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雷鳴(夏歌 二)

またもや、『大鏡』の自己流アレンジです。

 数多いほととぎすの羅列。夏の歌はほととぎすの歌の様相だが、それでも他の歌もある。

 ほととぎすの歌は季節の時系列に沿って主に並べることにした。しかし他の歌は夏も終わろうとする蓮の花や秋に近づいて冴え渡る美しい月、秋を迎えようとする涼風などが詠まれているのでほとんどが最後の方に並べられることになった。だが一つだけ五月さつきの前を詠んだ歌がある。



  五月さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする


 (五月を待ちながら花橘の香を嗅ぐと

  昔の恋人の袖の香りと、同じ香りがした)



 この歌はよみ人知らずの歌である。恋人と別れた独り身の女の歌であろうか?

 じめじめとした五月雨さみだれが続く、男が通いにくくなる季節を女は待っている。恋人がいれば二人の仲を邪魔する長雨は憎い物であろうが、恋人と別れた傷心の女はむしろ雨の季節を待っているらしい。訪れる五月雨が女の涙の代わりなのかもしれない。


 男ではなく雨を待ちつつ、女は庭に咲いたのであろう花橘の香を嗅ぐ。するとそれは失った恋人の袖に焚きしめられていた、薫香くゆりと同じ香りがしたのだ。

「あの人はもう来ない。それならいっそ、雨に閉じ込められてしまう方がいい」と思っていたのに、別れた恋人の香りのする花を気に留めてしまう。花が散ろうともその葉の緑は枯れることない橘のように、自分の恋心も変わりがないのだと女は気づく。

 悲しくも女の深い愛情を思わせる美しい歌である。


「さて、この歌を五月の前の歌のどのあたりに並べようか?」貫之は首をひねる。


「五月のほととぎすを待つ歌は二つ。待ちかねて今すぐにでも鳴いて欲しいというよみ人知らずの歌と、五月には聞き飽きてしまうほととぎすの声を、まだ声が幼い早い時期に味わっておきたいという伊勢の歌。どこに並べるかでこれも印象が変わりそうだ」


 躬恒は三つの歌を色々と並べ替えて見比べる。


「すぐに鳴いて欲しいと願う歌の前にすると、五月雨が訪れるにはまだ少し早い感じになる。『五月待つ』と言いつつも、女は未練を感じていて心の底では晴れているうちに男が訪ねてこないだろうかと、期待している感じになるな」


 躬恒はそう言ってよみ人知らずの歌を詠みあげた。



  五月待つ山ほととぎすうちはぶき今も鳴かなむこぞのふる声


 (五月を待っているらしいほととぎすよ

  羽ばたいて今すぐ鳴いてくれないか

  去年慣れ親しんだ懐かしい声で)


 ほととぎすの鳴き声を早く聞きたくて、じれったい思いでいるのが良く伝わる歌だ。この歌より前なら五月はまだ少し遠い時期に感じる。微妙に遠い雨の季節を待つ女。「もしかして今ならまだ……」と言う微かな期待と、まだ降りそうもない雨に傷心を癒やそうと考えてしまう、生々しい傷の深さを思わせる。


「そうだな。だが、この女の恋はすでに終わっているのだろう?」貫之はそう聞いたが、


「女の心はそう簡単に割り切るものではないさ。お前の空想の女心は綺麗に終わった恋を懐かしむかもしれないが、現実の女は終わった恋だと分かってはいても心が残るだろう。女は男より執念深い」躬恒はそう言って笑った。


「そりゃ、自分が妻にそう思っていて欲しいと思っているだけではないか?」


 貫之はお返しにそう言って躬恒をからかった。そして、


「私は伊勢の歌のあとに並べるのが良いと思う。これは五月になる直前の歌。雨は間近に迫っている。傷心に耐えかねた女が雨を願い、それでも心は男を思ってしまう諦めと未練が漂う風情だ。雨も橘の花も女を慰めてくれるだろう。女に相応しい優しい感じになる」


