怨霊
「歌集の編纂はもっとも若い貫之が中心となって行われているのか」
宇多法皇は時平の報告を興味深そうに聞いた。
「編纂はこちらからの要望などはせずに歌人たちに任せているのですが……。せっかく熟練の二人も撰者に交えているのに、多くの歌を貫之に選ばせているようなのです。このまま彼らに任せていて良いのでしょうか?」
「良いも悪いも、彼らに任せたのは時平、そなたであろう?」
「そうなのですが、それでは歌に偏りが出るのではないかと心配になりまして」
正月行事も落ち着いたある日。もうすぐ編纂作業を初めて一年を迎えようとしている編纂者達に、時平は進捗状況を尋ねてみた。すると友則が歌選びに新鮮さを失わないようにまずは貫之に歌を選ばせ、それを他の者が吟味していると聞かされた。しかも友則や忠岑は選ばれた歌にほとんど口を挟んでいないようなのだ。
ひと月ほど様子を見たが、これでは何のために四人も撰者を選んだのか分からないと時平は不安になり、文芸に関しては的確な判断を持つ法皇に報告がてらその不安をぶつけてみたのだ。
「心配はいらぬ。友則の考えは正しい。貫之の続万葉集における部立ての配慮は目を見張るものがあった。この感性は今でこそ物珍しく真新しく思えるであろうが、少し時を置けばそれが当然であったように思われるであろう」
「あの部立がですか? あれには正直驚かされましたが」
「そうだ。我々の様な凡人には驚く事も、あのような感性を持った者には当然に考えつく事だったのだろう。……遣唐使を停止したことがあの時はひどく無理な事に思えても、今では内心誰もが納得しているように」
遣唐使の停止。それがあったからこそ、今こうして内政に力を投じる事が出来る。しかも唐の状況はあれからますます悪化し、地方はすでに国としての形を成していないと言う。遠からず唐が崩壊を迎えるのは誰の目にも明らかなのだ。
しかも今年は気候がおかしい。春だと言うのに嫌に暑い日もあれば、突然身の縮むような寒い日があったりする。おかげで稲の苗の育ちが悪く、田植えに影響が出そうなのだ。
そして雨が少ない。山の雪解けの水がある今のうちはまだ良いが、これで五月の頃になっても雨が少なければ田は干上がってしまいかねない。まだ春とはいえ、この様子では今年は豊作を望むのは難しい。陰陽師の占いも相変わらず今年は凶事を示している。道真が税を増やさずに済む方向で政を行っていた事が、今年はおおいに役立つことだろう。
都人は口には出さないが、道真の成したことの大きさを少しづつ理解している。それと同時に自分たちの憎んだ人間がどれほどこの都に必要な存在だったか気が付きはじめていた。人々は道真に対して罪悪感を感じ始めている。今ならば……ようやく道真は人々に受け入れられるかもしれない。
「このまま撰者たちに任せて良いのですね?」
「若い感性を重んじることは大切な事だ。私は帝やそなたを見てそう思う。あの友則が、貫之を見て判断したこと。心配には及ぶまい」
「では、帝にもそうお伝えします」
時平は道真を都に呼び戻せるか帝に相談しようと考えた。法皇の耳にはまだ入れられない。罪悪感を感じているからこそ、道真の権力の復活を恐れて反対する者も多数出るのは目に見えている。道真を呼びもどすためには幾多にもわたる根回しが必要だ。法皇にはそう言う事のめどがついてからお話するべきだろう。
そう思いながら帝のもとへ足を運ぶ途中、牛車から降りるなり忠平が青い顔で時平を出迎えた。普段は周りの目を憚って近寄らない忠平が出迎えるとはただ事ではなかった。
「いかがした? 忠平」
「兄上……。道真殿が、お亡くなりになりました」
「何? まさか」
時平には信じられなかった。道真の境遇が改善されないと忠平から聞かされてはいたが、道真が大宰府に旅立ってから、まだ二年しか経っていない。
「本当です。先ほど帝に大宰府からの文が届きました。弟子の味酒安行があちらの安楽寺と言う寺に道真殿を埋葬し、すでに都に向けて旅立ったそうです。たった今帝が迎えの役人を送り出しました」
「そ……んな。秋の初めには天拝山に登ったと聞いていたのに。そうだ、道真殿の子はどうした? 幼い子が二人ついて行っているはずだが。安行と共に都に向かっているのか?」
「それが……。子らは去年、寒さと飢えからすでに命を落としていたそうです。こちらの再三にわたる訴えで、食事がまともに与えられたのは子らが亡くなった後でした。しかしそれが災いし、食事のほかに酒が出されるようになると道真殿は飲めなかった酒を無理に浴びるようになり、日に日に身体を弱らせていったそうです。そしてついに……」
「亡くなられたと言うのか。道真殿が」
「……詩を書く事や、歌を詠むことすら禁じられて、無念の死を遂げたそうです」
あの、聡明な詩人から詩を奪うとは! 道真は大宰府でそれほどの扱いを受けていたのか!
