部立
貫之のそばに横たわる病床の母が、ふと眼を覚ました。
「目が覚めましたか? 母上。のどが渇いてはいませんか?」
「ええ……そう言えば」母はかすれたで答える。
「お水を少し飲みませんか? 身体を起こして差し上げますから」
そう言って貫之は母の身体を自分に持たせかけるようにしてその身を起こした。その身体は熱で熱く、それなのに悲しいほどに軽い。正月にはあれほど若々しい舞を見せていた母なのだが、今は見る影もない。その身を貫之にすっかり預けて、ようやく水を少しづつ口にしていく。水を飲み終えた母を寝かせながら貫之は話しかけた。母の意識がはっきりしているうちに、母を喜ばせたい。
「母上……聞いて下さい。私は昨日、兼覧王様にお会いしました。それも帝の後宮の奥深く、襲芳舎に呼ばれて参上したのです」
「まあ……それはなんて晴れがましい事でしょう。私の子がそのような素晴らしい所に参上したなんて」
「後宮の中は大変美しいところでしたよ。それに兼覧王様は大変慕わしいお方で私の詠んだ歌に御返歌を返して下さいました。母上は私を誇らしく思って下さいますか?」
「ええ、ええ。我が子ながらあなたは素晴らしい息子です。幼い時は世話も焼けず早くに手放したというのに、こうして私を家に置いて美しい季節の移ろいの話などをしてくれた。そして帝にお仕事を任されて、親王様の御子様と歌まで交わして頂いたなんて。何と言う誇らしい子なのでしょう……」
「それに、私は藤原兼輔様の従者となる事にしました。定方様には申し訳なく思っていたのですが、定方様も兼輔様と同様に私の後ろ盾をして下さるとおっしゃって下さいました。私もその御厚意に甘えさせて頂くことにします。私はとても良い主人を得る事が出来ました」
「そうなの。それは良かった……。それならあなたのお父様に、私は良い報告が出来ますね。きっとお父様に褒めていただけるわ。あなたが誇らしい息子で私は本当に幸せでした……」
か細くなっていく母の声に、貫之は潤む目をこらえながら囁く。
「その前に、もう少し元気を出されて庭をご覧になって下さいませんか? 今日は雨も上がって庭の萩が洗われたように美しいのです」
「萩は……見られそうもありません。けれど……。あなたの幸せを見届ける事が出来て、母はとても安心しました。……幸せな一生でした……」
そう言いながら母は穏やかに意識を失って行った。貫之の母が亡くなったのは、その数日後の事だった。
貫之は母の弔いにその秋を費やさなければならなかった。人の死など忌みごとに触れた者はしばらく殿上に上がることなど出来ない。その間編纂作業に加われなかったが、躬恒が貫之に見舞いの文を送ってくれた。躬恒はお悔やみの言葉のほかに自分の母が亡くなった時の歌を教えてくれた。
『私の母が亡くなった時も秋だった。萩の頃と言うよりもみじの季節だったが。あまりの悲しさに目から涙と共に血が流れるのではないかと思ったものだ。子にとって母と言うのは特別なものなのだろう。
神無月時雨にぬるるもみぢ葉はただわび人のたもとなりけり
(十月の時雨に濡れる紅葉の葉は
ただ、悲しみにくれる私のたもとのようなのだな)
鮮やかな紅の色は血の涙で滲んだ我がたもとのようであった。お前も同じ悲しみを今、味わっているのだな』
文は忠岑からも届けられた。
『私も父を亡くした時は大変悲しかった。その時の歌を、
藤衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける
(喪服からほつれた糸は悲しむ私の
涙を貫いて綴る玉の緒となってしまった)
と詠んだものだ。お悔やみを申し上げる』
貫之は弔いの最後に山寺に出かけた時に、その道すがら作った歌を返事に寄せた。
『編纂作業の途中に出仕出来ないことになり、大変申し訳なく思っている所に心の籠った文をいただき、ただ、ただ感謝している。母はいかにも親らしい心で私の行く末を案じていたので、私の仕えるべき人が決まり、帝の命を受け、後宮にて兼覧王様にもお会いできたことをそれは喜んで下さった。きっと安心して父のもとへと旅立った事と思う。それにこうして慰めの文を届けてくれる友もいる。本当にありがたい事だと思う。
寺に向かう途中に歌を詠んだ。
朝露のおくての山田かりそめに憂き世の中を思ひぬるかな
