七夕
和歌の世界では春と秋はあわれ深い季節とされている。よって、その歌の数も他の季節より抜きん出て多い。結局春の歌は思うほど数を絞る事は出来なかった。
「やはり春の歌は名歌が多い。おそらく秋も同様に苦労するだろう」
忠岑はこれ以上はお手上げだとばかりに筆を置いた。
「数に気をとらわれ過ぎるな。目的は数を絞る事ではない。名歌を残す事なのだ」
友則もあまり最初から絞り込むのは無理だと感じたようだ。
「仕方がない。春と秋の歌はもともとが多いのだ。夏と冬の歌はそれほど多くは無いのだから釣り合いは取れる」
忠岑もそう言って春の歌は多く残す事とした。春と秋は近代の歌も多いし、自分たちの詠む歌もこの季節は数が増えるだろう。春と秋は二巻に分けることになりそうだ。
「ええ、出来れば揃えて載せたい歌もありますし」
貫之がそう言って示した紙には、
散りぬれば恋ふれどしるしなきものをけふこそ桜折らば折りてめ
(散ってしまえば恋しく思う事も出来ないのだから
今日こそ桜の枝を折るならば折ってしまおう)
と言う歌と、
折りとらば惜しげにもあるか桜花いざ宿かりて散るまでは見む
(折り取ってしまえば惜しくなるのだろうな。桜の花は
さあ、宿を借りてでも散るまでは見ていよう)
という二つの歌が書かれている。
「ほう。これは確かに揃えて書くとまるで贈答歌のようだ」
躬恒は興味深そうに二つの歌を詠みあげる。
「それに散りゆく桜を惜しむ心が一層引き立つ。貫之、良い所に気付いたな」
友則も関心を示した。
「それに言葉の繋がりが良い。『折らば折りてめ』に続いて『折り取らば』とすると、いかにも花惜しむ者達の会話が聞こえるようだ」
忠岑も歌を口ずさんで言葉の流れを楽しんだ。この歌は間違いなく歌集に入るだろう。
「こういう言葉や音の並べの妙に関しては、貫之の感性はずば抜けているからな。物名などが得意な訳だよ。こういう編纂作業は貫之が一番向いているのかもしれない」
そう言う躬恒に貫之は、
「そのわりにはお前は私の選んだ歌をすぐに却下するじゃないか」と文句を言う。
「だから私はなるべく素朴な歌を多く残したいのだ。君は古歌にまで技巧を求めるから……」
躬恒が反論しようとするので友則が慌てて止める。
「おいおい。その議論は出尽くして、相応の数に納めただろう? また蒸し返されてはたまらんぞ。いい加減夏の歌に手を着けさせてくれ」
「まったくだ。四月の初めに作業を始めて、春の古歌の選別だけでもうすぐ七夕を迎えてしまう。今夜も遅くなってしまった。出来れば夏らしい季節のうちに、夏の歌を選びたいものだ」
忠岑もそう言って苦笑いする。あれからの三ヶ月はあっという間に過ぎたのだ。
「七夕……。もうそんな頃なのか。ここに籠って作業していると、季節を忘れてしまう」
貫之は呆然としていた。本当に季節を忘れていたらしい。
「歌人がそれではいけないな。内裏には美しい庭もあると言うのに。時には庭でも眺めないと」
友則はそう助言したが貫之は、
「いえ、私は花でも鳥でも空想でその心になる事が出来ますから」
と、どこか自慢げに答えた。すると躬恒は、
「花や鳥は空想でもいいが、女はやはり実物に限る。世の恋人たちは七夕に向けて毎夜のように逢瀬を楽しんでいるだろうに、私はここで人の恋歌を選んでばかりだ」
と、口をとがらせる。
「なんだ? 約束があるなら七夕の夜は君はいなくてもかまわないぞ」
貫之はそっけなくそう言ったが、躬恒は、
