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醍醐帝誕生

 道真の遣唐使停止と昇進は、人々に大きな衝撃を与えた。どれほど天才と讃えられようが、帝からの寵愛が深かろうが、道真は一人の学者でしか無かった。その学者の手によって二百年以上続いた遣唐使が停止され、帝がそれを認めたからだ。


 敦仁親王が立太子された年。時平が僅か二十三歳で中納言となった事も人々は驚いたが、それでも彼はもとの権力者、基経の長子であったので承諾されていた。何しろこの頃の参議は半数を藤原家の人間が占めていて、残りは臣下に下されたもとの親王たちである源氏と、道真と言う顔ぶれだったのだ。時平の早い昇進は、若くとも家格を考えれば納得出来たのだ。


 ところがその僅か二年後に、参議とはいえ、ただの学者でしか無かったはずの道真が中納言に任ぜられた。これはまったく家格を無視した昇進と言ってよかった。藤原家にとっても道真の昇進は不満ではあったが、一方で年若くとも先々藤原の氏長者となる時平を帝が重用していたので、基経と折り合いが悪かった事とは別に、藤原家に対しては家格に応じた判断をしているとみなされた。それに若い時平には道真の深い見識と豊かな知識による協力も必要だった。だからせいぜい道真への不快感程度で事はおさまっていた。


 しかしもとの親王である源氏達は納得など出来るものではない。今の帝はもともと自分達と同じように源氏として臣下に下されていた人物だった。それが今では帝の地位に上り、それをいい事にこれまで朝廷が重んじてきた家格を無視し、仮にも前の天皇の息子だった自分たちよりもただの学者を重んじ、昇進させ、自分好みの文芸を推進し、無位無官の者が作り上げた世界である和歌を推奨している。これは彼ら源氏にとって屈辱的な事でしかなかったのだ。


 だが、道真の才能はだれもが認めるものだった。彼は政治力、判断力、知識、すべてにおいて高い能力を発揮していた。一度臣下に下された若い帝が穏やかに政を進められたのは、道真の功績が大きかった。

 

 権力者の権威や、家格に対する畏怖による人心掌握は強力である一方、その権力者に何かあった時には安定性を欠いた。しかし帝と道真が目指した文化、文芸による人々の一体感、帝への信頼感は帝の御世を穏やかにし、多くの者に希望を与え、ゆるぎない安定を生みだした。

 そして最大の懸念である高貴な者たちの不満は、道真がその一身に受け入れた。道真にはその不満をすべて押さえるだけの才能にも恵まれていた。


 異例の歌合は画期的な和歌集編纂により、人々の心をまとめ上げた。歴史の分類、整理は朝廷の仕事を合理化した。それを詳細に記録することによって詩宴の数なども増え、朝廷の文化はより豊かで華やかになり、権威も増した。道真追放の画策であったはずの遣唐使の派遣は、逆に遣唐使その物を停止させる事となった。帝の庇護の下、天与の才に恵まれた道真には隙が無く、身分を重んじる者たちの不満を吸収してあまりあるほどの能力を見せつけた。


 そんな安定した希望あふれる御世の中、帝の文芸趣味による庇護もあって国風文化は豊かに花開きはじめていた。それは華やかな宴の場ばかりではなく、悲しみの時にも彩られていた。


 寛平五年(八九三)五月十九日。敏行を通じて貫之達が目にかけて頂いていた藤原高経ふじわらのたかつねが亡くなった。彼も和歌に理解ある人だったので、基経の弟である彼の庇護を貫之達は頼りにしていたのだ。そんな歌人たちにとって大切な人の死は貫之にも大きな悲しみを与えたらしい。


 その翌年、貫之達は高経の一周忌に招かれた。多くの歌人が故人の思い出に浸っていた。


「夏の訪れとはいえ五月は雨も多く、この季節に亡くなった方を偲ぶと、雨が一層悲しみを誘いますな。高経殿は朝方に亡くなられたので、雨の朝は特に悲しみを誘われる」


 敏行がそんな話をすると、友則も、


「雨の頃でもありますが、ほととぎすの声が聞こえる頃でもありますね。今年のほととぎすを聞いて、ああ、故人が亡くなって、もう同じ季節がめぐって来たのかと感慨深い思いを味わいましたよ」