 と持論を述べる。伊勢の聞き飽きる前に鳴いて欲しいほととぎすの歌とは、



  五月来ば鳴きもふりなむほととぎすまだしきほどの声を聞かばや


 (五月が来ればその鳴き声は古びて聞こえてしまう

  だからほととぎすよ、まだ声が幼いうちに鳴き声を聞かせておくれ)



 もう五月は目前で、その前に何としてでも幼さの残る可愛らしい鳴き声を聞きたいと願う、女らしい可愛らしさのある歌である。この歌の後なら傷心を癒やそうとする女の歌も、優しげに見えて来るだろう。女の優しさは雅やかさにも通じる物がある。和歌にはこの方が似合うかもしれない。


「恋の情熱より優しさか。貫之らしいというか。しかもこれは現実の恋ではなく歌の世界だしなあ。歌の事ではやはりお前には敵わない……」


 躬恒がそんな事を言っている最中に、外から突然大きな雨の音が響いてきた。何の前触れもなく雨が叩きつけるように降って来たらしい。


「なんだ、この雨の降り方は。こんな唐突な降り方、経験したことが無い」


 友則が驚きながら慌てて格子を閉じた。急な天候の変化に後宮の方からも、女たちの悲鳴やバタバタと女官が格子を下ろす音が聞こえる。だがそれさえもかき消されそうなほどの雨音が御文庫を包み込んでしまう。そして稲光が走ったと思うとほとんど時をおかずに雷鳴がとどろいた。しかもそれが繰り返されている。


「おおっ! こんな激しい雷雨は初めてだ。雷も近い。まさか近くに落ちるのではないか?」


 忠岑は顔色を変えた。これほどの豪雨の中で雷による火災が起これば、人はなすすべがないだろう。しかも稲光は絶え間なく輝き、雷鳴は止む気配もない。ついにはそう遠くないところから落雷の激しい音が聞こえてきた。少し間を置いて人々の悲鳴が上がる。


「まさ……か、ここには落ちないよな?」躬恒が心細げに聞く。


「落ちるものか。ここは天子たる帝のおわす内裏の中。そんな事があるはずが……」


 貫之がそう言いかけた時これまでにない眩い光と衝撃があった。皆思わずその場に座り込んでしまう。恐る恐る四人が格子の隙間から外を見ると、西の方角に火の手が上がっていた。


「あれは……まさか、帝のいらっしゃられる清涼殿が燃えているのではないか?」


 躬恒が恐ろしげにそう言ったが、


「良く見ろ。建物は燃えていない。そのすぐそばから火が上がっている。おそらく近くの立木に落雷したのだろう」


 と、友則が指をさした。良く見ると確かに清涼殿のすぐ近くに植えられていた立木が真っ二つに割れて燃えていた。こんなすぐ近くに落雷していたのかと四人は青くなった。

 雷雨がやむ気配は無い。空は真っ黒な雲が多い隠し、雨が地面を叩きつけている。時折人々の悲鳴が聞こえるが、四人はすでに声も出なかった。


 すると清涼殿の方から大きな声が聞こえた。


「左大臣(時平)殿! 落ち着いて下さい。外は危険です! 道真殿が雷をおとされます!」


「何を言うか! ここは帝の清涼殿。本当に道真の暴挙と言うなら、私はこの身を持ってしても道真を論破し、帝をお守り申し上げる!」


「誰か! 誰か左大臣殿をお止しろ!」


 貫之達は時平を止めようと清涼殿につながる紫宸殿の方へと向かった。ここからでは事の成り行きが見えないのだ。時平も紫宸殿を通り抜けて今まさに外に飛び出そうとしているところだった。近くの殿上人が止めようと手を伸ばしては振り払われていた。貫之達が追いつけない内に時平はすでに土砂降りの庭に出ていた。そして空に向かい、


