梅の香(春歌 上 二)
年が移り延喜四年。前年の禍を払しょくするように、正月の行事は華々しく行われていく。昨年の日照りは予想を上回る打撃を朝廷にもたらした。特に都周辺の干ばつが激しく、作物はほとんどが日照りにやられてしまった。それだけでも都の物の値が上がって大変だったのだが、同時に流行した疫病により、農地だけでなく耕す人々も、それを管理する人々も減ってしまった。他の離れた地方ではそのような事は無かったのに、都の周辺に被害が集中したのだ。やはりこれは道真の怨霊の仕業だろうと人々は恐れおののいていた。だからこそ正月行事は神聖に華々しく行う必要があったのだ。今年こそは世の中が落ち着くことを都人は祈っていた。
正月行事が落ち着くと例年通りに春の司召しが行われた。この時友則も昇進し、大内記となる事が出来た。内記の仕事ぶりが認められた事もあるだろうが、やはり内裏にて勅撰和歌集の編纂をおこなっているもっとも年長の者に対する処遇としての気遣いが大きいのだろう。大内記は正六位上に相当し、あともう少しで友則念願の五位の地位だ。貴族社会は五位と六位で扱われ方も家族の処遇もまるで違う。「歌人」としての特別扱いではなく本当に昇殿が許される身となれば彼の元服している息子たちの未来も明るくなる。友則の昇進を貫之たちも我がことのように喜んだ。
編纂作業も着々と進んで行く。春の歌は早春を過ぎると題を「梅」に移して行った。梅はその咲く姿に劣ることなく、香りも親しまれているので、春の香りの喜びの歌が目につく。まずは四つの古歌を梅の香りに絡めて並べる。梅を折ったために香りが移った袖の歌。その袖の香に宿の女性をうかがわせる歌。宿の梅に待ち人の香りを思い出す歌。女に浮気を指摘され、ほんの少し立ち寄った宿の梅の香が移ってしまったと言い訳をする歌。それに昔の左大臣の折り取った梅の香りで老いを遠ざけたいと祈る歌が並べられた。
折り梅の歌と言う事でその後に素性法師の歌を並べる。
よそにのみあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香は折りてなりけり
(遠くから見ては趣があると思っていた梅の花だがそれでは物足りない
折り取ってこそ、その色香を楽しむ事が出来る)
春の花を折り、手に入れた喜びか。花を女性に見立てれば憧れの女性をようやく手に入れた喜びの歌ともとれる。そして折り梅は良く文に添えて贈る物でもある。そこで次には友則の詠んだ歌が並べられた。
君ならで誰かに見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る
(あなたの以外の誰にこの梅の花を見せましょうか
この色、この香りを知る人は良く知っているのだから)
「おや。友則殿まで古歌と同じような言い訳じみた歌を。いや、ご機嫌取りの歌かな? これはご自分の妻への歌でしょう?」
躬恒が歌を見るなりからかった。
「まったく、ウチの妻は御存じのとおり少々口やかましくてね。ほんの挨拶がわりの文に我が家の梅を添えようと折りとったら『その梅はどなたに差し上げるのですか』と酷く詮索してきたのだよ。うるさく言われたくないと思ってとっさに出てきた歌なのだが、妻は大層喜んでね。心に残る歌になってしまった」
友則はそう言って笑う。
「妻のおかげで名歌が生まれたという訳ですね。梅を贈ってもらえなかった女性は振られて気の毒な事だが」
「勝手に色恋ごとにしないでくれよ。日頃世話になっている人に季節のあいさつをしようとしただけだぞ」
「さて。日頃どんなお世話になっていたのやら。北の方がやきもちを焼くような相手ですからねえ」
「いやいや。私はそんな軽々しい真似は出来ないさ。何しろウチの妻は鼻が利き過ぎる。本当に梅の香りの違いを嗅ぎ分けかねないのだ」
友則と躬恒の会話を笑って聞いていた貫之も、
「でも梅の香りは本当に暗闇でも良く香っているものですよ。以前山路で陽が落ちてしまった時に暗闇の中でも梅の香が漂って来て、宿が近いことに勇気づけられた事があります。……ああ、この歌だ。
くらぶ山にてよめる
梅の花にほふ春べはくらぶ山闇に越ゆれどしるくぞありける
(梅の花が匂う春の頃は
くらぶ山を闇の中に越えて行こうとも梅の在りかが分かるものだ)
闇の中の梅の香りは人をホッとさせてくれます。自然に鼻も利くようになってしまうのでしょう」と言う。
「貫之は若い時から世話になったのでウチの妻に弱いからな。すぐ妻の味方をする」
友則はそう言ったが躬恒は、
「いや。これはめずらしく貫之が語るに落ちたかもしれない。その宿は恋人の住む家なんじゃないのか?」
と、貫之に聞き返してきた。
「どっちでもいいじゃないかそんな事。良く使っている宿の事だよ」
「いいや、気になる。お前は女のことはいつも隠してばかりで少しも漏らそうとしない。
月夜に梅の花を折りてと人のいひければ、折ると
てよめる
月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける
(月夜にはそれだと分かるほどには見えない白梅の花だから
香りを訪ねながら知らなくてはならない)
月明かりの下なら白梅のありかなどすぐに分かるとたかをくくっても、月の白さに花が隠されるようにお前は実にうまく恋を隠してしまう。こんなときに匂いから訪ねないとお前の本音は見られないからな」
躬恒は流暢に歌を詠んだ。月光が白梅を隠すなどの表現は躬恒の得意な詠み方だ。この極端な比喩が躬恒の歌の非凡さであり、幻想的な美を醸し出す優雅さのもとである。しかし貫之は躬恒の歌に誘われることなく、
