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真なる調和(第4部 / 皇帝の贖罪)


 アルカディウスが謁見の間の中央に立った。

 もはや皇帝ではなく、ただの人間として。愛を思い出した、一人の男として。

 外では夕日が沈みかけていた。長い一日が終わろうとしている。だが、これは終わりではない。新しい始まりの前の、最後の夕日だった。

「私は……」

 彼の声が、宮殿全体に響く。

 風が窓から吹き込み、カーテンを揺らした。その風は暖かく、希望に満ちていた。

「私は、アルカディウス・セレニウスは、この場で宣言する」

 深く頭を下げる。

 それは皇帝として初めて見せた、心からの謝罪だった。体が震えるほど深く、魂の底から頭を下げた。

「この三十年間、私が犯してきたすべての罪を認め、心から謝罪する」

 三人の長官たちが驚いて見ている。

 エリーザが涙を流し、ヴァルガスが感動に震え、カインが医師としての誇りを取り戻している。

 彼らもまた、アルカディウスと同じ道を歩んできた人間だった。愛ゆえに道を誤り、善意ゆえに悪に染まった人間だった。

「私は愛を見失い、憎悪に支配され、無数の人々の記憶を奪った」

 アルカディウスの声が震える。だが、その震えは恐怖ではなく——感情だった。

「罪のない人々を苦しめ、家族を引き裂き、愛を踏みにじった」

 宮殿の外から、かすかに人々の声が聞こえてくる。それは街の人々が、記憶を少しずつ取り戻し始めている声だった。

 アルカディウスの改心により、『完全忘却』の術式が崩れたことで、帝国全土の記憶封印に亀裂が走り始めていたのだ。

「だが今、愛する妻セレナの真の想いを知った」

 アルカディウスが天を仰ぐ。

 夕焼け空の向こうに、セレナの笑顔が見えるような気がした。

「彼女は最後まで私を愛していてくれた。記憶を失っても、心では覚えていてくれた」

 慶一郎とエレオノーラが見守っている。

 二人の愛もまた、この奇跡を支えていた。死を超えた愛、記憶を超えた愛が、アルカディウスの心を救ったのだ。

「だからこそ、私は贖罪しなければならない」

 アルカディウスが両手を天に向ける。

 その瞬間、宮殿全体が光に包まれた。

 だが今度は破壊の光ではなく——解放の光だった。

 温かく、優しく、希望に満ちた光。それは愛の光だった。

「帝国全土の記憶封印を、すべて解除する!」

 彼の宣言と共に、奇跡が始まった。

 宮殿の壁という壁から、無数の記憶の欠片が飛び出していく。それらは光の蝶のように舞い踊りながら、持ち主のもとへと帰っていく。

 空を覆うほどの記憶の群れ。それは美しく、神々しく、そして何より——愛に満ちていた。

 記憶たちは歌っていた。それぞれが持つ愛の歌を、喜びの歌を。三十年間封印されていた感情が、ついに自由になったのだ。


---帝国の下町——石畳の路地で


 清掃員の男性が突然立ち止まった。

 頭の中に、暖かな光が流れ込んできたのだ。

 「……アンナ」

 娘の名前が、唇から漏れ出た。

 三年前、思想犯として連行された時の記憶。愛する娘の泣き叫ぶ声。妻の絶望的な表情。そして——自分が父親だったという、最も大切な記憶。

 「アンナ!」

 男性が走り出した。

 娘がいるはずの場所へ。家族が待っているはずの場所へ。

 途中で、一人の少女が立ち止まっているのを見つけた。

 「……お父さん?」

 少女——アンナが、恐る恐る声をかける。

 「アンナ……」

 男性の声が震えた。

 「お前は……私の大切な娘だ……」

 「お父さん!」

 父と娘が抱き合った。

 三年ぶりの再会。記憶を取り戻した奇跡の再会。

 周囲で、同じような再会が次々と起きていた。夫婦が、親子が、友人同士が——互いを思い出し、抱き合っている。


---元住宅街のパン屋跡地で


 中年の女性——リディア・ベルフィオールが、崩れかけた建物の前に立っていた。

 記憶が蘇ったのだ。ここが自分のパン屋だったこと。毎朝早起きして、愛情込めてパンを焼いていたこと。

 「私は……パン職人だった……」

 彼女の手が動き始めた。パンを捏ねる手つきで、空気を掴んでいる。

 体が覚えていた。心が覚えていた。

 パン作りの喜びを。人に美味しいものを食べさせる幸せを。

 「今度こそ、本物のパンを焼こう」

 リディアが微笑んだ。

 三十年ぶりの、心からの笑顔だった。


---元貴族居住区の養老院で


 老女マーガレットが、窓辺に座っていた。

 記憶が戻った彼女の前に、小さな女の子が現れた。

 「おばあちゃん!」

 エミリーが手を振っている。

 「私よ、エミリー! おばあちゃんの孫の!」

 マーガレットの目に涙が浮かんだ。

 「エミリー……私の可愛いエミリー……」

 祖母と孫娘が抱き合う。

 「おばあちゃん、いつものお話聞かせて」

 エミリーが甘えるように言った。

