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愛の誓い(第1部 / 血と汗の勝利)

 記憶宮殿の最上階で奇跡が起きている間、宮殿の下層階では壮絶な戦いが繰り広げられていた。

 石造りの廊下は血痕で染まり、砕けた石片が床一面に散乱している。壁には刃物の傷跡が無数に刻まれ、天井からは崩れた瓦礫がまだぽろぽろと落ち続けていた。

 空気は鉄錆の匂いと汗の匂いで満ちている。

 そして——勝利の余韻と、生き延びた安堵の息遣いが、重く静かに響いていた。

 ザイラスは柱に背中を預けて座り込んでいた。

 かつて帝国の幹部だった男の顔は、血と埃にまみれていた。右腕には深い傷があり、制服は至る所が破れて血に染まっている。だが、その目には三十年ぶりの安らぎが宿っていた。

「……終わった」

 ザイラスが呟く。その声は掠れていたが、確かな満足感があった。

「やっと……やっと償えた……」

 彼の脳裏に、三十年間の罪の重みが蘇る。

 記憶操作を推進し、無実の市民から大切な記憶を奪った日々。部下たちを洗脳し、家族を引き裂く任務に従事させた罪悪感。そして何より——愛する妻と息子を救えなかった自分への憎悪。

「あの頃、俺は盲目的に記憶を奪うことを信じていた……」

 ザイラスが血に染まった手を見つめる。

「部下たちも巻き込み、多くの人を傷つけてきた。リーザのような善良な職員まで、俺の復讐心の道具にしてしまった……」

 リーザが静かに頷く。彼女もまた、記憶検閲という名の下に多くの料理人の記憶を奪ってきた。

「でも隊長……私たちは今日、自分たちの手で決着をつけました」

「そのすべての罪を……ようやく今日、俺は自らの手で償ったんだ」

 ザイラスの声に、三十年分の重荷が降りた解放感があった。

 彼の足元には、十数体の帝国兵の亡骸が横たわっていた。

 最期まで記憶皇帝に忠誠を誓った精鋭部隊——彼らは記憶を取り戻すことを拒否し、侵入者を排除しようとした。だがザイラスは、かつての部下たちと剣を交えなければならなかった。

 剣先が元部下の胸を貫いた瞬間の、あの重い感触。

 相手の目に宿った困惑と裏切りの光。

 血飛沫が顔にかかった時の、生温かい感覚。

 すべてが、ザイラスの記憶に焼き付いている。

「隊長……」

 リーザが傷ついた体でザイラスに近づく。

 元料理検閲官の女性も、激戦の爪痕を全身に刻んでいた。右頬には浅い切り傷があり、ブラウスの袖は血に染まっている。

 だが、その顔には晴れやかな表情があった。

「私たち……やりましたね」

 リーザの声に涙が滲んでいる。

 彼女もまた、かつての同僚たちと戦わなければならなかった。料理検閲局の職員たちが、記憶を取り戻すことを阻止しようとしたのだ。

 フライパンを振り回す元同僚。

 包丁を投げつけてくる元上司。

 料理を愛していたはずなのに、今は料理を憎む目をした人々。

 リーザは泣きながら戦った。愛する料理を守るために、元仲間たちと刃を交えた。

「あなたが……あなたが慶一郎さんを信じてくれたから」

 リーザが続ける。

「だから私も……最後まで戦えました」

 ザイラスがゆっくりと立ち上がる。傷ついた体に鞭打って、威厳を保とうとしていた。

「俺たちはただ……道を示しただけだ」

 彼が宮殿の上階を見上げる。

「本当の戦いは……慶一郎さんとエレオノーラさんが担ってくれた」

 その時、下から足音が聞こえてきた。

 ガルス率いる元帝国兵部隊が、階段を上がってくる音だった。

 ガルスの顔も血と汗にまみれている。かつて帝国軍の隊長だった男は、今は解放軍の指揮官として戦い抜いていた。

「ザイラス隊長!」

 ガルスが敬礼する。その声は疲労で掠れていたが、勝利の高揚感があった。

「外郭の制圧、完了しました」

 ガルスの後ろから、元帝国兵たちがぞろぞろと現れる。

 彼らの顔にも激戦の痕跡が刻まれていた。血まみれの制服、包帯を巻いた腕、疲労で青白くなった顔。

 だが、全員の目に希望の光があった。

 記憶を取り戻した喜び。仲間を取り戻した安堵。そして——長い悪夢から解放された解放感。

「隊長……俺たち……」

 一人の元帝国兵が震え声で言った。

「俺たち、何をしていたんでしょうか……」

 記憶を取り戻した彼らは、自分たちが犯してきた罪の重さを理解していた。

 無実の市民を逮捕し、記憶を奪い、家族を引き裂いてきた。

 その罪悪感に押し潰されそうになっている者もいた。

「……贖罪は、これからだ」

 ザイラスが静かに言った。

「俺たちにできるのは……これから先、正しく生きることだけだ」

 風が廊下を吹き抜けていく。

 それは宮殿の外から吹き込む風だった。自由な風。解放された帝国の、新しい空気だった。

 その風に混じって、街の向こうから人々の声が聞こえてくる。

 家族を呼ぶ声。名前を呼び合う声。笑い声と泣き声が混じった、人間らしい喧騒。

「聞こえますか?」

 リーザが微笑む。

「街の人たちの声が」

 ザイラスが頷く。

「ああ……これが俺たちが守りたかったものだ」

 記憶を取り戻した人々の歓喜の声。

 それは、彼らが命をかけて戦った意味を教えてくれる。

 血と汗と涙の代償が、ここにあった。

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