「当日だけ行っても意味は無いんだよ。女と言うのはまめやかに通いつめてこそ心開いて、七夕の逢瀬も喜ぶもんなんだ。普段なしのつぶてで七夕の晩だけノコノコと姿を見せたって、追い返されるのが関の山だ。まあ、君のように姿が麗しければそんな苦労は無いのだろうが、私のように平凡な顔で歌でかろうじて機嫌を取っている身には、そう言う事が重要なんだ!」
「別に私の容姿など大した事は無いと思うが。帝や左大臣(時平)様は実に容姿端麗、優雅でお美しいが」
貫之は高貴な二人の姿を思い出しながらそう言った。帝は神々しい御身分の持つきらびやかさと、若さあふれる美しさがある。対して時平は名家に相応しい気品を漂わせながらも、なよやかな、柔和な美しさを持っていた。
「帝はお生まれが違うのだから当然として、左大臣様は想像とは違う美しい人だったな。御権威も高く政務も強硬になさると聞いたから、もっといかめしい方かと思った」
躬恒が屈託のない感想を述べるが、あの道真の追放からはどうしても時平の事を剛腕な人だと思い込みがちなのは躬恒ばかりではないだろう。
「私が泉大将(定国)様からお聞きした左大臣様の人となりは、かなり温和で物腰も柔らかな方だと聞いていたから、それが本来の御性格なのだろう。私も若い頃の御歌を聞く限りでは穏やかで、けれど情熱的な明るい人柄を想像していた。御容姿もそれが現れるから、明るく美しい表情をなさっておいでなのだろう」
時平の若いころはその美しさが評判となったものだった。色事も多く女性に人気があり、さまざまな恋の浮名が絶えなかった。女性達とかわした歌が流行歌になる事も多く、特に有名女流歌人である伊勢と言う人との恋の歌は評判を呼んだ。権力者を親に持つ若き美男の貴公子と、恋に手なれた美しい恋歌の達人とのやり取りは、都中の女たちを熱狂させたのだ。都の女で、
ひたすらに厭ひはてぬるものならば吉野の山にゆくへ知られじ
(私をひたすら果てるまで厭い続けるのならば
私は吉野の山に行方をくらましてしまおう)
我が宿とたのむ吉野に君し入らばおなじかざしをさしこそはせめ
(私が暮らしたいと思っていた吉野にあなたが入るのなら
一緒に同じ桜の挿頭をさして山に入りましょう)
などの歌を知らぬ者はいないだろう。
「帝に左大臣様に貫之。これが女ならここにいる事が嬉しくてたまらないだろうな。いや、帝や高貴な方のお傍にいるのは自分も嬉しいには違いないが……七夕が近ければやはり女の顔が見たいものだ」
躬恒はまだ愚痴を言っている。
「夜ぐらい自由に歩けばいいじゃないか。誰も止めてなどいないぞ」
貫之は意地の悪い顔でそう言うが、
「そうはいくか。私だって他の何よりもこの編纂の方が大事なんだ。たとえ一夜だってつまはじきにされてたまるか」
と、躬恒はふくれる。
「わかった、わかった。では今夜から七夕の夜まではそれぞれ帰る事にしよう。友則殿も家族が恋しいだろうし、忠岑殿も泉大将様に作業の進み具合を報告したいだろう。先は長いのだ。少し休むのにちょうどいい」
貫之の提案で連日夜中まで続けていた編纂も、七夕までは休むことにした。それほど皆作業に没頭していたのだ。
「では、八日に」
そう言ってそれぞれ休むことにしたのだが、貫之は休みの間に自分が残したいと思う夏の歌をある程度まとめておきたいと思い、日中は本来の職場である大内裏の御書所に様子をうかがいに行き、夜には御文庫で続万葉集の歌を選んでいた。
一人で作業すると根をつめてしまい、またもや夜中までかかってしまった。これでは何のための休みか分からないと思いながらも、ぼんやりと夜明け近い有明の月を眺めていると、誰かが御文庫に近づいてくる。誰だろうと思っていると、
「お、貫之じゃないか。気になって休めないのか?」
