ロマンスの消去法
この小説は企画小説です。「消小説」で検索すると他の方々の作品も読めますよん。
PDFのために無理やり改行を加えたので、できればそちらで読んでいただきたいです。
エッチな妄想のために酒を飲むか、それとも魅力ある女の子の肩を抱く権利を得るために冒険に出てみるか、どちらにせよ我々の最終目的たる地点には性欲の支えなしに辿りつくことはかなわない。それでも忘れてはならないいくつかの決め事のうち「夕暮れ過ぎのエンターテイメントには期待しすぎるな」という昔ながらの警句が、僕の実行に歯止めをかけていた。それは午後が午前になるまでのあいだ、滑稽にいたるぎりぎりのところで、つまり目の前に並々注がれた三杯目のビールジョッキを飲み干してしまうかしまわぬかというところで、ぐずぐずと微妙な均衡状態を保っていたわけなのだが。
しかしすでに夜は更け、なにか支離滅裂なことをやらかすにはおあつらえの時分であったこともたしかである。それぞれが会話のうちになにかしら意味ありげなものを含ませ、隙あらば相手の隣に腰掛けようと、震える指で今宵の運命に賽を投げる。五人のうち酩酊状態にあったのは初見の奈緒人と、かつての同居人である西岡さんだった。途中参加である僕はもちろん酒なんて一滴も口にしてはいなかった。だから部屋にノックをしかけたとき、ちょっとやばいな、という予覚はたしかに起こった。
「あー!!」
ドアを開けると、部屋にいた数人がいちどきにこちらへ振り向き、なにかとんでもなく面白いものでも目にしたかのような様子で笑い転げた。それで今ちょうど一座が自分の話をしていたのだろうとわかった。大方、男性陣のうちのどちらかが僕にまつわる品のない噂を面白おかしく語ってみせたのだろう。
「ちゃうねんちゃうねん」と西岡さんが笑いながら顔の前で手を振った。つまり彼がその語り手だったわけだ。「今タカヤンいつ来るんかなあって話してたとこやねん。なあ? せやろう?」
なにかを隠すように肩を震わせて笑いながら、彼女らは<どうする?>とでも言うようにお互いの顔を見る。
「この子いくつ?」
「いくつやったっけ」と西岡さんは僕を見上げた。
「21です」と僕は答えた。
<この子>という呼ばれ方はいくらか僕の気に障った。そのすぐあと、その場にいる全員が僕の二三年上だったことから、お決まりの文句が方々から浴びせられた。
「まだお肌がつるつる」とひとりが大げさなお世辞を言ってのける。
「まあそんなとこ立ってないでこっち座りいや。気使わんでええから」と西岡さんは隣の席を手で叩いた。そのあとでこう付け足す。「金は多少使うけどな」
一座が乾いた笑い声を響かせた。女がとりなすように彼に向かって氷を投げ、同じように笑いがもれた。
「だってよう言うやろ。気使うなら金使えって」
「こんな人と住んでたら嫌だったでしょう。すぐ絡んで」
「いや、そんなことはないですけど」と僕は苦笑した。
「そんなことないってどういうことやねん。いいからはよ座りいや」
僕は西岡さんの隣に腰を下ろした。
それから彼を挟んで奈緒人という人物と顔を合わせて会釈する。この人物はとにかくこけしにそっくりな男で、人と話すときだけは首が座らないのかいつでも頭をふらふらと左右に動かしていた。女性陣に関しては煌びやかという他ない。彼女らは一見慎ましく男性陣の差し向かいに座していたが、あからさまに浮かれていたし、同時にいくら酒を飲んだって勘定は男が支払うことを承知していた──でもそうしないことには自然な煌びやかさとは生まれないものなのだからしようがないといえばしようがないのだけれど。
女はその場に三人いたが、西岡さんの向かいに座った女が杏奈といい、その隣が佳代といった。残念ながらもうひとりの名前は忘れてしまったが、話によるとアイドルを目指してるとかなんとか。少女趣味を捨てきってしまうことが女として洗練された証、というわけでもないけれど、この人物には少なからず目に野望の色がうかがえた。我々を見るにしても、どこか間接的に知り合った人間に向けられる目といっしょだったから。