「何と言う事だ。何と言う……」
「帝にはすでに知らせが届いております。私はこれから法皇様にお知らせせねばなりません。兄上、帝のことをよろしくお願いします」
そう言って忠平が去るとすぐに別の者が、
「比叡山の座主が、帝にお伝えしたい事があるそうでございます」と言って来た。
「今、帝は話をお聞きになる事はあるまい。後日参るようにとお伝えせよ」
「それがどうしても……と。道真殿にかかわる事だそうでございます」
そう聞いて追い返すわけにはいかなかった。帝も是非にと言うので時平は座主の話を聞いた。すると座主は道真が亡くなったことをすでに知っており、自分の枕元に道真が現れたと言う。
「道真殿は怨みのあまり神になられ、これから祟りに行くとおっしゃっておりました。思いとどまっていただこうと寺のザクロを食べさせましたが、お怒りのあまりザクロは炎となって燃え盛り、吐き出されてしまいました。帝は道真殿を都から追いやることをお決めになられておりますから、もしもと言う事がございます。徳のある僧などに祈祷させ、良く御注意下さるよう」
「道真……ああ、それほどまでに」帝は苦しげな声をあげた。
時平は帝の御心を思い、胸が痛んだ。誰よりも道真を死なせてしまったことを悔やんでいるのは帝であろう。その後悔の深さははかり知れない。
道真の死と比叡山の座主の話は瞬く間に都中を駆け巡った。朝廷の人々は祟り神となった道真に恨まれている。都はこのままで済むはずがないと。
もちろんおどろおどろしい話は貫之達にも伝わった。そして帝と時平から歌集編纂を申しつけられて彼らにも、災いが及ぶのではないかと人々は噂した。
「あの道真殿が祟るなど考えられない。あの方はそのような方ではない」
歌人たちは皆そう考えていたが、道真の弟子で最期を看取った安行が都に戻るとその考えも揺らいでしまった。安行は道真が役人から隠れて書き綴っていた遺稿を忠平に渡した。その詩は初めのうちは都で留守を守る家族の安否を気遣う、しみじみとした心情がつづられていたが、やがて厳しい生活に疲れて行く様子がありありと表されていた。
寒さと飢えに泣いて訴える子らに、昔は親の威光で裕福に暮らしていた者が落ちぶれて道端で賭博に耽ったり、姫君として扱われていた女が食べる物さえ無く身を落としていたことを幼子に教え、
昔は金さえ土砂のように余っていても
今は食事にすら事欠く人もいる
お前達を彼らと比べると
天の恩は 甚だ寛大に感じる
と漢詩にて諭している。しかし苦しい暮らしは幼子の命を奪ってしまった。それほどまでの苦しみを子に強いたまま死なせてしまった無念を道真は、
唯無童子読書声 (ただ、子供が読書する声だけが無い)
と悲しみを嘆いていた。この詩を役人に隠れながら、道真は涙ながらに綴ったのだろう。
さらに状況はひっ迫し、
身体は脂を失い 我が骨を枯らし
涙を添え 吾眼を渋らせる
脚気とできものが 我が身に与えるのは
陰の気をもたらし 苦痛は全身あまねく満ちる
ただこれは 身体についてのことだけでなく
屋根さえ雨漏りして 覆う板もない
衣掛けに掛けた衣服も 雨が濡らし
箱の中の手紙も 雨に損なわれる
まして 炊事の子の訴えるには
「雨でかまどに煮炊きする煙も絶えてしまいました」と言う
と記している。さらに弱った体は胸やけや腸の不調にもおよび、それを飲めない酒で紛らしていた事が書かれていた。聡明な詩人がこのような詩を残すほどに追い込まれる暮らしとは、果してどのようなものだったのか。さらに自らの死を悟ると、
病気は 老衰の後を追って来て
愁は 左遷された居住場所まで追いかけてくる
この死という賊から 逃れられる所など無いので
老死病死の苦を救う観音経を 一回念ずる
と、絶望からの救いを求める詩が書かれていた。
これはいわゆる「厳つい漢詩」ではない。道真の心が漏らした心情の吐露。「やまとの心」が書かせた詩であろう。それも、悲しみに満ちあふれた心の詩であった。
中にはあまりにも耐えがたかったのであろう。帝に対するあからさま過ぎる不満の言葉も書かれていた。これを目にした時平は涙ながらに、
「安行。すまないがこの部分を後々まで残すわけにはいかぬ」
と言って、綴られた詩の中の一部を抜き取ってしまった。そして、
「火を持て」と役人に灯火を持ってこさせる。安行は驚いて、
「何をなさいます! それは我が師が命懸けで残した詩でございます!」
と叫んだが、時平は、
「それでもこの詩を残すわけにはいかぬ。これを帝がご覧になれば、帝はどれほどの衝撃を受けられるか。帝にも大変に難しい苦悩があられたのだ。深い後悔にさいなまれている帝にこのような物をお見せする訳にはいかぬ」と言った。
「それなら、それを帝にお見せしなければ良いだけのこと。それは道真殿の魂が宿ったものです。それをあなたは燃やされると言うのか!」