(朝露を置く晩稲の山の田が刈られ始めている
所詮悲しい世の中はかりそめのことと思った事よ)
儚い人の命と人生に、二人の情けが心に沁みる。お悔やみをありがとう』
都人は貫之の母の死を「道真の怨霊」と結びつけて気味悪がっていたが、親は必ず自分より先に逝くものだ。貫之自身は母を最後に喜ばせる事が出来たうえ、編纂者たちの友情をあらためて胸に刻んだ心沁みる時を過ごした。そして人々の噂など一蹴すべく、編纂作業へと戻って行った。
「歌集の巻数は二十巻で良いな。万葉集も二十巻。和歌ではないが勅撰の詩集としてはもっとも最近に創られた経国集も二十巻だ。この歌集のもととなった続万葉集ももともと二十巻の造りであった。歌集としては適切な巻数であろう」
忠岑がそう言って確認する。皆も了承して頷いた。
「そうすると次は部立だが、万葉集は三つに分けられているな。雑歌、相聞歌、挽歌。これにならって続万葉集をまとめた時、部立は四季、恋、哀傷の三つに分けた。しかも四季には時の流れを持たせるように並べたのだから、実質は六つに分かれていた。しかしこの歌集は歌の数がずっと多い」
友則は一句一句が書かれた紙の束を眺めながら言う。
「長歌や宮中に伝わる歌もありますからね。春秋の歌や恋の歌も多いし、他にも多様な歌がある。もっと細やかな部立が必要でしょう」
躬恒は紙をぱらぱらとめくりながら歌を大まかに分け始めた。
春、夏、秋、冬、恋、哀傷、宮廷に伝わる歌、その他の歌。
「種類で分ければ、ざっとこんな感じになるが……」
「やはり恋の歌が多いな。宮中の歌や地方の東歌も意外と多い。季節と恋の歌は分けやすいが、他の歌はもっと細かく分けるしかないな」
分けられた和歌の束を見ながら忠岑も腕を組む。
「貫之、考えがあるのだろう? 早く教えろよ」躬恒は待ち遠しそうに言う。
「細かく分ける前に、分け方の考え方を変えませんか?」そう貫之は切り出した。
「考え方?」
「私が続万葉集の時にあのような部立を提案したのは、歌合わせの時には詠題が春、夏、秋、冬、恋の順に種類分けされて詠まれてゆくのを歌集の上で再現しようと試みるためでした。実際それは和歌を一つ一つの歌としてとらえるだけでなく、一つの歌集として集めた時に時の経過や季節の移ろいを蘇らせる事が出来るのだと知ることが出来ました」
「ああ、歌集に時の移ろいを留める事が出来ると知って、感慨深かったな」
躬恒は続万葉集の古歌の並びが、生き生きと時を刻んだのを思い出す。
「ところで漢詩の詩集では万葉集とは少し違う部立が用いられます。例えば『文華秀麗集』だと遊覧、宴集、餞別、贈答、詠史、述懐、艶情、楽符、梵門、哀傷、雑詠と詩の背景や状況によって十一の部立に分けられています。和歌は季節への思いや恋の思いなど『思い』を詠むものなので万葉集の様な分け方になったのでしょうが、今の和歌は人の心情だけではなく、投影や空想など様々な要素が詠まれているとは思いませんか?」
「そういわれると擬人法、倒置法など技術が進むにつれ、盛り込まれる要素はかけ詞などだけに頼った頃より複雑で多様になっているな」
躬恒が目の前の歌の数々に目を通しながら頷く。
「ううむ。そう考えればこれまでの季節や心情だけに頼った分け方をしては大雑把過ぎる」忠岑も同意した。
「待て。和歌を漢詩のようにまとめたのは確か……」
友則が頭を指で触り、記憶を探る仕草をする。
「ええ。大江千里殿の『句題和歌』です。あれは漢詩を題として和歌を詠んだのであのような形になったのでしょうが、この方法は和歌集にも十分に生かせると思うのです」
「成程、良い考えだ。どちらにしても細やかな種類分けが必要なら、漢詩のように背景や状況に合わせて部立を行っても良いわけだ。そのほうが歌のありようが明確になる」
友則は感心した。季節によって分けた歌は季節が歌の背景を明確にする。それを他の要素でも行おうという事なのだ。
「だが問題もある。和歌は漢詩とは違い情緒が重要になる。例えば華やぎの中に哀愁を、悲しみの中に優しさを、儚さの中に美しさを求めるのが和歌だ。ただ実直に歌を分けてしまえば逆にそのような情緒が失われる場合もあろう。和歌は漢詩よりもあいまいさを求める部分があるのだ」
友則の言葉に躬恒が反論した。