三分かそこら、僕を中心とした場のやりとりがあり、カラオケボックスは元の夜会へとふたたびさかのぼった。僕はその夜、今までにないくらいの早さで正体を失ったように思う。だから正直なところ、仔細に順序だてて物語を進められるどうか自信がない。半時間も経たないうちに僕はその酔漢共といっしょくたに肩を揺り動かせていたし、次にトイレに行ったときには自分でもよくわからない言葉をぶつぶつとつぶやいていたから。
女たちが曲を続けた時だっただろうか、西岡さんは僕の方に少しかがみこんだ。
「今日なにしてたん。バイト?」
「いや、今日は休みだったんですけど。ちょっとこっちまで出る用事があって」
「ほなええわ」と生返事をしてみせ、次にこう耳打ちする。「で、タカヤン誰が好みなん、え?」
付け加えておくと、この男は道化じみた顔とか仕草をとかく会話の途中に交えたがる男である。僕はこういった関西人を見るたびに常々思ってしまうのだけれど、人格というのは習慣を色づけとした、間に合わせのジェスチャーの連続でしかないのかもしれない。
僕は適当な逃げ口上でそれを振り切ろうとした。
「またまた。よう言うわ」と例によって漫才師のふりをする。「知っとるで、知っとるで──」
しかしそう都合よくでたらめが出てくるわけもなく、あとが続かなかったのか彼はぱっと顔を背けてビールジョッキを急激な角度に傾けた。そのとき向かいの女性がこちらになにか要求しているみたいな動作を見せた。
「しかしあれやな」と彼はおくびを交えて言った。「タカヤンと飲めるのもそう滅多にないからな」
「ねえちょっと、氷がないって言ってんの!」と杏奈が叫んだ。
「自分でとれや。手伸ばしたら届くやん」と笑い、アイスペールを手渡す。「ほれ」
「ありがと。──ねえそこ狭くない?」と彼女が僕にぱっと顔を向け、立ち上がりかけた。「こっち来る?」
僕は大丈夫だと手振りで知らせたが、そのすぐ後に彼女が西岡さんの隣に腰掛けたがっていたのだと気づいた。
「じゃああんたこっち来なさいよ。でぶなんだから」
「なんでやねん。いかへんわ。気持ち悪い」
「ふざけんなよ」と杏奈が薄笑いを浮かべたままで立ち上がり、氷をわしづかみにして西岡さんに投げた。「あんたあのことここで言ってやろうか!」
「それあかん。それはあかん。──タカヤン聞いたらあかんで」
ぬきさしならない間があった。妙な気配に気がついたのか、部屋の薄闇に溶け込んでいた奈緒人がこちらに身を乗り出してきた。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」僕の顔をじっと眺めながら、杏奈が切り出した。「実のお姉さんとするのってどうなの? 真剣な話」
たしかに彼女の表情は真剣そのものだったが、西岡さんが耐え切れずに吹き出した。口から出た飛沫が誰かの服を濡らしたのだろう、「きゃあ!」という声がマイクで増幅され、その後メロディーだけがやかましく室内に響いた。
「ちゃうねんで。俺が言うたんやないねんで。こいつが──」
「あーんたが言ったんじゃない。ねえ聞いてよこの人ね、君のこと──」
西岡さんがマイクを奪い、杏奈の声を遮った。耳鳴りに似たスピーカーの音が文字通り耳をつんざいた。数秒のあいだ、古いディズニー映画のように一座の人間全てが口をぱくぱくさせながら腕をぐるぐると回しているように僕からは見えた。誰かが止めたのだろう、曲が止んだ。
「あのな、ちゃうねん、いやマジで」今や全員が彼の話に耳を傾けていた。「ただノリで言うててん。ごめん。気い悪くした?」
「いったい何を言ったんですか?」
「だって姉ちゃんと、コレやろ?」
彼は人差し指と中指の付け根から親指を出した。僕の一挙一動を見逃すまいと、得体の知れない緊張が部屋に走った。
「だから違いますよ」どもりながら僕は弁解した。「あれは──」
「まあもうええやん。かわいそうやし。あんたも言うのやめときや、いい加減」
