表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

94/182

記憶を解き放つ(第1部 / 母の遺した謎)


 セメイオン帝国に真の夜明けが訪れてから三日が過ぎていた。

 記憶宮殿の最上階にある小さな書斎は、朝霧に包まれていた。

 東の窓から差し込む薄紅色の朝日が、霧の粒子一つ一つを宝石のように光らせている。空気はひんやりとして清らかで、肌に触れるたびに新しい季節の始まりを感じさせた。

 慶一郎は古い木製の机に向かって座っていた。

 机の上には、彼が大切に保管してきた母の遺品——薄茶色に変色した古いレシピ帳が置かれている。

 「お母さん……」

 慶一郎が遺品に触れると、指先に温かみが伝わってきた。

 まるで母の体温がまだ残っているかのような、不思議な感覚だった。

 表紙を開くと、見慣れた母の丁寧な文字が目に飛び込んでくる。

 『愛情込めて作る、家族のためのお料理集』

 懐かしい記憶が蘇る。母がキッチンで楽しそうに料理を作っていた姿。家族揃って食卓を囲んだ温かい夕食の時間。

 ページをめくっていくと、見慣れた家庭料理のレシピが並んでいる。

 肉じゃが、ハンバーグ、オムライス——どれも慶一郎の好物ばかりだった。

 だが、今朝は何か違って見えた。

 記憶を操る力、調和の炎の謎、そして結婚式で体験した三人の魂の結合について考えていると、母のレシピがただの料理手順ではないもののように思えてきた。

 風が窓から吹き込み、レシピ帳のページがそっとめくられる。

 その風は初夏の爽やかな香りを運んでいた。新緑の葉っぱの匂い、朝露に濡れた草花の香り、そして遠くから漂ってくる焼きたてのパンの匂い。

 街は静かに息づいている。

 帝国が解放されてから、人々の生活にも変化が現れていた。窓の外では、記憶を取り戻した市民たちが久しぶりに自由な朝を迎え、思い思いの時間を過ごしている。

 子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。

 鳥たちのさえずりが空に響いている。

 すべてが生き生きとして、希望に満ちていた。

 慶一郎がレシピ帳の中程まで来た時、奇妙なページを発見した。

 「これは……」

 そのページには、料理のレシピの間に、見慣れない数式が小さく書き込まれていた。

 最初は装飾的な模様かと思ったが、よく見ると複雑な数学的記述だった。

 『E=mc²……波動方程式……魂素結合理論……』

 慶一郎の心臓が早鐘を打ち始めた。

 慶一郎はふと思い出した。母が生前、『料理は魂素学と愛情の融合なのよ』とよく口にしていたことを。彼女は料理人であると同時に、異世界理論を研究する学者でもあったのかもしれない。

 これは料理のレシピではない。何か別の、もっと深遠な知識が隠されている。

 「まさか母さんは……」

 ページをさらにめくっていくと、料理手順の合間に、より詳細な理論が記述されているのを発見した。

 『調和の炎は魂素の海への接続口である』

 『記憶とは情報であり、情報には魂素的重量がある』

 『料理による魂の調律は、精霊界の共鳴現象を利用する』

 慶一郎が息を呑む。

 母は料理人でありながら、同時に魂素学の研究者でもあったのだ。

 風がまた吹いて、レシピ帳のページが踊る。

 その瞬間、慶一郎の手に宿る調和の炎が、突然激しく反応した。

 いつもの紅蓮の炎ではなく、虹色に輝く新しい炎が立ち上ったのだ。

 その炎は美しかった。

 オーロラのように色彩が変化し、見つめているだけで心が安らぐ。だが、それ以上に驚くべきことが起きていた。

 炎の中に、小さな光の粒子が無数に踊っているのが見えたのだ。

 「これが……魂素粒子……」

 慶一郎が呟く。

 母のレシピ帳に書かれていた理論が、現実のものとして目の前に現れている。

 光の粒子一つ一つが、まるで意志を持っているかのように動き回っている。それぞれが異なる色を放ち、互いに複雑な模様を描きながら踊っている。

 「すごい……」

 エレオノーラの声が背後から聞こえた。

 振り返ると、白いナイトドレス姿の天使が、感嘆の表情で炎を見つめていた。翼は朝日を受けて真珠のように輝き、金色の髪が風にそよいでいる。

 「その炎……今までとは全く違います」

 エレオノーラが慶一郎の隣に座る。

 彼女の存在が近くにあると、調和の炎がさらに美しく輝いた。天使の光と融合し、書斎全体を神聖な輝きで満たしている。

 「母さんが……俺に残してくれたんだ」

 慶一郎がレシピ帳を見つめる。

 「料理の技術だけじゃない。この世界の真理を……」

 マリエルも書斎に入ってきた。

 聖女は白い修道服に身を包み、胸元でペッパーミルが神聖な光を放っている。朝の光に照らされた彼女の姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。

 「慶一郎様……その炎から、アガペリア様の波動を感じます」

 マリエルが驚きの声で言う。

 「まるで……神々の領域に接続しているかのような……」

 三人が炎を見つめていると、さらに驚くべきことが起きた。

 炎の中から、かすかに女性の声が聞こえてきたのだ。

 『慶一郎……』

 それは間違いなく、母の声だった。

 『あなたが成長して……とても嬉しいです』

 慶一郎の目に涙が浮かぶ。

 『この力を……正しく使ってください』

 『世界の調和のために……愛する人たちのために……』

 母の声が静かに消えていく。

 炎も次第に落ち着きを取り戻し、いつもの調和の炎に戻っていく。

 だが、慶一郎の心には確信が生まれていた。

 この力は、単なる料理の技術ではない。

 世界そのものの法則に関わる、深遠な力なのだ。

 「記憶は……情報なんだ」

 慶一郎が呟く。

 「そして情報には、魂素的な重さがある」

 「だから記憶を『奪う』ことも『戻す』こともできる……」

 エレオノーラが頷く。

 「天界の秘法にも、似たような理論があります」

 「魂の情報を操作する技術……でも、それを料理を通して行うなんて……」

 マリエルが感動で震えている。

 「料理が……神の領域に触れる行為だったなんて……」

 「だからアガペリア様は、私にペッパーミルを授けてくださったのですね」

 窓の外では、朝が進むにつれて街がより活気づいてきた。

 商店街では店主たちが店を開き、広場では子供たちが遊び始めている。市場では新鮮な野菜や魚が並べられ、料理人たちが腕を振るう準備をしている。

 記憶を取り戻した人々が、久しぶりに自分の好きな料理を作り、愛する人と食事を共にしている。

 その光景を見ていると、慶一郎の心に新たな決意が湧いてきた。

 「俺たちがやらなければならないことがある」

 慶一郎が立ち上がる。

 「記憶を取り戻したのは、まだ首都周辺だけだ」

 「帝国全土には、まだ記憶を失ったままの人々がたくさんいる」

 エレオノーラとマリエルが頷く。

 「そうですね」

 エレオノーラが決意を込めて言う。

 「私たちの使命は、まだ始まったばかりです」

 「すべての人に、本当の記憶と愛を取り戻してもらいましょう」

 マリエルが微笑む。

 「アガペリア様も、きっとお喜びになります」

 朝日が書斎を明るく照らし、三人の決意を祝福しているかのようだった。

 新しい力を手に入れた慶一郎と、愛する二人の女性。

 彼らの前には、まだ長い道のりが待っている。

 だが、その道のりは希望に満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