 と、しみじみと話す。それを聞いて貫之は、


「私もほととぎすの声を聞いて、去年の事を思い出しました。その時に歌を詠んだのですが」


「ほう。哀傷歌か。故人の供養のためにも、御披露願いたい」


 そこで貫之は歌を詠みあげた。



  ほととぎす今朝鳴く声におどろけば君を別れしときにぞありける


 (ほととぎすが今朝鳴く声にハッとすると、

  それは去年あなたとこの世の別れになった時刻と同じだったのです)



「ああ……。ほととぎすの声に一瞬にしてあの悲しみに時が戻る。私もあの朝を鮮明に思い出した。良い歌だ」


 躬恒もそう言って感慨深そうにしている。貫之は理に勝る歌、雄大な歌、言葉遊びの中に情景を込める歌を経て、すでにこのように人の心を大きく揺さぶるような歌が詠めるようになっていた。そして和歌はその場その時の感情を詠むだけでなく、このように時を遡ったり、目に見えぬ景色を詠んだりするものにもなっていた。歌人たちの心の世界はどんどん広がりを見せ、それと共に国風文化は豊かに磨かれていく。そして貫之も時代の大いなる庇護と言うゆりかごの中で、若い才能を育てていった。官や位は低くとも、彼らは世の中で『専門歌人』と言う地位を得るようになっていたのだった。



 寛平九年(八九七)、時平は大納言に昇進。ついで道真も権大納言に昇進した。そして宇多帝は、


「道真、時平。私は帝位を皇太子敦仁親王に譲位しようと思う」


 と、二人に相談した。


「私は以前にも思う所があって譲位を考えたが、東宮が幼すぎると道真に止められ断念した。しかし東宮もそろそろ元服しても良い年頃。今度こそは譲位したいと思う」


「しかし帝はまだ三十路を過ぎられたばかりではありませんか。何故そのような事を思い立たれたのですか? まだまだ帝の地位は安泰でございましょう」


 二人はそのような事を言って引き留めたが、帝は、


「安泰だからこそ、譲位したいのだ。今なら私は確実に自分の手で敦仁に帝位を譲位することが出来る。他の者の意向に振り回されることなく、自分の意志で次の帝を決められる。私が帝位をついだ時はそう言う事があまりにも曖昧であった。そして時の権力者であった時平の父が私を帝位につける事となった。しかしそのために私は臣下出身の帝となった。他の源氏の者たちから軽んぜられる存在となり、朝廷での帝の権威を低くすることになってしまった。私はそのような愚を犯したくは無い。今のうちに我が手で……帝としての権威で持って、次の帝を決めたい。そして上皇として新帝を支え、育て上げたい。そのための譲位なのだ」


 やまとことばを尊重し、和御魂を愛し、帝の威厳を取り戻す。この国ならではの律令制を確立する。この譲位と新帝の育成はそのための最後の仕事と帝は考えていた。


「この国には道真、時平、そなたたちがいる。道真の冷静な知恵、時平の若い情熱。これがあれば必ずこの国は豊かな国風文化を持った素晴らしい国となるはずだ。ぜひ私の期待に応え、二人で新帝を支えてやって欲しい」


 帝はそう言って、譲位を決断した。


 しかしこの時新帝はまだわずか十三歳と言う若年であった。四年前、基経の娘にまだ親王が生まれぬうちにと、敦仁親王を九歳で立太子させたからだ。帝としてはもちろん、人間としてもまだまだ完全には幼さが抜けぬ年頃である。そこに不安が無いわけではなかった。


 だが、帝には焦りがあった。この、自分の立場が安定し、道真と時平と言う大きな味方がいるうちに次代の足場を作っておきたかった。自分は権力者の都合で臣下に下され、またその時の都合に合わせて帝位につかされた。しかも、その権力者の一言でまったく孤立させられ、自分はただの飾りものなのだと言う屈辱まで味わった。

 帝は知っていた。今は権力者と呼べる存在がいないために誰もが互いの顔色をうかがって、とりあえず私を帝として立てているのだ。源氏の参議達も心の内では、もとは同じ臣下となっていた私を帝と認めてはいないのだろう。藤原氏達も本音は時平が権力をもつ日を、待っている状態なのだろう。


 そうはさせぬ。私はこの親政を守り通して見せる。そのためには今譲位するのが一番良いのだ。そして道真と時平が共に並び立ち、新帝の政を支えていれば、誰かが権力者となって帝の地位を脅かすなどと言う事は起こらないはずだ。そして新帝の政が人々に認められる時。私の夢はきっと叶うであろう。この国は和御魂と帝を尊敬し、この国に相応しい心と文化と政を持つ、素晴らしい国となるであろう……。