それでいかにも本当らしくなってしまった。僕はなるべく呆れたような表情を作ってみせたのだが、果たして誤解が解けたのか自信はない。噂の出所については皆目見当もつかない上、どうして流布してしまったのかという点についても僕の知る由ではない。
次の次が僕の番だった。そこで相当な場はずれをやらかしてしまうことに僕はあとで気がつくのだが、マイクが手渡されたときには微塵も恐怖はなかった。タイトルが画面に表示されるや否や、佳代が眉をしかめて「誰の曲?」とこちらに顔を向け、それでほぼ全員が僕の顔を眺めた。
説明しようと試みたところで、曲が始まってしまった。それを境にして避けがたい食い違いみたいなものが起こった。例えばまだ歳若い少年が大人の前で人生について自論を説いただとか、陳腐な哲学の生かじりみたいなものを述べてみただとかいう雰囲気に。だからアイドル志望の女にはかえって悪くない印象を与えたのではないだろうか、なんてことを思ってもしまうのだが、ともかくもそのとき僕の顔は真っ赤になっていただろうし、声はひどく上ずっていたんじゃないかと思う。
サンフランシスコのインチキ物語が
部屋の中で響き渡る
新郎新婦のいないウェディング・ディスコを開く
スーパークールなバンドがいるらしい
フェルト帽をかぶって、白ワインの入ったグラスを持ってる
ロックスターは週末をトイレで過ごして
台詞の練習をしてる
僕は曲を止め、苦々しく笑いながら苦し紛れに「これはアークティック・モンキーズっていう今いちばん期待されてるバンドの曲で……」というようなことを語りだした。まったくどうしてそんなことをこの場で口走ってしまったのだろう、おかげで周囲からは現実と夢想の錯誤してしまった人間みたいな目で見られたに違いない。言い古された考えだけれど、物事にはなんにでもタイミングというものがある。けれど僕から言わせれば、彼らは少なくともUKミュージックシーンにおける将来的ポテンシャルの存在くらいはその目で認めておくべきだったのだ。
「うまかったよ」と曲の終わったあとに、特に熱のこもらない調子で西岡さんが言った。それでとうとうとどめを刺されてしまった。
そのせいだと思うが、僕はこのささいな赤っ恥を潮に、坂を転がるようにして酔いつぶれた。調子よく飲んでいると思い込んでいたが、次に鏡の前に立ったときには目が真っ赤に充血していた。片方の靴の紐がほどけ、それを直そうとかがんだときに洗面台の管に膝をしこたまぶっつけてしまった。
部屋に戻ろうとしかけたとき、ちょうど西岡さんと杏奈に出くわした。僕は微笑もうと試みたが、不自然な空気に気づいて足を止めた。彼女は西岡さんの後ろにこそこそと身を隠しており、いかにもなにかをけどられまいと努めているみたいだった。
「ほなな」すれ違った刹那、彼がこちらに向かって小さい声でそう告げた。
「どこか行っちゃうんですか?」とふらふらしながら振り返った。酔っているせいで抑制が利かず、図らずも馬鹿でかい声になってしまった。
二人はすでに角を曲がっていたが、あの人がまたなにか冗談を言ったのだろう、彼女の笑い声が聞こえた。それから「ひとりくらいなら持ち帰ってもええで!」という声が朗々と通路内に響き渡った。何事かと思ったのか、別の部屋のドアが開いたところで、僕はあわててきびすを返した。
用足しから戻ったとき、自分がずいぶんと長いあいだ部屋を離れていたらしいということがわかった。というのも、部屋には文字通りこけしと化した、壁を背に酔いつぶれた男の姿しかなかったから。そのせいで一瞬なにもかも仕組まれたことだったのではないかといぶかった。でも真剣に考えてみればそんなことがあろうはずもなく、ほどなくして二人の女性が部屋に戻ってきた。
「ああ、いた!」とかなんとか、僕は腕をひきちぎられんばかりに両人にひっぱられ、なんやかやされたあとでようやく彼女らの隣に腰を下ろすことを許された。どうやら二人ともひどく上機嫌に酔っぱらっているらしかった。
「なにかゲームしようか! お酒ってまだある?」
