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曲水宴の和歌

 内裏は一応の平穏がもたらされ、醍醐帝の御世は穏やかさを取り戻した。さらにこの年、帝には喜びごとも訪れた。帝の妃である為子いし内親王が懐妊したのである。

 この知らせに帝はもちろん、宇多上皇は大変に喜んだ。内親王は上皇の同母妹にあたるため、有力貴族による外威の介入を懸念していた上皇にとって、同母妹による皇子の出産は悲願と言ってよかった。その皇子を無事に東宮の地位につければ、自分の血筋による親政を確実にする事が出来るからだ。


「内親王が皇子を産めば簡単に権力者が政に介入することは無いだろう。我が世は私の立場が権力者によって落ち着かぬ状態であったために、帝と言う地位の信頼が揺らぐ事になってしまった。しかし今の帝は我が子を私自身の意志で継がせた正当な者。そして今度生まれる皇子に帝の地位が受け継がれれば、より正当な系統として人々も敬う事であろう。それこそが私の夢見た政。夢の実現にまた一歩近づく事が出来たのだ」


 喜んだ上皇はその秋、内親王御懐妊の御礼と安産を祈るための畿内各神社への参内を兼ねて、御幸みゆきする事となった。風流好みの上皇に相応しく紅葉の美しい頃を選び、まずは川嶋之原かわしまのはら片野かたので鷹狩りの競争を楽しみ、宮滝みやたき龍田山たつたやま住吉社すみよしのやしろなどを巡った。この時上皇はそれぞれの地で詩や歌を同行させた廷臣達に詠ませ、専門歌人無しでも詩歌の遊びが文化として浸透していることを喜んだ。

 ただ、大和を通った時には良因院りょういんいんに住む素性法師を招き、歌宴を一層華やかにした。その時道真も、



  このたびはぬさもとりあへず手向山たむけやまもみぢの錦神のまにまに


 (このたびの旅路では幣(切り裂いた布を束ねた物)の用意も出来ませんでした。

  代わりに手向山の紅葉の錦を神に手向けます。御心のままにお納めください)


 と、雄大なかけ詞を効かせた歌を詠んだ。それを受けて素性法師も歌を詠む。



  手向けにはつづりの袖もきるべきに紅葉に飽ける神や返さむ


 (手向けのために、私の生地を綴り合せて直した粗末な衣を切ってでも

  幣を捧げるべきでしょうが、神は紅葉で満足されて、私の幣など返されるのでしょうか)



「これはまた随分御謙遜なさって。神はそれほど狭量ではありますまい。あなたのような歌人なら衣の袖を引き裂かずとも、その歌を愛でてお納め下さるに違いありません」


 そう言う道真に素性法師は、


「いいえ。このような晴れがましい上皇の御幸に御参列するあなた様に比べれば、私の歌などどれほどの物でございましょうか。是非その徳でもって、今の御世を良い物にして下さい」


 と言って、道真を尊敬のまなざしで見ていた。


 つづりの袖は粗末な衣の例えである。そんな粗末な衣を着る自分の歌より、高貴な身の上となった道真の歌の方がずっと優れ、神も紅葉を手向けると言う道真の歌をお気に召すに違いないと讃えたのである。それほど学者で詩人の道真が高い地位に付き、こうして上皇の御幸につき従っていることが他の詩人や歌人の喜びとなっていたのである。朝廷では孤軍奮闘を求められる道真にとってこうした歌人たちの喜びと励ましは、どれほど心の安らぎをもたらしたことだろうか。


 年明けて昌泰二年(八九九)二月十四日。時平は左大臣に、道真は右大臣に任じられた。時平の二十九歳にしての左大臣昇任も特別だろうが、何と言っても目立つのは道真の右大臣昇進だろう。これまで学者の身でありながら右大臣と言う高い地位を得た人は、まだ都が奈良におかれていた遠い昔に、やはり秀才と言われた吉備真備きびのまきびのみである。当時より家柄や身分を重視するようになったこの時代に、学者上がりの道真が右大臣の地位に付いたのは大変な快挙であった。かりそめの安定かもしれないが、内裏は今平穏を保っている。そして道真と時平は現実的に帝の政を支える要となっていた。その実情に合せた地位を、帝は二人に与えたのだ。


