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寛平御后宮歌合

 ついに貫之は寛平かんぴょうの御時おおんとき后宮きさいのみやの歌合うたあわせに出席した。この歌合は是定親王の時より、ずっと盛大で華やかな物だった。なぜなら表向きは帝の御母上の主催となっていたが、実際には帝の後押しが大きい、帝と道真の主導の下行われた歌合だからだ。それは帝が内裏で行う漢詩の宴に劣らない豪華さだった。


 歌人も当代一流の有名歌人が集められている。貫之の他には藤原興風ふじわらのおきかぜ、亡き在原業平の長子の棟梁むねやな素性そせい法師、大江千里などに、敏行、友則、忠岑、そしてあの身分が低いながらも見事な歌を詠む、凡河内躬恒もいた。他にも当代の歌人たちが集められ、十七人ほどはいた事だろう。若い者は貫之と躬恒ぐらいのもの。やはり脂ののった歌人が多かった。


 この歌合には貫之、友則、敏行、棟簗やかつては亡き業平や友則の父、有朋などが加わっていた惟喬これたか親王を中心とした集りの人々が多く招かれていた。帝は和歌による自国文化の復権に力を注いでいたが、この歌宴を経て国風文化をより振興させ、帝と道真による政権を安定させるために、人心を親しみやすい和歌を使って掌握する狙いがあった。そのためには和歌に通じ、その発展に尽力している風流人達の存在が欠かせなかったのだ。


 帝はすでにこの前に催した是定親王家歌合の時点で、詠まれた歌の中から優秀な物を選別しておくようにと内密に道真に命じていた。特に盛大に行うこの歌合では多くの歌を選んでおくようにと言ってある。実は二つの歌合には優秀な歌を編纂して世の中に広く流布し、和歌を浸透させ国風文化への関心を高める目的があった。しかもその歌集編纂と流布はそれだけにとどまる物ではなく、これから始まる国風文化による政治戦略の幕開けでもあったのだ。


 この時道真はその一環として、この国の『六国史』と言う歴史書を唐の国にならって分類わけし、編集した『類聚国史るいじゅこくし』を完成させていた。これによって、これまでよりずっと効率よく我が国の過去を調べる事が出来るようになった。国風文化の過去を知る土台は完成したのだ。これからはこの国の未来の文化を作り上げなくてはならない。その最初が二つ続けて行う歌合であり、道真の手によって編纂される私選の歌集なのである。この後帝は誰か歌人個人を選び、古今の歌を集めさせるつもりだ。そのためにも今日の盛大な歌合は特に重要であった。


 歌合の前に道真は時平から、


「紀貫之殿と、凡河内躬恒にご注目ください」


 と言われていた。


「若い歌人の未来がかかっているのだな。その才能、吟味させていただこう」


「いえ。もちろんそういう意味もあるのですが、この二人、ちょっと面白うございます」


「面白い?」


「ええ、ですからご注目いただく甲斐があると思います」


 時平は若い二人を若さ以外の意味で買っているらしい。さて、どのような歌人であろうか?

 道真にも自然に興味が湧いてしまう。


 だが貫之達はそんな事までは知る由も無く、これから始まる多くの歌人の華やかな歌の競いあいに、緊張していた。


 いよいよ歌合が始まる。まずは四季の歌の春から始まった。友則の春の桜の歌が講師の朗々たる声によって詠みあげられる。



  み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける


 (吉野の山辺に咲く桜の花。雪ではないかとつい、まちがえてしまった)



 吉野の山を縁取るように咲く美しい桜。その下を通ると僅かな山のそよ風にも、多くの花びらが散り落ちて来る。あまりの多くの花びらが舞落ちる物だから、つい雪ではないかと錯覚してしまった。と言う意味だ。美しい山間に数多くの桜が咲く吉野の山。その桜の一斉に散る姿は実に華々しく、華やかな宴に相応しい詠みぶりだ。


 素性法師のうたは、



  花の木もいまは掘り植ゑじ春立てばうつろふ色に人ならひけり


 (花の木を今は掘って植えたりはするまい。

  春になればすぐに移ろう花の色だが、それに人もならってしまうものだから)



 美しさに惹かれて花の木を自分の近くに植えるのはもうよそう。花は春が来るとあれよと言う間に色を移し、散り落ちてしまう頼りない物。しかも人の心は弱く、その姿にならってしまう。花のように美しい女など身近に置いたとしても、その心はいずれ他へと移ってしまう。散り去ってしまう儚いものなのだ。あまり花に心を傾けるべきではないのだろう。歌意はそんなところであろうか。しかしそれでも花の美しさを知っている者には、その花に惹かれずにいられぬ事も、散り落ちる儚いものであるからこそのあわれも、心に沁みてしまうのだろう。春の美しさと悲しさを詠んだ、美しい歌である。


