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貫之

 友則の邸に着くと少年は暖かく迎えられた。父を早くに亡くしての内教坊暮らし。妓女の母も舞や楽に優れているだけに位高い人々からの信頼もあり、芸の質を落とすわけにもいかない。だから息子への愛情があっても、そうそう少年にかまってばかりもいられなかった。そんな暮らし方をしていることを常々少年達の後見である有常から聞いていたのだろう。家庭的な雰囲気で少年を迎えようと友則の妻もすぐに手洗いのための手水ちょうずなどを用意して、少年に気を配ってくれる。


 近くでは友則の息子らしい腕白そうな子が二人、物珍しげに少年を眺めていたが、母や乳母めのとに言い含められているらしく、とても行儀よく少年に挨拶した。不慣れな少年を疲れさせないように気遣っているのだろう。内教坊の女たち中で育った彼はそういうこの邸の人たちの心配りに気がついて、謙虚に礼儀正しく、しかし愛想よくふるまった。


「大内裏の外の暮らしを知らないままの元服で色々不安もあるでしょうけれど、あなたはまぎれも無く我が一族の人間です。殿もあなたの事はとても買っていらっしゃるの。細かい事はわたくしたちで用意しますから、あなたは安心してこれからの学問のことを考えて下さいね」


 友則の妻はそう言って少年の世話を焼いてくれる。少年もいつもごたごたした印象のあった内教坊と違う、落ち着きのある小さな邸の暮らしに初めこそ戸惑ったが、そのうちに慣れて漢詩などの学問に励むようになった。


 それでも時折、内教坊で触れた和歌などが恋しく思われて、持参した伊勢物語などを読んでいると、友則がそれに気がついて、


「ほう。君は物語が好きなのか」と、問いかけてきた。


「物語というより、ここに出て来る在中将(在原業平ありわらのなりひら)殿の和歌が好きなんです」


「在中将殿か。彼の歌は情感が勝った、余韻や情緒のあふれるような歌が多いな。君の若い心にはこのような情熱を感じさせる歌の方が心にしみるのだろう」


 と言って、他の業平の歌を教えてくれた。


「友則殿はとても和歌にお詳しいのですね」少年が感心すると、


「私は歌人なのだよ。この歌のおかげで私は大変高貴な方々とお付き合いさせていただいている。まあ、あくまでも個人の趣味の集まりでのことだが」


 と言って、和歌の世界のことを話し始めた。


「亡くなった私の父の有朋ありともは、君の後見だった有常殿や右近中将(藤原敏行ふじわらのとしゆき)殿と共に、あの在中将(業平)殿と親しい小野宮様(惟喬これたか親王)のもとに集まっていた。我々は和歌や情緒を共有する者として、世間から風流人ふうりゅうびとと呼ばれているのだ。在中将殿は残念ながら亡くなってしまわれたが我々の間では和歌や、やまと的な文化を共有する趣味の集まりが今も続いている。我々は和歌は単なる恋愛の手段ではなく、一つの文化だと思っているのだ。同じような感覚を共有する者たちによる、趣味の範囲でしかないのだがね」


 友則は和歌に造詣が深く、しかも彼の歌はやんごとなき人々の間でもてはやされるほどに人気があった。一流の歌人として宴などにも良く呼ばれているらしい。だが、


「しかし、歌で官職を得られるわけではないからな」


 と、友則は言い捨てた。歌がもてはやされるのは友則自身にとって良い事ではあるのだろうが、位が高まったりするわけでもないため紀氏の家運を開くことは出来ない。若い従弟いとこの後見をするにもかなり頼りない存在であった。友則はそれを気にしていて、歌がもてはやされていてもどこか寂しそうであった。少年が和歌に興味があると言うと、


「それはいい。私は大学寮の事ではたいして役には立てないが、息抜きの和歌の事なら色々教える事が出来る。まあ、従兄と言っても私のような者に出来るのはそのくらいだ。学を究めて立身出世を目指すのは、若い君達に任せよう」


