始まりの時間
いらっしゃいませ。
ぽつり。
乾いた頬に、小さな水滴が落ちて、そのまま流れ落ちていく。
決して肌を湿らせるでもなく、ただ流れ落ちてゆくだけ。
「———泣いてる、なんて、分からないよね」
小さく呟いた淡い期待と共に、心の中の気持ちも流れ落ちてゆく。
彼女のわずかに紅くなった顔には、わずかな達成感も、感じられた。
I.学校の中の出会い
ふっと目が覚めると、そこは誰もいない静かな教室であった。
反射的に時計を見ると、次の授業が始まる一分前である。
ぼんやりとした頭の中で時間が変換され…ようやく理解をした。
「もしかして次の授業…移動教室…?」
慌てて教科書とノート代わりのルーズリーフを一枚手に取り、急いで教室を出る。
だがそこで非情にもチャイムが鳴る。
キーンコーンカーンコーン…
今にも走りださんとしていた足の力は目的を失い、そのまま引き込んだ足を伸ばせないまま地面に叩きつけられた。
しかし起き上がる気もおきず、地面に倒れ込んだままでいると、突然声をかけられた。
「…大丈夫?」
澄んだ湧き水のような、明るい声。
いつの間にか荒んだ自分の心に染み渡るような音色に慌てて起き上がると、一人の女子生徒がそばにしゃがみこんでこちらをみていた。
「…大丈夫そ?」
ただ転んだことを心配してくれているだけで、他意はないのだろうが、彼は何故だかその時はも救ってくれるような気がしていた。
「…あ、は、はい!大丈夫です!」
顔が紅潮しているのを悟られまいと、あわてて走り去ってゆく男子生徒を見て、呆気にとられてしばらくフリーズした後、口元が思わず緩んだ。
「ふふっ…」
と、そこで自身もまた、授業に遅刻している身であることを思い出し、慌てて走り去っていった。
II.赤い心の病
「うーっ……まじで眠い…」
本来寝る予定であった世界史の授業であったが、あの時に会った女子のことを思い出してしまい、そして思い出さないようにすればするほどまた思い出してしまう…というループにはまり、寝られずじまい。
結果的に授業を受けないとついていけない数学の授業で一気に眠気が襲ってきたのだった。
「…あの子、どこのクラスなんだろ…」
生憎この学校は制服だけではどのクラスかは分からない。大体に学校はそうだろうが。
正確にはクラスどころか学年すらも分からないのだ。
そんなことを頭で考えながら、ただでさえ分からない数学の授業を、眠さでぼんやりしている頭で受けていたら、当然分かるはずもなく。
さらに不運なことが起きた。
「…おい、宮本、聞こえてるか?」
突然名前を呼ばれて慌てて起き、咄嗟に返事をする。
「はっ、はい!聞こえてます!」
「じゃあ答えろ!」
しかしただ反射的に返事をしていただけなので、何を聞かれたかなんて全くわかっていなかった。
「あー、えーっと…えー、そのー…」
しどろもどろになりながらどうにか答えを探すが、問題がわからないのでは答えようもない。わかりません、と言っても良いが、それでは寝ていたことがバレてしまう。
そうして八方塞がりになったときだった。
「…すみません、お手洗いに行ってもいいですか…?」
窓際の女子が静かに言った。
「…分かった」
いくら先生であっても女子であれば強く出ることもできず、渋々の様子で認める。
その女子はこちらにトコトコと歩いてきて、後ろを通過した。
その時、その女子が今朝転んだ時の女子生徒だったことに気づく。
それと同時に、首元に何かカサカサした物の感触を感じた。
首を掻くふりをして襟に入れられていたものを取り出すと、はたしてそれは折り畳まれた紙片だった。
急いで開くと、そこには整った字で「12」とだけ書いてある。
それをそそくさと胸ポケットにしまうと、ちょうど先生がこちらに目を戻していた。
「で、答えは何だ?」
一瞬、答えるのを躊躇うが、わざわざ入れたということは答えてくれ、ということだろうと思い直す。
「じゅ、12です」
すると先生の顔が一瞬驚きに染まり、瞬きして止まった。
「———なるほど、寝ていたわけじゃあないのか」
「えっ?」