 春も終わりの方になると、花からうぐいすへと言葉が変わって行く。貫之が、


「弥生の頃に鶯の声がしばらく聞こえなくなり、物足りない気持ちになって詠んだ歌です」


 と告げると、講師が詠み上げた。




  なきとむる花しなければ鶯もはてはものうくなりぬべらなり


 (散ることを鳴いて引き留めようにも、

  その花も無くなり、鶯も物悲しくなってしまったようだ)



 その歌を受けて興風、



  声たえず鳴けや鶯ひととせにふたたびとだに来るべき春かは


 (声を絶やさずに鳴くが良い、鶯よ。一年に二度とは来ない春なのだから)



 春の終わりの弥生の頃、桜も散り落ちると華やかだった景色も去ってしまった。せめて鶯の声に春の名残を感じたいと思うが、その鶯も花が無ければ鳴くのが空しく思われるのであろう。春の終わりとはそんな物悲しさが付きまとう。

 その物悲しさに共感して、花が無くとも鶯は鳴いてくれてもよいだろうに。こんなにも過ぎ去った春を恋しく思っているのだから。春は一年に一度きり。再びはやって来ない。人の心が分かるなら、その声を絶やさず思い切り鳴いて欲しいのだ、鶯よ……。


 春の物悲しさを歌う若い貫之に、深い共感を持って興風が応えてくれる。二人の歌人の心の共鳴が、春の終わりを美しく飾る二つの歌となる。歌人の共演あっての、美しい歌であった。貫之は心が高ぶってくるのが分かる。

 私は今、なんと素晴らしい世界に身を置いているのだろうか!


 題は春から夏へと移った。鳥も鶯からほととぎすへと変わる。貫之は、


「山で、ほととぎすが鳴いているのを聞いて詠みました」と言い、



  ほととぎす人まつ山に鳴くなれば我うちつけに恋まさりけり


 (ほととぎすが人を待つ山で鳴くと、私も突然人恋しい気持ちが勝ってしまう)



 ほととぎすが松の生える山で誰かを恋しく待ちながら、鳴いている声が聞こえる。その恋の思いを込めた鳴き声に、私までもが突然、あの人を恋しく思う気持ちが強くなってしまうのだ。夏に訪れるほととぎすは、夏の恋を掻き立てる物らしい。淡い春の想いが夏の恋の情熱に代わる様子を歌う、初夏の歌。「待つ」と「松」のかけ言葉は平凡だが、ほととぎすに自分の恋心と重ねることにより、初夏の背景と恋の情熱を爽やかに歌う、若い貫之に相応しい歌だった。人々が心よさげに貫之の歌に聞き入る。若い素直さが眩しい詠み様である。


 対して忠岑は、


「以前住んでいた場所にて、ほととぎすが鳴くのを聞いて詠みました」と告げる。



  昔へや今も恋しきほととぎすふるさとにしも鳴きて来つらむ


 (昔を今も恋しく思うのかほととぎすよ。なじみの場所を訪れてまで鳴いているのだから)



 懐かしい場所でほととぎすが鳴いている。ほととぎすよ。お前も私と同じように、昔暮らしたなじみの場所を恋しく思っているのだな。わざわざこの場所に来てまで、こうして昔同様に鳴いてわが耳を楽しませてくれるのだから。懐かしい場所で鳴くほととぎすに抱く既視感。その鳴き声に懐かしさを共感し、まるで昔からの友のように慕う思う心を詠んだ、年月の流れを感じさせる歌である。


 そんな慕わしいほととぎすに、悲しみを詠んだのは躬恒である。躬恒の歌に道真はひそかに注目した。



  ほととぎす我とはなしに卯の花のき世の中に鳴きわたるらむ


 (ほととぎすよ。お前は私とは違うのに、卯の花を訪れ辛い世の中を鳴き続けるのか)



 私にとって世の中が辛いのは仕方がない。だがほととぎすよ。なぜわざわざ「」き世と同じ名を持つ「」の花を訪れて鳴き続けているのだ?

 お前は私とは違うのに。他に鳴く場所などいくらでもあろう物を……。

 躬恒は歌人の中でも極端に身分が低い。身分が何より物を言う今の世では辛い事も数多くあるのだろう。慕わしいほととぎすだからこそ、お前までそんな思いをする事は無いではないかと語りかけながら、ほととぎすに寄せる友情を表している。彼の身の上が知れる歌であった。


 確かにこの詠み方は独特だ。世を苦しむ、身分低い者だからこそ詠める歌なのだろう。それなのに歌そのものの何と優雅な詠みぶりであろう。身分低き者に良くある、真っ直ぐな思いを素直に詠んだ事が素朴な良さとなったような歌ではない。これは明らかにこなれた、優美な歌だ。

 和歌は一部の高貴な者の道楽であってはならない。それでは『やまとことば』による国風文化の振興には繋がらない。この歌人はこれから重要な人物となるかもしれぬ。帝はこの者の歌をどのようにお聞きになったであろうか? 