 と言って笑った。やはり出世のためには漢学を学び、優秀と認められるのが一番なのだと少年も肝に銘じる。



 元服の日、少年はほうを着つけてもらい、髪も削いでもとどりが結いあげられ、冠もかぶせられる。初めて身につける大人としての正装であった。そして少年の元服は厳かに行われ、新たな名が与えられた。


「これからはきの 貫之つらゆきと名のるように」


 友則にそう言われると、とうとう自分も大人になれたのだと実感が湧く。少年……いや、貫之はこれからの人生を輝かしい物にしようと希望に燃えた。母親や友則の自分への期待が、貫之に勇気を与えていたのだ。


「我が紀氏は、代々孔子の教えを大切にしている。君も父上の持っていた論語を学んだと聞いている。論語は我々の信条と言っても良い。この家の者は元服の時に論語から名を名付けるのがしきたりだ。君の名の貫之も論語からとっている。『一を以って之を貫く』孔子は何ごとかを貫く生涯を送ったと言われている。君にもこれからの人生、何かを貫くことを目標として生きて欲しい」


「大変立派な名をいただき、ありがとうございます。頂いた名に恥じぬ生き方が出来るよう、これから大学寮にて学問に励みます」


 貫之は深々と礼を述べた。ずっと年上の従兄とその家族も貫之を暖かく見守ってくれた。その席にはもう一人、貫之とそう年の変わらない少年が同席していた。


「紹介しよう。新しい環境に入るのは心細いかもしれないが、幸い大学寮にはこの同族の淑望よしもちがいる。細かい事は彼が導いてくれるだろう」


 友則がそう言って淑望に貫之を紹介する。


「君は大変聡明だと友則殿から聞いているよ。大学寮は実に学び甲斐のある場所だ。私の父も大学寮を出て出世したんだ。我々もそれを目指そう。これからは一緒に頑張ろう」


 きの 淑望よしもちの父、きの 長谷雄はせおは大学寮で省試を受け、文章生もんじょうしょうになった上に、さらに選ばれて文章得業生もんじょうとくぎょうしょうとして認められ官職についていた。


「ああ、共に学ぶ事が出来る人がいるのは心強い。これからよろしく」



 貫之は無事に寮試に合格し、疑文章生ぎもんじょうしょうとなった。そして淑望という学友を得て友則に見守られながら、大学寮に入寮した。大学寮では皆、そうと呼ばれる寄宿舎で暮らすことになる。しかしそこは貫之にとって居心地のいい場所とは言えない面もあった。

 入寮して見るとそれまで内教坊や友則の邸では気が付かなかった、官位や家柄の違いを見せつけられた。


 まずはっきりと集る人々の袍の色が分かれていた。


 貴族の正装である衣袍いほうの色は、厳格な決まりがある。名家の子息や親が高い位についている子息は、元服時ですでに五位の位が与えられている。親王などは四位で元服をする。五位より上の位は貴族として上位に入り、衣袍の色は深緋色。学問を志す者はより令制に厳しくあらねばならないので、五位であっても浅緋色を着用させられる。


 そもそも名家や親がやんごとなき身分の子息は、無理に学を志さなくても良い任官が与えられる。よほど親が厳しいとか、学者、学識者を輩出する家系でもなければ大学寮に入寮する必要はない。だが、やはり貴族の子息のたしなみとしての知識は必要なので、そういう人たちは浅緋色の衣袍を着て皆まとまっている。だが貫之の家系は衰退しているので、位は低い。祖父や親でさえも五位が精一杯なのだから。


 貫之達、不遇な家系の子息たちは皆、六位以下の者が着るはなだ色の袍を着ている。それはいやがうえにも良い家系と衰退した家との差を見せつけられた。同じ位の中にも上から正、従、下と三つの身分があり、位を一つ上げると言うのは大変な事だった。そして貴族の世界では五位と六位では身分に雲泥の差があった。五位より上は上位貴族としてその位なりの対応を受けられるが、六位より下は皆ひと括りに位低き者として扱われる。