「あいつの分ももらっちゃえばいいよ」言うが早いか、佳代がこけしの前に置かれたジン・トニックをかっさらった。「さあどうする? 山手線ゲームにする?」
「古今東西、お題は夏限定のもの!」
「イエーイ!」
それからご想像のつくとおりのことが次々と繰り広げられたわけだが、書くに値しないようなことなので省くことにしようと思う(なにせ一万文字以内に収めなくては)。とおりいっぺん、酔いに任せた騒乱のあったのち、僕は改めて尋ねてみた。
「西岡さんたちは帰っちゃったんですか?」
二人は我に返ったように互いを見つめあい、例の<なにかを隠すような笑い>のあとにしばらくもったいぶってから「あの二人は付き合ってるの」と知らせた。それで僕としてもいくらかは想像のつたを拡げることができた。
「でもあのことは知らないんだ。いっしょに住んでたのにね」と佳代が意味深に告げた。
「佳代ちゃん!」と片割れが笑みを浮かべながらも詰問するような調子で言った。
「どうして。言っちゃいけない?」
彼女らはすべてがちょっとした酔っ払いの真似ごとだったみたいに、今ではしらふそのもので秘密についてささやき合っていた。彼女たちには彼女たちなりの価値観や世界があり、人並み以上にわかり合うことで、いつでもそれを立ち上げたり引っ込めたりすることがどうやらできるらしい。
「なにがですか」と僕は尋ねた。
「ううん。気にしないで」と佳代は首を振ったが、その口元はあとになってからもしばしば秘密を伝えたいとばかりに時おり架空の言葉を追った。
我に返ったのは外に出てからのことだったが、気づくと僕はタクシーに乗っていて、さらに五分後くらいにはバーのカウンターに座らされていた。「ウィンチェスター」とかいう名前のバーで、文字通り銃器会社のウィンチェスター社を意識しているらしく、西部劇にしばしば登場するモデル七三が店の看板でWinchesterというロゴを支えるように交錯していた。
移動中にどういうわけか進行方向と逆に座っていたせいもあり、僕は酔いがだいぶ回って朦朧とし、バーについてからもしばらくのあいだ身動きがとれなかった。時おり誰かが僕の背中を撫でたような気がしたが、思考にもやがかかっていたせいで今はよく覚えていない。もはやそのころになると僕とこけし氏は話題の中心から逸れたところに位置していた。彼女らは店の常連らしく、ややもすると見知った店主と例の滑稽なやりとりを演じ始めた。
「二人は別れたって聞いてたけどな」と店主が新しい情報を持ち出した。彼は色恋沙汰への興味を押し殺すことができなかったらしく、仕事そっちのけで会話に加わった。
「誰のことを言ってるの?」と佳代が店主の顔と僕らを代わる代わる眺め、それから思い当たった。「ああ、なーんだ。あの二人のこと」
「マスターは誰から聞いたの? その別れたって話」
「いや本人本人」彼は顔の前で小さく手を振り、反対の手に持ったダスターでグラスの水滴を拭った。「一週間くらい前に祐介本人から聞いたんだから」
「だってよ?」と佳代がぱっと片割れに顔を向けた。「どうなの、そこんとこ」
「どうして私に訊くの?」とこちらも意味ありげな笑みを浮かべながら、相手をしかと見据えた。
「だって──ねえ、高石くん?」とついにはこちらに水を向ける。
僕は同意するともしないともとれる曖昧な笑みを浮かべた。しかし僕にもうっすらと事情が飲み込めてきてはいるころだった。
「なに、どういうことなの?」今や声を潜め、彼は秘密を知ろうとカウンターから身を乗り出していた。「誰にも言わないから」
二人は互いの顔を見ながらごまかすように笑い合った。耐えかねた店主がロハで酒を出すからと誘いかけたが、やがて佳代が突っぱねた。
「だからまあ二人は大丈夫ってこと。マスターがいちいち心配するまでもないの」
「なんだよそれ。ひどいな」彼は心底がっかりしたみたいだった。
