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少女感覚  作者: 森乃ケイ
イントロ
5/27

 予備の布団が一組しかなかったので、トオルはアヤと一緒に寝る事になった。たゆんたゆんが気になったものの、睡魔はすぐにやってきた。色々あった一日だったのだ。疲労が溜まっていた。微睡みの中でトオルは、ヒロトと会った時の事を思い返していた。



 ──逃げるように自宅を離れてから。

 トオルは途方に暮れていた。

(帰る場所が無い……)

 それどころか今、この世界にトオルを知る人間はひとりもいない。たったひとり、世界から弾き出されてしまった。圧倒的な孤独がトオルを襲う。

 一体、自分の身に起きている事は何なのか。考えを巡らせようとしても、思考はとりとめを持たず、だた浮かんでは消えるだけだった。

 気が付けば、歩道橋の上を歩いていた。周囲に人影は無い。それがまた、自らの孤独を際立たせた。

 欄干にもたれて、道路を眺める。車がまばらに走っていた。動いている物を見る事で、少量の安心を得られた。

「つばさーもーなーいーのにー……そらにーいーるーぼーくら──」

 孤独に押し出されて口から漏れたのは、歌だった。ずっと昔、中学の頃にネットの片隅で見つけた歌。正確なタイトルはもう忘却の彼方だが、ファイル名が“soranouta.mp3”だったので、恐らくそのようなタイトルなのだろう。どこの誰が作ったものなのかも判らない。どこかの個人サイトで拾ったような気もするが、よく覚えていない。

 気持ちが沈んだ時には、よくこの歌を口ずさんだ。巷に溢れるどんな音楽よりも、名も知らぬこの歌がトオルの心を落ち着かせた。この歌に出会って、もう四年近くなる。何度も繰り返し聴くうちに、歌詞もすっかり覚えてしまっていた。

 ふと、人の気配を感じて振り返った。ひとりの青年が、こちらに向かって歩いていた。

(やばっ、歌ってるとこ見られた?)

 通りすがりの人に歌を聴かれる事ほど気まずいものはない。込み上げる恥ずかしさを押し隠しつつ、何事も無かったかのように立ち去ろうとする。

「『空の歌』」

 後ろから声を掛けられた。耳を疑った。それは、この曲のファイル名だ。咄嗟に振り返る。先ほどの青年が、こちらを見詰めていた。

「『空の歌』だよね、今の」

 間違いない。この青年は、“soranouta.mp3”を知っている。ずっと、名も無きアマチュアが作った歌だと思っていた。違うのだろうか。実はこれを作曲した人物はそれなりに有名で、この歌も、自分が思っているよりも知名度は高いのかも知れない。

「俺以外にこの曲を知ってる人、初めて会ったよ」

 そう言って、微笑(わら)った。

 この世界に、同じ歌を知っている人が居る。世界と自分がまた繋がった気がした。繋げてくれた。“soranouta.mp3”が。



(そうだ……あれから結局、上手くしゃべれなくて……あの歌の事、何も訊いてない…………明日、訊けるといいな──)

 そんな事を思いながら、眠りに就いた。


     *


 翌朝、ヒロトはいつもより少し早く目覚めた。

 部屋を出ると、キッチンから耳慣れない音が聞こえてくる。見てみると、トオルが居た。朝食を作っているのだ。軽快な包丁の音、野菜を洗う水の音、低く唸る換気扇の音、鍋を沸かすコンロの音。ヒロトを起こしたのは、ごくありふれた生活音だった。

 やがてトオルは、ヒロトに気付く。手を止めて、振り返った。

「あ、ヒロトさん。おはようございますっ」


 笑顔が“鳴った”


(え────?)

 普通、笑顔は鳴らない。

(気のせい……か?)

「? ヒロトさん? どうかしました?」

「あ、ああ、いや。おはよう。朝ご飯作ってるの? 冷蔵庫、ほとんど何も入ってなかった気がするけど……」

「材料はさっき買ってきました。ほんと、冗談抜きで何にも入ってませんでしたよ。普段、何食べて生活してるんですか」

「コンビニとか、ファミレスとか……」

「やっぱりー。たまにはちゃんとしたもの食べないとダメですよ」

「お金はどうした? 買った分は後で出すよ」

「や、泊めてもらったお礼ですからこれ! 遠慮しないで下さい。こっちこそ、台所勝手に借りちゃってごめんなさい」

「いや、別に気にしないよ。それより、姉貴は?」

「さっき帰りましたよ。朝ご飯食べていきませんかって言ったんですけど、時間無いからいいって」

「そっか」

 確かに、今はもう朝食にしては遅い時間だった。

「はい。もうすぐ出来ますから、座って待ってて下さい」

「うん……」

 新婚さんっぽい。ヒロトはそう思った。

(エプロン……要るな)



