記憶を解き放つ(第2部 / 帝国の現実)
記憶宮殿の大会議室には、朝の清々しい空気が流れていた。
高い天井から差し込む光が、長いテーブルを温かく照らしている。テーブルの表面は綺麗に磨かれ、朝露のような水滴がキラキラと光っている。
会議室の窓は大きく開け放たれ、初夏の爽やかな風が吹き抜けていく。その風は庭園の薔薇の香りを運んでおり、会議室全体を甘い香りで満たしていた。
薔薇の他にも、ジャスミンやライラックの香りが混じり合い、複雑で美しい香りの調和を生み出している。
慶一郎、エレオノーラ、マリエルの三人が席に着くと、間もなく他の仲間たちも集まってきた。
アルカディウス皇帝は、質素な服装に身を包んでいた。
皇帝の服装ではなく、一人の人間としての装いだった。記憶を取り戻してからの彼は、権力よりも人々の幸せを重視するようになっていた。
「皆さん、お疲れ様です」
アルカディウスが深く頭を下げる。
「まず、心からお礼を申し上げたい」
「あなたたちのおかげで、私は……いえ、帝国全体が救われました」
ザイラスが席に着く。
元帝国幹部の男は、軍服を脱ぎ、シンプルな茶色の服を着ていた。顔には三十年ぶりの安らぎがあったが、同時に深い責任感も宿っていた。
「陛下、感謝されるべきは私たちではありません」
ザイラスが静かに言う。
「真に感謝すべきは、慶一郎さんたちです」
「そして……これからが本当の始まりです」
リーザも隣に座る。
元料理検閲官の女性は、清潔な白いブラウスに身を包んでいた。彼女の表情には、料理への愛を取り戻した喜びと、これからの使命への決意があった。
「そうですね」
リーザが資料を取り出す。
「現在の状況を報告させていただきます」
彼女が広げた地図には、セメイオン帝国全土が描かれていた。
首都周辺は青い色で塗られているが、それ以外の地域は依然として灰色のままだった。
「記憶解放が完了しているのは、首都を中心とした半径百キロ圏内のみです」
リーザが地図を指しながら説明する。
「帝国全体から見ると……まだ三割程度にすぎません」
レネミアが心配そうに眉をひそめる。
王女としての責任感から、一刻も早くすべての人を救いたいと願っていた。
「残りの地域は、どのような状況なのでしょうか?」
ガルスが重い表情で答える。
「厳しい状況です、レネミア様」
元帝国兵隊長の男は、軍事的な観点から現実を見つめていた。
「遠隔地の多くは、まだ旧体制のままです」
「記憶を奪われた地方官僚たちが、従来通りの統治を続けています」
「そして……それ以上に深刻な問題があります」
ガルスが地図の東部を指す。
「東部山岳地帯では、記憶魔物の活動が活発化しています」
「記憶を食らう魔物……」
サフィが不安そうに呟く。
明るい性格の彼女も、魔物の話には顔を曇らせていた。
「それらは、記憶宮殿の影響が弱い地域に巣を作っているのです」
ナリが学者らしい分析を加える。
「興味深いことに、これらの魔物は単なる獣ではありません」
「魂素学的に見ると、記憶を奪われた人々の怨念が魔物化したものと考えられます」
慶一郎が身を乗り出す。
「つまり……帝国の記憶操作政策が、魔物を生み出していたということか?」
ナリが頷く。
「はい。長年にわたって記憶を奪われ続けた人々の絶望や怒りが、魂素的な歪みを生み出し、それが魔物として具現化したのです」
「科学的に言えば、負の情報エントロピーの集積現象です」
会議室に重い沈黙が流れる。
窓から吹き込む風が、まるで悲しみを運んでくるかのように感じられた。
アルカディウスが深く息をつく。
「私たちが犯した罪は……想像以上に重いということですね」
マリエルが優しく言う。
「でも、陛下」
「罪を犯したことを嘆くよりも、その罪を償う方法を考えましょう」
「アガペリア様はいつも言われます。『過去は変えられないが、未来は創造できる』と」
エレオノーラも頷く。
「そうです。私たちには力があります」
「慶一郎の調和の炎、私の天使の力、マリエルの神器……」
「必ず、すべての人を救えます」
慶一郎が立ち上がる。
朝の光が彼の背後から差し込み、まるで後光のように見えた。
「具体的な計画を立てよう」
