新風
学問に励む大学寮生活の中で、貫之の息抜きは友則の邸を訪れた時に和歌を楽しむ風流人のもとに連れて行ってもらう事だった。貫之と友則は年こそ離れてはいるが、共に和歌を愛する者同士として大変親しくなっていた。そして和歌の世界に浸る時、貫之は大学寮で傷つけられた心が癒えて行くのを感じていた。やまとうたには漢詩には無い、この国の言葉で心情を表現する力、自分にとって重要な癒やしの力が秘められていることを感じ取っていたのである。
「僕も和歌を詠んでみたいのですが」
貫之がそう言うと友則は嬉しそうに、
「君は感性が鋭いから和歌の世界になじみやすいだろう。学問にも励んでいるようだが、私もいつもこうして君を連れだせるわけでもないし、大学寮での息抜き程度なら楽しんで詠んでみるといい」
「どのように詠めば良いのでしょう? やはり、季節に合わせて枕詞や歌枕から引き出せば良いのでしょうか? それとも在中将のように漢詩の意味を和歌に表すのが良いのでしょうか?」
「初めからそんなに杓子定規に構える必要はない。和歌は本来私的な心情の吐露から生まれ落ちるもの。若い君ならなおさらだろう。確かに音感や技巧的な表現方法はあるが、技術を意識するより自らの心に素直な歌を詠んでみればよい。和歌に決まりなどないのだから」
「でも、どう詠めばいいのか……」
「とりあえず形になればいいだろう。本歌取りなどで考えてはどうかな?」
貫之にとって歌人としてすでに名声を得ている友則から受けたこの言葉は、少し物足りなく感じられた。だがこれまで歌に親しんではいても、いざ自分で詠むとなるとこれと言った言葉がすぐさま浮かぶわけでもない。貫之はまず歌に関しては友則の言葉に従う事にした。何よりこの頃はまだ、貫之にとっても和歌はあくまで学問の息抜きだと思っていたのだ。とにかく貫之はどうにかそれらしい形を整えて歌を詠んでみた。
春の野に若菜摘まむと来し我を散りかふ花に道はまどひぬ
友則にその歌を見てもらうと、
「ふむ。最初にしてはまとまっているな。本歌(参考にした歌)は山部赤人だな?」
「はい。すみれをもっと早春らしくしたくて、若菜と変えました」
「君は本当に在中将(業平)の歌に憧れているのだな。散りかう桜の花びら、道に迷うような心……」
貫之は思わず「あっ」と声を上げた。
貫之は友則に言われたとおり、『本歌取り』と呼ばれる技法を使った。昔の名歌などを自分で工夫して一部を取り込み、我が歌として詠みあげる方法だ。この歌の場合は赤人の、
春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける
の上の句をすみれから若菜に代えて本歌取りした。この方法は素人の貫之にとってとっつきやすく思えたのだ。しかし友則はこの歌の中から業平の歌が重なることを指摘した。その歌は、
さくら花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに
と言う物だ。貫之の頭に浮かんだ花は桜ではない。早春の梅だ。しかし散りかう花びらに道に迷う心。自分では気が付かなかったが、これは業平の歌の影響をはっきりと受けている。これでは本歌取りとは言えない。ただ二つの歌を合わせただけの未熟な歌である。
「も、申しわけございません。こんな未熟な物をお見せして」
「いやいや、初めは誰でもこんな物だ。それでも情感を表すのに在中将をこのように使うとはなかなかの物。筋は良い方だ。君は和歌も良く学んでいるな」
友則はそう言うが、貫之にとっては冷や汗が出るような思いであった。
貫之が大学寮にて学問に励んで四年。仁和三年(八八七)八月、暑さも過ぎて秋の気配がひたひたと感じられる頃、世の中では新たな動きがあった。
