愛の誓い(第2部 / 聖女の想い)
宮殿の中庭では、慶一郎たちが戻ってくるのを待つ仲間たちがいた。
レネミア、サフィ、カレン、ナリ、アベル——そして、マリエル。
聖女マリエルは、古い石の階段に腰を下ろしていた。
白い修道服の裾が夕風に揺れ、金色の髪が夕日に照らされて神々しく輝いている。だが、その美しい顔には深い想いの影があった。
細い指が胸元のペッパーミル——神から授かった聖なる神器を握りしめている。
あの夜のことを思い出していた。黄金龍都で神に許しを請い、慶一郎への愛を告白した夜のことを。
それから長い時が過ぎた。
戦いも、別れも、再会もあった。だが、慶一郎への想いは変わらなかった。いや、むしろ強くなっていた。
「マリエル」
レネミアが隣に座る。
王女としての威厳を保ちながらも、友人としての優しさを込めて話しかけた。
「また、慶一郎のことを考えているのね」
マリエルが振り返る。その翡翠色の瞳に、確固たる決意の光があった。
「はい……私、決めたんです」
レネミアが優しく微笑む。
同じ慶一郎を想う女性として、マリエルの心境が手に取るようにわかった。
「以前、私は慶一郎様に想いを伝えました」
マリエルが静かに語り始める。
「でも、あの時はまだ迷いがありました。聖女としての使命と、女性としての想いの間で……」
風が中庭を吹き抜けていく。
それは戦いが終わった平和な風だった。
「今は違います」
マリエルの声に力があった。
「この戦いを通して、私は確信しました。愛することと、神に仕える事は矛盾しない」
その時、宮殿の扉が開いた。
慶一郎とエレオノーラが、アルカディウスと三人の長官たちと共に現れた。
マリエルの心臓が静かに跳ねた。
慶一郎の姿を見ると、胸の奥が温かくなる。それは恋心——もう隠す必要のない、純粋な愛だった。
「みんな!」
サフィが弾んだ声で駆け寄る。
「お疲れ様でした!」
カレンとアベルも立ち上がり、ナリも安堵の笑顔を浮かべた。
マリエルもゆっくりと立ち上がった。
今度は迷いはない。自分の想いを、改めて伝える時が来た。
「慶一郎様」
マリエルが慶一郎に向かって歩く。
夕日が彼女の白い修道服を照らし、まるで天使のような美しさだった。そして、その美しい顔には人間らしい愛が輝いている。
「お帰りなさい」
マリエルの声は澄んでいた。
他の仲間たちが察して、そっと距離を置く。エレオノーラも微笑んで見守っていた。
中庭に、二人だけの空間ができた。
「マリエル」
慶一郎がマリエルの前に立つ。
見上げた彼の顔は、夕日に照らされて暖かく見えた。いつもの優しい表現で、彼女を見つめている。
「この戦いで、私は多くのことを学びました」
マリエルが話し始める。その声は震えていないが、深い感情に満ちていた。
「愛することの意味。人を救うことの意味。そして——」
マリエルが胸元からペッパーミルを取り出す。
神から授かった聖なる神器。それは夕日を受けて、神秘的に輝いていた。
「神の愛と、人への愛は同じものだということを」
慶一郎の目が優しく細められた。
「マリエル……」
「以前、私はあなたに想いを伝えました」
マリエルが続ける。
「でも、あの時の私には迷いがありました。今は違います」
ペッパーミルを両手で捧げ持つ。
「私の愛に、もう迷いはありません」
マリエルの瞳に、確固たる決意が宿っていた。
「神に仕える身として、そして一人の女性として——あなたを愛しています」
その言葉が、夕暮れの中庭に響いた。
聖女の想いの確認——それは以前の告白とは違う、成熟した愛の表現だった。
「この神器と共に」
マリエルがペッパーミルを慶一郎に差し出す。
「私の全てを、あなたに捧げます」
慶一郎がペッパーミルを受け取る。
その手は温かく、優しかった。
「マリエル……君の想いは、いつも俺の支えになっている」
慶一郎が微笑む。
「君の愛も、神から与えられた贈り物だから」
マリエルの心に、暖かいものが流れ込んだ。
愛と信仰が一つになる感覚。
神への愛と、人への愛が調和する奇跡。
「ありがとう……ございます……」
マリエルが涙を浮かべて微笑んだ。
それは聖女の微笑みであり、同時に愛する女性の微笑みでもあった。
戦いを経て、彼女の愛はより深く、より確かなものになっていた。
その時、マリエルの手にあるペッパーミルが、突然暖かな光を放ち始めた。
それは神聖な光——神の祝福の証だった。
ペッパーミルの表面に、古代文字が浮かび上がる。それは「愛こそが真の奉仕」という、神からのメッセージだった。
マリエルの周囲に、金色の光の粒子が舞い始めた。それは胡椒の香りと共に空間を満たし、まるで天界の祝福が降り注いでいるようだった。
胡椒——それは情熱と純粋さの調和を象徴する、神聖な香辛料。
古来より、愛の記憶を料理に宿らせる力があると言われていた。
そして今、マリエルの手にあるペッパーミルは、その伝説的な力を現実のものにしようとしていた。
「これは……」
慶一郎が驚いて見つめる。
ペッパーミルから立ち上る光が、彼の調和の炎と共鳴し始めたのだ。
金色の光と紅蓮の炎が螺旋状に絡み合い、この世のものとは思えない美しい輝きを生み出している。
マリエルの体も光に包まれていく。
それは聖女としての力が進化している証拠だった。
愛を受け入れることで、彼女の聖なる力はより強く、より美しくなっていた。
「マリエル……君は……」
慶一郎が息を呑む。