安行は懸命に反論したが、
「道真殿に帝に対するこのような強い不満があったなどと、後々の世にまで残されるつもりか? 仮にも一度は学者の身でありながら大臣の地位にまで上られた方がそのような御心を持っていたとなれば、それは道真殿にとっても不名誉な事。これは残されても誰の幸せにもつながらぬのだ」
時平はそう言って容赦なくその詩を燃やしてしまった。安行が止める間もなく、道真の詩の一部はあっという間に燃え尽きてしまった。この詩を命懸けで守り通した安行の涙を持ってしても、その火を消すことはできなかった。
その一部を燃やされた詩であっても、帝にはその内容は十分に衝撃を持って受取られた。帝はその詩を読んだ後に倒れられ、病の床に臥してしまう。しかも田畑にはまったく振らぬ雨が、何故か都にだけは異様なまでに降り注ぎ、川の水かさが驚くほどに増えた。
帝が道真の祟りによって病に臥されたとして、役人があの比叡山の座主に内裏に参るようにと幾度も勅使を立てたが川は荒れるばかり。座主を載せた牛車は立ち往生した。
「この川の荒れようでは橋も流されてしまい、渡る事が出来ません」
牛飼いは途方にくれたが座主は、
「構わぬ。このまま川に向かって行け」
と言い、牛車を川に向かわせた。すると、ある人の話では座主の法力で川が二つに割れ、牛車はそこを通って行ったと言い、また別の人の話では座主が車を岸に押し返した火雷神となった道真に向かい、
「もったいなくも帝の宣旨によって参内するのだ。道理を知るならば、そこをお退きなされ!」
と説くと牛車は白川、賀茂川を車を濡らすことなく流されて行き、内裏の東門に到着したと言う。そして座主が無事に帝のもとに上がると、帝の病は癒えたと言う。一方道真の残した詩は「菅家後集」としてまとめられることになった。
都人は道真の怨霊に脅えるようになった。座主の話が噂として広まった途端に、帝が病に倒れられ、あれほど降らなかった雨が突然都にだけ激しく降ったのだ。その話は座主の法力の高さを讃える言葉と共に都中に広まった。心に宿した罪悪感は道真の怨霊への恐れとなり、今ははっきりと恐怖へと変わっていた。
「まだまだ道真殿は祟られるだろう。今度はどなたが怨まれるのか」
「そう言えば帝に歌集の編纂を命じられた貫之殿の母親が、病に臥していると言うぞ」
「貫之殿の母親は内教坊でも有名な妓女だった。帝と都の安寧を祈る舞を舞う妓女が、このような時に病に臥すとは……やはりこれも祟りなのではないか?」
「しかし、貫之殿の母親は確かもう五十に近いはず。単に御年なのでは?」
「だが、母は妓女、子は帝の勅命を受けている。しかも貫之は帝にも左大臣(時平)殿にも気に入られているではないか。何があってもおかしくはあるまい」
そう。貫之の母はあれから身体も弱り、夏の暑さに寝込むようになっていた。しかし母は、
「私に本当に何の徳も無いのなら、このように我が子の家で世話になることなど出来ずに、どこかの河原でのたれ死んでいたはずです。私は妓女として豊かな生涯を送り、自分があまり世話を焼けなかった我が子から、老いて世話を受ける事が出来ているのです。私は幸せ者です。決してこれは道真殿の祟りなどではありません。人の噂など気にしてはいけませんよ」
と言って、貫之を編纂作業に送り出した。貫之たちも敬愛していた道真が祟り神になったなどとは信じたくない。そのような事は無いと証明するためにも、この歌集は人々に認められる物としなくてはならなかった。帝からも、
「急かすようだがある程度まとまって形を整えたら、一度奏上して欲しい。この、人々の心が荒んだ今だからこそ、やまとことばの指針となるこの歌集は必要だ。後々加えていく歌があるにせよ、一度人々に和歌の素晴らしさを示さなくてはならない」
と、編纂を急ぐように促された。それでも数が膨大なのだ。まとめるだけでもまだ一年や二年はかかるだろう。
しかし帝が急かすのも仕方なかった。この年の夏は都には大雨が襲ったにもかかわらず、周辺の国々は酷い日照りが続いて作物が採れず、飢饉になるのは間違いなかった。しかも倒れたのは貫之の母ばかりではない。暑さに乗じて疫病が入り込んでいたのだ。
世の中が騒然とする中で、貫之達は黙々と編纂作業を続けていたのである。
道真の詩の内容は、「山陰亭」<http://michiza.net/>というサイトの漢文の意味を、自己解釈しています。漢文訳の著作権がサイトのウェブマスター様にあるので、意味を知る参考にだけ利用しました。
ですから正確な訳と言うより大体の意味ですので、ご了承ください。
このサイト、道真の漢詩についてはかなり詳細に載っています。
ご興味があれば一読をお勧めします。