「しかし『句題和歌』では決して情緒を損なっていません」
「それは『句題和歌』は漢詩の内容が物語として人々の頭にある物を、和歌として詠みなおしているからだ。あの歌集には唐の文化を我々になじみやすいように書きなおしている側面がある。まったくの我が国の歌でそれをやるとなると、何らかの工夫が無ければ和歌の情緒が損なわれる恐れがあるのだ」友則は慎重な意見を述べた。
「それについても、実は提案があるのです」
そう言って貫之は和歌の紙の束から二つの歌を抜き出した。
「友則殿、この歌を覚えていますか? 是非、揃えて載せたいとお願いしたのですが」
差し出したのは以前春の古歌を選んでいる時に貫之が選んだ二つの歌である。
散りぬれば恋ふれどしるしなきものをけふこそ桜折らば折りてめ
折りとらば惜しげにもあるか桜花いざ宿かりて散るまでは見む
「ああ……この二つを並べるとまるで贈答歌のようだと感心した歌の並べであったな」
「そうです。歌の並べです。和歌は並べ方によってまったく別の歌でも新たな情緒が生まれます。これを歌集全体で考えられないでしょうか?」
「歌集全体で?」
「そうです。この歌集は一つ一つの歌を使って、大きな物語を作るかのように並べて行くのです。部立を分けるのはその変わり目を決めるにすぎないのです」
これには全員が驚いた。この和歌は共に「桜を折る」という背景があるからこそこの並べ方が生きる歌だ。貫之は歌をただ種類で分けるのではなく、このような意味を持たせた背景に合せながら部立を行おうというのである。しかも千にも及ぶすべての歌において!
「それは……確かに情緒が損なわれるどころか、これまでにない情緒が歌集によって生まれるかもしれん!」意外ながらも素晴らしい考えに忠岑が興奮した。
「だが、この歌集は膨大な歌を選んでいる。千もの歌を一つ一つ照らし合わせながら歌集全体に情緒を生みだすとなると、どれほどの時間がかかるか分からんぞ」
友則の言葉に躬恒はハッとしたように歌の書かれた紙の山を見た。
「う……む。しかも、かなり細やかな作業が求められる。一首、一首の選び方が歌集全体に影響を及ぼしてしまう。これは難しい作業になる」
「ええ。ですから無理強いは出来ません。ただ、私の一つの提案と言うだけです。帝も出来れば早く奏上をと求めていらっしゃいますし」
貫之は全員の顔色を窺うように見まわしている。その表情は不安げだ。無理な事を言っていると思っているのだろう。すると友則が、
「私は貫之を中心に編纂したいと言ったのだ。貫之が良いと思う事なら私は賛成する」
と、腹を据えたように腕を組み、どっしりと座りなおした。
「そうだな。私も貫之の閃きを信じよう」
忠岑もそう言って笑顔を見せた。
「躬恒は……?」貫之が心細げに躬恒の顔を見る。
「……そんな顔をするなよ。まるで私が反対するようじゃないか。もちろんやるさ。こんなやりがいのあることはお前と共にでなければ絶対に出来ないからな」
「では……!」
「これで決まりだ。この歌集は大きな物語のように並べ、漢詩のように状況や背景に合せて部立を分ける。皆、それでいいな?」
友則の言葉に、皆が熱い思いで頷いた。道のりは遠く険しいが、自分達は確かに新たなものを……歴史に和歌を刻むにふさわしい勅撰和歌集を創り出そうとしているという強い思いがあった。その思いは四人の結束を一層強く結びつけた。
「ところで、この歌集の名は何としましょう?」安心した貫之は友則に尋ねた。
「うむ。すでに古歌だけでなく、今の歌も多く扱って一つの物語にしようと言うのだからな。万葉の名からは離れて良いかもしれん」
「今からも、古歌からも名歌を集めた……『古今集』と言うのはどうでしょう?」
躬恒が思案しながらつぶやくように言う。
「古今集か。良いかもしれない。今も昔も、すべての和歌を愛する人々のための歌集だ」
忠岑が賛同した。
「古今集。良いですね。気に入りました」貫之もそう微笑んだ。
「では、古今集の部立のために、まずは春の歌の流れの良い組み合わせを選んで行こう」
友則はそう言って早速春の歌の紙の束を広げながら、皆に目を通すように促した。
こうして古今和歌集はそれまでのただの歌の集まりの歌集ではなく、大きな流れをもったひとつの創作品となったのである。




