初雁の歌
「帝の即位も終え、落ち着く事が出来た。そこで私の主催で禁中にて歌合を催そうと思う」
宇多上皇の声がかかり、禁中で歌合が催されることになった。一部の人々は、
「ようやく即位の儀を終えたばかりなのに早速の催し。しかも歌合などとは」
「歌合ならこの春、いまの帝が東宮でいらっしゃる時、『御息所小箱合』が行われたばかりでございます」
と言う非難の声もあったが、上皇はあえてその声を無視した。これは帝の即位を上皇が祝う祝の席であり、譲位したとはいえ帝の後ろ盾として上皇がこうした催しをやや強引にでも実行できると言う、上皇を疎ましく思う者達への牽制の意味があった。そして、新帝に国風文化の……和歌の世界の生の姿を直接見せる場でもある。上皇が望む世界の素晴らしさを、少年帝の心に是非焼き付けておきたかったのだ。
七月の新帝即位を終えて、季節はすでに秋となっていた。その場には有名歌人が集められ、そこに友則、貫之、躬恒の姿もあった。
少年帝と上皇は御簾の中に身を並べ、くつろいでいた。厳かな詩宴とは違い、禁中と言えども歌合はどこか華やかさが勝っている。
「歌合は詩を競うのとは違って、あまり固く緊張せずに楽しめますね。慣れぬ事ばかりで心休まる間の無い私には、良い息抜きになりそうです」
少年は無邪気に宴の明るい雰囲気を楽しんでいた。しかし上皇は、
「帝にはそのように御覧になれるのですね。しかし、ここで歌を詠む者たちにとっては、真剣勝負です。皆、必死な思いで歌に心巡らせていることでしょう。まあ、見ていなさい。和歌の世界がどのような物であるか。それを見る臣下達の目にも、御心を配るとよろしいでしょう」
上皇は意味ありげにそう言う。この明るい雰囲気の中に何があると言うのか? 帝はいぶかしく思いながら歌合に耳を傾ける。
歌合は秋に相応しい季節の歌が次々と披露されていく。歌人たちは左右に分けられ、右列、左列それぞれに趣ある歌を披露し、競い合う。右列には参議の人々と関わりの深い人や、臣下などが多く並び、左列には上皇が招いた歌人たちや、道真が注目して親しくしている人たちなどが並んだ。貫之達は左列に並べられた。秋の花や虫の声など秋に相応しい題があげられ、歌人たちも苦心した歌を詠みあげていった。歌題が『初雁』へと移り、貫之の番となった。
「彼が紀貫之。時平のお気に入りの歌人ですね。以前雁信の歌で悪くない歌を詠んだが、紀友則がさらに上回る歌を詠んで話題となった事があるそうですが」
帝は早くから上皇に歌についてのさまざまな情報をもたらされていたので、和歌への好奇心は強い物を持っていた。
「そう言う事も帝にお話しました。しかしあれから五年。彼も今では『専門歌人』として名を知られるようになりました。今日はどれほどの歌を詠むのでありましょう」
初雁のなきこそわたれ世の中の人の心の秋しうければ
(秋に初雁が渡って行くが、私も世の中を泣きながら渡っている。
世の中の人や、あの人の心が飽きてしまったのが辛いので)
「かけ詞の巧みな詠み様ですね。雁の鳴き声に自らの悲しみに泣く声を投影させ、雁の渡りを辛くとも渡らねばならぬ世間の事に当てはめている。それを世間の冷たさや、自分の事を飽きてしまった恋人への恨みと辛さへの心情にかけている」
帝はそう言って感心している。少年には言葉のこなれた巧みさが、印象的に感じるのだろう。
「お若い帝にはそちらが耳に残るのでしょう。しかしこの歌。響きも良く、心に沁みるものがあります。物悲しい秋、泣き渡らねばならない世の中の事、恋の事。それを雁の渡りの姿に我が姿を重ね見上げる心。帝ももう少しすればこの悲しみが伝わることでしょう」
上皇はそう言って帝の若さを惜しんだが、帝は、
「いや。私にも伝わる物がある。若い私にはそう言う心が分かるとまでは言えないが、この場の雰囲気……多くの者の心に沁みている表情で分かる。これは、良い歌なのであろう」