「あの……お味はどうでしょう」

 おずおずと、ヒロトの様子を伺いながらトオルが尋ねた。

 豆腐とわかめの味噌汁に、きゅうりとキャベツの浅漬け、大根おろしの添えられた鯵の干物、炊きたてのご飯。なるべく早く作れて、しっかりと栄養の摂れるものをと、工夫の凝らされた内容だった。

「うん、美味いよ。料理、上手なんだね」

「えへへ、うち、両親が共働きなんで……自然と覚えました」

 トオルは照れた。

「ところでトオルちゃん、昨日は帰る場所が無いって言ってたよね」

 箸を進めつつ、ふと思い出したようにヒロトが尋ねた。

「はい……」

「今晩から、どうするつもり?」

「ネットカフェに泊まります」

「友達とかはいないの?」

 返事に窮する。この世界に女のトオルを知る人間などひとりもいないのだ。

 忘れかけていた孤独と絶望がまたトオルを襲った。頼れる者など誰もいない。今のトオルは、社会のどこにも属していないのだ。今後、手持ちの金が尽きたら、まともに生きられるのかすら怪しかった。

「事情を訊いたら、まずいのかな」

 話すべきなのだろうか。

 きっと信じてもらえない。それに、話したからといって、それでどうにかなるものでもない。

 でも、話してしまえば、少しは気が紛れる気がした。それに、この人はいい人だ。例え信じてもらえなくても、相談くらいなら乗ってもらえるかもしれない。

 顔を上げて姿勢を正し、トオルは口を開いた。

「あの……ヒロトさん、ちょっとお話があります」

「何?」

「昨日はなんかうやむやになっちゃったけど……俺、本当に男だったんです。つい昨日まで。それで、急に女になっちゃったから家に帰れなくなって──」

 トオルは事の経緯を洗いざらい話した。ヒロトは、ずっと黙ったまま、トオルの話に耳を傾けた。

「ふーむ。なるほどね……」

「信じられません、よね」

「突拍子もない話だけど……信じてみるのも面白いかもね」

「え……」

「だって、もし君の話が本当だとしたらさ、君の声は、本来この世界には存在しないものだったって事だよね。それって凄い奇跡だ。嬉しいよ。そんな奇跡の“音”に出会えて」

(うわあ……この人って……)

 ロマンチストどころではない。ぶっ飛んでいる。そして、そんなぶっ飛んだ発言を聞いてきゅんきゅん来ている自分が一番やばいとトオルは思った。

「で、ネカフェで生活を続けたとして。それから後の事は? どうするつもり?」

「えーっと……出来れば、元に戻りたいです」

「どうやって?」

「それは……判んないです」

 正直、八方塞がりなのだ。誰かと精神が入れ替わったわけでもない。パラレルワールドでもない。宇宙人の仕業でもなければ変な病気に罹ったわけでもない。手掛かりなど全く無いのだ。考えたくはないが、下手をすれば一生このままという事もあり得る。

「もしよかったらさ、しばらく、うちに住む?」

「えっ……でも、それは」

 大胆な提案をしてくる。トオルは面食らった。ありがたい申し出ではあるが、色々と問題があるのではないだろうか。

「男と一緒に住むってのはさすがに抵抗あるかな。でも、トオルちゃんが男だっていうなら、問題ないでしょ?」

 やはり、見透かされている。しかし実際のところ、ヒロトは無理矢理な事はしないだろうとも思った。それよりも、この人のいい青年の厚意に甘える事に対する戸惑いの方が大きい。

「……あの、お気持ちは嬉しいんですけど、さすがにそこまで迷惑を掛けるわけには……」

「君の声が好きだから」

「え……」

「出来れば、ずっとそばで聴いていたいんだけどな。君のその、きれいな“音”を」

 なぜこうも真っ直ぐな言葉を口にする事が出来るのか。聞いているこっちが照れてくる。

 ヒロトはさらに言葉を繋ぐ。

「別に迷惑なんて事は無いよ。利害は一致してるからね。無理強いはしないけど……どうかな」

 この人は、自分の声に固執している。であれば、これ以上遠慮していても意味は無いのではないか。

「本当に、迷惑じゃないですか?」

「もちろん」

 ヒロトは迷い無く答えた。トオルは腹を括った。

「あの……よろしくお願いしますっ」

 深々と頭を下げた。

「…………髪、味噌汁に浸って──」「知ってます」

 髪の長さに慣れていないのだった。


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