まさにそのとき、なにか抜群のアイディアを思いついたように佳代が目を輝かせ、「ほら、あっちのお客さんが呼んでる!」と店の隅を指差し、「マスター早く行かなきゃ」と彼の背をめいっぱい押した。哀れな店主はしぶしぶ手をもみしだいてその方向に駆けて行ったが、しばらくしてまた戻ってきた。
「えっ、どこ? いなかったよ?」
「もう、ほらあっちあっち! あの赤い服を着て、長い帽子をかぶってる人」
そのあと彼が壁のジョニー・ウォーカー氏に気づくまで同じようなやりとりが続けられた。種に気づいた彼は見事なまでの笑いものになった。
すでに相当な酩酊状態にあった僕は、酔いに任せてタクシーの中で考えていたことをおぼろげながらコースターに書き記してみた。それはバーを出ていくさい、とっさにヒップ・ポケットに押し込んだから、今でも僕の手元にある。そこには僕が学生時代に付き合っていた女性の番号と、解読不可能な文字、女性の似顔絵らしきものと、最後に「ひとみを愛してる」と書き綴られている(でもよく見るとそれは僕の字ではない)。
バーを出るときになって、財布から二千円をふんだくられた。空が白み始め、ぶんぶんいう羽虫がドブ川の上で意味不明の図柄を描いていた。そのころには体に酒を残しているのは僕だけになっており、こけし氏はすっかり正気を取り戻しているかのように見えた。ひとけのない通りを歩きながら、なにやら今宵の親交を確かめでもするかのように「まあ今度メシでもいっしょにゆっくり食おうや」と肩になれなれしく手を置き、道の途切れたところで駅のタクシー乗り場に向かい僕の体を方向転換させた。
「先に行って、タクシーを捕まえておいて!」後ろを歩いていた女二人のうちひとりが、僕らに向かって叫んだ。こけし氏は答えるように手を挙げ、自らの勇敢な行いに深く感じ入ったような目つきをした。彼と顔が近づいたとき、顎にごましおみたいな髭がぶつぶつ生え始めているのが見てとれた。
「もしかしてこのネックレスを見てる?」
僕はそんなものを見てはいなかったが、そう言われると目がいった。それは錨のようなかたちをしたドッグ・タグだった。
「ジャスティン・デイビスだよ」と誇らしげに彼は告げた。「五万もしたんだぜ!」
こけし氏とそんな風にすっかりお友達になったところで、早くも別れが訪れた。アイドル志望の女は僕と佳代に向かって「方向がいっしょだし、タクシー代をあいつに奢らせる」とかなんとか楽しげに予告し、他愛ない再会の予報まで告げてみせた。
「またたぶんそのうち会えると思う。来月もこっちに来る予定だし。じゃあウィンチェスターでね!」
「ウィンチェスターで!」と佳代も手を挙げた。まるであそこが二人の生まれ故郷でもあるかのような口ぶりだ。
窓越しに手を振る彼女を見届けたあと、男女一対というシチュエーションに耐え切れず、隣にいる女とこれまでの関係を差し置いて他人行儀なやりとりが始まるのではないかと肝を冷やした。しかしお互い人生というものにちょいと慣れた気分でいられるような年ごろだったし、タクシーに二人で乗り込むさいも、それほど席と席の間隔を置かなかった。それどころか彼女は思慮を欠いていると言ってもいいくらいに、無鉄砲に喋りだした。
「……でね、一回目の浮気はあの子笑って許したの、<男だもんしょうがない>って。もう見てるこっちが恥ずかしくなるくらいの空元気で。でも二回目はもう凄まじかった。わんわん泣いて<裏切った! 裏切ったんだ!>って気が狂ったみたいに叫んで……まあ一回目の浮気のときも本当は陰で泣いてたんじゃないかとは思うんだけどね。二回目の浮気のばれ方がもう壮絶! 祐介くんが事故ったのは知ってるでしょ? これ嘘みたいな話だけど、病院で杏奈と浮気相手が鉢合わせしちゃったわけ。あの、さっきいた奈緒人くんが両方に連絡とって、今から来てくれって。あの人見るからに馬鹿そうだもんね。それで祐介くんが目を覚ますと自分の恋人と浮気相手が上から見下ろしてるの……」
話のヤマを語り終えたあたりで、僕の予想していたとおりのことを彼女がこっそりと知らせてくれた。先ほどのミス・アイドルが不誠実にも杏奈の男の元へたびたび出入りしていること、自分はどちらも大事な友達なだけに複雑なジレンマを抱えている、ということ。