 これは、藤原家の者達から帝に、


「時平は年若くはありますが、前の帝の御世から長く政を支える功臣です。今年は帝に御子様が生まれる大切な年。帝のこれからをますます支える時平を、是非、昇進させていただきたい」


 と言う強い願いがあっての事だった。実際、帝の政は時平と道真によって支えられている。だが帝は道真の昇進に躊躇があった。最近道真と時平は政務において意見の相違がみられるようになっていた。時平は帝のためにと政務の改革にも積極的ではあったが、それでもやはり藤原家の氏長者としての責任も感じるらしく、貴族社会を大きく変革するような政策は避ける傾向があった。だが周りの者との調整力があり、彼が源氏や藤原氏を上手くまとめてくれているのは帝にとって大いに頼りになっていた。


 一方道真は学者上がりに相応しい理論派で、物事の本質を見抜き、その論理に隙は無い。だからこそ学者でありながら上皇から内覧を任せられている。

 だが、そうした道真の強引な理想論や上皇との結びつき、周りと調整を図ろうとしない態度は敵を増やす一方である。もちろん道真の後ろに上皇がいるからそのような態度が可能なのだが、その上皇も政務に直接は口を出せずに道真に頼っている。道真はやや理想に偏り過ぎなところはあっても、政に彼の聡明さと知識は欠かせない。それに時平を昇進させる以上道真も昇進させねば、二人に内覧を任せている上皇が納得しないだろう。


 だがそれが帝の政務の火種である事も確かで、帝は時折時平に、


「道真の意見は確かに正しい。荘園の問題など道真に理はあるのであろう。だが、政と言うのは一握りの人間が思うようにするべき事ではない。やはり多くの者の協力が必要だ。だが道真に上皇が何かと相談し、二人の関係が深くあるほど周りは警戒を強めてしまう。上皇と道真もそれが分かっていながら、何故ああも強引で頑ななのであろうか」


 と、道真と上皇の結びつきを懸念した。時平は、


「上皇様は何としても藤原家に権力を渡したくないのでしょう。上皇様は過去に私の父の権力に屈し、一度臣下に下されておりますから。それがその後の様々な問題を生んだ事に上皇様は長く悩まされておいででした。主上にはそのような事が無いようにとの親心があろうかと存じます」


 と、上皇を擁護した。しかし帝は、


「本当に親心であろうか? 父上は私や私の政の事よりも、御自分が臣下に下された恨みの方が強く、源氏や藤原家を極度に疎んじているのではないだろうか? 道真はその父上に大恩あるために、父上の御心を重んじた政を行いたいのではないだろうか?」


 と、道真と上皇への不審を口にする。


「その事は私には何も申し上げられません。上皇様を傷つけたのは私の父ですので。しかしそれも我が父がその時に必要だったからこその処置だったはずです。我が藤原家の権力はそれだけ大きく、皇位継承の争いが起きては様々な影響があると判断した末の事だったのでしょう」


「すまない。この事は時平にとっては難しい立場であったな。私も父上がただの恨みから道真を重んじている訳ではないと思ってはいるのだ。だが、あまりにも他の人々に耳を傾けずにいるのは道真のためにも良くないように思える。それに父上も政務から離れるうちに御心を狭められて、余計頑なになってしまわれた気がする。もう少し軟らかく物事を考えていただかなければ、何か良くない事が起こるのではないかと心配なのだ。特に道真は多くの者から疎まれているし」


 帝は多くの者が抱いた道真へのあの殺気を忘れられずにいた。道真は過去に遣唐使として、死出の旅にも等しい旅に送られかけた事がある。時平の手前口には出せないが、道真の身に関しては源氏や藤原氏の人間のすべてが信用できるとは思えなかった。


「主上の御言葉はごもっともでございますが、今は上皇様が道真を守っておりますから御心配することも無いでしょう。上皇様もまだまだお若い。皆も文化に貢献なさっている上皇様を、帝位を退いたとはいえ尊敬しております。そのうち徐々に道真個人の権威も強くなりましょう。大臣おとどの地位は決して軽い物ではございませんので」