「いや寝ていたと思っていたんだが、間違え方が問題を解いてる人しか分からないようなものだったからな、合ってはいないが、まあ寝てはいなかったことは分かった。」
「い、いやー、まさか、寝ているわけないじゃないですかぁ」
自分の一言にクラス中で笑いが起こる。
だが自分はそれと違う理由で笑いそうになっていた。
あの女子生徒は答えを教えてくれようとしたが、そもそも彼女の答えが合っていなかったらしい。本末転倒である。
そしてまたそのおかげで寝ていたことがバレることもなく、結果的には良かった、ということもまた面白かった。
しばらくしてその女子生徒が戻ってきて、一瞬こっちに目配せをした。
そうして数学の授業は終わり、教材を机の中にしまおうとして、入らないことに気づき整理していると、突然話しかけられた。
「…どうだった?」
驚いて筆箱が手から滑り落ちる。
慌てて拾い、声の主の方を振り返る。
もちろん、例の女子生徒であった。
そのまま黙り込んだままでいると、「………えーっと、聞こえてるかな…?」と聞き重ねられたが、宮本がそれに気づくことはなかった。
何故ならば彼はその女子生徒に見惚れていたからだ。
明るい光を宿した瞳に、血色のいい頬。馬の毛のように滑らかな黒髪。
寝坊していたときや授業中のときは、相手の顔をじっくりと見るほどの精神的余裕はなかったが、今になって見てみるととても可愛らしく感じられた。
しかしそんなにもまじまじと見つめられては女子の方もただでは居られず、「…な、何か顔についてます…か…?」とおずおずといった様子で不安そうにする。
ようやく意識が現実に戻り、慌てて返事をするが、今度は相手の意識が飛んでいた。
「あっ、はい、助かりました…………あれっ…?聞こえて……ます…?」
数秒後、彼女は眠気覚ましになのか、首をふるふると横に振り、再び返事を待つ姿勢に入った。
しかし、宮本はそれを「聞こえていない」という意味だと取り、二人の間で「聞こえていないようでまだ返事をもらえてない」と「返事は言ったけど聞こえていないらしい」というすれ違いが生まれ、一時的にコミュニケーションが中断した。
しばらくの沈黙の後、最初に切り出したのは女子生徒だった。
「…えーっと……あの紙は読みましたか…?」
それにつられて宮本も会話を再開する。
「あっ、よ、読みました、あの時はありがとうございます……。ただ…」
女子生徒は思わぬ続きの言葉に少し怪訝そうにしながらも、「……ただ…?」と続きを促す。
「…ただ、あの答えは正解じゃなかったんですけどね…」
その返答を聞いた瞬間、女子生徒の顔がばっと赤くなった。
「へっ?!」
みるみるうちに耳まで真っ赤になり、終いにはぷるぷると震えていた。
それを見て少し気まずく思ったのか、宮本が「ま、まあ、結果的に自分が寝ていたことがバレなかったので良かったんですけどね」とフォローする。
それを聞き、多少は落ち着いたようだったが、やはり羞恥心のあまりか、俯いたままになってしまった。
「———ところで、お名前は…?」
おそるおそる聞いてみるが、一向に顔を上げる気配はない。
しかし、しばらく待っていると、ゆっくりと面をあげて言った。
「……上川」
カミカワ……?
一瞬頭の中できちんと漢字変換がなされず、「神川」と思ったが、そのすぐ後に「上川」であると気づきようやく理解する。
「…えーっと、じゃあ、上川さん……あっ、下のお名前を聞いても…?」
その質問に上川さんが答えようとして口を開いた時だった。
「おーい!まっちゃん!大山が呼んでるよ!」
突然大きな声が聞こえた、と思ったら、それに上川さんがパッと反応し、「わかったー!今行くー!」と扉の方に行ってしまった。
結局、その時に分かったことは、彼女が「上川さん」だということだけだった。
そうして一人、机に座ったままでいる宮本は、上川さんの名前を知れたことや、一緒に話すことができたことを嬉しく思う反面、友達よりも優先されないことを当然だと分かっていながらも若干残念に感じるのだった。
いかがでしたでしょうか?
今回も相変わらずの内容ですが、お読みいただきまして本当にありがとうございます。
もし、お気に召していただけましたらぜひ!感想もよろしくお願いいたします!