「帝がご重態に陥られたぞ」
「次の帝は、どなたになるのだ?」
「帝は次の帝となる方を告げられておられないとか。これはやはり太政大臣(基経)殿の御意見が通るのではないか?」
「しかし、帝の御真意は臣下に下された第七皇子を帝に望んでいらっしゃったと聞いているが」
「帝は他の親王との摩擦を恐れてか、すべての皇子様を臣下に下されているからな」
「一体、どうなるのであろう?」
人々が噂する中、とうとう他の親王を憚って臣籍に下されていた源定省と名乗られていた帝の皇子が皇太子に立てられた。朝廷の、特に時の権力者である太政大臣基経の「帝の内意は定省の即位にある」との判断からであった。そして光考天皇の崩御に伴って速やかに御世代わりが行われ、新たに即位した帝は宇多天皇と呼ばれることになった。帝は二十一歳という若さ。自らの御代に新しい風を吹かせることを夢見る、志高い天皇だった。
御世代わりが済み人々の心が安定したある日、貫之達はいつものように学友たちと共に、唐の教えの解釈について議論をしていた。そこに貫之や淑望にとって良い知らせが入った。
「聞いたか? 新しい帝が和歌を合わせる宴をお開きになるそうだ」
「宴? 今年はまだ前の帝の喪に服す期間であるはずだが?」
「だから詩宴ではなく歌合なのだ。そして一応は帝の主催ではなく、後宮の宮廷行事と言う事になっている。だが今度の帝は大変な文芸好きでいらっしゃると言うから、実際は帝のお声で行われる宴と考えていいだろう」
「文芸好きとは言え、思い切ったことをなさる方だな」
「ああ、思い切った方さ。だからお召しになる歌人も位が高い方ばかりではない。貫之、淑望。君達の紀氏からも友則殿が召されることになったそうだ」
「友則殿が?」
驚きながらも喜びつつ、二人は友則のもとに祝を伝えに行った。
「友則殿。素晴らしい知らせを聞きました。今度帝が催される歌合に、友則殿が参上なさることになったそうですね。おめでとうございます」
貫之や淑望は心から友則を祝福した。帝の個人的な趣味の宴とはいえ、それまで家門の衰退していた紀氏から、歌人として宮中の歌合に参加する者が現れたのだ。これはそれまでの唐文化一色の中でどれほど学問に励もうとも、なかなか光を浴びる機会に恵まれなかった紀氏にとって、大変な吉報であった。
宇多天皇は文芸に大変理解の高い方だった。漢詩文だけでなく和歌にも長じた文芸愛好家と言ってよい帝で、それによる国風文化の推進に力を入れようとしていた。この年は前帝の喪に服すために詩宴こそ行えないが、その代わりにさっそく『中将御息所歌合』という歌合が行われることになった。そしてこれに友則も参上することとなったのである。友則にとっても、紀氏にとっても、こうした世の流れの変化は歓迎すべき事柄であった。
「ありがとう。私も大変に晴れがましい。だが、今度の帝はこれまでの帝とは違うようだな」
友則は驚きを隠さずそう言った。前例にとらわれずに歌合を開く事により、この帝が大変意志の固い、ご自分の意見をしっかりと通される方だと世の人々に知らしめた。まだ前帝の喪中にもかかわらず個人的とはいえ宴を催し、人々の関心を集め、これまで藤原氏の顔色をうかがっていた天皇達とははっきりと違うことを人々に示したのである。
その後も帝は後宮にて歌合を頻繁に行い、時には内裏にて帝主催の歌合も行った。そしてその都度、位にかかわらずその時優れていると言われる歌人を積極的に招いていらっしゃった。友則や、友則と親しい人々も幾度となく宴に招かれるようになり、良い歌を詠む者は位にかかわらず称賛された。喪が明けると詩宴も開かれ、その席でも身分よりも詩の実力が重視された。