 学者である道真が時平の政を支え、権力者の息子である時平が、道真の文化を支える。それは帝が夢見た理想の一つの形でもあった。帝はそれを鮮明に表すことにした。


「新帝への譲位にあたり、大納言藤原時平と権大納言菅原道真に内覧の宣旨を申し渡す。二人は新帝を良く助けるように。新帝は二人の意見を良く聞き、尊重するように」


 と言って、七月に譲位。宇多上皇となった。そして誕生したのが醍醐天皇である。


 そして上皇は幼少の醍醐帝に自ら天子としての心得を訓戒として書き記した。これは『寛平御遺誡かんぴょうのごゆいかい』と呼ばれている。そこには信頼できる臣下の名に時平、道真、平季長たいらのすえなが、紀長谷雄の名が書かれ、特に時平には、


『左大将時平は功臣の子孫で、若年ながら政に熟達している。先頃女の事で問題を起こしたが、朕はそれについてはこだわらず、その場で忘れ去った。彼には去年の春から良く励まし、政務を勤勉に勤めさせている。この者は第一の臣下であるので、顧問として教えを仰ぐように』


 と時平の必要性を書いている。また道真はさらに丁寧に、


『右大将道真は稀に見る儒学者で、深く政に通じているので、朕は彼を博士として忠告を受け続けてきた。そのため彼に多くを頼り、新帝を東宮に立てる時も道真一人に相談し、他の誰と論議することも無かった。また、以前にも朕は譲位を考えていたが道真は、もの事には天が定めた時があり、天の時をないがしろにしてはならないと言って、朕の言葉には従わなかった。彼はそういう正論を大切できる人だ。今年になって再び相談すると道真は何も言わなかった。今度は譲位のための諸事を行うべき人が延期するようにと言って来たが、道真は動きだしたことを停滞させるのは変事を招くとして朕の意志を石の如くに固く守ってくれた。

 つまりは道真は朕の忠臣と言うより、新帝のために心を砕いてくれた、新帝の功臣と言える。新帝は彼の功を忘れるべきではないのだ』


 と、道真がいかに新帝誕生に貢献したかが書かれている。さらには季長は『深く政務に熟達した人物』とし、長谷雄は『博識で経典に通じた人物』と評され、この二人は大器だから昇進をはばからぬようにと書き添えられた。これを知った時平は、


「参りました。これほど上皇の御信頼を受けていながら女の問題にまで触れられてしまうとは」


 と、頭を掻いている。女の問題とは恐らく、時平が伯父の国経の北の方(正妻)が大変な美人と聞いて、国経を酒に酔いつぶしてその北の方を自分の妻にしてしまった事だろう。いくら美人とは言え自分の伯父と言う身内の妻を盗むような真似は頂けない。時平はお褒めの言葉と共に、そのあたりのだらしなさをチクリと注意されたことになる。


「若いのですよ、あなたは。そう言う事で多少の失敗は若い時には付き物でしょう。私なども昔は業平殿と大山崎で遊女遊びに耽ったものだ」


 道真はそう言って笑っている。幼少から神童とうたわれた彼も、若いころは業平同様、色に恋にと華やかに暮らし弓なども得意とする一面を持っていた。儒学者としては厳しいと言われた道真も、そう言う部分では普通の貴族だったのだ。


「恥ずかしいと思われたのなら、だいぶ大人になられたということでしょう。これからはお若い帝を支えねばならぬ身なのですから、今後は自重なさるのがよろしいでしょう。上皇もそこに気付いていただくために、そのような一文を載せたのだと思いますよ」


「いや、まったく。早く道真殿のように落ち着きのある、重々しさを兼ね備えたいものでございます」


「そんなことをおっしゃっていると、すぐに老いてしまいますぞ。説教は年寄りの仕事。あなたは帝を若い情熱でもってお支え下さいませんと」


 そんな事を言って二人は笑いあう。この時二人は真剣に若い帝を支え、素晴らしい御世を作り上げることを思い描いたに違いない。しかしこの後、二人の運命は歪み始め、何かの歯車が狂って行くとは、誰も考えられずにいた。才能あふれると言われた、道真でさえも。

 



一般的には悪役扱いされることの多い時平ですが、この作品では時平は道真をただ陥れただけの人物としては描いていません。

彼らは全員時代の波にのまれただけで、それぞれに事情があったと言う描き方をしていますので。

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