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真なる調和(第2部 / 究極の調和料理)


 慶一郎の手が最初に取ったのは、一見何の変哲もない玉ねぎだった。

 だが、その玉ねぎはただの野菜ではなかった。それは地下組織「記憶の守護者」が、三十年間密かに育て続けてきた、記憶の種から生まれた奇跡の食材だった。

 皮を剥くと、玉ねぎの層と層の間から、かすかに光る粒子が舞い散った。それは記憶の欠片——人々の愛の記憶だった。

「この玉ねぎには」

 慶一郎が包丁を研ぎながら呟く。

「帝国の人々が密かに守り続けてきた、愛の記憶が込められています」

 包丁の刃が玉ねぎに触れる。

 その瞬間、謁見の間に甘い香りが広がった。それは単なる玉ねぎの香りではなく——家族の絆の香り、恋人同士の愛の香り、親子の情愛の香りだった。

 アルカディウスが顔を上げる。

 その香りに、彼の心の奥底で何かが震えていた。

「この香りは……」

 慶一郎の包丁が動く。

 一刀、一刀が丁寧に、愛情深く玉ねぎを刻んでいく。涙を誘うはずの玉ねぎが、なぜか温かな気持ちにさせてくれる。

 調和の炎が包丁に宿り、刃先が柔らかく光っている。それは料理への愛、人への愛、世界への愛が形を取ったような、神々しい輝きだった。

 次に慶一郎が手に取ったのは、人参だった。

 これもまた、ただの人参ではない。エレオノーラが天界から持参した、天使の愛で育てられた聖なる野菜だった。

「セレナさんは、人参がお好きでしたね」

 慶一郎が振り返る。

 アルカディウスの目が見開かれた。

「なぜ……なぜそれを……」

「愛の記憶は、決して消えません」エレオノーラが微笑む。「たとえ封印されても、心の奥底で生き続けています」

 慶一郎の包丁が人参を刻む。

 オレンジ色の断面から、暖かな光が溢れ出た。それは太陽の光のような、希望に満ちた輝きだった。

 その光を見て、アルカディウスの脳裏にセレナの笑顔が浮かんだ。

 人参スティックを頬張って笑う、若き日の妻の姿。

「人参って、甘くて美味しいのね」

 セレナの声が、記憶の向こうから聞こえてくる。

「アルカディウスも食べて。体にいいのよ」

 アルカディウスの目から、涙が溢れた。

 それは悲しみの涙ではなく——懐かしさの涙だった。

 慶一郎が続いてセロリを手に取る。

 これは、マスター・オリオンが『真の記憶の書』から抽出した、記憶の精髄で育てた野菜だった。

 セロリの繊維一本一本に、無数の人生の記憶が宿っている。喜び、悲しみ、愛、希望——人間の感情のすべてが、このセロリには込められていた。

 包丁がセロリを切る音が、まるで音楽のように響く。

 その音に誘われるように、謁見の間に幻影が現れ始めた。

 それは帝国の人々の記憶だった。

 家族で囲む温かな食卓。恋人同士の初めてのデート。母親が子供に作ってくれた愛情料理。友人たちとの楽しい宴会。

 無数の記憶が光の粒子となって、慶一郎の周囲で舞い踊っている。

「これは……」

 エリーザが息を呑む。

「人々の記憶が……見えるわ……」

 ヴァルガスも目を見開いている。

「息子との記憶が……エドワードとの日々が……」

 カインも震え声で呟く。

「患者を救った時の喜びが……医師としての誇りが……」

 調和の炎が強くなり、厨房全体を包み込んでいく。

 慶一郎の手元で、奇跡が起きていた。

 野菜たちが自然に調和し、境界がなくなっていく。玉ねぎ、人参、セロリ——それぞれが持つ記憶と愛情が一つに溶け合い、より大きな愛を生み出していた。

 慶一郎が鍋に火をかける。

 だが、その火は普通の火ではなかった。調和の炎そのものが、鍋底から立ち上がっているのだ。

 炎の色は黄金色に変わり、まるで液体の太陽のような美しさを放っている。

 鍋にオリーブオイルを注ぐ。