マリエルの姿が神々しく輝いていた。白い修道服は光の衣となり、金色の髪は天使の光輪のように輝いている。
だが、それは冷たい神聖さではなく——愛に満ちた、暖かな聖性だった。
『我が娘よ』
突然、天から声が響いた。
それは愛と胡椒の女神アガペリアの声だった。優しく、慈愛に満ちた、母親のような声。
『汝の愛を祝福する』
『愛することこそが、最も崇高な奉仕である』
アガペリアの声に、マリエルの目から感激の涙が溢れた。
『汝はこれより、愛する聖女として生きるがよい』
『汝の料理に癒しの力を、汝の愛に希望の光を授けよう』
ペッパーミルの光がさらに強くなり、マリエルの全身を包み込む。
その瞬間、彼女の中で何かが覚醒した。
新たな力——愛の力と癒しの力が一つになった、奇跡の能力だった。
だが、それだけではなかった。
ペッパーミルの表面に新たな文字が浮かび上がる。
『記憶に宿る愛を呼び覚ます』『魂の糧となる香りを創造する』『情報そのものに愛を込める』
マリエルが驚いて見つめる。
「これは……今までにない力……」
ペッパーミルから立ち上る香りが、ただの胡椒の香りではなくなっていた。
それは記憶の香り、愛情の香り、そして——魂そのものの香りだった。
慶一郎も感じていた。その香りに触れると、心の奥底に眠っていた何かが動き出すような感覚を。
光が収まると、マリエルはより美しく、より輝いて見えた。
聖女としての威厳を保ちながらも、一人の女性としての魅力にも満ち溢れている。
「ありがとう……ございます……」
マリエルが天に向かって感謝を捧げる。
そして、慶一郎とエレオノーラを見つめて、頬を薔薇色に染めた。
「あの……もし……もしよろしければ……」
急に年頃の女性らしい恥じらいが顔に浮かぶ。
「私も……結婚式を……挙げさせていただけないでしょうか……」
その素直で可愛らしい願いに、慶一郎とエレオノーラが微笑んだ。
神聖な聖女が見せる、人間らしい乙女心。それがかえって愛おしく感じられた。
その時、再び天から声が響いた。
『慶一郎よ、エレオノーラよ』
アガペリアの声は、まるで娘を愛する母親のように温かかった。
『我が娘の願いを……受け入れてくれないだろうか』
『彼女にとって、汝らとの絆こそが最も大切なものなのだ』
女神自らが、マリエルの結婚を後押ししている。
それは前代未聞の出来事だった。神が人間的な感情を露わにし、愛する娘の幸せを願っているのだ。
慶一郎が深く頭を下げる。
「はい。マリエルの想いを、大切にさせていただきます」
エレオノーラも優雅に一礼した。
「私たちも、マリエルを心から愛しています」
アガペリアの声に、満足そうな響きがあった。
『ありがとう……我が娘を、よろしく頼む』
光が静かに消えていく。
だが、マリエルの手にあるペッパーミルは、今でも暖かく輝き続けていた。
それは神の祝福の証であり、彼女の新たな力の源だった。
「慶一郎様、エレオノーラ様……」
マリエルが涙を浮かべて微笑む。
「私、とても幸せです」
その笑顔は、聖女の威厳と乙女の可愛らしさが完璧に調和した、この世で最も美しい笑顔だった。
エレオノーラもまた、マリエルの決意に心を動かされていた。
彼女の心に、過去の記憶が鮮明に蘇る。
天界にいた頃——まだ『秩序』だけを信じていた時代のことだった。
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『エレオノーラ』
上位天使アトレウスの厳しい声が天界に響く。
『汝は人間界の監視を怠っている』
若き日のエレオノーラが跪いている。
『申し訳ございません……』
『人間たちの料理文化が混乱を招いている』
アトレウスが冷たく言い放つ。
『秩序なき創造は破壊と同義だ』
『彼らの自由な料理は、神々の意志に反している』
エレオノーラの心に疑問が生まれる。
しかし、それを口に出すことはできなかった。
『汝の使命は、人間界に正しい秩序をもたらすことだ』
『料理にも、愛にも、決まりがなければならない』
『自由など……人間には必要ない』
その言葉に、エレオノーラの心が震える。
だが、彼女は秩序の天使として生まれた。疑問を抱くことは許されない。
『はい……承知いたしました』
だが、人間界に降り立ってからの彼女は違った。
人間たちの自由な料理を見て、心が動いた。
慶一郎の愛に満ちた料理に触れて、秩序だけでは測れない美しさがあることを学んだ。
『秩序』と『自由』の間で揺れ動く日々。
『天使』としての使命と『一人の女性』としての想いの葛藤。
そして——愛に目覚めた瞬間の衝撃。
慶一郎の料理を口にした時、彼女の中で何かが変わった。
秩序だけでは表現できない、複雑で美しい味わい。
規則に縛られない、自由で豊かな創造力。
それまで信じてきた『正しさ』が、実は『不完全』だったことに気づいた瞬間。
『愛』こそが最高の秩序だということを理解した時。
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エレオノーラは、かつて秩序を盲目的に信じていた自分を思い出していた。しかし今は違った。彼女が信じるのは秩序ではなく、愛に基づく調和だった。
「私も……決めました。もう迷いません」
エレオノーラが決意を込めて言う。
「私の新しい使命は……慶一郎と共に、愛の秩序を築くことです」
「規則に縛られた冷たい秩序ではなく……愛に満ちた、暖かな調和を……」