 そう考えながら道真は躬恒を心の中に留め置いた。


 そして季節は秋へと移る。棟簗がすすきを詠む。



  秋の野の草のたもとか花すすきほに出でて招く袖と見ゆらむ


 (秋の野の草の袂なのだろうか、花すすきは。

  だから穂が出ると袖が招いているように見えるのだろう)



 この歌は漢詩がもとになっている。「秋の日に白い花を揺り動かすと、女が袖を振って招く姿に似ている」と言う意味の漢詩から詠まれたようだ。その詩は悲恋であるので、この歌にも秋の物悲しさが表れていた。


 千里は菊を詠んだ。



  植ゑし時花待ち遠にありし菊うつろふ秋にあはむとや見し


 (植えた時には花を待ち遠しく思った菊が、

  色変わりを見る秋に出会うとは思いもしなかった)



 大概の花は色が移ってしまうと、それは色があせ衰えることを意味する。しかし菊だけは違う。白い菊が淡い黄色へと、あるいはごく薄く紅がかった色が紫へと変化する姿は、実に美しい。

 しかしそのような菊にはいつも出会えるものではない。植えた時などはまったくわからない。

 それよりも植えた菊が無事に咲くかが心配でいつも待ち遠しく思っていたのが、咲いてみると美しかった菊が色を変えて、より我が目を楽しませてくれた。思いがけない菊の美しい変化に、心ときめく思いが伝わる歌だ。


 秋も深まると木の葉の季節となる。興風の歌。



  白波に秋の木の葉の浮かべるをあまの流せる舟かとぞ見る


 (白波に秋の木の葉が浮かんでいる姿を、海人あまが流した舟だろうかと見ている)



 ほう……。人々からそんな感嘆の声が漏れる。


 秋も深まり川に木の葉が落ちるようになる。白い波を立てる川の様子は、ふと、海の白波を思い出させる。その上に浮かぶ一枚の木の葉。まるで舟の様である。この小さな木の葉にとってはこの川も、大きな海のような物であるだろう。そう思って見るとこの木の葉の船は、白波立つ大海に浮かぶ小舟のようだ。その小船はきっと、海辺に住む海人あまが誤って流してしまったものなのだろう。

 川の水を海に見立てて詠んだ、壮大な歌。空想世界を遊ぶ歌人に許された世界を詠んだ、伸びやかな歌である。


 だがその後、空想的、幻影的な歌を好んだ貫之の若きこの日の歌にも、その片鱗がはっきりと表れた。これは注目していた道真ならずとも、人々の心を揺らす歌だった。



  月影も花も一つに見る夜は大空さへ折らむとぞする


 (月の光も、花の色も、白く一つに見える夜には、

  大空さえも花の枝のように折ろうとしてしまう)



 おおっ! そんな声がささやかれた。貫之の歌に目を見張る人もいる。


 月を花に見立てる時、大空を枝として手折ってしまいそうだと言うのだ。実に雄大で、幻想的な歌である。そしてこの雄大な歌は、貫之の歌人としての豊かな資質を表していた。

 これには道真も若い彼に心留めずにはいられなかった。ただ、年齢が若すぎる。彼は素直にその才能を伸ばす事が出来るであろうか?

 国風文化の推進は国家的大事業として行われる。もし彼の才能がそれに耐えうるところまで育ってくれれば、それはこれからの和歌を長い時に渡って支えてくれるはずである。


 思えば身分低き躬恒もまだ若かった。もしかしたらこの若い者たちの力によって、帝の見る夢も、いつか夢では無くなる日が来るのではないか。

 道真は期待に胸が膨らんで行くのが分かった。夢が、ただの夢では終わらない。そんな予感にこれから訪れる時代の光を見ていた。



 熱い興奮のうちに歌合は終了した。多くの歌人から次々と素晴らしい名歌が生まれた。歌の数では興風の歌が多かった。だが数少なくとも良い歌を詠んだ人、他の人の歌に影響を受けて美しい歌を詠んだ人、個性豊かな独特な歌を詠んだ人と、皆それぞれに素晴らしかった。それは帝や道真の思惑を超える物であったかもしれない。


 そして二人の若き歌人が、帝と道真に深い印象を残した歌合でもあった。



  

貫之と興風の鶯の歌は、興風の歌には「寛平御時后宮の歌合の歌」と書かれていますが、貫之の歌には書かれていません。

しかし御覧の通り興風の歌は貫之の歌を踏まえて詠まれているので、ここでは並べて載せました。

両歌とも古今和歌集に入集しています。(一二八・一三一)


躬恒の歌はここでどの歌を詠んだのか分からないので、貫之や忠岑との個性の違いが分かりやすく、躬恒の身の上をよく表しているほととぎすの歌を、貫之、忠岑の歌と共に載せました。

これも古今和歌集に三人の歌が並んで入集しています。(一六二・一六三・一六四)


最後の貫之の歌は一般的に良く取り上げられる古今集には記載されていませんが、異本と呼ばれる伝本には取り上げられています。

この歌合で詠まれたとなっていますので、ここで取り上げました。


この話では歌が生まれた時期と披露した時が一致する訳ではないだろうと言う作者の考えで、不自然ではない程度に和歌を自由に使っています。

解釈も作者の感想が大きく反映していることを、お断りしておきます。

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