と、少年らしからぬ理解の深さを見せた。帝は上皇に道真や時平などの周りの意見を聞き、謙虚にあるようにと常々言い聞かせられていたので、こうしたその場の人々の心の動きを敏感に感じられるようになっていた。素直な愛らしい顔立ちはまだ幼さが抜けないが、心には帝としての聡明さが芽生えている。その整った顔の一瞬大人びた表情に上皇は安心する。これなら帝は自分が思うより早く御成長されるだろう。そうすれば朝廷は安定できる。
右列の者が詠み終えると、躬恒の番になった。
「この者は貫之と良く並び称されているそうですね。身分はたいそう低いようですが」
「しかし、歌詠みとしてはかなりの技巧派です。良くお聞きになると良い」
帝と上皇の注目の中、躬恒の歌が詠まれる。
初雁のはつかに声を聞きしより中空にのみものを思ふかな
(初雁の声のようにわずかにあの人の声を聞いてから、
上の空になって恋のことしか考えられなくなった)
「これも面白い言葉の歌ですね。はつかりをはづかに、雁の飛ぶ中空は心の中空」
「言葉の匠だけではありません。これは恋する者が恋の思いに心を舞いあがらせる思いを表現しているのです。恋の喜びの最中、人は秋の青く高い大空を舞いあがるような思いに駆られるのです。これは恋をした者ならだれもが知る心。人の心を巧みに詠んだ歌なのです」
「……深いのですね。この歌は」
「はい。これは貫之に並び称されるのが分かります。両名とも若くとも素晴らしい歌詠みだ。ぜひ、御心に留めておいて下さい」
また、右列の歌が詠まれ、続いて左列の友則の番となる。すると右列の念人が、
「友則殿は以前雁信の歌で、貫之殿を上回る歌を詠まれましたが、さて、本日は彼より良い歌を詠めるのでしょうか?」
と言いだした。すると同じ右列の者が、
「おお、そういえば。先ほどの貫之殿の歌は左列の方とは言え、なかなか良い歌で我々右列は苦心させられています。ここは当然友則殿は素晴らしい名歌を詠まれるでしょうから、我々は勝ち目が無くなってしまいますな」
などと言って笑いあう。そうは言うが実際には右列も良い歌が詠まれていて、今のところ左右優劣つけ難いほど拮抗している。その緊張感の中でこのような言葉を浴びせられれば、友則も委縮しかねない。友則は左列のもっとも有名な歌人で、上皇のお気に入りだ。右列方の人間にとって友則があまり良い歌を詠みあげては面白くない。むしろ失敗の一つもして欲しい気持ちがある。やはり上皇のお気に入りである貫之共々恥をかかせたいと、陥れるつもりがあったのだろう。
聡い帝は場の雰囲気からそれを察した。
「……つまらぬことを言うな、右列の者達は。ちょっと注意させましょう」
帝はそう言ったが、上皇はそれを止める。
「いけません。ここは歌人の世界。彼らの晴れ舞台であり、競う場でもある。こういう事も含めての歌合です。何があっても歌で勝つことが肝要。黙って見守るべきです」
良歌が続き、緊張が高まったところでそれをあおる言葉を浴びせられる。その場は異様な雰囲気に包まれた。引き合いに出された貫之など、気の遠くなるような思いである。しかし友則は一瞬、貫之に微笑みかけた。貫之は動揺のあまり友則の表情を見間違えたかと思ったが、そんな中で友則は、
「即興の歌が出来ました。御披露させていただきたい」
そういって歌を講師に渡すよう人に頼む。講師がゆっくりとその歌を詠み上げた。
「はるがすみ……」
これに人々は面喰った。この歌合は秋の風情を題に行っているもの。しかも詠題は『初雁』だ。あまりの異様な緊張にさすがの友則も上ずり、季節の勘違いを起こしたのかと皆考えた。さっきまでの緊張がほぐれ、左列の者は恥ずかしさに顔を赤らめた。右列の者はここぞとばかりに「くつくつ」と笑う者が出てきた。中には大袈裟に友則を指差しながら嘲笑う者までいる。
「かすみていにし……」
笑いは途絶えない。この言葉に友則が霞の中に去りたい心境を思わず詠んでいると囁く者もいる。だが、
「かりがねは」
人々はここで初めておや? と言う顔をして一斉に黙り込んだ。雁の声はすでに春霞に去っていると言うのだ。それではその続きは?