「まず、記憶魔物の問題から取り組む必要がある」
「人々の記憶を取り戻すためには、魔物を浄化しなければならない」
ザイラスが軍事的観点から提案する。
「軍事的には、各地域に小部隊を派遣するのが効率的です」
「私が指揮を取り、ガルスと元帝国兵たちで編成します」
リーザが補足する。
「料理面でのサポートも必要です」
「魔物を浄化するには、特別な料理が必要でしょう」
「各地の食材を調査し、最適な浄化料理を開発する必要があります」
レネミアが外交的観点から意見を述べる。
「黄金龍都からも支援を提供します」
「物資の補給、人員の派遣、必要であれば軍事支援も」
「ただし……」
レネミアが心配そうに続ける。
「近隣諸国の反応が気になります」
「帝国が混乱している間に、領土的野心を抱く国があるかもしれません」
アルカディウスが苦い表情を見せる。
「確かに、それは大きな懸念です」
「記憶操作政策によって、多くの国との関係が悪化していました」
「信頼を回復するには、相当の時間と努力が必要でしょう」
その時、ナリが手を上げた。
「皆さん、一つ提案があります」
学者の彼女の目に、新しいアイデアの光が宿っていた。
「それぞれ個別に行動するのではなく、正式な組織を作ってはいかがでしょうか?」
「『多元調和連合』のような……」
慶一郎が興味深そうに聞く。
「どういうことだ?」
ナリが説明を始める。
「黄金龍都、新生セメイオン帝国、改革された無餐派、そして天界の改革派……」
「これらすべてを統合した、新しい国際組織です」
「目的は、料理を通じた世界の調和促進」
エレオノーラが目を輝かせる。
「素晴らしいアイデアです」
「天界でも、そのような組織への参加を支持する声があります」
マリエルも賛同する。
「アガペリア様も、きっとお喜びになります」
「愛と料理で世界を結ぶ……神々の願いでもあります」
アルカディウスが考え込む。
「確かに、それは有効かもしれません」
「単独の国家として行動するよりも、国際的な正統性を得られます」
ザイラスが軍事的観点から分析する。
「組織力も向上します」
「各国の特性を活かした、効率的な作戦が可能になる」
リーザが実務的な観点から意見を述べる。
「食材の調達も容易になります」
「各地の特産品を組み合わせることで、より効果的な料理が作れるでしょう」
慶一郎が決断する。
「やろう」
「『多元調和連合機構』を設立する」
「頭文字を取って……MHAOと呼ぼう」
会議室に活気が戻ってきた。
新しい希望と可能性に満ちた組織の誕生に、全員が興奮していた。
窓から吹き込む風も、まるで祝福しているかのように暖かく感じられた。
「では、具体的な役割分担を決めましょう」
レネミアが提案する。
「黄金龍都は外交と資金面を担当」
「セメイオン帝国は技術と情報面を担当」
「無餐派は宗教間対話と精神的ケアを担当」
「天界は超自然現象対応を担当」
ナリが補足する。
「そして、慶一郎さんは名誉総裁として、全体の方針決定を担当」
「実質的な最高権威として、組織を統率していただく」
慶一郎が苦笑いする。
「総裁なんて、俺には荷が重いな」
「でも……やってみるよ」
「みんなと一緒なら、きっとできる」
その時、会議室の扉が開いた。
カレンとアベルが入ってきて、重要な報告を持参していた。
「慶一郎さん、緊急報告があります」
カレンが息を切らしながら言う。
「東部の村から、伝令が到着しました」
「記憶魔物の被害が、予想以上に深刻です」
アベルが詳細を報告する。
「三つの村が完全に魔物に占拠されました」
「住民は全員、記憶を食い尽くされて……」
「生きてはいますが、まるで抜け殻のような状態です」
会議室に緊張が走る。
のんびりと組織作りをしている場合ではない。
今すぐにでも行動を起こす必要があった。
慶一郎が決然と立ち上がる。
「準備を始めよう」
「MHAO設立は並行して進める」
「でも、まずは人命救助が優先だ」
エレオノーラとマリエルも立ち上がる。
「私たちも一緒に行きます」
全員の表情に、強い決意が宿っていた。
記憶を解き放つ戦いは、まだ始まったばかりだった。




