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トオルが歌っている。
その日ヒロトは、特にする事もなく、リビングでくつろぎながら雑誌を眺めていた。ヒロトがこうして家でだらだらと過ごすのは、特に珍しい事ではなく、むしろ日常と言えた。サウンドチームの代表と言っても、運営はほとんど社員に任せっきりだし、曲を作らなくなってしまえば、やる事など無いに等しかった。一応大学に籍を置いてはいるが、チームを法人化してからは休学している。
歌声の方へ目を向けると、ベランダで洗濯物を干すトオルの姿が見える。
(いつも歌ってるな)
『空の歌』を。
トオルの動きに合わせて、エプロンの結び目が揺れる。逆光がトオルの輪郭をけぶらせ、スカートはその光を散らすように舞った。
静謐で、美しい。
いつしかヒロトは、トオルの姿に見入っていた。
(────あれ?)
気が付けば世界から音が消えていた。トオルの歌声も。
代わりに、世界そのものが音となる。
空気はパッドとなって空間を満たし、パーカッションが壁掛け時計の針を進めた。
トオルの動きに合わせてフルートが揺れ、オルガンがトオルの輪郭をけぶらせ、アコースティックギターはそれを散らすように舞った。
(これは……)
ヒロトはこれを知っていた。
共感覚。
ある特定の刺激に対して、異なる感覚質を不随意に生じさせる知覚現象。例えば、視覚から得た刺激に音を感じる共感覚を『音視』という。ヒロトの場合、五感の全てに音が伴うという、出鱈目な“音覚”を持つ重度の共感覚者だった。
かつて、この世界こそがヒロトの住む場所だったのだ。DAWを通してこの世界を具象化すれば、音楽などいくらでも創り出せた。もう二度と、触れる事など無いと思っていた、音という公理で構築された世界。
(これは……!)
全身に歓喜が満ちる。目尻から音が零れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
世界でただひとつだけ、音の形を取らないものがあった。
(トオル)
ずっとヒロトに背を向けている。
もしも彼女が振り向けば、彼女もまた、音に還元されるのだろうか。それは、どんな音なのだろう? 知りたくもあり、少し怖くもあった。
ヒロトは一度、それを失っているから。
「よしっ、終わった!」
世界に色が戻った。
「あ……」
気が付けば、空になった洗濯カゴを抱えたトオルが目の前に立っていた。
「どうかしました? ヒロトさん」
「あ、いや…………なんでもない。お疲れ様」
「? もう少ししたら、お昼ご飯の用意、しますから」
そう言ってにっこりと微笑う。
トオルは一瞬だけ疑問の色を浮かべたが、それ以上ヒロトの様子を訝しがる事は無かった。
「今日はバイト無いんだね」
本来ならもう出勤しているはずの時刻だ。
「はい。週四日ですから」
「じゃ、どっか出掛ける?」
「へ?」
「いや、せっかくの休みならさ。俺もちょうど暇だし」
というかヒロトの場合、暇しか無い。
「あーでも、急に言われても……」
「行きたい所、無い?」
そう言われてトオルは、少し考え込む仕草をした。
やがて心が決まったのか、顔を上げるとこう言った。
「…………あります。行きたい所」
「どこ?」
「──家に、帰りたいです」
家に帰りたい。ここ最近、ずっと考えていた事だった。ただ、どうにも踏ん切りがつかなくて、迷っていたのだ。ヒロトからの誘いはいい機会だった。
いくつか持っていっておきたい日用品もあったが、しかしトオルにとって一番の目的は『空の歌』のmp3だった。
ヒロトに出会って以来、トオルはよくこの曲を歌うようになった。そして、歌う度に思うのだ。もう一度聴きたいと。
以前トオルは、ヒロトに『空の歌』のmp3を持っていないかと尋ねた事がある。ヒロトは持っていないと答えた。過去に、ハードディスクをクラッシュさせてしまったのだ。その時に、当時のデータは全て消えてしまったという。それを聞いて、トオルはますます『空の歌』への想いを募らせる羽目になった。
平日の昼間。父親は当然会社で、母親もパートに出ていて家には居ない。この時間なら、家に帰っても大丈夫なはずだ。
──はずだった。
「な……んで」
玄関先に、母親が立っていた。身を隠す暇も無く、目が合う。気付かれてしまった。
「あなた……この間の」
トオルは既に、この身体で彼女に会っている。そう、男のトオルが行方不明になった日に。
「あなた、トオルのお友達よね? あの日うちを訪ねてきたもの。ねえ、うちの子、知らない? もう二週間も帰ってこないのよ。携帯も家に置いたままで……」
彼女からすれば、女のトオルは怪しい事この上ない存在のはずだ。自分の息子がいなくなった日に突如訪ねてきて、何も語らずに走り去った少女。疑うなという方が無理な話だろう。
「あ、あの……」
縋る様に詰め寄る母親に、トオルは心を乱した。
「すみません、僕たち、トオル君の友達で……僕たちも心配してるんです。ずっと連絡取れなくて」
とっさにヒロトが助け舟を出した。
「あ……そう、なの。ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いえ……お気持ち、お察しします。家族の方なら、もしかしたら何か知ってるかも知れないと思って訪ねてきたんですけど、その様子だと無理みたいですね……。僕たちも、もし何か判ったら、また知らせに来ます。……元気出して下さいね。それじゃあ」
そう言ってヒロトは、立ち尽くすトオルの手を引いて早々に立ち去った。
「──大丈夫?」
少し家から離れてから、ヒロトはようやくトオルに声を掛けた。こちらはこちらで、さっきから蒼白な顔をしている。
ヒロトの言葉に、小さく頷きを返す。口を開く事は出来なかった。それをすれば、言葉よりも先に嗚咽が漏れそうで。
恐らく彼女は、ずっとああやってトオルの帰りを待っているのだろう。パートも休んで。かなりやつれていた。
自分が原因なのに、今のトオルには母を安心させてやる術が無い。
拳を握り締めた。唇を噛み締めた。それでも堪え切れなくて、結局トオルは泣いた。声だけはなんとか押し殺して。
ヒロトが、トオルの肩をそっと抱き寄せる。
今、人の温もりに触れてしまうと、涙が止まらなくなってしまうのに。