帝のこうした文芸に重きを置く姿勢は、貫之達の様な不遇な家の出身者達におおいに希望を持たせた。既存の公の任はすでに良家が高い地位を占めてしまっていて、殆んどその家の子息たちに譲られてしまう。しかし文芸と言う新たな分野ではその場その時の個人の能力が物を言う。実際位が高まることはなくても、有名な詩人や歌人に対する世の中の扱いは、明らかに良くなっていた。人々は帝の文芸趣味に感化され、
「あの菅原道真殿がまた、素晴らしい漢詩を詠まれたそうだ」
「先日の歌合で詠まれた、紀 友則殿の御歌、お聞きになられましたか?」
と、文芸の話題を口にするようになった。唐文化がもたらした価値観により、合理的な部分からはみ出した「やまと」的な情感、詩や歌による繊細な雰囲気などこれまで切り捨てられてきた物にも、光が当たるようになった。
世の中の雰囲気はこれまでより明るく、そして軟らかくなっていた。儒教的思想や政治的観念にやや固くなった都の雰囲気に、人々の心に沿った軟らかな情感が優しい秋のそよ風のように通り抜けるようになっていった。
「新しい帝は、世に新風を吹き込んで下さった。この風をとらえれば、我々のような者にも何か希望が生まれるかもしれない」
若い貫之達がそう考えるのは当然だった。唐文化によって安定した発展をもたらされたこの国であったが、安定を求めるあまりに目前にある、もともとこの国が持っている優れた感受性を人々は捨て置いてしまっていた。それはこの国の人々の心に直結していたものだった。それを揺り動かされた人々は、少しずつ時代の変化を受け止めつつあったのだ。
こうした変化は学問を志す者達にも影響を与えた。特に漢詩や唐の故事を多く学ぶ文学にかかわる者達への影響は大きかった。唐の文学の深い知識が多いほど、漢詩や和歌も手紙などに心情を添えるだけの物ではない、文化基準の高い創作ができると考えられたからだ。淑望は、
「世の中の雰囲気が変わってきたな。文芸は確かに趣味ではあるが、深い知識と確かな見識のもとでは公務に劣らない評価を受ける価値があると思うようになったよ」
と時代の変化に驚きつつも、一層学問の重要性を認識したようだった。
「我々の時代はもう、唐の模倣だけでは通用しなくなるだろう。出世を望む以上唐の学問に通じるのは欠かせないだろうが、これまでとは違う、深い理解を求められる世界が開かれるかもしれない」
貫之も新しい価値観が世に生まれ出る気配を感じていた。
「深い理解を求める世界か。それは唐の文学をより深く解釈することだろうか?」
「いや、そういう実務的な事だけでなく、もっと柔軟な……。何か、我々の力で作り出す世界が広がるのではないかと思うんだが」
貫之はそんな風に考えたが彼はまだ学生の身の上で、未来はまだ混沌としていた。果てのない未来を思い描く以前に、まずは目の前の学問を身につけていかねばならなかった。
さまざまな宴に歌人として招かれるようになった友則は、とても生き生きとしていた。貫之や淑望が友則を訪ねる度に、
「和歌の世界は実に豊かになった。これまでのように宴の余興のように詠み合うばかりでは無くなった。帝が本当に才能ある人々を見極めて歌を競わせるので、表現がずっと豊かになった。歌合に参加する度に新たな発見や感動がある。私は以前から和歌は漢詩に劣らないと思ってはいたが、今の和歌はより美しく洗練されている。和歌がこうして帝に認められるようになったのは、歌人にとっては嬉しい事だ」
と喜びを語っていた。
実際友則の歌の世間の評価はとても高かった。これがもし、漢詩や儒教の教えのようにもっと尊ばれる物であったら……と、貫之や淑望は思わずにはいられない。たとえ公の中枢にかかわるような位は望めなくとも、友則の豊かな才能はただ漢文を暗記しただけの生まれの良い五位の人よりも、ずっと価値があると思えるのだ。