「嫌だね。女のことを話そうものなら皆で寄ってたかって『妻にしろ。妻を持て』と口やかましくされるのが目に見えている」と言う。
「それだけ皆お前を心配しているんだよ。お前が決まった妻を持たないことをいい事に、悪い遊女あたりに良いようにされていないかとか、夫のいる女に何か利用されていないかとか。お前はまったくそちらが不得手で女っ気が無いという訳じゃない。それだけにかえって心配なんだ」
「そんなに私は恋にうつつを抜かしているように見えるか?」
躬恒がからかう口調を止めて真面目な顔をするものだから、貫之も自分はそんなに周りを不安になさるような様子を見せているのかと心細くなった。
「幸せそうにぼーっとなっているなら心配はしないが。なんでもない顔を作るのに女の匂いはするから気になるんだ。
春の夜、梅の花をよめる
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
(春の夜の闇は無駄な事をする
闇は梅の花の色こそ隠せはするが、香りを隠すことなど出来ないのに)
君が自分の恋を闇に隠そうとしても、夜の梅のように匂いまでは隠せないさ。……ああ、もちろん匂いは例えだぞ。移り香を振り払ってもそれこそ無駄だからな」
「ああ! 分かったよ。白状するよ。確かに私には親しい女がいた。だが、彼女は初瀬に住んでいる」
煩わしいとは思うが心配してくれる気持ちはありがたいことなので、余計な気遣いをさせないようにと貫之は女のことを明かした。
「初瀬か。また、随分と遠いな」
「私は歌集編纂を任ぜられる前に屏風歌を詠んでいただろう? その頃古い都の歌を考えていて一度自分の目で見ておきたいと思ったのだ。その時泊まった家の女と気があった。それからたまにそちらの方に出かけるようになった」
「都からそんなに離れていては気付かなかったわけだ。それで?」
「それでもこれでも、私は都で暮らしているし、相手にはいつものように『妻にしない』とあらかじめ言ってある。それでも付かず離れずの関係だと思っていたが、編纂作業に任ぜられてからはすっかり時間が無くて初瀬に行っていなかった。それでも去年の春、女のもとへ行ってみたんだ。だが、女には他の男がいることを人に聞いてしまった」
「ううむ。悪いがそれは同情できない。割り切っていると口では言っても、やはり時間が経てば女は期待するだろう。さっさと妻にして都に呼び寄せなかったお前に非がある」
「分かっているし、同情して欲しくもない。だが私は身分も無いのに家族を作る勇気が無い。だから放っておいて欲しいと言っているのだ」
貫之は友則から貰った名の通りに、何か一途になると粘り強くやり遂げようとする。だがそれが悪い方向に向くとどうしようもなく頑固になる。しかも人に心開かせる慕わしさをもっていながら、自分が心を開こうとすると極度に臆病なところがあった。深く考えすぎての取り越し苦労も絶えない。家族と身分に恵まれなかった事が、より彼を臆病にしているようだ。
友則と忠岑は黙って口を出さずにいる。貫之の歌人としての名を利用されたとか、何か物品を極端に巻き上げられているとかなら諫めてやらなくてはならないが、そう言う事でないのならどんな恋の仕方であろうと貫之の自由だ。そして今躬恒が愚痴を聞いている。こういうことは愚痴を聞いてやって本人が納得する以外に手立てなど無い。躬恒がそれをしているのだから年長者の自分達が口を出しても野暮なだけだと思っている。
「だが人は意外と薄情だ。その女、自分は心変りしておきながら、私に恨み事を言伝してよこしたのだ。どうして長らく来なかったのかと」
「ひょっとして、その女お前とよりを戻したかったんじゃないか?」
貫之の言葉に躬恒はそう言ったが、
「そうかもしれないが……。いや、やはり縁が無かったのだろう。女も私の心に臆病があることに気づいていたのだ。女も懐かしさに声をかけてきただけで、もう恋は終わっていたのだ。それでその家には梅の花があった。だから私はその枝を折って、
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
(変わりやすい人の心と言うのはさて、知れないものですね
なじみの宿に咲くこの梅の香りは昔と変わりがないのですが)
と詠んで贈ってやった。友則殿の梅の香の歌を聞いて、何となく思い出したのだ。終わった恋の残り香を友則殿の歌に感じたのだ」
「良い歌だな。恨み事を言い返しているというのに。お前は歌のために恋をしているんじゃないかと思ってしまう」
躬恒が妙な関心の仕方をした。歌詠みであるためか、貫之は生き方や恋も歌のように美しくあろうとして、どうにも不器用になっているように感じられた。貫之も
「……正直、その度に現実の恋などいらぬと思うんだがなあ」
とつぶやいたが、この言葉には友則も口をはさんだ。
「歌人が人の恋心を要らぬと言ってはならない。恋の喜びも恋の傷も空想だけでは限界がある。やはり本人が心を知らなくては良い歌は詠めない。歌は人生の断片。良い人生から良い歌が生まれるのであろう」
「心配要りませんよ。友則殿。こいつが恋をしないなんて事があるものか。こんなに情感豊かに歌を詠む者が恋をせずにいられるわけがありません」
躬恒はそう言い切った。貫之はそんなに臆病なところがあろうとも、結局は人の心の情けを無視できない人間であることを躬恒は良く知っていた。




