うぞ」
躬恒はそう言って譲らなかった。他の二人もここは躬恒に同意したので、結局は貫之が折れた。ここは個人の感謝の順を並べる場ではないのだ。
貫之が並びの順を気にした結果なのだろうか? 古今集にはこの後賀の歌が加筆された。八年以上経った延喜十三年の十月十四日、内裏からの依頼により定国の妹満子の四十の賀を祝して贈られた屏風画に、素性法師共々貫之たち古今集の編纂者が寄せた歌である。素性法師を初めにして春夏秋冬の歌が加えられているのだが、その素性の歌は、
尚侍の、右大将藤原朝臣の四十の賀しける時に、
四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌
春日野に若菜つみつつよろづ代をいはふ心は神ぞ知るらむ
(春日野にて若菜を摘みながらよろずにもわたる御長寿を
祝う我が心は神様がご存じのことでしょう)
である。この屏風に友則は夏の歌を詠んでいた。
めづらしき声ならなくにほととぎすここらの年をあかずもあるかな
(今更珍しい声でもないほととぎすの鳴き声だが
その変わらぬ声を何年も飽きずに聞いてきたものだ)
変わらぬほととぎすの声に、これからの夏も変わらずに長生き出来ることを祈って詠んだ祝の歌である。同じ屏風に躬恒は秋の歌を詠んでいた。
住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波
(住の江の松を秋風が吹く先から
その松風に良く似た波の音が添えて来る、沖の白波よ)
住の江の浜辺の景色。その松に吹きつける涼やかな秋風。ざわめく松風の音に良く似た波の音が重なり、沖からの白波が見える。視覚、聴覚、触感を刺激する情景豊かな歌の中に、枯れ落ちる事のない松の永遠性が込められている。変わらぬ長寿を祈る歌なのだ。
同じく秋の歌を忠岑も寄せている。
千鳥鳴く佐保の川霧立ちぬらし山の木の葉も色まさりゆく
(千鳥が鳴く佐保の川に霧が立ち込めたので
霧に濡れた山の木の葉の紅葉の色が、より鮮やかになって行くのだ)
川岸の紅葉の絵を色鮮やかに詠んだ歌である。そして貫之は冬の歌を寄せていた。
白雪の降りしく時はみ吉野の山下風に花ぞ散りける
(白雪の降りしきる時は、吉野の山のふもとに風が吹き
花が散り惑っている)
ここでいう『花』とは現実の冬の花ではなく、吉野の山のふもとに散り落ちる雪を花弁に見たてたものである。雪を花に見たてるのは良くある詠み方であるし、吉野は雪深い山里として古くから有名なところ。しかし意外にも吉野の雪を花に見たてて詠む歌は珍しかった。当然過ぎる組み合わせなので避けられてきたのかもしれないが、貫之はそれをあえて詠んだ。ただし、その詠み様は雪を散らす風をただの風とせず、古風な表現で山の嵐を意味する『山下風』とし、しかも賀の冬の屏風歌に春への繋がりを持たせるように詠んだ。こうすることでまた季節は新たに巡り、永遠に繰り返されることになる。途切れることのない永遠の時は長寿を祝う賀の席の屏風には相応しい。屏風画にさらに祝賀の趣を強く表す巧みさがあるのだ。
こうした工夫が凝らせる能力が貫之にあったことにより、古今集は一層の輝きを放っていった。時平が若き彼の才能を信じ、友則が彼を編纂の中心人物にしたのは実に的確な判断であった。
貫之自身の才能以上に、彼の特性を見抜く人物に恵まれていたことが、貫之と、古今和歌集にとっての幸運だったと言えるかもしれない。
そして歌集の編纂は離別の歌へと入ってゆくのだった。
よりにも寄って今年最初の更新でドジ踏みました(汗)
藤原定国の妹、満子の四十の賀が行われたのは、この後八年も先の事でした。古今集は帝に奏上した後も新たな歌が書き加えられたり、編集されたりしていて、本当に完成したのはこの満子の賀の歌を書き加えた後の事でした。編纂作業がいつ始まったのかは諸説分かれるところですが、それでも完全に完成するまでに八年~十年以上の年月がかかっているはずです。
それ、分かってたはずなのに・・・。正月ボケですね。
ですから一部分書き直しました。
正月早々失礼しました。




