旅の焔と、燃え滾る心
旅の朝は、煙の匂いが薄い。
火の跡が冷めきらぬうちに支度を終え、俺たちは静かに歩き始めた。
銀髪の彼女は何も言わなかったが、時折、俺の歩幅に合わせるように距離を詰めていた。
その気配がやけに心に残る。
ミナは荷を背負って、ふてくされたように前を歩いていた。だが手にはちゃんと、昨夜俺が包んで渡した“焦がし芋の団子”が握られている。
それを黙って頬張る姿に、火に救われた誰かの記憶が焼き戻される気がした。
そして——王都の少女、アリシア。
彼女は慣れない山道に足をもつれさせながらも、懸命についてくる。
小さなノートに、俺の手順をびっしりと書き写していた。「火の味」を自分なりに理解しようとしている姿が痛ましく、そして美しかった。
「……この旅が終わったら、私……もう一度、あの干物が食べたい」
ぽつりと、そう呟いた彼女の横顔は、遠くを見ていた。
焔は、まだ誰かの記憶を繋げている。
その夜。
宿営地で火を囲みながら、誰からともなく“再現料理”が始まった。
ミナが塩を振り、銀髪の彼女が風除けを作り、アリシアが手を震わせながらも皿を差し出す。
俺は黙って、火加減を整えた。
皿の上に並んだのは、山鳥の串焼き、干し芋の塩焼き、そして——温め直した焦げかけの目玉焼き。
誰も何も言わず、ただ食べた。
火の音だけが、山間に響いていた。
口にした瞬間、ミナがそっと目を伏せた。
火の記憶に包まれるように、小さく笑みを浮かべる。
「……あんたの味って、なんかずるい」
その言葉に、銀髪の彼女が目を細めた。
「焼きすぎても、焦げても。覚えてしまう」
アリシアは皿を両手で抱え、少し震えながら言った。
「だから……忘れたくないんです」
火を囲んだ輪のなかで、俺はただ黙って皿を拭いた。
その後、ふいに銀髪の彼女が俺の肩にもたれかかった。
「……ねえ、あんた……この先も、こんなふうに焼いてくれるの?」
囁きは火の熱に溶け、ミナの視線とアリシアの手が、同時にこちらを向いた。
俺は応えなかった。ただ、皿に残った最後の一口を焼き直しながら、次の焔を探していた。
火が落ち着いたあと、誰もが名残惜しそうに皿を撫でていた。
アリシアがぽつりと呟いた。
「……味って、記憶なんですね」
その言葉に、ミナがふっと笑う。
珍しい笑みだった。
「うん……あったかいのって、怖かったけど、もう平気かも」
火の光が、彼女たちの目に滲んだ過去を照らし出すようだった。
銀髪の彼女は、夜風を遮るようにそっと薪を足した。
その手が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
「……何も言わずに、焼き続けるって、大変よね」
「でも、安心する」
その声には熱と湿りがあった。
誰かのために焼く——それは、重く、やさしい。
この旅は、きっと誰のためでもなく、誰かのために続いていくんだろう。
——その夜、俺は少しだけ夢を見た。
焼き損ねた卵と、誰かが泣いていた台所。
そして、誰かが小さく言った。
「また……焼いて、くれる?」
俺は、焔の中でその問いにうなずいた。
そして目を覚ました時、まだ薪の奥に残った赤い火が、次の場所を指し示していた。
焼かれていない国が、俺たちを待っている。
その夜、夢の底で微かに聞こえた声があった。
『観測完了。対象、火を通して世界と接続。次なる料理地へ誘導を開始——』
目を覚ましたとき、焚き火の残り火がわずかに輝いていた。
その焔の奥に、焦げた紙が差し込まれていた。アリシアが前夜に受け取っていた王都軍の地図だ。
銀髪の彼女がそれを拾い、目を細める。
「……北の村、“コルンの窯”」
そこは火を拒絶し、病が満ちる地だと記されていた。
ミナが皿を抱えて立ち上がる。
アリシアがノートを握りしめ、頷いた。
銀髪の彼女が剣を背負い、視線を交わす。
そして俺は、赤い焔の芯に向かって、ゆっくりと口を開いた。
「行くぞ。まだ、焼いてない場所がある」