 帝も多少の不安があるとはいえ、今は朝廷が安定しているので問題は無いだろうと考えた。上皇が道真を守っている今のうちに、道真が今の地位を安定させてしまえばよいのだ。

 もう少しで我が政は安定する。貴族たちは朝廷に権力を集中させ、荘園の問題を見直すことを嫌がっているようだが、参議の数が多い藤原家の氏長者である時平が私や道真に賛成してくれている。貴族の権威も朝廷あっての事なのだから、時間はかかってもいずれは解決できるであろう。そのために私も早く皆の信頼に足りる帝となろう。私が少しでも時平や道真に頼らずに済むよう、多くを学び、自分で政を決めればよいのだから。


 若い帝は真っ直ぐにそう考えていた。



 一方、帝の不安をよそに、和歌の世界は華やぎを増していた。歌人たちの私的な歌会もますます増え、良い歌が詠めるよう色々な工夫が生まれた。

 この年の三月三日の夜、貫之の家で歌人たちによる歌会が催されることになった。最近はそう言う歌人個人の主催による歌会が増えていた。その時友則が貫之に変わった趣向で歌を詠むことを提案した。


「歌は早く詠めば良いというものではないが、上皇の女郎花歌合の余興のように、とっさの機知が歌の価値を高める事もある。ここは時間を制限した歌を詠みあってはどうか」


「限られた時間で良い歌が詠めることを競うのですね? さて、どのように時を決めましょう」


「内裏の詩宴に曲水宴ごくすいのえんと呼ばれるものがある。三月三日の節句に曲がりくねった遣り水を小川に見たて、酒を入れた杯を上流から流す。その下流を詠み人の席とし、自分の所に酒が流れ着くまでに詩を創り、杯を受け取って詩を披露するのだ。これを歌でやってみてはどうだろう? 幸いこの家には躬恒が苦労して作った優美に曲がりくねった遣り水の小川があるのだし」


「内裏の詩宴を真似ての歌会とは優雅ですね。私も物名などは早く思い付く方だし、即興の得意な躬恒もいる。これは面白そうだ」


 そんな訳で当日、小川に見立てた遣り水のほとりに歌人たちの席を用意し、かがり火を焚いて水の流れも緩やかに調節すると、雅やかに曲水の歌会が始められた。この席には忠岑や千里、興風など多くの歌人が招かれた。さっそく即興歌が得意な躬恒が上流の方に、ついで貫之も席を取った。友則は酒を継いだ杯を手に上流に行くと、


「内裏の詩宴を真似るのですから、詠題は漢詩からとりましょう。まずは春の水辺に相応しく『花浮春水』を題に、水に花が浮かぶ様子を詠んでいただきます」


 と言って美しい箱のふたに杯を載せ、水に流す。ゆっくりと流れて来た杯を皆手に取り、歌を詠む。


 貫之は最初の歌を、



  春なれば梅に桜をこきまぜて流す水無瀬みなせの川の香ぞする


 (春になると、散り落ちた梅の花に桜の花びらが混ざって水無瀬川を流れていく

  きっと川からは花の香りがするのだ)



 と詠んだ。だが、梅と桜が共に水を流れる姿をどう言葉にしようかと案ずるうちに杯が流れて来たので、仕方なく「こきまぜて」とやや不自然な言葉を使った。悔いが残る。


「では次は『灯懸水際明』で、水際をかがり火が大変明るく照らす様子を詠んで下さい」


 躬恒の席には一番最初に杯が流れ着くため、誰よりも早く詠むことを求められる。しかし、



  水底みなそこの影も浮かべるかがり火のあまたに見ゆる春の宵かな


 (水の底まで浮かび上がらせるかがり火の明かりが、数多く見える春の夜だなあ)



 と、速詠にもかかわらず情景豊かに、春の夜に水の底まで浮かぶほどの明るい灯りを詠んでいる。そしてまとまりも良かった。貫之は今度はもっと良い歌を詠もうとムキになっていた所に躬恒がとても良い歌を詠んだので、焦りが出た。



  かがり火の上下うえしたわかぬ春の夜は水ならぬ身もさやけかりけり


 (川を照らすかがり火で、水中と水上の分け目も無いほど明るい春の夜は、

  水では無いわが身さえ、はっきりと見えることだなあ)