 そのオイルは、地中海の修道院で千年間守られ続けてきた、聖なるオリーブから抽出されたものだった。一滴一滴に、修道士たちの祈りと愛が込められている。

 オイルが温まると、天使の歌声のような音が響いた。

 その音に合わせて、慶一郎が野菜を炒め始める。

 ジュウジュウという音が、まるでオーケストラの演奏のように謁見の間に響く。玉ねぎ、人参、セロリ——それぞれが異なる音色を奏でながら、完璧な調和を生み出していた。

 アルカディウスがゆっくりと立ち上がった。

 『完全忘却』の術式は既に止まっている。彼の心が揺らいでいるため、魔法を維持できなくなっていたのだ。

「この音は……」

 アルカディウスが呟く。

「セレナが料理をしていた時の音だ……」

 記憶が蘇る。

 妻が台所で料理をしている時の、あの懐かしい音。野菜を炒める音、鍋が沸騰する音、そして愛する夫のために心を込めて料理を作る音。

 慶一郎が水を注ぐ。

 だが、それは普通の水ではなかった。エレオノーラの涙から生まれた、天使の聖水だった。

 聖水が野菜に触れた瞬間、蒸気が立ち上がった。その蒸気の中に、セレナの姿がぼんやりと浮かんで見えた。

「セレナ……」

 アルカディウスが手を伸ばす。

 だが、それは幻影だった。触れることのできない、美しい記憶の幻。

 慶一郎が最後の材料を取り出した。

 それは小さな水晶のような物体だった。エレオノーラが心臓の近くから取り出した、愛の結晶だった。

「これは、純粋な愛そのものです」

 エレオノーラが説明する。

「天使の愛、人間の愛、すべての愛が結晶化したものです」

 慶一郎が愛の結晶を細かく削る。

 削られた結晶は光の粉となって鍋に舞い散り、スープの中に溶けていく。

 その瞬間、スープの色が変わった。

 透明だったスープが、だんだんと金色に輝き始める。それはまるで液体の太陽のような、暖かで神々しい光を放っていた。

 スープの表面で、小さな光の粒子が踊っている。それは愛の記憶たちだった。アルカディウスとセレナの愛、エリーザと娘ミアの愛、ヴァルガスと息子エドワードの愛——無数の愛が一つに調和している。

 慶一郎が最後の調味料に手を伸ばす。

 塩——だが、それは普通の塩ではない。エレオノーラの涙から作られた、天使の塩だった。

 一つまみの塩を加えた瞬間、スープが完成した。

 それは料理というより、奇跡だった。

 器に注がれたスープは、内側から光を放っている。液体の中に無数の星が散りばめられているようで、見ているだけで心が温かくなる。

 香りも異次元だった。

 それは愛の香りそのものだった。母の愛、恋人の愛、夫婦の愛、親子の愛——この世のすべての愛が一つに溶け合った、究極の芳香。

 謁見の間にいる全員が、その香りに包まれた。

 そして皆、自分の最も大切な記憶を思い出していた。

「完成しました」

 慶一郎がスープの器をアルカディウスに差し出す。

 その手は震えていたが、目には確固たる信念があった。

「これは、『永遠の愛のスープ』です。あなたとセレナさんの愛が込められています」

 アルカディウスが器を受け取る。

 器は不思議と温かく、まるで愛する人の手の温もりのようだった。

「本当に……彼女の愛が……」

「愛は永遠です」エレオノーラが優しく微笑む。「たとえ記憶を失っても、たとえ死によって別れても——愛だけは、決して消えることはありません」

 アルカディウスがスプーンを手に取る。

 その手は激しく震えていた。三十年ぶりに、愛を感じることへの恐怖と期待が入り混じっていた。

「もし……もしこれを飲んで、何も感じなかったら……」

「大丈夫」慶一郎が微笑む。「セレナさんの愛は、必ずあなたの心に届きます」

 アルカディウスがスプーンを口に運ぶ。

 その瞬間——

 世界が、変わった。

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