 「昔、お姫様がいて……」

 「そうね……昔々、あるところに……」

 マーガレットが語り始める。

 三十年間封印されていた、温かな物語を。愛に満ちた昔話を。


---


 帝国全土で、数百万人の記憶が一斉に回復した。

 家族の絆、恋人同士の愛、友人との友情——奪われていたすべての人間関係が、瞬時に蘇った。

 街という街から、歓喜の声が上がる。

 泣き声、笑い声、抱き合う音、名前を呼ぶ声——人間の感情のすべてが、帝国を包み込んだ。

 記憶監視庁の建物からは、職員たちが次々と出てきていた。

 彼らもまた記憶を取り戻し、自分たちが何をしていたのかを理解したのだ。多くの者が泣いていた。罪悪感と、解放感と、喜びが入り混じった涙を流していた。

 料理検閲局でも同じことが起きていた。

 検閲官たちが、かつて自分たちが愛していた料理のことを思い出している。母の手料理、恋人との食事、友人たちとの宴会——すべてが鮮やかに蘇った。

 思想統制省では、職員たちが禁書を燃やすのをやめていた。

 本を読む喜び、学ぶ楽しさ、知識への渇望——人間らしい欲求が戻ってきたのだ。

 謁見の間でも、三人の長官たちが変化していた。

 エリーザは娘ミアの記憶を完全に取り戻し、いつか再会できる希望に胸を膨らませていた。

 「ミア……お母さんは帰ってくるからね……」

 ヴァルガスは息子エドワードとの美しい思い出を胸に、彼の意志を継ぐ決意を固めていた。

 「エドワード……お前の夢を、お父さんが必ず実現させる……」

 カインは医師としての誇りを完全に取り戻し、人を救う本当の医学に戻ることを誓っていた。

 「患者を救うために……本当の医師として生きよう……」

 宮殿の外では、軍部のクーデター部隊も動きを止めていた。

 兵士たちもまた記憶を取り戻し、なぜ戦っているのかわからなくなったのだ。武器を捨て、家族のもとへ帰ろうとする者が続出していた。

「これで……これですべて終わったのですね」

 エレオノーラが安堵の息をつく。

 夕日が彼女の金髪を照らし、まるで天使の光輪のように美しく輝いていた。

 慶一郎が頷く。

「ああ。でも、これは終わりじゃない。新しい始まりだ」

 アルカディウスが二人に歩み寄る。

 彼の表情は穏やかで、三十年ぶりに心の平安を取り戻していた。

「慶一郎……君に感謝の言葉もない」

 深く頭を下げる。

「君の料理が、私を救ってくれた。セレナとの愛を思い出させてくれた」

「いえ」慶一郎が首を振る。「俺はただ、料理を作っただけです。愛を思い出したのは、あなた自身の力です」

 アルカディウスが微笑む。

 それは三十年ぶりの、心からの笑顔だった。

「私は皇帝の地位を捨てる」

 彼が宣言する。

「もう一度、学者として生きよう。今度は記憶を奪うためではなく、記憶を守るために」

 エリーザが前に出る。

「私たちが、新しい政府を作ります」

 ヴァルガスとカインも頷く。

「記憶の自由を保障し、人々の幸福を守る政府を」

「料理の自由も」エリーザが付け加える。「すべての料理人に、創作の自由を」

「思想の自由も」カインが続ける。「学問の自由、表現の自由を」

「そして記憶の自由を」ヴァルガスが締めくくる。「人々が自分らしく生きる権利を」

 宮殿の外から、民衆の歓声が聞こえてくる。

 それは勝利の雄叫びであり、解放の歌であり、そして新しい時代への希望の声だった。

 帝国の長い暗黒時代が終わり、真の自由と愛に満ちた時代が始まろうとしていた。

 慶一郎がエレオノーラの手を握る。

「俺たちの旅も、まだ続くんだ」

 エレオノーラが微笑む。

「ええ。まだ救うべき人たちがいますから」

 二人は窓の外を見つめる。

 夕日が沈み、最初の星が輝き始めていた。その星の向こうには、新たな冒険が待っていた。

 『善意の支配者』という、新しい敵との戦いが。

 だが今は、この勝利を喜ぼう。

 愛が憎悪に勝利し、記憶が自由を取り戻し、人々が再び幸せを手にした。

 それは料理の力であり、愛の力であり——

 そして何より、人間の心の力だった。

 謁見の間に、やわらかな夜風が吹き込む。

 それは新しい時代の始まりを告げる、希望の風だった。

 慶一郎の『調和の炎』も、静かに燃え続けている。

 次なる冒険への準備を整えながら。

 セメイオン帝国の人々は、今夜初めて、本当の意味で眠りにつくだろう。

 愛する人の記憶を胸に抱いて。

 明日という希望を心に宿して。

 長い戦いは終わった。だが慶一郎は知っていた——世界にはまだ、救うべき人々がいることを。

 遠い国で苦しむ人々の声が、風に乗って聞こえてくるような気がした。

 だが、それは明日からの話。

 今は、この美しい勝利の夜を、心ゆくまで味わおう。

 愛と記憶と、そして料理の勝利を。

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