と、問いかけたのは躬恒であった。
「お前こそ妻の所に行ったんじゃないのか? 休みたがったのはお前の方なのに」
「いや、月が綺麗だから帰りがけに寄ってみただけだ。お前、行く女のあてが無いのか? お前なら歌の一つも贈れば相手には困らないだろうに」
「歌集の編纂が気になって、そんな気になれないさ。お前こそここに来るならもっと早く来ればよかったんだ。さっきまで良い月が出ていたんだ」
そして貫之は戯れに歌を詠む。
かつ見れどうとくもあるかな月影のいたらぬ里もあらじと思へば
(月を見ていると美しいと思う反面、疎ましく感じてしまう
月が照らさぬ里は無いように、君が月を見る場所も他にあるのだと思うと)
「皆、歌人と言えど歌ばかりではないんだな」
貫之は寂しげにつぶやいた。
「お前も家族を作ればいいんだよ。人生は歌だけじゃないはずだろう?」
「言っただろう? 私は五位の位を頂くまでは家族は作らないと」
躬恒は友人に優しく微笑んで見せた。歌才にも容姿にも、歌のための環境にも恵まれたこの友は、実はそれだけ繊細で人を大事に思い過ぎるのだ。誰も傷つけまい、不幸にするまいと考えばかりを巡らせて、自分に素直に生きられずにいることをよく知っていた。
「位が無ければ不幸になるとは限らないさ。だが、それがお前の優しさの在り方なんだろう。私はお前のそういう生き方を否定したくは無い。ただ、お前が寂し過ぎやしないかと思うだけだ」
「……その寂しさが私の歌になる。それにこうしてお前もそばにいてくれる。私にはそれで十分だ」
「ふん! 意地っ張りめ。男女の事は結局は巡り合わせさ。いつかはお前も我を通せなくなるような女に出会うだろうよ。まあ、それまではせいぜい私が月見に付き合ってやろうじゃないか」
「だから、早く来ればよかったと言ったじゃないか。もう夜が明けてしまった」
「明日の夜は早く来るよ。どうせお前は明日もここに籠る気だろう? 私も明日は早めに妻と別れて、お前の所に来ようじゃないか」
躬恒はそう言って本当に次の夜もやってきた。そして、
「明後日は七夕だと言うのに。なんだか面倒な別の女を囲った気分だな」などと言って笑った。
「面倒とはなんだ。もし私が女なら、歌才あふれる美女のはずだ。光栄に思え」
貫之もそう言って笑う。
「お前の容姿なら確かに美女になりそうだが、心まではなあ」
「なにを。私は鳥の心にも、花の心にもなれる。女の心などもっとたやすいぞ」
「ああ、そうだった。まったく天才歌人ってやつは厄介だ」躬恒は苦笑いした。
そんな事があった後、七夕の翌日の早朝、貫之にもとに躬恒から文が届けられた。こんな早朝に後朝の文(一夜を過ごした男女がかわす手紙)のようだと思いながら受取ると、
君に逢はで一日二日になりぬれば今朝 彦星の心地こそすれ
(君に逢えずに一日、二日と経ってしまったので
今朝はまるで年に一度の逢瀬しか許されない彦星になったような気持がする)
と書かれている。先日「面倒な女」などと言った続きなのだろう。貫之も笑いながら筆をとって返事を書く。
あひ見ずて一日も君にならはねば織女よりもわれぞまされる
(君と逢う事も見る事も出来ない一日に慣れていないので
織姫よりも私の心の方が寂しさは勝っています)
そうら、これぞ「面倒な女心」と言うのもだろう。とばかりの恨み節。これを受け取った躬恒が吹きだすのが目に見えるようだ。
そう。私が寂しがる必要は無い。私は鳥にも花にも風にさえなれる。こうして女の心にすらなる事が出来る。貫之は満足していた。
歌の世界にいる限り、貫之には無限の可能性が広がっているのだ。