それからタクシーの中で男女の価値観をエッセンスに、これまで経験したロマンスについて語り合った。でも彼女の口から紡ぎだされる言葉の数々は、例によってどこかからの借り物でしなかったし、まったくもって底浅く、調子を合わせているうちにこちらがぐったりしてしまうような代物だった。僕は正直なところ男女の甘ったるい恋愛なんてものには遥か昔に愛想を尽かせていたし、進んで恋愛小説を手にとる人間の気が知れない。そのときの僕にはよこしまな気持ちしか働いていなかった。──エッチな妄想のために酒を飲むか、それとも魅力ある女の子の肩を抱く権利を得るために冒険に出てみるか。
だがうまく働かない頭でこうも思った、「どうしてよこしまだと決めつけられるのだろう? こうして男と女がロマンスに予兆をもたらそうとしているのに」。そんな猜疑心から、その語らいは宵越しというハクをつけられることになるのだが。
……ロックを解除したあと、彼女は星型のボタンを押す……受信箱にはチャプターとヴァースが届いた……彼女は僕の前で自分の日記を朗読してみせる……そこには、君がいついつ酒を飲んだという話しか書いていない……胸中を打ち明けても、彼女の論理が邪魔をするだろう……朝になったら彼女を帰らせて……ロマンスに消去法はつきものなのだから……
でも当然のごとく、僕のいっときの願望がなにか栄えあるかたちとなって昇華されるというようなことはなかった。彼女からは番号を交換したにもかかわらずこれまで一度も電話の掛かってきた試しがないし、もちろん自ら進んで掛けるような真似もしなかった。僕と西岡さんの関係はちょっと複雑なものなので、折が合ったら今度は説明しようと思う。ひとみというのは僕の姉の名だ。では最後に品のないエピソードをひとつ。
この日の出来事から一ヶ月も経ったころに、かつてからの交際相手に佳代との関係を疑われた。僕は適当な嘘で取り繕ってしまおうと考えたが、彼女が実に探偵じみた女であり、その場だけは相手に難を逃れたと思わせておきながら背徳者に落雷にも似た一撃を与えるすべをよく学んでいた。つまり彼女がこっそりと僕の目を盗んで電話を拝借し、浮気相手に電話をかけたことで、どうもややこしいことになってしまったのである。話によると今では向こうにもれっきとした交際相手がおり、今さら過去の問題を持ち出されるのは迷惑だ、ということだった。僕はとにかく万事を早期に解決すべく、相手方の男に電話を掛けて、すべてはこちらに負い目があるといった感じに切り出した。
「ええっと、とにかくお詫びを申します」僕はそのときひどくしどろもどろで、うまく舌が回らなかった。「図らずともこういった事態に陥ってしまったのには、ほとんどの原因が自分にあることをわかっていますから」
「気にせんでええで」その声には妙に聞き覚えがあった。彼は笑いをこらえて続けた。「なあ、タカヤン」
「西岡さん!」と僕はほとんど病的に叫んだ。なにがなんだか全然わからなかった。
「今佳代と付きおうとんねん」とややあって彼は告げた。
「え、でも」と僕は口にしかけたが、それ以上の言葉は出てこなかった。
「ほんでな、今こうして電話してもらったんも別の用やねん」
「なんですか?」
「今から合コン行かへん? 三人やねんけど」そのとき彼が例の道化た顔を浮かべていたことをなんなら神に誓ってもいい。彼は僕の言いたいことを察したのか、それらしい弁解をまじえた。「だって二十歳過ぎたら女なんて消去法やろう。男なら三十まで遊んでええねんで」
そのとき僕は彼との共同生活について思い出そうと努めた。でもかろうじて思い浮かんだのは、僕のボディシャンプーが空になってタイルの床に転がっている光景だけだった。
Arctic Monkeys−Fake Tales Of San Francisco
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