 かがり火が照らしているのは水なのだが、その水の上下どころか誰も「見ず」にいた「水」でもない自分の身までも、はっきり見えるほど周囲が明るく照らされている。と詠みたかったようだ。ただ、焦りのために歌意のまとまりが悪くなった。短い時間に他の人の歌の出来を意識しながら凝った歌を詠もうとしても、かけ詞を上手く活かすのは難しいようだ。


「即興で物名歌が詠めるのだから、私は速詠は得意だろうと思ったんだが」


 歌の出来に満足のいかない貫之は躬恒に愚痴を言う。


「短い時間でその発想は悪くないと思うが……。それなら席をもっと下流にして、少し余裕を持ったらどうだ?」


 躬恒にとってはそれほど悪い出来ではない歌だが、確かに貫之であればさらにまとめた歌にも出来そうだ。そのもどかしさも分かるので、躬恒は貫之に席を変えるように促した。


「今夜は雲が多く、月も見えないようですね。最後は『月入花灘暗』で。月が隠れて暗闇の中、花の流れる川を愛でる事を詠んでいただきましょう」


 貫之は今度は時間があると思ったが、他の歌人が詠むのを聞くとどうしても心は焦る。



  入りぬれば小倉の山の彼方をちにこそ月なき花の瀬ともなりぬれ


 (月が小倉山の彼方に沈み、暗闇の中で川は花の浮かぶ早瀬となっている)



 小倉山の「おぐら」で暗闇の縁語とし、月の無い夜の暗さを表した。闇夜を表す常套句である。そんな月の無い夜の闇をひっそりと花の浮かぶ早瀬は流れていく。闇の中の花だからこそ、心の中にはその姿が浮かび上がる。闇を強調することによって逆に花の美しさを表した。良い歌ではあるが歌意が少し分かりにくいかもしれない。


「難しいな。速詠が難しいと言うより、良い歌を早くと焦る心を落ち着かせるのが難しいようだ。友則殿の『秋の春霞』の歌など、良くあの場で詠めたものだ」


 席まで変えたにもかかわらず納得できる歌が詠めずに貫之は、自分の心の未熟さを嘆く。


「いや、今夜の歌は皆良く工夫された良い歌が多かった。貫之の最後の歌も難しい題を良くこなしている。歌意は分かりやすいに越したことは無いが、それにとらわれて語感や音がまずくなったり、安易に字余りになる方が良くない。出来の良い歌だったと思う」


 友則はそう言って褒めるが貫之は、


「しかし躬恒の歌は早く詠んだにもかかわらず、歌意も分かりやすくて響きが良く、優雅です」


 と不満そうだ。それを聞いた躬恒が今度は言い返す。


「おいおい。私の歌は何より早いのが取り柄。かけ詞の巧みさや、心揺さぶる情感は貫之には敵わない。これで即興歌まで君に上回られてしまったら、私は君に何を自慢すればいいんだ?」


「いや、本当に今夜の歌会は素晴らしい出来の歌が多かった。このような場で競い合うと、歌も一層良い物が詠めるのだな。今夜この場にいられたことが私には嬉しいよ」


 二人の不満をよそに友則は満足そうにそう言った。他の歌人たちも頷いている。それほどこの夜の歌会は優れた歌が多く詠まれたのだ。


「ええ。私はこの歌宴を何よりの誇りにしますよ。今夜ここに集わなかった人は、歌の道を知っているとは言えないでしょう。この歌宴に参加せずして歌の事を物知り顔に語ることなど天の下では出来ませんよ」


 と、躬恒がまるで自分の自慢のように語るので、貫之も他の人々も思わず笑い出してしまった。春の宵に歌人たちの明るい笑い声がのどかに響く。

 

 しかしこの穏やかさは時を置かずに一変する。このわずか十日余り後の昌泰二年三月十四日。

 上皇の同母妹で帝の妃である為子内親王が女児を出産した際に、若い命を落としてしまったのである。


 そしてこの内親王の死は、上皇と帝の関係に深い影を落とすきっかけとなってしまった。

  


  


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