 学問の世界は実力次第。皆が平等ということにはなってはいても、律令制の世界で身分は絶対である。学生がくしょうと言えどもその影響を受けないはずがなかった。身分の良い親を持つ浅緋色の者達と比べれば、縹色の人々は何かと遠慮が求められる。無論、席なども浅緋色の人たちより下座を与えられる。学ぶ事は同じでも相応の格差はあった。


 貫之はこの階級社会に戸惑った。彼は内教坊育ちだった。


 内教坊は女の世界とはいえ、実力の世界だった。もともとの身分が無いとはいえ、より美しい者、より素晴らしい者が称賛され、認められる世界であった。それは雅楽や舞、歌唱だけにとどまらず、人間関係や男女の事においてもそうだった。より自分を磨いた者が価値を認められる世界だった。本来学問を志すこの場所もそうであるべきなのだが、現実の違いを貫之は見せつけられてしまった。


「慣れない君には辛いだろうが……。しかし、だからこそ、我々は学問に励もう。良い成績を得て、少しでも官位を上げていこう」


 淑望はそう言って貫之を気遣い、励ました。他の六位以下の学友も貫之を慰める言葉をかけてくれる。

 貫之にはそうされる理由があった。五位の学生たちの視線が、貫之にたいして特に冷たかったためだ。彼らは衰退した紀氏の、それも傍流の生まれで、さらに内教坊育ちの貫之をひどく見下したのだ。


 貴族社会の中で女人にょにんは低く見られていた。しかも内教坊に暮らす女たちの親の位は皆低い。そんな位の低い女だけの世界には一種独特の視線が男達から送られていた。内教坊の若い女達の少しだらしない印象は、こうした男達の視線から来ていた。所詮そのような目でしか見られない彼女たちのあきらめにも似た感覚が、あの世界に独特の雰囲気をもたらしていた。妓や美を競い、粋を比べ合う世界にも、常にそういう影が付きまとっていた。貴族にとって内教坊は大内裏の中でも賤しい場所と見られていた。


 貫之の事は内教坊を訪れる男達の間でもよく知られていたらしい。見た目も良く女達に可愛がられていて、しかも聡明。歌でも漢詩でも即座に覚えてしまう彼はすでに幼くして人々に一目置かれていた。賤しい場所の育ちにもかかわらず母が貫之の大学寮入寮を望んだのも、友則がその世話を焼く気になったのも、そういう経緯があっての事だった。貫之はすでに幼少時から、


「利発な内教坊の阿古久曾おぼっちゃん」として、有名だったのだ。


 そんな貫之を五位の学生達は快く思わなかった。賤しい育ちをさげすむような目で彼を見ては、


「おや、ご立派な内教坊のお坊っちゃんがいらっしゃる」


 と、彼を嘲笑った。この言い方は貫之を深く傷つけた。妓女の母を、自分の育った甘く、優しく、美しく愛情深い世界を汚された気がした。すると学友や淑望は、


「あんな奴の言う事など気にするな。あいつは学問では君の足元にも及ばないじゃないか。君は僕達の中でも特に優れている。それは学者たちも認めているよ。君の寮試での成績は素晴らしかったとね」


 と貫之を慰めてくれる。しかし、どんなに悔しくても五位の者たちに言い返すことは出来ない。貴族社会で身分の差は覆しようがないのだ。

 その悔しさを彼らは学問にぶつけた。浅緋色の彼らが蹴鞠けまりに興じたり、さまざまな女人のもとに通ったりするのを尻目にしながら、一途に史記しき漢書かんじょ後漢書ごかんじょと言った唐国の歴史や漢詩を学んだ。そして淑望と貫之はメキメキとその秀才振りを表していった。




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