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真なる調和(第3部 / 記憶の回復)


 最初に感じたのは、温もりだった。

 胸の奥から広がる、懐かしい温もり。それは母の胸に抱かれた幼子のような、安らぎと愛に満ちた感覚だった。

 アルカディウスの目から、涙が止めどなく流れ始めた。

 だがそれは悲しみの涙ではなく——喜びの涙だった。

 スープが喉を通り、胃に達した瞬間、奇跡が起きた。

 失われたと思っていた記憶が、鮮やかによみがえったのだ。

 それも、ただの記憶ではない。愛の記憶だった。


---結婚式の朝


 『アルカディウス、今日はとても良い天気ね』

 窓辺に立つセレナの姿が、目の前に現れた。

 白いドレスに身を包んだ彼女は、まるで天使のように美しかった。朝の光が栗色の髪を照らし、翡翠色の瞳が希望に輝いている。

 『私、今日という日を一生忘れないわ』

 振り返った彼女の笑顔は、太陽よりも輝いて見えた。

 『あなたとの愛を、永遠に心に刻んでおくの』

 若きアルカディウスが答える。

 『僕も同じ気持ちだよ、セレナ。君への愛は、死んでも忘れない』

 その時は、その言葉が予言になるとは思わなかった。


---新婚時代の夕食


 『あなたのために、特別なスープを作ったの』

 エプロン姿のセレナが、誇らしげに鍋を持ってくる。

 まだ料理に慣れていない彼女が、必死に作った愛情料理。少し塩辛くて、野菜も固めだったけれど——

 『美味しい』

 アルカディウスは心から言った。

 『君が作ってくれたから、世界一美味しいよ』

 セレナが頬を染めて笑った。

 『本当? 嬉しい! 今度はもっと美味しく作るわね』

 その約束を、彼女は記憶病になるまで守り続けた。

 毎日、愛する夫のために料理を作り続けた。


---記憶研究への情熱


 『記憶って不思議ね』

 図書館でのデート中、セレナが本を閉じて言った。

 『人は記憶で生きているのに、記憶ほど曖昧なものはない』

 『でも』

 彼女がアルカディウスの手を握る。

 『愛の記憶だけは、絶対に正確よ。だって心で覚えているから』

 その言葉が、アルカディウスの研究の原点になった。

 記憶を科学ではなく、愛として捉える視点。

 セレナがいなければ、彼の研究は単なる技術に終わっていただろう。


---記憶病発症後の日々


 記憶病が進行してからも、セレナは愛することを忘れなかった。

 『あなたは優しい人ね』

 夫だとわからなくなった日でも、彼女はアルカディウスに優しかった。

 『きっと、どこかで誰かがあなたを愛しているのでしょう』

 その言葉の意味が、今になってわかる。

 セレナは知っていたのだ。記憶を失っても、心の奥底では愛していることを。

 『あなたのような優しい人なら、きっと素敵な奥様がいらっしゃるのでしょうね』

 自分のことを忘れても、夫の幸せを願っていた。

 それがセレナの愛だった。


---最期の日の真実


 セレナの最期の日。

 『あなたは、とても優しい人ね』

 他人として扱われた、あの言葉。

 だが今、アルカディウスには分かった。

 セレナの目の奥に、一瞬だけ——認識の光があったことを。

 彼女は知っていた。目の前の男性が愛する夫だということを。

 でも、それを口にしては夫が苦しむことも知っていた。

 だから、最後まで他人として接した。

 愛する夫を苦しませないために。

 『きっと、誰かに深く愛されているのでしょう』

 その言葉は、他人への言葉ではなかった。

 愛する夫への、最後のメッセージだったのだ。

 「私はあなたを愛していました。そして、あなたも誰かに愛されて幸せでいてください」

 そんな意味が込められていた。


---


 「セレナ……セレナ……!」

 アルカディウスが慟哭した。

 三十年間の誤解が、すべて解けていく。

 彼女は愛を忘れていなかった。記憶を失っても、心の底では愛し続けていたのだ。

 最期まで、夫を愛していたのだ。

 「私は……私は何をしていたのだ……」

 彼の周囲で『完全忘却』の術式が完全に崩れた。

 愛の力が、憎悪の魔法を打ち消していく。

 「君は愛を忘れていなかった……それなのに私は……」

 スープを最後まで飲み干す。

 その瞬間、アルカディウスの心に平安が訪れた。

 三十年ぶりの、真の平安だった。

 「セレナ……許してくれ……」

 彼が天を仰ぐ。

 その時、謁見の間に奇跡が起きた。

 天井から、柔らかな光が差し込んできたのだ。その光は虹色に輝き、まるで天使の羽根が舞い散っているようだった。

 光の中に、セレナの姿がぼんやりと浮かんでいた。

 若き日の美しい姿で、白いドレスを身に纏って。

 『アルカディウス……』

 懐かしい声が響く。

 『長い間、お疲れ様でした』

 セレナの幻影が微笑む。その笑顔は、昔と変わらず美しかった。

 『あなたを、ずっと愛していました』

 『記憶を失っても、心は覚えていました。あなたへの愛を』

 『そして、あなたが苦しんでいることも知っていました』

 セレナが手を伸ばす。だが、それは幻影なので触れることはできない。

 『だから……もう苦しまないでください』

 『私たちの愛は、永遠なのですから』

 『記憶は失われても、愛は失われません』

 『あなたの心の中で、私たちの愛は生き続けています』

 光がだんだんと薄くなっていく。

 『さあ、新しい人生を始めましょう』

 『今度は、愛を奪うのではなく——愛を守る人生を』

 セレナの幻影が最後に微笑んだ。

 『私も、天国から見守っています』

 光が消え、幻影も消えた。

 だがアルカディウスの心には、確かに愛が戻っていた。

 失われたと思っていた愛が、実は一度も失われていなかったことを知った。

 「私は……間違っていた……」

 彼がゆっくりと立ち上がる。

 皇帝の威厳は完全に消え去り、そこには一人の愛に満ちた男性がいるだけだった。

 「記憶を奪うことで人を救おうとした……だが、それは愛をも奪うことだった……」

 慶一郎が歩み寄る。

「今からでも遅くありません」

 優しい声だった。

「セレナさんとの愛を胸に、新しい人生を始めませんか?」

 アルカディウスが頷く。

 その目には、希望の光が宿っていた。

 三十年ぶりに灯った、生きる希望の光が。

 エレオノーラが涙を浮かべて見ている。

 三人の長官たちも、静かに感動していた。

 愛が憎悪に勝利した瞬間だった。

 記憶が自由を取り戻した瞬間だった。

 そして、新しい時代が始まろうとしていた。

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