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歌モノはもう、作らない。
復帰する際に、ヒロトが決めたたったひとつのルール。それが、ヒロトのサナに対する礼意だった。古い楽器が壊れたから、今度は別の新しい楽器? それはあまりにも、サナのボーカルを軽んじる行為のように思えたのだ。
しかしそのルールは、予想以上にヒロト自身を苦しめた。トオルと接するたびに、後から零れ出てくる音のかけら。それらの中には、トオルの歌声という形を取る音も少なくなかった。いや、むしろ、その割合は日に日に多くなってきている。自分にとって、サナのボーカルこそが、最後にして最高の楽器なのだ。それを、自らの手で破るわけにはいかない。
だというのに。
なぜ自分は今、歌モノの曲を打ち込んでいるのだろう?
必死に自分へと言い聞かせる。これは単に、零れた音をすくい取る作業なのだと。これを完成させて、音楽として世に出す事は決して無い。だからこれは、サナへの裏切りなどではないのだ。
埋まる事の無いボーカルトラック。既視感を覚える。もしかして自分は、サナの時と同じ後悔を味わう事になるのではないだろうか。それも、不可避だったあの時とは違い、自らの手で完成の道を閉ざすという、最悪の形で。
一体何が正しいのか。今のヒロトには、判らなかった。
*
遊園地でのデート以来、トオルとヒロトの関係は、少し変化し始めていた。
有り体に言えば、距離が出来ていた。キスの事、その直後に知ったサナという存在のせいで、トオルは過敏にヒロトを意識していたし、ヒロトはあれ以来、一日の大半を〈スタジオ〉で過ごす事が多くなっていた。ヒロトはヒロトで、トオルの音に触れる事を恐れていたのだ。これ以上彼女に触れてしまうと、自分の中にある衝動が抑えきれないものになってしまうのではないか。ルールを決めたのであれば、律さなければならない。サナ以外のボーカルで歌モノを作る事はもう、無いのだ。
ヒロトはひたすら曲を書いた。そうすれば、トオルが近くに感じられた。
トオルはヒロトの曲を聴いた。そうすれば、ヒロトが近くに感じられた。
互いに互いを、触れ合わない距離で見つめていた。
例外もある。
ある日の朝方、トオルがリビングに顔を出すと、ソファでヒロトが寝ていた。ここ最近は、〈スタジオ〉でそのまま寝入ってしまうか、仕事を終えれば自室へ直行する事が多いので、珍しい事と言えた。テーブルを見ると、飲みかけのグラスが置いてある。恐らく、小休止のつもりで部屋を出て、そのままここで寝てしまったのだろう。
トオルは部屋から毛布を持ち出してきて、起こさないようにそっとヒロトに被せた。
久しぶりに間近で見るヒロトの顔。しかも寝顔と来たら、遭遇率は非常に低いレアなシチュエーションだ。
ドキドキした。
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ガン見である。
年齢のわりに少しあどけなさの残る顔。二人して並んで歩けば、同い年に間違えられる事もあるだろう。こうして眠っていれば、さらに幼く見えた。肌はきめ細やかで、少し白い。
(もうちょっと外に出て運動した方がいいですよーヒロトさん)
髪、まつ毛、鼻筋、頬。どこを取っても好ましい形だった。
唇に目を留めた。キスをしたのだ。この唇と。今でも、その感触は鮮明に思い出せた。
しかしトオルは、自分の記憶を信用しなかった。もしかしたら、思っているよりもう少し柔らかかったかもしれない。それに、温もりはどうだったか? ヒロトの唇は、温かかったのか、冷たかったのか。
気になる。これは、もう一度確認した方がいいのではないだろうか。そう、これはキスではなく、単なる確認作業なのだ。特に、もう一度キスしたいという欲求があるわけではない。
トオルはゆっくりと顔を近づけた。
「にゃー」
「────っ!」
いつの間にそこに居たのか、からあげの鳴き声でトオルは飛び退いた。
「ん…………」
ヒロトが顔をしかめた。トオルは脱兎のごとく逃げ出した。
部屋に戻ってドアを閉めると、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。胸に手を当てると、まだ心臓が跳ね回っている。顔が熱い。大きく呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着けようとした。
(はぁ……何やってんだよ俺は)
キスしようとした。
トオルちゃん><