「道真殿! そなたはまこと、道真殿なのか!」


 と叫んだ。そして、雷雨にもかかわらず手にした太刀を引き抜き、天にかざした。


「左大臣殿! 何をなさるのです。危ない!」誰かが叫んだが時平は、


「黙れ! 私は雷神となった道真と話している。余計な口出しは無用だ!」


 と叫び返し、天を睨んだ。


「道真殿。あなたは大変理知的な方だった。物の道理という事をわきまえておいでだった。今は神になられたからと言って、それを捻じ曲げて良いという事は無いはずだ」


 時平は天に向かって語りかける。


「私の判断の誤りがあなたを追い詰めたことは認める。あなたを助けられなかった無力も認めよう。あなたは私を怨む権利がある。しかし帝を怨んではならぬ。あなたは誰よりも帝の素晴らしさを御存じだったはずだ。神になったからと言って、それを忘れてはならぬ」


 雨が一層激しくなった。しかし時平は太刀をかざし続ける。


「あなたが今いる天の世界がどのようなものか私は知らぬ。どうすればあなたの怒りが収まるのかも分からぬ。しかしここは地上の内裏であって天の世界ではない」


 遠くに稲妻が光る。それをさらに時平は睨みつけた。そして叫んだ。


「控えよ! 道真! ここは帝のおわす場所ぞ!」


 かざされていた太刀を大きく降り、天を突くように太刀を上げる。


「あなたは生前、私の次の地位にいらっしゃった! 今は神になられたとはいえ、この世においては私に場を譲るべきであろう! どうしてそうしないはずがあろうものか。あなたは道理の知らぬ者ではないはずだ!」


 すると突然、雨がやんだ。降りだした時と同じように唐突だった。


「怨むなら私を怨め、道真。帝を怨んではならぬ。この国を怨んではならぬ。道理を外れてはならぬ。私を怨め、道真……」


 空が明るくなっていく。もう雷鳴も聞こえない。時平は太刀を持った手を降ろし、その場にうなだれていた。


「左大臣殿が……。雷神となられた道真を論破なさった」


「何と言う胆力。何と言う御威光だ……」


 人々がざわめく中、びしょぬれの時平が紫宸殿の中に戻って来た。


「私の威光などではない。道真殿の御理解があったのだ。帝の御威光がどれほど優れた物であるか、道真殿が生前から御存じであったからだ……」


 時平は力をすべて失ったかのように沈んだ表情で言った。


「しかし現に、雷雲が去ったではありませんか」近くにいた殿上人が言った。


「それは道真殿に帝を尊ぶ心がまだ残っていたからであろう。決して私にひるんだわけではない。まして私に論破されたわけでもない。私には何の力もないのだ」


「そのような御謙遜を……」


「謙遜ではない。そなたたちには分からぬであろう」


 時平は一層疲れた顔をした。この殿上人達には分からない。自分の都合で道真にすり寄り、非難し、追放し、怨まれると知るや助けてくれそうな者にまたすり寄る。その荒んだ心が才気あふれていた道真を怨霊にまでしてしまった。誰もが自分の不安ばかりに気を取られ、心を荒ませたことがすべての原因なのだ。

 それなのに人々は私の力にすり寄ろうとしている。藤原の氏長者の名を差し引けば、私は何の力もないかもしれぬ。誰かの邪魔になると思われれば、明日にも我が身が道真と同じ道をたどるかもしれない。


 時平は貫之達に気付いて近づいた。そして声をかける。


「今こそ和歌が必要だ。人々の荒んだ心を慰める和歌が。素晴らしい歌集を生みだしてくれ。人が人を怨む心など忘れてしまうような歌集を」


 そして貫之達の返事も聞かずに奥へと歩いて行く。


 怨まれるのは私一人で十分だ。この世の罪はすべて私が背負う。道真が一人孤独にすべてを背負ったように。


 怨むなら、私を怨め。道真。帝を……この国を怨むな。


 時平はこれまでの道真の孤独を思った。そして、神となった今の孤独も。



 

 

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