人々がそこに考えが至る頃には、友則の歌はその場の空気を支配していた。
「……今ぞ鳴くなる秋霞の上に」
人々は息を飲み、どよめいた。これは、何と言う歌であろうか!
春霞かすみて往にしかりがねは今ぞ鳴くなる秋霞の上に
(春霞にかすんで去った雁の声が今鳴いている
秋に霞むこの空の上で)
意外な言葉の始め方に誰もが注目せざる得ない状況を作り、友則が陥れられた状況を揶揄するかのようなかけ詞をわざとつないで緊張を解く。そして突然詠題に沿ったかりがねと言う言葉に人々が驚く中、鮮やかに今こそ秋に霞む空を、雁が高々と鳴きながら飛ぶ姿を詠みあげる。
このような技法。誰もこれまで考えるに及ばなかった。しかもこの歌はそう言った技法ばかりではなく、雁の鳴き声を季節を通して懐かしく感じる、都人の雁への親しみを表している。和歌の空想世界を生みだすだけではなく、人々の心の動きを巧みに扱った秀歌であった。
貫之はこの歌にまずは胸をなでおろし、自分の歌を利用された気まずさから解放されたことに肩の荷が降りた気がした。と同時にこの歌のあまりの巧みさに驚き、慄然とし、ついでこのような人を身内とも父とも友とも思う事に熱いまでの喜びと、誇りを感じていた。躬恒など相当緊張していたのだろう。喜びと安堵で涙ぐんですらいる。いや、貫之もふと鼻をすすっていた。心は皆、同じであった。
「帝が今の歌を大変に御喜びになられました。今の歌は本日一番の歌。この歌合は左列の勝ち。これにどなたも異論はございませんね?」
異論などあろうはずも無かった。この場は友則の歌でそれまでの歌と言う歌が霞んでしまったのだ。この歌合はまるで友則の歌を引き出すために行われたようになってしまった。
この歌合の顛末を、若い帝は熱い思いで見届けていた。そして上皇が声をかける。
「帝。これが和歌の世界です。もう多くを申し上げる必要は無いでしょう。私はこの世界を大切にし、この心を国の誇りとしたいのです」
「そうですね。これが我が国の心。文化。ええ、私も大切にしたいと思います。この心を国中に広げ、誇りとしたい」
歌合は熱狂のうちに幕を閉じた。そしてこの歌合は若い帝に心深い印象を残す。国風文化。国の心を表す文化。この誇りがあると無いとでは人々が国に寄せる思いはまったく違って来るだろう。これを軽んじてはならぬ。政務を滞りなく、よりよく行う事も欠かせぬが、だからと言ってこの和歌を軽んじて良いことにはならぬのだ。
いや。むしろこうした文化を尊重することが、我が御代の安定につながるかもしれない。
この日、若い帝に上皇の夢は託された。こうして夢は次の代へと受け継がれていった。国風文化への思いは上皇と帝、二人の思いが一つとなる事が出来た。
しかしそれで、上皇の思いのすべてが帝の思いとなる訳ではなかった。上皇が権力者の傀儡であることに苦悩したように、この若い帝も後に上皇の傀儡になることを拒絶するようになる。
だが、今この二人はそんな事は知らずにいたのだ。
※この逸話の顛末のせいでしょうか?
この友則が詠んだとされる歌は、古今和歌集ではよみ人知らずとされています。




